【WILD WIND 4-1】












「その死体には血が一滴も残っていなかったそうだ」
離れたところにいる同僚たちの噂話に、斎藤は書類から顔をあげてそちらを見た。同僚たちは帰り支度をしながら話を続けている。
「若い女ばかりなんだろ?」
「そうらしい。最初の事件はもっと北の村でだったんだがどんどん南下してきて、昨夜は隣村で同じような事件があったそうだ」
「とにかく夜の一人歩きはさせない方が良いな」
「お前のところ、娘さんが三人いただろう?」
「ああ……」
話しながら帰っていく同僚の背中を見ながら、斎藤は過去の同じような事件を思い出した。

……まさかな……

あれは幕末でしかも京での出来事だった。
自分の属していた新選組が深くかかわった事件。変若水に羅刹……
しかし今は明治で、新選組ももうなく、変若水もすでにない……筈だ。
羅刹の生き残りの線も考えられなくもないが、それならもっと前からそういう事件が頻発していたはずだ。
先ほど同僚が話していた『最初の事件』は、斎藤も知っており、2か月程前の事で場所もここ斗南よりさらに北の村だ。

まさかとは思うものの、斎藤は資料を閉じて自分も帰り支度を始めた。まだ外は明るいが、冬の今の時期暗くなるのはすぐだ。
千鶴は風邪が長引いて今日も寝込んでいたから外を歩くことはないとは思うが、斎藤の帰りが遅くなると心配して出迎えに来ることが時々ある。
寒いし暗いのだから家で待っていろというのに、散歩したいんです、とか外の空気が吸いたくてとか言って、ちっとも斎藤のいう事をきかない。
斎藤が帰る途中で、遠くから歩いてくる千鶴を発見すると、また出迎えになど……!と思う。…が、可愛い妻の気持ちの方が嬉しくて、彼の妻を咎める言葉も迫力がないのも実際のところだった。
的確にすばやく書類を片付け机の上を片付けると、斎藤は同僚と上司へのあいさつもそこそこに仕事場を出た。
どちらにしろここの所寝込んでばかりいる千鶴の様子も心配だ。微熱が下がらず食欲もない。かまわなくていいからと言っているにもかかわらず、放っておくと無理をして夕飯を作ったり家事をしたりしている。
ゆっくり寝ていないと治るものも治らないと言い聞かせているのだが、どうも軽く聞き流されている。
惚れた弱みで甘くし過ぎたのかもしれないと、斎藤は気を引き締めた。斎藤の世話をいろいろ焼いてくれるのは嬉しいしありがたいと思っているが、彼が一番うれしいのは千鶴が元気に笑っていてくれることだと、今日こそはしっかりとわかってもらわなくては。

小さいながらも居心地のいい我が家の前で、斎藤はもう一度自分の心構えをおさらいすると、よし、と頷いた。
心を強く持って、あの可愛らしい妻に今日こそきっちりと説教をしなくては、と引き戸に手をかけたとき……

後ろからピリピリとした殺気を感じて斎藤は振り向いた。
とっさに腰に手をやるが、もちろん刀は持っていない。
京の頃にはよく感じたこの殺気。相当強い。
見たところ人の姿は見えないが確かに誰かいて、斎藤を見ている。
『その死体には血が一滴も残っていなかったそうだ』
先ほどの噂話が頭に蘇ってきた。

羅刹か……?

家に入れば愛用の刀があるが、中には千鶴がいる。できれば外でケリをつけてしまいたいが……
斎藤はじりじりと横に動くと、鍛錬用に使う木刀が立てかけてあるところまで移動した。
手探りでほうきと一緒に立てかけてあった木刀を手に取ると……

「お久しぶりです」

静かな声と共に、殺気の主が植え込みの向こう側がら現れた。
「……お前は……」
現れたのは天霧だった。先ほどビリビリと空気を震わせてた殺気は、今はすっかり影を潜めている。
「戦いの場からはなれても勘は鈍っていないようですね。しかしそれは……」
天霧はそう言って、斎藤が握っている物に視線を落とした。斎藤もつられて自分の手を見る。
持っていたのは木刀ではなく、ほうきだった。
「……」
斎藤は無言でほうきをもとあった場所に立てかけた。うっすらと目じりが赤くなっている様子を、天霧は微笑みながら見ている。
照れ隠しに一度ゴホンと咳払いをして、斎藤は天霧に聞いた。
「……何の用だ」

風間亡きあと、西の鬼たちは京の千のもとに集結しつつあると聞く。天霧はそれを補佐していると聞いていたが……
戦乱の世が去り、人も鬼も各々の場所に収まった。天霧がわざわざこのような北の地にまでくる必要はない筈だ。
「千姫」
そう言って後ろを振り向いた天霧の背後から、驚いたことに千が出てきた。
「あんたは……」
「こんばんは。お久しぶりね。千鶴ちゃんは元気?」
急な訪問に斎藤は黙り込んだ。
「……何かあったのか?」
斎藤がそう言うと、千と天霧は顔を見合わせる。

天霧は斎藤の質問には答えずに、逆に質問をしてきた。
「あなた方はどうです?おかわりはありませんか?」
「かわりは……」
無いと言おうとして、斎藤は言葉を止めた。以前確か誰からか聞いたことがある天霧についての噂。本当かどうかはわからないが……
「天霧」
斎藤が言うと、天霧は静かに彼を見た。
「千鶴の調子が悪い。もうかれこれ一か月くらい微熱が続き食欲がない。疲れやすいらしくなかなか床をあげられんのだ。俺の記憶では確かあんたは西洋の医学の心得があるという話を聞いたことがあるが……」
「そうですね。幼少のころから蘭学を学ぶために医学も学んできました。もしよろしければ診させていただきましょう」

 

突然の来訪者に驚く千鶴に理由を説明する。実は以前も斎藤は天霧と出会ったことがあったこと。騒乱の世の中、千鶴の事を心配して今回は千も一緒に様子を見に来たこと。
今日もたまたま来ており、医学の心得もあるため診てもらってはどうかということ……。
千鶴は恐縮しながらもうなずいた。
「せっかく来てくださったのになんのお構いもできなくてすみません。私がこんな風でなければ……」
起き上ろうとする千鶴を天霧が止める。
「いいのです。横になったままで」
「気にしないで。いろいろ大変なときだからと思って、勝手に様子を見に来ちゃっただけなのよ。こちらこそごめんなさいね、突然」
「千ちゃん……。ううん、会えて嬉しい。私も父の傍で患者さんを診てきた経験から考えると、風邪だと思うんですがそれにしては長引いて……この土地での冬は厳しくて体が慣れないせいかと思っているんですが」
天霧は斎藤に言う。
「西洋では胸の音を聞き、雑音がないかどうかを判断します。つまり着衣を……」
そこまで言ったところで斎藤は気づき、腰を上げた。
「では俺は席をはずそう」
千と天霧を残して廊下に出てふすまを締めて、斎藤はハタと考えた。
何故自分が部屋を出る必要があったのか?着物をはだけると言っても自分は夫だ。傍に居て何ら問題はない。逆に天霧に見えないように千鶴の前を隠してやるなどした方がよかったのではないだろうか。しかしそれではなんだか天霧を信用してないようだし、かなり嫉妬深い夫のように見えるのではないだろうか……

斎藤が廊下で腕組みをして、診察の際にあるべき夫の姿について考えていると、ふすまがスッと開いて天霧が出てきた。
相変わらずの無表情で、診察の結果がいいものなのか悪いものなのかわからない。
「どうだったのだ?」
斎藤が聞くと天霧は口を開いた。が、その先の言葉を探すように言いよどむ。その仕草が、まるで悪い結果をどう伝えようか迷っているように見えて、斎藤の心臓はドキリと鳴った。
「何か……」
言いかけた斎藤を天霧がさえぎった。
「私の口からは何とも言いかねます。雪村から…いえ、千鶴の口から聞くといいのではないでしょうか」
「そうね。それがいいわ」
後ろから続いて出てきた千も天霧の言葉に同意すると二人で玄関の方へと足を進め、少し外に出ています、と声をかけて庭へと出て行ってしまった。
何か重大な話がこれからあるから、ここは夫婦だけにしてやろうという気遣いのようにも見える彼らの行動に、斎藤は少し慌てながらふすまを開け寝所へと入った。
足を踏み入れた途端、斎藤は布団に座っている千鶴の眼尻に光るものを発見した。
「ち…千鶴……何か……」
へたりと枕元に座り、動揺のあまり口ごもっている夫に、千鶴は優しく微笑みかけた。
そして恥ずかしそうに頬を染めて斎藤を見つめる。
「あの……おめでた、だそうです」
「………」

固まったままの夫に、千鶴は少し不安そうな顔になった。
それほど余裕のある生活ではないこの暮らしで、子をなしたことを喜んでくれていないのだろうか……?千鶴はそう思い斎藤の顔を覗き込む。
至近距離で千鶴と目があい、斎藤はハッと我に返った。
そして視線をそらすと、布団の上にあった千鶴の手を右手でそっととる。
「……そうか…子が……」
まだすこし茫然とした様子で、斎藤は千鶴の小さな手を更に左手で優しく包んだ。
「……とても嬉しく思う。体を大事にしなくてはな」
そう言って微笑んだ斎藤の顔は、どこかくすぐったそうな恥ずかしそうな、しかしとても幸せな笑顔だった。
千鶴の瞳にも再び涙が盛り上がる。
「……はい……」
俯いて泣き出した千鶴を、斎藤は今度は抱き寄せる。

二人とも言葉は必要なかった。

 

 




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