【斎藤課長の新婚生活 1】







「せ、生理始まりました……」


そう言われた斎藤は、飲んでいた缶ビールを持ったまましばらく千鶴の顔を見つめた。
どういう意味だ。
いや、意味はわかる。生理……が始まったと言うのだから始まったのだろう。女性が月に一度あるという、その、出血だ。
だが、なぜそれを俺に言うのか?
妹や母がいるから生理自体については一緒に住んでいて何となく感じたことがあったものの、このようにわざわざ申告してくることなどなかったのだが。
数少ない過去の付き合った女性や女友達にも、このような、申告のような言い方をされたことは無い。
そこまで考えて斎藤はハッとした。
も、もしや、夫婦というのはそれを伝えるものなのだろうか?両親はどうだったかと考えてみたが、母親が父親に申告している場面に出くわした記憶はない。だが、もしそうなら、今千鶴が俺に言ってきた理由もわかる。何故なら二人は二週間前に籍を入れ、夫婦になった。そして今日。彼女は引っ越してきて住所も同じとなったのだ。
と、いうことは、俺も……俺も何か申告する必要があるのだろうか。女性の生理に匹敵する男の何かといえば……
斎藤がそこまで考えた時、次の千鶴の言葉で悩みは霧散した。

「赤ちゃん、いませんでした……」

赤ちゃん……
斎藤の頭の中ではしばらく、生理と赤ちゃんが結びつかなかった。というか頭が全く働いておらず、何も考えていない空白時間が過ぎる。
そして唐突に、ポンと理解した。
同時に耳が火が出るかと思うほど熱くなるのを感じる。
そ、そうか……
そうだな、赤ん坊ができたかもしれないというのが結婚をした最大の理由だったのだから、それを俺に伝えるために『生理』が来たと……それはそうだ。なにも妻になったからとわざわざ夫に生理の申告などするはずもない。俺も妙なことを申告せずにおいてよかった……ん?
そこまで考えて斎藤は、どこか緊張した顔の千鶴を見た。心なしか青ざめているような……
そして彼女が視線を動かしたのに合わせ、斎藤も部屋をぐるりと見渡す。
目の前のテーブルには宅配ピザと缶ビール、オレンジジュース。
リビングには引っ越ししてきた千鶴の荷物、段ボールが山積みになっている。そして同じく段ボールが二つ置かれているキッチン、入りきらなかった家具類が置いてある廊下。

斎藤がもう一度千鶴を見ると、千鶴もちょうど斎藤を見返したところだった。青ざめた顔から、考えてていることがはっきりとわかる。

これはいったいどうすれば……

斎藤もまったく同じ思いなのだから。
「……」
何か言わなくてはと口を開けたが、何を言えばいいのか考えがまとまらず斎藤はまた口を閉じた。

赤ちゃんができているかもしれない。
だから、もし妊娠したようなら父親になって彼女の夫にもなりたいというのが一番の理由だった。
ただ斎藤の海外転勤が決まり、妊娠した千鶴を一人にしておくわけにはいかないと、プロポーズをし答えをせかしたのだ。妊娠していなかったとしても千鶴を……前々から女性として意識し好意を密かに持っていた女性を妻にしたいと思ったゆえに。
……言葉は悪いが、正直口説いてフラれることのない安全な手段で彼女を手に入れることができたともいえる。
いや、斎藤の心の裏の片隅には、そんな思いが確かにあった。一夜の過ちの責任を男として取りたいというのは本音だ。心の底からの。
だが相手が千鶴だからここまで必死に熱心に行動したといえなくもない。いやそもそも千鶴だからこそあのような間違いを起こしてしまったともいえる。
だが、海外転勤もなくなり、妊娠もしていなかったことがわかった今となっては、結婚を継続する意味はないのだ。
―—千鶴にとっては。

雪村は、そう思っているのだろうか……

年もまだ若く魅力的な彼女のことだ。
気になる男性がいたり、今後こんなどさくさまぎれではないきちんとした恋愛を経た結婚の機会は、当然あっただろう。

斎藤は目をそらした。
聞きたくはないが、聞かなくてはフェアではない。
「……雪村は……」
斎藤がそう言うと、千鶴は大きな目をさらに見開いて斎藤を見た。
こんな風に……親密になれたのもあの過ちのおかげだ。あれがなければ今も顔見知りの同僚のままだった。
またそれに戻るのか。
斎藤の全身でそれは嫌だと叫んでいたが、押し殺して口を開く。

「雪村は、どうしたいのだろうか」

「……え?」
「その、我々の結婚についてだ。ロンドン行も妊娠もなくなった今となっては、結婚をしている理由はなくなったともいえる」
そこまで言って、斎藤はまず自分の気持ちを言わないのは卑怯だと気づいた。
「俺は……」
言いかけて、今度は自分の気持ちを言うことで千鶴が本音を言いにくくなってしまうのではないかとも気づく。斎藤が結婚を続けたいと言えば、千鶴の性格上『私は嫌です。離婚できてせいせいします』とはっきり返事がしにくいだろう。
斎藤は、千鶴が言いにくくならないように気を付けつつ自分は結婚を続けたい言う、という難易度の高い言い方をしなくてはならないのだ。

こ、これは難問だ……

ただでさえ口下手で言葉が足りなく、過去、いろいろなトラブルがあった。総司や平助からも、『斎藤は女心がわからない』とお墨付きをもらっている。そんな自分がどういえばいいのか。
斎藤は時間を稼ぐために、座っていたダイニングテーブルの椅子から立ち上がった。食べ終わったピザの箱を折ってキッチンのゴミ箱へ捨て、オレンジジュースと缶ビールも片づける。その間に斎藤は必死に考えていた。

ここで俺が、雪村のことを好ましく思っている、だから結婚を継続させたいと言ったら……
多分優しい彼女は、無下に断ることはしないだろう。職場の上司であり何年も一緒に仕事をしてきた仲間でもある。恋愛感情のなかった結婚だったとしても、人として好意はもってくれているはずだ。断った後の職場の人間関係や斎藤の気持ちを思いやって、彼女は頷かざるを得なくなる。そしてそれは斎藤にとっても本意ではないのだ。嫌がる彼女を無理やりでも縛り付けたいわけではない。彼女に自分を受け入れてほしい。そしてもっとぜいたくを言っていいのなら、好きになってほしいのだ。彼女の本心から。
と、なると、ここで斎藤の気持ちを言うのはあまりいい手ではない。
斎藤はしばらく考えると、相変わらず廊下へとつながる入口の近くで立ち尽くしている千鶴を見て口を開いた。

「こうなってしまった今は、あんなアクシデントで、その後転勤や妊娠……の疑いやいろいろあって、雪村をせかすように籍をいれてしまったことについて申し訳なく思っている。すまなかった。……しかし時間は戻せん。今はもう法律的にも結婚しているし、物理的にも引っ越しまでしてもらった。結婚式はしていないが親や親せきにも結婚を伝え挨拶もした」
ロンドン行がなくなって引っ越し日の今日までの二週間のうちに、二人はお互いの実家を訪れ挨拶をしたのだ。
「だから、その……しばらく様子を見てみるのはどうだろうか」
「様子……ですか?」
不安げな千鶴の表情に、斎藤は頷いた。そして千鶴の方へと近づく。
「そうだ。会社の皆には、普通につきあって結婚したと思われている。急にまた別々に住んだり離婚をすれば噂の的になることは必須だろう。俺の実家も心配するし、雪村の……」
斎藤の頭に、怒って会社に乗り込んできた薫の顔が浮かぶ。
「雪村のお兄さんも、黙っていない」
薫の話が出て千鶴もはっとしたようだった。幾分青ざめた顔で頷く。
「ほんと……です。薫がそんなことを知ったら……」
「そうだ。それゆえしばらくこのまま……一緒に暮らして様子をみてみるのはどうだろうか。親戚や会社の様子や……その、俺たち自身の様子も」
「……」
「今は周りも俺たちの結婚が目新しくていろいろとうるさいだろうが、しばらくすれば慣れてしまって日常になるだろう。そのころにもう一度、どうするか考えてみてはどうだろうか」
緊張して答えを待っていたのだが、意外とあっさりと千鶴は頷いた。晴れやかな笑顔だ。
「はい。私もそれがいいと思います。その……私、結婚をお受けしたのは妊娠したかもとか海外転勤だからとかだけじゃないんです」
斎藤は驚いた。では何か他に理由があったのか?その二つだけで女性が結婚を決めるのに十分な理由になるのかと思っていたが。
「最初は、斎藤さんと結婚しなくて斎藤さんが日本にいなくても、もし赤ちゃんができていたら一人で産もうって思ってました」

笑顔でさらりと言った千鶴の言葉に、斎藤は驚愕した。
「な、なにゆえ……」
千鶴の子、お、俺の子だ。なのになぜおれだけ仲間に入れてもらえないのか。俺はそんなに嫌われていたのか?
「あ、違うんです。斎藤さんが嫌とかそんなんじゃなくて……えっと……」
千鶴はそこでなぜか赤くなった。
「その……斎藤さんが、素敵なので」
「……」
話しが飛んだように感じて、斎藤は瞬きをした。
今一瞬とてもうれしいことを言われて胸が躍ったが、しかし前後の文脈から本意がよくわからない。千鶴は真っ赤な顔のまま慌てたようにつづける。
「その、だって斎藤さん、こんなちゃんとした会社で働いてて仕事もできるし、今回だって重要な仕事を任されてて、それに会社の場所も都会だし、そんな場所の近くにこんなおしゃれで素敵なマンションを持ってらっしゃるし、女の子のあこがれだと思うんです。その上、私の仕事を続けられるかも気にしてくれて、その本当に理想の旦那様っていうか……逆に私なんかでいいのかなって」

「なるほど」

斎藤は理解した。
要は、俺は条件が整っていたということだな。確かに女性が……千鶴が望む結婚相手の条件に、俺はあてはまっている。
「そうか。おまえの条件に俺の環境があっていて、俺は幸運だったのだな」
よかった……と斎藤は胸をなでおろした。そういえばプロポーズを受けてくれた時も、社長と副社長が千鶴も一緒に転勤して仕事を続けるよう言ったからだった。なるほど、千鶴は仕事をつづけたいのだな。
それは特に問題は無い。千鶴が生きたいように生きてほしい。斎藤でできることなら全力でサポートもするし応援もするつもりだ。

千鶴は妙な顔をして首をかしげていたが、斎藤は気にせずにいった。
「では、このまま結婚を続けるということでいいだろうか?」
「えーと……、はい。もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」
ペコリと千鶴が挨拶する。
「いや、こちらこそよろしく頼む」
斎藤も生真面目に挨拶を返す。

こうして二人の新婚生活が始まった。






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