【WILD WIND 7-1】
朝からずっと君菊に付きまとわれ諭され続けて、千鶴はお昼にようやく根負けをした。
外は朝から雨で、千鶴は傘をさして昨日貼り紙を貼った門まで出る。
昨日の夜に貼った貼り紙はまだそこにあったものの、既に雨に打たれて墨がにじみ何が書いてあるかかろうじて読めなくはない、という状態だった。
千鶴は溜息をついて傘を持っていない方の手で貼り紙を端からぺりぺりと剥がしていく。
昨夜も、『貼り紙をはればいいじゃないですか』と言った千鶴に君菊は眼を剥いていた。なんのかんのといろいろ反対されたが、要は身元のしれない男を雇うのは危険だということらしい。用心のしすぎだと笑って昨夜は強引に貼り紙をしたのだが、今日は朝から一歩も退かない勢いで君菊の説得が始まった。説得の内容に納得したというよりは、根負けしたという方があっているが、最終的に千鶴は君菊に頷いて貼り紙を剥がしてくると伝えたのだった。
「この貼り紙を見るってことは近所の人だろうし、この近所にはそんな変な人はいないのにな……」
未練たらしく呟きながら、それでも千鶴は貼り紙を丁寧にはがした。そこに中から君菊が出てくる。
「まぁ、千鶴さん。言ってくだされば私が剥がしましたのに…!雨で体が冷えるといけません。さ、早く中に……」
家の方へ向かって歩きながら早く!というように手招きをする君菊に、千鶴は苦笑した。
「冷えるだなんてこれくらいで……。前はもっと寒いところに……」
千鶴は自分の言葉に足を止めた。「千鶴さん?早く家の中に入りますよ」と前から呼びかけている君菊にぼんやりと返事をして、千鶴は風にとんで消えてしまいそうなかすかな記憶の糸を必死にたどる。
寒いところに……そう。前はもっと寒いところに……
しばらく空を見つめて糸を辿ろうとするが、掴んだと思ったその糸はすぐにぷつりと切れてしまった。途端に蛇の目にあたる雨粒の音が耳に入ってくる。
千鶴は頭を振ると気持ちを切り替えるように小さく頷き、早く早くと言っている君菊の後を追いかけた。
家で雨粒を払いながら、千鶴はぐしゃぐしゃになってしまった貼り紙を見た。
「でも、じゃあお手伝いの男性はどうやったて探すんですか?」
君菊は手ぬぐいを千鶴に渡しながら答える。
「夕べも少し言いましたが、心当たりがないわけじゃないんです。手伝い専門の男性…というよりは、共同生活というか……。この家の南側の離れって、広い板間の部屋があるのに全然使っていないですよね?そこを借りたいっていうお話があるんですよ」
「離れを?近所の人の話では、父がいたころは患者さんをあそこに寝かせたりしてたらしいけど……」
父親の綱道の蘭方医としての腕前は結構な物だったらしい。実際そこを買われて幕府の仕事のために京に行ったのだから当然といえば当然だが。
そして京に行く前は、南側の離れを診療所として開放して、待合室や重篤な患者には入院させる場所として使っていたようだ。
今の千鶴の体調と腕前ではとてもそこまではできず、南側の離れは時々君菊が空気を入れ替えて手入れをする程度で、全く使っていない。
「そうか、男性一人ではなくて家族で入ってもらうとかですか?」
にぎやかになっていい、と千鶴が両手を前で合わせて嬉しそうに言うと、君菊は言葉を濁した。
「え?家族……というわけではなくて……男性一人でもないんですが……。でもまだわからないんです。もうちょっと待っていただけます?」
いつになく歯切れの悪い君菊に、千鶴は不思議に思いながらもうなずいた。
まだ昼間なのに雨のせいで薄暗い。
「ったく…!しけてんな」
不知火は軒下でポトリポトリと屋根をつたって落ちてくる雨粒を見上げた。
ここは千鶴の家の隣の空き家だ。少し高台になっているので千鶴が家に居るときに見張るのに都合がよく、たいてい斎藤はここにいる。ほとんど崩れかけてけているボロ家だが、かろうじて屋根はあるから雨露はしのげる。
今日、不知火は話があって斎藤を訪ねてきたのだが、彼はここにはいなかった。
少し離れたところにある斎藤の借りている家にもいなかったから、当然ここにいると思っていたのだが……。
首筋を掻きながらどこへ行ったかとあたりを見渡していると、雨の中傘も差さずに黒い影が向こうの方から歩いてくるのが見えた。不知火が目を眇めてみてみると、それは斎藤だった。
「おーい、びしょ濡れじゃねえか」
濡れ鼠で軒下に入ってきた斎藤に、不知火が呆れたように言う。
「こんな雨の中見回りでもしてきたのか?怪しい影でも?」
「いや」
斎藤は一言で否定すると、何かを抱えるように自分の胸の前で合わせていた両腕の中を覗きこんだ。黒い髪からぽたぽたと落ちる滴が、胸の中の何かにかからないように気を付けながら。
「お?なんか持ってるのか?」
不知火が後ろから斎藤の腕の中を覗きこむと、そこには茶色の縞模様のある毛皮の塊がまるまっていた。
「なんだ?」
不知火が聞くと、斎藤は端的に答えた。
「ネコだ」
「いや、ネコはわかるけどよ……お前こいつを拾いに雨の中でてったのか?」
斎藤は頷く。
「ここから見ていたら雨の中鳴きながら道をうろうろしていたのでな」
斎藤はそう言うとしゃがみこみ、腕の中からネコを地面にそっとおろした。降ろされた猫はしかしふたたびうろうろと歩き回りときおり「なおーん、なおーん」と何かを訴えるように鳴いている。
「腹減ってんじゃねえの?」
ちょっと様子がおかしいと感じて不知火が言うと、斎藤もそう思っていたようで腕を組みネコを観察しながら答える。
「いや、抱き上げたときに腹を触ってみたが膨らんでいたぞ」
「そーかー?じゃあメシは食ったばっかなのか……」
そういいながらネコの腹を覗き込んだ不知火は言葉を止めた。
「うおっ!おい!お前このネコ……!!」
そう言って飛びのき、斎藤に向かってアワアワとしている不知火を、斎藤は不思議そうに見た。
「どうしたのだ?」
「妊娠してんじゃねーか!何が腹が膨れてる、だ!もうすぐ産まれるぞ!どーすんだお前!」
「何!」
そうか。いやに腹が膨れていると思ったが妊娠していたのか……というよりこのネコはメスだったのか。腹をなでてやったこともあるのだが気が付かなかった。しかし産まれるという事は……
斎藤は、まるで助けてくれとでもいうように斎藤に向かって「なおーんなおーん」と訴えているネコを見た。
「い、今からか……?」
動揺する斎藤に不知火も慌てる。
「そ、そうなんじゃねーの!?俺だって知らねーよっ!どどどうすりゃいいんだ。いったん戻って天霧を呼んでくるか?いや、でもあいつ今京だし……!」
うろうろするのを止めた猫は、今度は斎藤の脚に前脚をかけて、本格的に何かを訴えだした。
「こ、これは何を言っているのだ。どうすればいい?」
「俺に聞くな!」
いい年をした男二人が小さなネコの出産に慌てふためいている図は、傍から見れば冗談のようだったが、当人たちはかなりうろたえていた。斎藤が焦りながらもとりあえずしゃがみこみ、ネコの前脚を握ってやる。
「どうしたのだ。何がしてほしい」
「なおーん!」
「つ、つらいのか?そうなのか?しかし俺にはどうしてやればいいのか……」
「なおーん!なおーーーーん!」
不知火が指をパチンとならした。
「あれじゃね?その…巣みてえな何かこう……落ち着く場所がほしいんじゃねぇ?」
「そっそうか!そうかもしれんな!」
男二人は大慌てであばら家の中に入っていき、何か箱のようなものは無いかと探す。そして一抱えくらいはある木でできた米櫃を見つけた。
「これならいいんじゃねぇか?」
「うむ。安心できそうな感じだな。中になにか…ワラとか草とかそういうものをひいた方がいいのではないか?」
「そんなもんねぇよ!布とかじゃだめか?」
「それだ!しかし今ここに使えるような布など……」
「君菊ちょっと呼んでなんかもらってくればいいだろ?すぐそこだしよ!」
「ま、待て!ネコの出産の相談など女にしたら放っておいてくれるはずが……」
斎藤が止める言葉を聞く前に、雨の中駈け出して行った不知火は、当然のことながら君菊と千鶴を連れて戻ってきた。
「……斎藤さん…!」
驚く千鶴に、斎藤は気まずそうに手を挙げて挨拶をする。
「ま、また会ったな。奇遇なことだ。それよりも……」
今はもう鳴くというより叫ぶように「なおーんなおーんなおーん!」とネコはうろ付きながら鳴いている。千鶴はハッとして持ってきたぼろきれを足元に転がっていた米櫃にひいた。君菊がもっていた布も入れて、ふかふかにする。
「斎藤さん、ネコちゃんを捕まえてこの中に入れてあげてください」
「わかった」
ネコは素直に斎藤に抱かれた。そしてそっと米櫃の中に降ろされると鳴きやみ、その場でぐるぐると何回か周り、ようやくよっこらしょ、という感じで横たわる。
「おお……」
不知火がほっとしたように声を上げた。斎藤も気づかないまま力んでいた肩の力を抜く。
「寒くないでしょうか?」
君菊が心配そうに言うと、千鶴はうなずいた。
「そうですよね。うちに連れて行きましょうか?夜野犬が来たりしたら危ないし……」
そう言いかけた千鶴は、斎藤と初めて会った夜に襲ってきたモノをちらりと思い出した。
野犬などではない。あれは化け物だった。
斎藤は強張っている千鶴の横顔を見た。そして視線をネコの入っている米櫃に移すと千鶴に言う。
「では俺が運ぼう」
そう言ってネコごと米櫃を持ち上げて千鶴の家の方へと歩き出す。
「あ、待ってください…!」
雨の中に足を踏み出した斎藤に、千鶴は慌てて持ってきていた蛇の目傘をさしかけた。千鶴よりも高い斎藤に手を伸ばして傘をさしかける千鶴に、斎藤はにっこりとほほ笑んで礼を言った。
「ありがとう」
その微笑を見た瞬間、ふわっと若葉の匂いのする風が吹いたような気がして千鶴は一瞬言葉に詰まる。何故か赤くなる頬を隠すために下を向き、「いえ、そんな……」などと意味をなさない言葉を呟いて、二人は相合傘で雨の中を歩いた。
そんな二人の後ろで、君菊と不知火が顔を見合わせる。
千鶴には記憶がない筈なのに、ああやって寄り添っている姿は夫婦そのものだ。雰囲気がしっくりくるというのか、対で存在することが当然であるというのか……
「斎藤か千鶴か……つらいのはどっちなんだろうな」
ぽつんと呟いた不知火の言葉に、君菊も二人の背中を見つめながら無言でうなずいた。