【WILD WIND 13-1】

※千鶴ちゃん(記憶無)と斎藤さん(記憶アリ)の間の子どもがオリキャラとしてでてきます。苦手な方はブラウザバック!  




                                                                                                                      


静かな足音が聞こえる。
普段彼はほとんど足音をさせないから、きっと今夜は自分が来たことを千鶴につたえるためにわざと足音をたててくれているにちがいない。
千鶴は途端にドキドキと早く打ち出した胸の辺りを抑えて、意味もなく髪をなでつけた。
酒も用意したし、簡単なつまみも用意した。千太郎は千鶴から言いだす前に『きょうはきみぎくしゃんとねんねする』と言って彼女の部屋へと行ってしまった。
なんだか妙に準備が整ったような状況に、千鶴は緊張しだす。

な、なにも別に今夜……そのどうこうとかそういう訳じゃないし……
それより斎藤さんはどうして急にこんなことを言いだしたのかな?
何かあったのかな……

千鶴がそう思った時、襖の前でコホンと咳ばらいが聞こえた。
「……俺だが」
「は、はい…!」
思わず声が裏返ってしまった。
千鶴は急いで立ち上がり襖をあける。
目の前に立っていた斎藤があまりにも近くて、二人は一瞬目を見開いて見つめあった。
涼しげな切れ長の瞳、すっきりとした鼻筋、少し薄い唇は冷たそうな印象を与えるが微笑むと一転してとても優しくほころぶのだ。
思わず斎藤の顔をまじまじと見つめてしまった千鶴は、ハッと我に返り一歩下がった。千鶴の部屋を横切った反対側に、庭へと面した縁側がある。
「あ、あの、どうぞ」
「あ、ああ。すまない」
千鶴の言葉に、斎藤も我に返った様に瞬きをした。そして恐々と千鶴の部屋へと足を踏み入れる。
いつもはいるはずのないこの部屋に斎藤がいることが妙に新鮮で、千鶴はドギマギした。狭い部屋に大人が二人いると妙に親密な感じだ。
斎藤の息遣いや視線の一つ一つを意識して、千鶴は頬が熱くなるのを感じた。急いで反対側へ行き障子を開けはなつ。

さあっと涼しい風が入り、妙に熱のこもった空気は薄まり霧散した。満月の光が薄暗い部屋に差し込む。
「灯りはいらんな」
斎藤はそういうと、もっていた蝋燭の火を吹き消した。確かにそれくらい明るいのだ。お互いの表情がよく見える。
月明かりの下、こちらを微笑んでみている斎藤は妙に懐かしく暖かい。
千鶴の記憶の裏側で、なにかがチリッと音を立てた気がした。
「千鶴?」
ぼんやりしていたのかもしれない。
斎藤に不思議そうに呼びかけられ、千鶴は小さく頭を振った。
「すいません。ちょっと何か……あ、あの、あそこにお酒とおつまみを用意してあるので……」
千鶴はそう言うと縁側を示した。お盆の上に酒の用意とつまみが置いてある。
「すまないな。気を使わせたようだ」
斎藤が軽く頭を下げて縁側に行き座る。千鶴は部屋の隅に置いてある蚊取り用の線香に火をつけた。そしてちょこんとお盆をはさんで縁側に座る。
「……」
斎藤は酒にも手を出そうともせずに、じっと膝の上に置いてある自分の手を見ている。
「あの…斎藤さん?お酒は……」
千鶴がそう言って銚子をとりあげると、斎藤は小さく手を振った。
「いや…、ああ、ありがとう。いや、その……酒はもらうのだが、その前に……その、酔う前に少し話したいことがあってだな……」
やはりそうか、と千鶴は銚子を置いた。
何か話があるのではないかと思っていた。悲しい話なのか嬉しい話なのか……
斎藤が離れからいなくなってしまうなどと言う話だったらどうしよう。千鶴の中での斎藤は、もうすでになくてはならない人になってしまっているというのに。
しかし、これまでの斎藤の様子ではそんな真面目な話ではないように思える。なんだかこう……恥ずかしがっているというか。
それなら……それなら自分にとって嬉しい話なのだろうか?
千鶴はドキドキと鳴る胸を抑えながら、じっと斎藤の次の言葉を待った。

斎藤は自分の手を見て、次に月を見て、そして最後に千鶴の瞳を見た。
「以前にも一度言ったと思うが……その、俺は、お前さえよければずっとここに居たいと思っている」
「……はい」
「それで、できればその時は…その…今のような大家と店子の関係ではなく、いや、今の関係が不満と言っているわけではない。よくしてもらっていると思うのだが、その……そのもう少し……」
そう言って斎藤は視線を下へ向け、黙り込んでしまった。
もう少し……なんなのだろう?家賃の値下げ交渉なのだろうか……。別に斎藤が居てくれるのなら離れの家賃はいくらでもかまわないが、今夜来た理由がそれだけなら正直かなりがっかりだ。
千鶴が次の言葉を前のめりになって待っていると、斎藤が思い切ったように顔をあげた。うっすらと頬をが赤くなっているような気がするが、月あかりのせいでよくわからない。
「夫婦になりたいと思っているのだ」
唐突にそう言われ、千鶴は一瞬なんのことかわからなかった。
「え?」
「いや、いきなりでずうずうしいと思われるのは覚悟している。しかし言わねば先へ進めないと左之からも言われたのだ。俺自身もその、できればその方が嬉しい。いや、もちろん千鶴の気持ち次第だ。もし嫌なら気にせず断ってくれてもいいのだ。そうだ、もちろん……」
「あ、あの、ちょっと待ってください。えっと……」
慌てふためいている斎藤を、千鶴は止めた。どういうことだろう?つまり……?
「つまり……その、夫婦というのは、私と斎藤さんが…ですか?」
千鶴がそう聞き返すと、斎藤はうなずいた。
「そ、そうだ。嫌だろうか?」
「イヤなんかじゃ……」
嫌なはずあるわけないではないか。逆に千鶴の方が気にしていたのだ。
「嫌じゃないです!う、嬉しいです。でも、斎藤さんはこんな……こんな私でいいんですか?どこで何をしていたのかを自分でもわからないですし、父親のわからない子供もいて……斎藤さんならもっといい娘さんが…」
「いや、俺はおまえがいい」
「……」
きっぱりとした斎藤の言葉に、千鶴の胸は大きく鳴った。ふらりと体が揺れるような気がして、あわてて縁側に手をつく。しかしついた先には酒盆が置いてあり……

ガチャン!

「あっ」
「大丈夫か!」
倒れそうになった銚子を、千鶴と斎藤が同時に手を伸ばして支えた。
当然二人の手は触れ合っている。
「……」
ふと気が付くとお互いの顔もすぐ近くにある。千鶴は斎藤の蒼い瞳を見て小さく息を呑んだ。
その吐息が斎藤を惑わす。
触れ合っている手を斎藤はぐっと握り引き寄せた。反対側の手を縁側についてこちらへ体を寄せた千鶴に、斎藤はそっと顔を寄せる。拒む様子がないのを確かめて、さらにゆっくりと寄せていく。
二人の唇が触れ合いそうになった時……

パン!

乾いた音と共に、斎藤の頬に熱い痛みが走った。
斎藤はそのままの姿勢で固まった。突然のことで何が起きたのかわからない。あと少しであの柔らかく桃色のものに触れるところで……

頬を……千鶴に頬を叩かれたのか……?
何故だ?夫婦になるのに同意してくれたのではないのか?
全ては俺の勘違いだったのだろうか。もしや千鶴は単なる同居人としか俺の事を思っておらず今夜の月見も誘われたからしょうがなく受けてくれていたのか。こんなことを考えている男が離れに住んでいるとわかったら、一体千鶴はどうするのだ。俺はすぐに出て行った方がいいのだろうか、しかしいったいどこへ……しばらく放浪して心の傷を……

「あっ…す、すいません!斎藤さん!あの……すいません…蚊が……」
「何?」
千鶴は叩いた手のひらを斎藤に見せた。
そこにはつぶれた一匹の蚊。
「……」
まじまじとその蚊を見ている斎藤を見ているうちに、千鶴は胸の奥からクスクス笑いがこみ上げてくるのを感じた。
幸せで可笑しくて愛おしくて……幸せで。
こらえきれずにくすくすと笑いだす。
「ご、ごめんなさい。斎藤さん。蚊が頬にとまっているのが見えて、本当に何も考えずに……」
てっきり拒否されて叩かれたとショックを受けていた斎藤は、どう返したらいいのかわからず憮然としている。
そんな斎藤を見て、千鶴は胸の奥から彼への愛おしさがこみ上げてくるのを感じた。
「ごめんなさい、斎藤さん。あの……」
千鶴はそういうと体を寄せて、自分が叩いた方の斎藤の頬にそっと口づけた。
驚いて目を見開いている斎藤に、千鶴は恥しそうに微笑む。
「ごめんなさい。痛かったですか?」
その表情を見て、斎藤の唇にも笑みが浮かぶ。
そして握っていた彼女の手をぐいとひいた。
「きゃ!」
おどろいて体勢を崩した千鶴を、斎藤は今度は抱き留める。
「痛かった。……なぐさめてくれ」
そう言うと、ゆっくりと唇を合わせた。千鶴が上げた手は、今度は斎藤の頬は叩かずに枯れの首へとまわされたのだった。


満月の光が照らす中、二人は何度も何度も口づけを交わす。
ようやく帰ってきたというような不思議な感覚が千鶴を満たした。この暖かい広い胸。がっしりとした腕。
これが自分に足りなかったものだと千鶴ははっきりと感じでいた。
斎藤の舌が、優しく千鶴の唇をわる。
千鶴はそれを自分でも驚くほど自然に受け入れた。記憶ではなく体が覚えている。
この人の匂いを、仕草を。髪を梳く優しい指も、時々つく熱い溜息も、潤んだような蒼い瞳も。愛しくて震える自分のこの胸も。

全部覚えている。

頭ではおかしなことだと思っているが、千鶴は素直にその感覚を受け入れた。
そして優しく口づけを返す。
しばらくすると斎藤はそっと唇を離して言った。

「……話さなくてはいけないことがある」

「え?」
斎藤の胸の中でうっとりとしていた千鶴は、妙に固い斎藤の言葉に顔を上げた。斎藤は微笑んでいる。
「お前がどう思うかは不安だが……しかし、俺を受け入れてくれたら言おうと思っていたことがあるのだ。お前の過去の話だ」
「……」
「先に話さなかったことを恨みに思うかもしれんが、過去にそうだったからという理由だけでお前と無理矢理夫婦になるのは嫌だったのだ。お前が自分の過去について思い悩んでいるのは知っていた。しかしそういう理由で……まあ他にも理由はあるのだが、明かせなかったのだ」
「……明かす……私の過去を……?斎藤さんが、ですか?」
千鶴は体を離して、初めて見る人のように斎藤を見た。
斎藤は懐かしそうな優しい瞳で千鶴を見返している。

「そうだ。俺とお前は、過去に夫婦だった」






NEXT⇒
















                               戻る