【WILD WIND 2-1】













「きゃーーーー!」
千鶴の悲鳴に、斎藤は顔を上げて後ろを振り向いた。
バタバタと音がして、寝乱れた姿のまま妻が台所に駆け込んでくる。
「は、一さん…!すいません、私、ね、寝過ごして……」
髪はぼさぼさ、着物も夜着のまま、腕には何故か枕を後生大事に抱えている妻を、斎藤は冷静に眺めた。
「わかっている。朝飯はお前の分も作ってあそこに置いてある。弁当は今握り飯を作ろうと思っている所だ。ゆっくり支度をしてくるといい」
斎藤にそう言われて、千鶴は夫を見た。既に朝の身支度を終えて出勤用の洋装に着替えている彼の前には、炊き上がったご飯に塩がおいてあり、すっかり準備は整っている。斎藤が作ったという朝飯は、ちゃんと味噌汁とご飯とおかずがお膳にのって、既に用意されていた。
千鶴はがっくりとうなだれる。
「……一さんは、私がいなくても全然大丈夫なんですね……」
千鶴の思わぬ言葉に、斎藤は握り飯をつくるために腕まくりをしようとしていた手を止めた。
「何?」
ありがたがれ、感謝されこそすれ、恨み言を言われるとは思ってもいなかった。しかし千鶴は恨みがましい目で斎藤を見上げる。
「私なんか寝坊したり忘れ物をよくしたり……全然ダメな奥さんで、一さんあきれていませんか?もう嫌になっちゃったんじゃないですか?」
斎藤は腕を下してまじまじと千鶴を見た。
「……あきれてもいないし嫌になってもいない」
生真面目にそう返されて、千鶴は余計いたたまれなくなった。自分でも絡みすぎだとは思うがとまらない。
「私なら呆れるし嫌になります」
斎藤は溜息をつくと腰に手をあてて千鶴に向き直った。
「お前は俺が寝坊をしたら呆れるし嫌いになるのか」
「……なりません」
「なら同じではないか。わかった、じゃあ弁当の握り飯はお前に握ってもらうことにしよう」
千鶴は頬が赤くなるのを感じた。朝寝坊をした上に、ちゃんと準備を終えている夫に絡み我儘を言っているどうしようもない妻、という図が千鶴の頭の中に浮かび上がる。
「……もういいです。そんな情けをかけてもらうようなこと……」
「そんなことはない。お前の握り飯の方がうまい」
自己嫌悪で俯いていた千鶴は、斎藤の言葉に目を瞬いて彼を見上げた。
「私の方が…?」
斎藤は蒼い瞳に暖かい色をうかべてうなずいた。
「そうだ。大きさもちょうどいいし握り方もいい。口に入れるとほろりとこぼれる。俺が握ると大きすぎる上に固すぎるのだな」
「……そうなんですか?」
頷く斎藤に、千鶴の表情はぱあっと晴れた。腕まくりをして汲み置いてある水で手と顔を急いで洗う。
「じゃあ、じゃあお弁当は私が作りますねっ。一さんは何も入っていない塩結びがお好きなんですよね」
「ああ、頼む」
傍から見てもあからさまに機嫌を直してうきうきと握り飯を作り出した千鶴を、斎藤はやれやれという顔でながめた。

しかしそこがかわいい。

……これは斎藤の心の中だけの秘密だが。

 



 

「待て」
斎藤は静かな声で男を呼び止めた。
見たところ20代で町人風。服も小ざっぱりした着流しで特に怪しいところはない。
……真夜中に千鶴の家の門を開けようとしている所以外は。
振り向いたその男は、驚いたように斎藤を見た。
「……」
何も言葉を発しないその男の目は、先日の羅刹とは違い、知性がある。斎藤は刀の柄にかけていた手を元に戻した。
「こんな時間に何の用だ」
斎藤が問うと、その男は問い返してきた。
「お前こそこんな時間にこんなところで何をしてんだ?お前は誰だ?」
斎藤は眉根をしかめた。
「俺はこの家を守っている者だ。質問に答えろ」
町人風の男は斎藤に向き直ると、顎に手をあてて品定めをするように見てきた。そしてニヤニヤと笑いながら頷く。
「女鬼を守っているとは……。いよいよこの家はアタリのようだな。わざわざ江戸まで来たかいがあったというものだ」
斎藤は再び柄に手をかけた。『女鬼』『江戸』という言葉から、この男はふらふらと女鬼の匂いに引き寄せられてきたのではなく、最初から千鶴を目当てで来たことが分かる。しかも江戸の者ではなく別の所からわざわざ来たような言い方だ。
……と、いうことは……
チャキ…という音と共に、斎藤は鯉口を切った。あからさまな殺気をあてられているにもかかわらず、町人風の男はにやにやと笑っているだけだ。
時間帯、行動、そしてこの言葉。
斎藤は迷わず一気に距離を詰め、刀を抜くと同時に相手に斬りつけた。

町人風の男は、かわす余裕が十分あるとふんでいたのだろう。斎藤が斬りかかる瞬間にさっと後ろに避けた。その常人離れした動きから、その男は人間ではなく鬼ということがわかる。しかしさすがの鬼でも、斎藤の居合の腕を甘く見ていたようだ。
斎藤の抜き打ち際の一撃は、避けたつもりの男をかすかにとらえていた。

「……っくっ…!」
町人風の男の額から鼻にかけて、つっと赤い線が走ると同時に、血が吹き出した。その男は怪我を確かめるように自分の手を額にやって、血の付いた手のひらを見る。
そして構えている斎藤の前で、男の髪はみるみるうちに白くなった。瞳が強く金色に輝き始める。
男の額からは太い角が二本つきでていた。

今夜は羅刹ではなく鬼が相手か……

斎藤が刀を握りなおした時、その男が唸るように恫喝した。
「人間ごときが邪魔立てするな!俺はこのためにわざわざ北の地から江戸まで来たのだ。これは鬼の問題で人間には関係がない!」
「俺には関係がある」
斎藤はそう言うと、刀を立てて刃越しにその鬼を見た。
「彼女は俺の妻だ。故にこの剣で守るのは当然のこと」
「人間の分際で女鬼を手にいれようなどとは……!」
鬼はそう叫ぶと、信じられない高さまで跳躍をすると一気に斎藤にとびかかってきた。
右に避けた斎藤に、鬼は間をおかず今度は殴りかかってきた。しかし以前渡り合った天霧よりははるかに遅い。
完璧に見切った斎藤は、殴りかかってきた腕を狙い、上から下へと刃を振り下ろした。
パッと血が飛び散り、鬼は自分の腕を抱えて転がった。斎藤はすかさず間を詰め、とどめを打とうと鬼の上に刀を振りおろす。
しかし、さすがに身体能力が優れた鬼だけあって、彼は崩れた姿勢から斎藤に向かって足払いをかけてきた。それを避けようと斎藤が体勢を崩したところに、鬼の馬鹿力のケリが、腹に入った。
「ぐっっ!」
思わず漏れた声と共に、斎藤は地面に転がった。意識がもっていかれそうなくらいな衝撃だったが、意思の力で痛みを封じ込めてすぐに立ち上がる。
そしてちょうど立ち上がりかけていた鬼に向かって、今度は袈裟懸け斬りに刃をふるった。
「ぐがあああっ」
鬼の咆哮が夜の空気を震わす。ここでたじろいだり一息入れると長引くということは、斎藤はこの二か月の経験でわかっていた。
迷いなく、叫んでいる最中の鬼に向かってさらに斬りかかった。蹴りを入れてくる鬼の動きを正確に見極め、斎藤は体をかがめて蹴りを交わすと同時に、くるりと体を反転させて鬼の後ろにでると、一息に心臓に向かって背中から刀を突き刺した。

「がはあっ!」
空気音とともに大量の血が男の口から溢れ、男の金色の瞳が急激に力を失っていくのを確かめて、斎藤は刀を引き抜いた。それと同時に吹きあがる血潮を避け、鬼が地面に倒れるままにする。
ドサッ!と重い音をたてて、鬼は地面にうつぶせに倒れた。


羅刹と違い、鬼は灰にならない。朝になって銀色の髪と角をもった鬼が死んでいるのが見つかれば、事は大きくなる。
斎藤は刀の血を拭うと鞘にしまい、死んだ男の脇に腕を入れて、細身のその体のどこにそんな力があるのかと思う位軽々と持ち上げた。

鬼の血が斎藤の頬に飛び、鬼の重さが斎藤の足取りを重くする。
汚い仕事だが、彼女を守るためには必要なことだ。斎藤は辺りを見渡して人目がないことを確認してから、ゆっくりと歩き出したのだった。






「ふうっ」
おもわずついた溜息と共に、斎藤は薄暗く湿った粗末な部屋に倒れこんだ。ズキリと痛む脇腹に手をあてる。先ほど鬼に蹴られたところだ。
さすがに今夜は疲れた。もうすぐ夜もあけるから羅刹は来ないだろう。鬼も、この二か月の経験では昼間に堂々と来ることはなかった。もう空も白みかけているから今夜は大丈夫なはずだ。
斎藤は刀を腰から抜くと畳の上に置き、壁に背をもたせ掛けた。
鬼は、羅刹に比べると面倒だ。強さもかなり強いし死体の始末もある。
今日の鬼は、ここから少し行った先の人がほとんど行かない沼へと沈めてきた。そして外の井戸で身に着いた血を洗い、刀の手入れをすると、斎藤はもうくたくただった。
鍛錬はおこたっていないし、体力はある方だとは思う。しかし昼夜問わずの監視は骨が折れる。
実際の戦闘も、最近頻度が上がってきているようだ。
しかしそれでも、あのまま東北で二人でいるよりは今の方が千鶴ははるかに安全なのだ。
斎藤は壁に頭をあずけ、ぼんやりと薄汚い天井を見上げる。

ここは農家の使っていない離れで、ほとんど手入れがされていなかったためかなり安く借りることができた。千に頼ればなんらかの手あては考えてくれそうだが、しかし斎藤は千鶴の事は自分の力でなんとかしたかった。
実際見張っていると、当然ながら千鶴を見かけることができた。二か月たった今彼女は彼女なりにしっかりと地に足をつけてたちあがりつつある。
少しの寂しさもあるが、その芯の強さは彼女らしいと、斎藤は嬉しく思っていた。

暗闇の中でも千鶴を思い出しただけで、斎藤の唇が優しく孤を描く。斎藤はずきずきと痛む脇腹に手をやりながら瞼を閉じた。

あと少し……あと少しだけここで休んだら、またあの家の見える場所へ行こう。彼女を守るために……

斎藤はそう思いながら、壁に背を預けた姿勢のまま我知らず眠り込んでいった。

 

 




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