【WILD WIND 5-1】
どんなに誘っても天霧は決して斎藤の家へ泊まろうとはしなかった。
千の訪問からひと月あまり、だんだんと日差しの下は暖かくなってきたが、夜は特に寒さが厳しい。どこで寝ているのか、食事はどうしているのかと聞いても『諸国を巡る旅で野宿は馴れていますから』の一点張りだった。
日中家にいる千鶴に聞くと、昼間はよくこの家に来て庭の雪かきや薪を割ったり炭を運んだりしてくれているらしい。千姫から資金も与えられているようで、千鶴のために精のつく食べ物を持ってきてくれたりもしているようだ。
「そのお魚も、今日天霧さんが持ってきてくださったんですよ」
千鶴に言われて、斎藤はちょうど箸でつまんでいた煮魚に視線を落とした。
「そうか、礼を言っておかねばならんな」
魚や食料だけについてではない。
先日まで隣村で噂されていた、血を抜かれて殺される若い娘たちの事件は、最近はすっかりなりを潜めていた。昼夜問わず天霧がこの村を見回り、結界を張っていることはわかっている。そのなかで更に斎藤の家、特に千鶴には強く結界が張られており、羅刹化した鬼たちからこの村を、ひいては千鶴をも守ってくれているのだ。
どんなに心配でも、斎藤は昼間は仕事のために家を空けなくてはならない。その間、天霧が千鶴を守ってくれているというのはかなり心強かった。
千鶴の体調も、つわりが落ち着いてきたのかだいぶよくなってきている。疲れやすいのと炊きたての米の匂いとはまだ苦手なようだが、少しずつ家事もこなせるようになってきていた。
「今日は何をしていたのだ」
汁物を飲みながら、斎藤は向かいに座っている千鶴に聞いた。千鶴は待ってましたと言わんばかりの笑顔で、パッと斎藤を見る。昼間の間にあまり話す相手がおらず(天霧はおしゃべりの相手とはいいがたいらしい)斎藤に話したいことが溜まっているらしい。
「今日は一さんの職場の辺りまで出かけたんですよ。あ、もちろん天霧さんもいっしょです。あそこに古着屋さんがあるのを知ってますか?その店を覗いたり、あとお道具屋さんとかをいろいろ見てきたんです」
「古着に道具……。何か足りない物でもあるのか?」
斎藤が不思議そうに聞く。家事や生活に必要な物は一通りそろっていると思っていたのだが……。
千鶴は小さな声でふふっと幸せそうに笑うと、自分のお腹にそっと手をやった。
「赤ちゃんと暮らすのは初めてなので、どんなものが必要なのかわからなくて。いろいろ見てお勉強しようかと。とりあえず何度も水を通して柔らかくなってる古着は何枚か買って来たんです。赤ちゃんの肌着とかおしめにいいかと思って」
千鶴の返答に、斎藤は食べていた煮物を、ごくりと飲み込んだ。
そうか、赤ん坊か……
そして改めて囲炉裏の灯りに照らされている妻の顔を見る。
子どもが出来たと聞かされ、嬉しいもののいまいち実感のわいていなかった斎藤と比べて、千鶴はさすが女性というべきか着々と物事を進めているようだ。
薄暗い灯りの中の千鶴の姿は、まだ少しもお腹が出ておらず以前と全く変わりは無いように思える。しかし本人にしてみればいろいろと変化があるのだろう。斎藤は赤ん坊の着る物やおしめについてなど考えたことも無かった。考えることと言えばせいぜい産まれてくる赤ん坊は男か女かぐらいで。
しかしどちらにしても、千鶴に似て可愛らしいだろう。千鶴の腕に抱かれている小さな生き物を想像して、斎藤の表情は自然とほほ笑んだ。
新選組に入る前は、自分の居場所はどこにもないと感じていた。その居場所を与えてくれたのが新選組で、ひいては会津藩でもある。その恩に報いるために、自分の力を尽くそうと生きてきた。
そして今は……
今は自分に守るものがある。
千鶴ももちろん、千鶴と自分の子どももそうだ。
生きる理由、などと言えば大仰に聞こえるかもしれないが、しかし実際男という物は全て、何かを守るために生きるているのではないだろうか。土方や近藤のように何かを成し遂げるために命をかけるのも結局は、守るべきものを守り抜くための手段なのではないか。恵まれた家に生まれて、特に命などかけなくてもそれができる男もいれば、自分や新選組の他の男たちのように自分の命を張って守るべきものを得なくてはいけない男もいる。何も持っていない男は、まず自分の手でそれを掴みとり、守り抜くための戦いに打ち勝たねばならないのだ。
自分一人だけを食わせて生きていくのは簡単だ。
自分以外の誰か……自分よりも弱く愛おしい者たちを守ることができて初めて、人は一人前となるのだろう。そしてその事実は男を大人にする。一家の大黒柱、という言葉があるが、守るべき者たちの存在こそが男をそうさせてくれるのだろう。
事実、今目の前で幸せそうに、まだ平らなお腹に手を当てている千鶴を見るだけで、斎藤の心は強くなるのを感じる。必ず幸せにしてやろうと、自分のこの腕で守ってやろうと言う思いが強く湧き上がるのだ。
そんな気持ちにさせてくれる女と出会えたということが、運がよかったのかもしれんな……
総司あたりに言ったら、一生からかいたおされそうなほどのノロケだが、しかし本音だった。
食後のお茶を口に運ぶ途中で、斎藤はふと外の気配に耳を澄ませた。
膳を土間へと運んでいる千鶴の後姿を気にしながらも、家の外へ意識を集中させる。
「一さん?」
スッと立ち上がった斎藤に、千鶴が不思議そうに尋ねた。
「外の炭置き場から少し炭を持って来よう。天霧に会えたら礼も言っておかねばならぬしな」
炭を取りに外へ行くことと、天霧と会ってくるから帰りが少し遅くなること、しかし家のすぐそばにはいることとを告げ、斎藤は土間おり、引き戸をひいて外へと出た。
夜の空は綺麗に晴れていた。空気が澄み渡り、星がきれいに見えている。今夜は月が早くに沈んでしまったようで外は星明りだけだったが、それでも結構明るい。
出てくるときにさり気なく持ち出した刀を右手に持ち替えて、斎藤は空気の動きを読む様に遠い目をして意識を集中させる。
……聞こえる。
家の後ろ、山へと続く細い道の辺りで確かに何者かの気配がする。風を斬る音と、気合のような小さな声。
斎藤はカチャリと刀の音をさせて、そちらへと足を向けた。
「ぐっうううぅぅっ!」
妙な唸り声とともに、すっかり理性をなくした羅刹がふっとび転がった。腕が変な方向に曲がり、脚も折れているはずなのにまたムクりとたちあがる。
暗闇の中で正気を失った赤い瞳が光る。
「……しぶといですね…」
溜息と共に天霧はつぶやいた。
普通の人間なら……いや鬼でも一発で肺が破れ即死するほどの衝撃を与えたはずだ。にもかかわらず命と引き換えの自己修復力を持った羅刹は、命の最後の一滴を燃やし尽くすまで倒れることも気絶することも許されないらしい。正気を失っているため退くこともせず、何度も何度もむかってくる。
「粉砕するしか手がないということですか」
目の前の羅刹とは反対の方向からも、生暖かい息遣いが聞こえてくる。
いつもの見張りで気が付いた羅刹一体。結界も、近くまで来てしまえば抑えようのない女鬼の波動はばれてしまう。そうなる前においはらおうとしたのだが、羅刹の動物の様な直観からかしつこく食い下がってきた。これまで何度かこの辺りではぐれ鬼や羅刹と出会ったが、正気を失う前に皆追い払うことができた。
しかし今日は千鶴に近すぎた。
何か気づいているようなその羅刹は決して退こうとはせず、結果としてもう一体の羅刹も呼び寄せてしまった。
西の鬼の頭領である千姫からは、できるだけ北の鬼と事を荒立てないようにと言われている。これまで羅刹と出会っても殺さずに追っ払って来たのはそのためだ。
だが今日はそれは無理らしい。
体術にたけている天霧が、羅刹に致命傷を与えるとしたら……
「首の骨を折るしかなさそうですね」
天霧がそう小さく呟いた途端。前にいた羅刹が飛びかかってきた。天霧がそれを避けた瞬間、後ろの羅刹も突進してくる。天霧は冷静に突進してきた羅刹の首根っこを掴むと、手刀を叩き込んだ。
ゴキッと嫌な音がして、羅刹の全身を覆っていたエネルギーのようなものが一瞬にして消える。そしてその羅刹の体の先端、指の先の輪郭があいまいになったかと思うとぽろぽろと零れるように崩れ落ちていった。
「これは……」
羅刹が灰になるというのは知っていたし実際見たことも何度もある。しかしこれほど近くで肉体から灰へと変化するのは初めて見た。天霧が虚をつかれた一瞬、最初の羅刹が再度飛びかかってきた。
「!」
しまった!と思った瞬間、銀色の光が夜の闇を斬るように光った。一拍置いて飛びかかってきた羅刹の動きが止まり、背中から真っ黒な……多分陽の光で見れば真っ赤な血しぶきが上がる。そしてゆっくり羅刹が崩れ、地面に倒れる瞬間に灰になると、その後ろに静かに斎藤が立っているのが見えた。
「斎藤……」
「羅刹か」
斎藤は刀を振り血を落とすと、既に灰となり消え去った羅刹たちの残骸を見た。そして天霧へを視線を移す。
「助かった。ありがとう」
律儀に礼を言う斎藤に、天霧は苦笑いをした。
「それは私の台詞です。助かりました。なかなか絶命しない上に二体で少々てこずりました」
「俺は京で経験があるからな」
「しかしここまで……壊れた羅刹ではなかったのでしょう?」
天霧の言葉に、斎藤は静かに首を横に振った。
「いや、俺が始末していた新選組の羅刹は初期の変若水で羅刹になった者たちで、すぐに正気を失った。これほど獣のようにはなってはいなかったが、顔見知りと言う意味では京の方が手ごわかったな」
「……」
幕末の混乱の中で変若水はかなり改良されたはずなのに、明治の今になって東北のこんな最果ての地で更に粗悪な変若水をのんだ鬼たちが夜な夜なうろついている。何もわからない人間にしたら悪夢以外の何物でもないだろう。
天霧が独り言のように言った。
「……これまでも何回か羅刹や鬼を結界の外に追い払いました。最近明らかに数が増えています。このまま放置していればそのうち痺れを切らした羅刹が関係のない人間たちの家に上がりこんだり吸血行動に走ったりする可能性が高くなります」
「……」
そろそろ『最後の手段』を考えた方がいいのではないか……
天霧の言いたいことは斎藤にはわかった。何かが起こってしまってからでは遅すぎる。起こる前に決断すべきだ。
自分は常に冷静に最前の解を選び実行できると斎藤は思っていた。自分の信念以外で、それを揺るがすものは無いと思っていたのだが……
しかし今の生活を壊したくない、というのが本音なのだろう。
愛しい妻と生まれてくるわが子と。
ささやかながらも幸せな毎日。
もう取り戻すことはできないとわかっていても、惜しいと思ってしまう気持ちが決心を鈍らせる。
「……そうだな。千鶴と話し合って……」
斎藤がそう口を開いた時、家の方から鋭い叫び声が聞こえてきた。
千鶴の声だ。
二人は即座に駈け出した。ここから家までは近く、灯りが外に漏れているのも見える。そして近づいた斎藤と天霧は急いで入口の引き戸を開けた。
「千鶴!」
中は囲炉裏に火が入ったままでぼんやりと明るかった。せわしく部屋の中を見渡すが目立って荒らされたような形跡はなく、千鶴の姿もない。
「千鶴!?」
ずかずかと土間に上がりこみ探そうとしたとき、押し殺したような悲鳴が再度聞こえた。まるで叫び声をあげないように口元を手で抑えられているような……
「外だ!」
斎藤と天霧は踵を返して外へ向かった。