【WILD WIND 10】
昼過ぎに降ったにわか雨のせいで、空気がひんやりとしている気持ちのいい夏の午後。
斎藤はあるものをを持って母屋へと廊下を歩いていた。
以前にあった体の重さも、どこか血に乾いたような飢えもなく、昼の日差しの中でも特につらくもない。
平助たちが来てくれたおかげで夜番は3日に1度で大丈夫だし、夜番の次の日は眠ることができる。精神的にも肉体的にもかなり余裕ができた。
その上村正がある。村正を手に入れてから、羅刹や鬼が多く現れる新月は、基本斎藤が一人で夜番をするようになった。
切れ味や手に持った具合が抜群で、しかも一太刀で相手を絶命させることができる。
以前は何度か羅刹化しなくては千鶴を守ることができない夜もあったが、例の陸奥の鉱石からつくった鍋のおかげと、様々な助けのおかげで最近はほとんど普通の人間のように暮らすことができる。
全て皆のおかげだな……
斎藤は庭に面した廊下を歩きながらそう思った。
千鶴の事は自分一人で、と気負っていた斎藤を皆がそれとなく助けてくれた。斎藤のためでもあるが千鶴の為でもあるのだろう。
仲間とはいいものだ。
しみじみと思いながら、斎藤は懐に入れてあるものについて考えながら歩く。
これを渡したらどう思われるだろうか……。千鶴にとって自分はまだ知り合って半年もたっていない素性の知れない男にすぎない。そんな男がこんなものを渡して不審に思われないだろうか。
途中ですれ違った君菊に千鶴の居場所を聞くと炊事場だとのことで、斎藤はそちらへ足を向けた。
炊事場からは特に煮炊きしている様子もなく、斎藤は辺りを見渡しながら覗いてみる。と、中では千鶴が何やら腰に手を当てて考えていた。
「どうした?」
斎藤が声をかけると、千鶴は驚いたように振り向く。
「ああ、斎藤さん……。前に市に行った時に買った籠なんですが……」
千鶴の視線を追うと、その大きなかごは地面に3つ並べて置かれて、中に乾物、炊きつけに使う紙、その他細々としたものと分類されて入っていた。
「なるほど、こう使うつもりで買ったのか。同じ籠ばかり5つも買ってどうするのかと思っていたが」
「残り二つは赤ちゃん用に使うつもりで、三つは台所のごちゃごちゃしたものを整理したかったんです。でも地面に置くと邪魔だし、重ねてしまうと使いづらいし、どうしようかと考えていたんです」
「ふむ……」
斎藤も腕を組んで考える。炊事場の上あたりの壁を見渡し提案してみた。
「上に棚でも作ればいいのではないか?」
カンカンと金槌の音が炊事場からひびく。千鶴が釘を渡しながら申し訳なさそうに言った。
「すいません、斎藤さんにこんなことまでさせて……」
差し出された釘を受け取りながら、斎藤は答えた。
「気にすることはない。男手が必要だから離れを貸すことにしたのだろう?破格の家賃だ。荷物持ちでも大工の真似事でも好きに使ってくれていい」
「市の時も、荷物を持っていただいてありがとうございました。あの、気になっていたんですが、もともと見たかった刀剣商や古物商の方は見ることが出来たのですか?次の日にもう一度市に行かれるとおっしゃってましたが」
「ああ、それか……」
斎藤は金槌で打ち付けている手元を見ながら言葉を探した。あの日の夜、千たちがきて村正を手に入れたのだ。
そのため結局新しい刀を求める必要はなくなり、市にはいかずじまいだった。斎藤が言葉を濁したのに何かを感じたのが、千鶴が慌てて言う。
「あ…っす、すいませんでした。別に探ったりするつもりじゃなくて……ほんとにちょっと気になっただけなんです。その、言いたくないのなら別に……」
斎藤は釘をもらうために手を差し出しながら、不思議そうに千鶴を見た。何をそんなに動揺しているのだろうか?探る、とは何を探るというのか?
「……」
斎藤が千鶴の言った意味を無言で考えていると、千鶴が更に言葉を継いだ。
「誰と行ったかなんて、別に言う必要ないですもんね。初日に私と行ってくださったのですし、次の日はあの娘さんと行こうと私がいろいろ聞くことではなかったです」
斎藤は金槌を打とうとした手を止めて千鶴を見た。
千鶴は少し頬を染めて、手の中にある釘を見ながら「だからほんとに返事はいいです、失礼なことを聞いてしまって……」などと一生懸命話している。
さすがの斎藤でも、この千鶴の反応にピンとくるものがあった。
そうか、やきもちを焼いていたのか……
斎藤の顔は変わらず無表情なのだが、どうも口の端が緩む。
出会って半年もたっていない素性のわからない男。
例え斎藤がそんな立場であっても、千鶴にどうやら好意をもってもらっているようだとわかると、心は浮き立つ。
いつか……いつかすべてが終わって。千鶴も千鶴の子供も無事で、北の鬼たちの問題も解決して。
そうしてもう一度始めからやり直すことができるのだろうか?
彼女の記憶がなくても、もう一度、二人で向き合い同じ将来を見ながらともに歩くことが……
微妙な沈黙の中、棚が完成した。
斎藤は床に置いてあった籠を持ち、新しく作った棚に載せて行く。
「わあ!素敵です!これなら私でも手がとどきますし、勝手場がとてもすっきりしました」
千鶴はそう言って、実際に籠に手を伸ばしてみる。その時、足元に置いてあった桶に躓き、バランスをくずしてしまった。
「きゃっ!」
「危ない…!」
斎藤はとっさに手を伸ばし、後ろから抱え込む様に千鶴を抱き転ぶのを防いだ。
ふっと甘い香りが鼻をつき、思わず下を向いた斎藤の視界には、千鶴の白い首筋が見える。
斎藤の心臓はドクンと重く打った。
右側に寄せた髪型から幾筋かの後れ毛が耳元にかかり、桜色の耳が隙間から見える。
「……」
離さなくてはと思うものの、斎藤の腕は意志に反して彼女を抱き留めたまま動かなかった。
まるで、久しぶりに得た懐かしい感触を離したくないとでもいうように。
千鶴の方も驚いているのか、後ろから見える頬が心なしか緊張しているようだ。体も固い。柔らかく沿ってくれていた斗南でのことを思い返すとちくりと胸が痛むが、実際斎藤も今は全身が固くぎこちない。手のひらがじっとりと汗をかいている。
このまま抱え込んできつく抱きしめてしまいたいという気持ちと、それはまずい早く離さなくてはという気持ちが戦っている。千鶴も息をひそめて斎藤の反応を待っているようだった。
「……すまない」
何を謝っているのか、斎藤は自分でもわからなかった。
離したくても離せない自分を謝っているのか。なら彼女の体を離せばいいのだが、斎藤にはどうしても離すことができない。
斎藤はゆっくりと顔を千鶴の頬に近づけた。気配を感じた千鶴が首を巡らせ少しだけ斎藤の方を見る。
千鶴は頬が真っ赤で目が潤んでいた。何か言いたげだが言葉にならないような表情。
その表情を間近で見て、斎藤は頭が真っ白になった。
そのままの状態でゆっくりと唇を彼女の頬に近づける。千鶴は抗う風でもなく斎藤の顔に魅入っていたが、唇が近づいてくるとそっと瞼を閉じた。
ドキン、と斎藤の心臓がまた重く打つ。腕の中の彼女をゆっくりとこちらに向かせながら、斎藤は唇を寄せ……
「はじめくーん!今日の夕飯どうする〜!!?」
炊事場の外から突然聞こえてきた平助の声に、文字通り二人は飛び上がりパッと離れた。ガタガタッと足元の桶が音を立てる。
平助が呑気に炊事場の入口から顔をのぞかせた。
「君菊に聞いたらこっちだって言うからさ〜……あれ、なんか俺……」
まずかった?という顔をして、平助は真っ赤になって隅っこに居る千鶴と、反対側に不自然に立っている斎藤とを見比べた。
「いや、別にまずくなどない。何の用だ」
動揺を抑えつつ斎藤が言う。
「いやだから夕飯……」
やっぱりなんかまずかったか、という顔をしながら平助が繰り返した。
斎藤はまだ頭が働いていないのか、夕飯……夕飯とは……とぶつぶつと繰り返している。冷静になったのは千鶴の方が先だった。
「そうですよね、そろそろお夕飯の準備をしないと……一緒に作ります?」
平助の顔がパッと明るくなった。
「いいの?なーんか屯所の時みたいだな〜……っと」
途中で気が付いて、平助は口をつぐむ。
「屯所?」
不思議そうに尋ねる千鶴ををごまかすために、斎藤は少し慌てて口を開いた。
「いや、それはこちらの話だ。そうだな、夕飯は……」
「一君は今日は当番じゃないだろ?なんでここに?」
「ああ…」
そういえばそうだった。すっかり忘れて棚を作ったり千鶴を抱きしめたりしていたが、もともと斎藤は千鶴に渡すものがあってここまで来たのだった。
「そうだ、渡すものがあって……」
そう言ってふところを探っている斎藤に、千鶴は首をかしげた。
「渡すもの?私にですか?」
「そうだ、これを……」
ようやくでてきたそれを、斎藤は千鶴に差し出した。
柔らかそうな白い布。
平助と千鶴が覗き込む。
「これは……?」
千鶴が手に取って広げてみると……
「これって、赤ん坊の?」
平助が布の小ささと形から言うと、斎藤は頷いた。
「産着だ。使って欲しいと思ったのでな」
「ええ?なんで一君が産着なんて持ってるの?」
平助が驚いたように斎藤を見た。産着なんて母親がその辺の古着を繕いなおしてつくるものだ。斎藤が何故、と思うのは当然だろう。
「む…」
思いもよらなかった質問で、斎藤は言葉に詰まった。千鶴も手に産着を持ったまま見上げてくる。
この産着は斗南で千鶴が一生懸命縫っていたもの。
記憶を失くさなくてはいけない夜の最後まで、必死に縫って完成させていた。
千鶴が去った後斗南の家の後片付けをしていた斎藤は、千鶴の裁縫箱からこれを見つけて置いてくるには忍びなくこっそり江戸へと持ってきたのだった。こうして手渡しで渡せるとは思っていなかったが、なんとなく千鶴と子どもとのつながりが欲しくて。
「とあるところから……その、持ってきたのだ」
「とあるとこって……」
まさか盗んで来たんじゃないよね、という不審げな顔で平助が斎藤を見る。
「だ、大丈夫だ。これを縫っていた人は……」
斎藤はそう言うと、言葉を止めた。
そうだ、これを縫っていた人は……
斎藤は千鶴に向き直ると、透明な蒼い瞳で彼女をまっすぐに見た。
「これを縫っていた人は、子どもに……千鶴の赤ん坊に着て欲しいと思いながら縫っていた。これ以上は詳しく話せないが、決して変な出所の物ではない。使ってもらえると嬉しい」
真剣な斎藤の様子に、千鶴は手の中の白い布に目を落とした。そしてにっこりとほほ笑んで斎藤を見上げる。
「はい。そんなものをいただけてとっても嬉しいです」
千鶴がそう言った途端、笑顔の彼女の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
平助がぎょっとしたように仰け反る。斎藤も驚いて目を見開いた。
「千鶴…!」
「どうしたのだ?何か気にさわったのだろうか?」
千鶴は不思議そうに自分の頬を伝う涙を、指ですくった。
「いえ、何も……。あれ、どうして……」
不思議そうだった千鶴の顔は、くしゃりとゆがむ。
「す、すいません……。なんだかすごく……」
すごく……
嬉しくて
哀しくて
切なくて
愛おしい
「大切な……欠片が戻ってきたような気がして……」
産着に顔をうずめて本格的に泣き出した千鶴に、平助と斎藤は顔を見合わせる。記憶をなくす前の出来事と関係あるのか?というような平助の表情に、斎藤は頷いた。
「……大切な欠片だ。これで揃った」
静かにそう言った斎藤の顔を、千鶴は涙にぬれた瞳で見上げた。
「揃った……」
「そうだ。大切なものだ」
平助が何かを察して、そっと炊事場を出ていく。
斎藤は千鶴の両肩に手を置いて、彼女の顔を覗き込んだ。
「俺は……お前に取って見れば得体のしれない流れ者かもしれん。しかし、ここに住んで傍に居たいと思っている」
突然の斎藤の言葉に、千鶴の瞳が大きく見開かれた。斎藤は続ける。
「お前の傍に……お前と赤ん坊の傍に。……居てもいいだろうか?」
先程胸から溢れた感情に浸ったまま、千鶴は斎藤の言葉に茫然と頷いた。
胸の奥から小さな声がつぶやいているのが聞こえる。
傍に居て欲しい
傍に居たい
あなたの……
千鶴がうなずいたのを見て、斎藤の深い蒼色の瞳はふっと和らいだ。
「ありがとう」
律儀に礼を言うと、斎藤は彼女の肩から手を離した。
抱きしめたくて一瞬手が彷徨う。が、結局その手は降ろされた。
優しい瞳で千鶴を見て、斎藤は踵を返す。彼が炊事場を出かかったとき、後ろから千鶴が呼び止めた。
「あ、あの……どれくらいでしょうか?」
質問の意図が分からず斎藤が無言で振り向いたまま彼女を見ていると、千鶴は頬を染めながら言いなおした。
「どのくらい、傍に居てくださるんですか?」
「ずっとだ」
即答した斎藤に、千鶴がぼんやりと繰り返す。
「ずっと……」
「そうだ。命が尽きるまで」
そう言って出ていく斎藤の背中を、千鶴は産着を抱きしめながらじっと見つめていたのだった。