【WILD WIND 6-1】
最初はちょっとした違和感だった。
なんだか最近膨らみだしたお腹が硬いような……重いような?
気にはなるが特に支障があるわけでもないので、千鶴はかまわず買い物を続けた。今日は久々に町まで出て、日頃足りなくて不便な思いをしていたあれやこれやを買いに来たのだ。天気もいいし早く買って帰ればいいだろうと千鶴は考えて再び歩き出した。
細々とした道具類を買い終わると、途端に体が重く感じる。
あれ……
視界が狭くなったような感じに、千鶴は少しふらついた。横になって休みたいが今はまだ町の道のど真ん中だ。こんなところで横になれるわけもない。
後は家に帰るだけだし頑張ろう。買う物は全部買えたからしばらくゆっくりできるよね
出かけるときに君菊に散々止められた。今日は彼女は用があるので行けないが、明日になれば君菊も一緒に行けるので待ってくれと。しかし治療に使う薬もほとんどなくなってしまったし、明日は雨が降りそうで、そうなると心配性の君菊は千鶴を外出させてはくれないだろう。やはり普段使う道具や薬は自分で選んで買いたかった。
それに妊娠は順調で、特に不安もなかったのだ。それで大丈夫だと君菊に言い聞かせて一人で買い物に出たのだが……
思ったより体力が落ちているようで千鶴は驚いた。少し前まではこれくらいなんともなかったのだが。
持っている風呂敷はそれほど重いものは入っていないのに、ずっしりと重く感じる。
店が立ち並ぶ町を出て家へと続く道を歩いていると、千鶴の具合はいよいよ悪くなった。
もうここが往来だとか人目が…などは気にすることもできなくて、千鶴は道のわきにある石段でしゃがみこんだ。
しかしあまり楽にはならず、うずくまったせいで却ってお腹のこわばりが増した気がする。体もだるくて何かに寄りかかりたい千鶴が手を石塀に伸ばしたとき、後ろから声が聞こえた。
「どうした」
聞いたことのある声に千鶴はぼんやりと顔を上げた。
「あなたは……」
以前何度か会ったことのある例の黒い洋装の男性だった。斎藤といったか……
今日は洋装ではなく黒の着流しの着物姿だ。洋装もハッとするほど素敵だったがこの姿も似合う。ぼうっとした頭で千鶴がそんなことを考えていると斎藤がスッと体をかがめた。
「っ…きゃっ」
驚く千鶴にかまわず、斎藤は千鶴を抱き上げる。
「あっあの…何を……!」
「静かにしていろ」
ぴしゃりとそう言うと斎藤はそのまま石段を登りだした。不安定な姿勢を安定させるために千鶴は迷いながらも手を斎藤の首に遠慮がちに廻す。それに気が付いた斎藤が横目でちらりと千鶴を見たが、千鶴は恥ずかしくて顔を赤くしたまま顔を伏せていた。
斎藤はその石段の上にある大きな家を訪ねた。「連れが具合を悪くしたのだが少しだけ休ませてもらえないか」という言葉は、斎藤に抱かれた千鶴の顔が真っ青だったために即座に受けいれられた。
客間に敷かれた布団に横たわらせてもらうと、千鶴はふうっと体の力を抜いた。お腹はまだ張っていたが、やはり横になるとかなり楽だ。枕元に膝をついていた斎藤が、掛布団を千鶴にかけてくれる。千鶴ははっとして斎藤を見た。
「あ、あのすいません、ご迷惑をおかけしました」
「……」
斎藤は無言だった。いつもいつも助けられてばかりで迷惑だと怒っているのだろうかと千鶴は不安になる。
「あの……本当にすいま……」
「何故一人ででかけるような無茶をした」
かぶせるように発せられた斎藤の声は、叱る様な固い声だった。
「む、無茶……」
「そうだ。お前ひとりの身ではないことはわかっているだろう?他の者に買い物を頼むことだってできたはずだ」
「……すいません……」
お腹の子供のことを考えていないと叱責され、千鶴は赤くなって俯いた。
「まぁまぁ。そんなに怒らないであげてくださいな」
笑を含んだ声と共に客間の障子があき、先ほど家へとあげてくれた女性……この家の主婦だろうか……が手にお盆を持って入ってきた。
「初めての赤ちゃんなのでしょう?加減がわからず無茶してしまうこともありますよ。しばらく横になっていれば大丈夫。うちは平気だからゆっくりしていってください」
そう言って千鶴の枕元に盆を置くと、その女性はにっこりとほほ笑んだ。
「旦那さんにお茶も入れてきましたよ。奥様の方は温めの白湯です。落ち着いたらどうぞ」
女性が千鶴と斎藤のことを夫婦と思っていることに気が付いて、千鶴は慌てた。
「あ、あの…」
「ありがとうございます。ありがたく頂戴します」
千鶴の言葉をさえぎって斎藤が女性に礼を言った。
その言い方がこれ以上の反論を許さないような言い方だったので、千鶴は口をつぐむ。
若い男性が妊娠している女性を抱き、家に訪れたら当然夫婦だと思うだろう。それを夫婦ではないと言うと、この女性に余計な説明をしたり気まずい思いをさせてしまうかもしれない。別にこれからもつきあいがあるわけではなし、気分がよくなればこの家を去りもう会わないのだ。特に正確に説明する必要もないだろう。斎藤なりのこの女性に対する気遣いなのだろうと、千鶴は納得してまた体の力を抜いて横になった。
お茶を飲んでいる斎藤に、女性が明るく話しかける。
「いつごろ産まれるんですか?」
千鶴が横になりながら答えた。
「秋ごろです」
「そう。楽しみね」
最後の言葉は斎藤に向けてだった。千鶴がどうしようかと思っていると、斎藤は当然のような顔で微笑み返しうなずく。
「ええ、楽しみです」
「……」
何故か千鶴は斎藤の言葉を聞いて赤くなった。
まるで本当の夫婦のような斎藤の返事が、何故かとても嬉しくて千鶴の胸は暖かくなり、そして少し寂しくなる。
本当に斎藤さんのような人が旦那様で、二人で産まれてくる赤ちゃんを楽しみにできればどんなにかいいだろう。そう思ってしまうこと自体が、どこかに存在しているはずの本物の赤ちゃんの父親に対する裏切りのようで、千鶴の胸は痛んだ。
存在しているのかどうかももうわからない。これだけなんの音沙汰もないのだから、もしかしたらもうすでにその人はこの世にいないのかも……
「男の子か女の子かどちらがいいんですか?」
千鶴の物思いは女性の明るい声で途切れた。斎藤に向けられたその質問は、本当の父親なら素直に答えが出てくるだろうが父親のフリをしていてくれている斎藤には答えにくいだろう。千鶴が助け船を出そうとした時、斎藤が横たわっている千鶴の顔を見て口を開いた。
「……どちらでも。健康で産まれてくれればそれで充分です」
真っ直ぐに千鶴の瞳を見てそう告げる斎藤に、千鶴はまるで本当に自分に言われているような気がして再度顔を赤くした。
「本当にそうね」とその女性は優しく言って、にっこりと笑った。
「ご面倒をおかけしてすいません……」
斎藤に寄り添われてゆっくりと歩き、自宅が見えてきたときに千鶴が申し訳なさそうに言った。既に辺りは薄暗くなってきている。斎藤の午後をほとんど自分のために使わせてしまうことになってしまった。
「あの、もしよろしければ夕飯を召し上がって行ってくださいませんか?」
「いや、結構だ。それより今後出かけるときは……」
「はい、わかっています。誰かほかの人に頼むかどなたかと一緒に出掛けるようにします」
横になっているときから何度も何度も斎藤から叱られた。今日の体調の変化には、確かに千鶴も驚いた。妊娠する前と同じつもりで行動していてはいけないのだ。家に帰ったら君菊にも叱られるだろうと千鶴が思いを巡らせていると、斎藤が立ち止まった。
「ここでいいか」
そこは家の門まであと少しの場所だ。
「は、はい。本当にありがとうございました。なにかお礼をさせていただきたいのですが…」
先ほどから何度もお礼をさせて欲しいと言って来たのだが断られてきた。そして今回も想像通り……
「結構だ。気を付けて帰れ」
そう言って斎藤はあっさりと踵を返してしまった。
「あ……」
何故か名残惜しくて千鶴は思わず斎藤を呼び止めようとしてしまい、ハッと気づいて口をつぐむ。
いつも助けてくれて親切にしてくれるが、彼は他人なのだ。どこに住んでいるのかどういうひとなのかもわからない。今日は夫婦のふりのようなことをさせてしまったが、普通なら迷惑なことだろう。これ以上面倒をかけてはいけない。
しかし言葉にできない寂寥感が千鶴を襲う。
離れて行ってしまう斎藤の背中が切ない。
妊娠のせいで感情が乱れてるのかな……
千鶴は苦笑いをすると、最後にもう一度だけ遠ざかっていく斎藤の背中に小さく礼をし、家の門へと向かった。
「だから言ったじゃないですか……!」
案の定千鶴に事情を聴いた君菊はそう言った。
「ああ、やっぱり無理にでも今日ついて行くべきでした。助けてもらってほんとうによかったです」
作ってくれてあった夕飯を食べながら、千鶴はもう一度謝った。今日は本当に謝ってばっかりだ。しかし……
「そんな襲われたりしたわけじゃないし大げさな……」
「襲われたんですかっ!!?」
ものすごい勢いで問い返されて、千鶴は思わずつまんでいた人参を箸から取りこぼした。
「い、いえ、襲われてないです。その、ちょっと体調が悪くなって休んでいただけなので、そんな大げさに心配することではないと言いたかったんです」
君菊は乗り出していた体を戻して、ふうっと溜息をついた。
「そうですか……。……すいません。根が心配性なので息苦しい思いをさせてしまいました」
今度は逆にしゅんとしてしまった君菊に、千鶴は逆に慌てた。
「いえ、そんなつもりじゃ……」
そして気を使うついでに千鶴は思いついたことを言う。
「でも、そうですね。前から君菊さんもおっしゃっていましたが、男手があると助かりますね。家の事とか今日みたいな用事の時に。住み込みでも住み込みでなくてもいいので誰か探してみましょうか?」
君菊の顔はパッと明るくなった。
以前その話を君菊から提案した時は、千鶴が却下したのだ。二人で十分だと。
「よろしいのですか?心当たりがいくつかありますので身元の確かな者何人かに話してみます」
「ええ?そんな面倒なことをしなくても……」
君菊の言葉に、千鶴は驚いて目を見開いた。