【WILD WIND 2-2】
なおーん
甘えるようなネコの鳴き声が聞こえてきて、千鶴はいわゆるネコまんまといわれるご飯を持って庭へ出た。
千鶴がこの家に住む様になる前から多分この家にずっと居ついていたネコがいたようで、突然来た千鶴達に追い出されてしまったようなのだ。ときどきサッと物陰に隠れる姿からして、茶トラのようだが残念なことに千鶴や君菊にはなかなか馴れてくれなかった。
それでも最近は、エサを置いておくとカラになっていることが多くなり、少しだけ警戒心を解いてくれたようだ。千鶴と君菊はネコが好きで、なんとか飼いならして柔らかい毛並を撫でたり膝の上で抱っこしたり、肉球で遊んだりしたい。
そこで、今日も昼近い時間に外から聞こえてきた鳴き声に反応して、千鶴がエサで釣ろうとネコを探しに出てきたのだった。
「ネコちゃん?どこですかー?にゃおーん?おいしいご飯ですよ〜」
小さな前庭の植木の下や濡れ縁の下を探してもいない。
なおーん
鳴き声を頼りに、千鶴は家の外へ出てぐるりと周囲をまわってみると、裏側の生垣の陰に、ネコの尻尾が見えた。生垣に隠れてここからは見えないが、そこに何かがあるようでネコは何度も何度も鳴いている。
千鶴はにっこりとほほ笑んでネコを驚かせないようにゆっくりと近づいて行った。
「静かにしろ…!そんなに鳴くと人がくるかもしれんだろう」
焦ったような男性の小さな声が、千鶴の耳に聞こえてきた。男性の言葉を全然聞いていないようで、ネコはあいかわらず「にゃうーん。なぁー」と鳴き続けている。
男性の声がまた聞こえた。
「どうしてほしいのだ。腹でも減っているのか?俺は食べるものなど持っていないぞ。それともこうやって撫でてやればいいのか?」
男性の声が聞こえると同時に、ネコの鳴き声が止み、かわりにぐるぐるぐるぐる…という盛大に喉を鳴らす音が聞こえてきた。
千鶴は足を緩めて目を瞬く。
私達にはなかなか馴れないのに、あんなになついている人がいるんだ……
千鶴が気になって生垣の向こうに回り込んでみると、そこには全身黒ずくめの男性がこちらに背中を向けてしゃがみこみ、地面に寝転がっているネコの腹を撫でていた。
「……」
その姿を見て千鶴は固まった。
このあたりでは滅多に見ない洋装で、全身黒ずくめの短髪。
この人は……!
「あ、あの…!あなたは……!」
先日の夜、化け物に襲われた私を助けてくれた人ではないですか?
そう続けようとした千鶴は、振り向いた彼を見て口を開いたまま言葉を止めた。
夜の提灯の乏しい灯りの中でも涼やかな顔は息を呑むほど美しかったが、昼の太陽の下では言葉もなく見つめてしまうほどだった。
切れ長な美しい瞳は深い蒼色なのだと今初めてわかった。どこまでも透明で澄んでいる。
彼の周囲に感じる清廉な風は、あの夜と同じだ。一分の隙もなくぴっちりと着こんだ服が彼のきっちりとした性格を表している。
無駄のない動きと均整のとれた身体つきは先日の夜の動きの素早さや底知れないパワーを感じさせた。
千鶴は自分の恰好を思い返して頬を染めた。
先ほどまで君菊と一緒に掃除をしていたせいで頭にはほこりよけの手ぬぐい、袖はたすき掛け、髪もゆるく一つに結わえているだけで着物も普段着だ。
千鶴は慌てて頭の手ぬぐいをとり、たすき掛けをはずした。
「……」
目の前の男性は沈黙したまま、下から千鶴を見上げている。いつまでたっても見つめているだけで動こうとも話そうともしない男性に、千鶴はだんだんと居心地が悪くなってきた。しかし何故か口が開かない。
その時、ゴロゴロと地面で転がっていたネコが、千鶴がもっているエサに気が付いたようで『にゃ!』と言って起き上り、千鶴の足元に寄ってきた。
なーおなーおと甘えるように体をこすりつけてくるネコに、千鶴は手に持っていたお椀に気が付く。
「あ、これ?これが欲しいの?」
千鶴はそう言うとしゃがんで、ネコの前に椀を置いてやる。
待ってましたと頭を椀に突っ込んだネコを見て、千鶴は思わず微笑んだ。その時、視線を感じて千鶴は脇を見る。そして、片膝を立てそこに腕を軽く乗せた姿勢のままで千鶴を見ている件の男性と、至近距離で目があった。
「きゃっ……!」
驚いて後ろに倒れそうになった千鶴を、男性が手を伸ばして支えた。
「あ、ありがとうございます……」
顔をさらに赤くしながら千鶴は礼を言い、男性に促されるまま立ち上がった。
男性は何かを言いたそうに口を開いたが、しばらく考えてまた閉じる。そして視線をエサを食べているネコへと移して静かに聞いた。
「……体は、大丈夫だったか」
「え?」
「あの夜……」
男性の言葉で、千鶴は化け物に襲われた夜を想い出し、ブルッと身震いをした。
こんな昼の光の中ではとても現実とは思えない。だけどあれは実際に起こったことなのだ。
そしてこの男性はやはりあの時自分を助けてくれた男性だった。
千鶴はつっかえつっかえ答えた。
「はい、おかげさまで怪我はありませんでした。危ないところを助けていただいてお礼も言わず失礼いたしました。本当にありがとうございました」
丁寧にお辞儀をして礼を言う千鶴を、男性は何も言わずに見ていた。
その瞳が寂しそうに煌めいたと思ったのは千鶴の気のせいだろうか?
男性は小さく頷くと、またしばらく迷うように言葉を探す。
「体の方はどうなのだ?」
再び同じような質問をした男性の視線は、今度は千鶴の体……お腹の辺りを見ている。
千鶴は何故か再び赤くなった。
「あ、そうです……わかりますか?まだそんなに大きくなってないと思っていたんですが……。あのこちらも大丈夫でした」
恥しそうに少し膨らみかけている自分のお腹を撫でている千鶴の白い手を、男性はじっと見つめる。そして柔らかく微笑むと、それはよかった、とつぶやいた。
初めて見る男性の笑顔に、千鶴は再び言葉を失った。
辺りの空気が爽やかな風になって千鶴の周りを優しくとりまいているようだ。
「順調なのか?」
「……秋ごろに産まれる予定です」
そうか、と言って、男性は再び視線をネコに向けた。
「診療鞄を持ってきてくださったのもあなたなのでしょうか?」
男性が頷くと、千鶴は再び頭を下げた。
「ありがとうございました。あの、私、雪村千鶴と言います」
男性は何を考えているのかわからない、静かな瞳で千鶴をしばらく見た後、答えた。
「……斎藤一だ」
「斎藤さん…ですか。私を御存じだったんでしょうか?家まで……」
「女性で蘭方医というのは珍しい。おのずと知れる」
「そうなんですか……。あの、お礼をしたいのですが、何か……」
「結構だ」
みもふたもない断りに、千鶴は一瞬ひるんだ。
「でも……」
「あの夜も今も、このあたりにはたまたま通りかかっただけだ。このあたりにはもう来ることも無いし会うことも無いだろう。気にすることはない。ただこれから夜の一人歩きはしない方が良い」
千鶴は斎藤の言葉に一旦うなずいたものの、少し考えてから首をかしげた。
「でもネコが……」
「このネコか?」
「はい。なかなか馴れてくれないんですが、でも斎藤さんにはすごく馴れてますよね?」
「……」
斎藤は黙り込んだ。
「お腹までだして喉を鳴らすのは、飼い主くらい毎日会って可愛がっている人くらいではないかと……」
「……」
腕を組んで黙り込んでしまった斎藤の顔を、ちらりと覗き込んでみるとうっすらと目じりが赤くなっているような気がする。
あの夜、冷徹に化け物を斬り伏せた男性にこんなことを言うのは不謹慎なのだが、だがしかし千鶴はなんだか彼が可愛く思えて思わずクスリと笑ってしまった。
その瞬間、男性のお腹から『ぐぅ〜〜』という音が聞こえてきた。
「……」
更に黙り込んでしまった男性の顔は、今ははっきりと赤くなっている。
「お腹、減ってらっしゃるんですか?もしよろしければうちにあがって……」
「いや、結構だ。腹などすいておらん」
「でもお腹の音が…」
「気のせいだ。それよりあんたは見ず知らずの男を気軽に家にあげるような真似は今後慎んだ方がいい」
「お名前もお伺いしましたし、それに助けていただいたじゃないですか」
「だが俺が何をしてきたか、どんな人間かは知らんだろう」
「そうですけど……」
頑なな男性に、千鶴は口ごもった。
「でも、何故だかどんな方だか知っているような気がします」
ふふ、と笑ってにっこりとほほ笑む千鶴に、斎藤は再び黙り込んでしまった。
「あの、じゃあここにご飯を持ってきます。それならどうでしょうか?」
「ここに?」
千鶴は頷く。
「はい。ちょうどご飯を炊いたところなので、おにぎりを作ってきますね」
「おにぎり……」
「はい!ちょっと待っててください!すぐなので!」
そう言って小走りに家に戻っていく千鶴を、斎藤はどうしたものかと戸惑いつつも嬉しい気持も否定できず、見つめていたのだった。
久しぶりに食べた千鶴の塩結びはとてもおいしかった。塩加減も握り具合も斎藤の好みそのままで、胃はもちろん、心まで満たされるようだ。
千鶴との会話でこの2か月の間ピリピリと張りつめていた神経が柔らかく緩んでしまったのを感じる。日々斬るか斬られるかの緊張感の中で過ごしていた斎藤にとってはそれがいいことなのか悪いことなのかはわからない。
千鶴の家からは見えないが、こちらからは見える場所――少し高台になっている隣の空き家――に座って、千鶴の家を見守りながら斎藤は考えていた。
近くに寄って彼女の声を聞き、笑顔をむけられると、もっともっと…と望んでしまう。あの頃のように引寄せて抱きしめるのが自然な時にもう一度戻れないかと……
「まだこんなところから見守っているのですか」
静かな声が背後から突然聞こえてくるのと同時に、斎藤は脇に置いてあった刀を手に構え立ち上がり振り返った。
「……天霧……」
「君菊を入り込ませたのでまだ安心ではありますが、こんな外から見守っているよりも傍で守った方がお互いにいいのではありませんか?」
「見ず知らずの男を傍に置くような愚かな人間はいないだろう」
「今日改めて知り合えたのではありませんか」
「……」
斎藤は黙って視線を千鶴の家へとやった。庭にろうそくの明かりが漏れている。多分千鶴がまた医学書を読んでいるのだろう。
「傍にいて他人のふりをずっとできるほど、俺の心は強くはない」
傍に居れば必ず触れて、抱きしめて、愛してしまう。それに……
「俺が傍に居れば、あいつらの目印になってしまうだろう」
天霧も、斎藤の視線を追って千鶴の家を見た。
夜風が二人の髪を静かに揺らす。
「もうすでに鬼がちらほらとあらわれているでないですか。あなたが彼女の傍にいようといまいと変わらないと思いますが」
「来ているのは彼女の匂いにつられてきている羅刹か、はぐれ鬼だ。まだあいつらの部族には彼女の事はばれていない。あいつらが探しているのは俺といる彼女だからな。俺が傍に居ない方が見つけられにくい筈だ」
「しかしあなたが彼女をここで守っていることはもう鬼や羅刹に伝わっているのでは?」
天霧の言葉に、斎藤は静かに微笑んだ。
「……ここで俺に出会った鬼と羅刹は、必ず命を落とすことになる。故にそれを他の奴に伝えることはできまい」
ギラリと光った斎藤の瞳を見て天霧は言葉を止めた。
強い意志を持った強い心。
強靭な体に優れた技術。
今の斎藤は、天霧から見ても倒せる隙が見当たらなかった。そのあたりの雑魚の鬼や羅刹では、これだけ揺るがない精神と強さを持つ斎藤には勝つことはできないだろう。しかし連日の体の酷使と、生活のすべてを彼女のことを守ることにあて自分の事を顧みない斎藤の様子は、ぽきりと折れてしまいそうな不安を覚える。
「……また来ます」
そう言い残し風とともに去って行った天霧を、斎藤は振り返ることもせず、千鶴の家を見守り続けていた。