【Dr.斎藤 26】





斎藤に肩を抱かれてラブホテルに入る時、千鶴は恥しくて顔をあげられなかった。
まさか自分がこんなところに入るなんて。しかも全身びしょ濡れで。
ドキドキするというよりはなんだかすべてが恥ずかしい。
みっともなく無様に転んでびしょ濡れになったのも子供みたいだし、こういうところに入り慣れていなくてぎこちなくなっている所も子供っぽくて嫌だ。
こういうところにこんな状況で入ることになって斎藤はどう思っているだろうと考えると、千鶴は身がすくむような思いだ。
恋人同士の甘い会話もなくそういうことを目的にしているわけでもなく、単に濡れた服を乾かすだけにラブホテルに入るなど斎藤にとっても初めてだろう。と、いうより……

斎藤先生、こういうところに来たことがあるのかな……

ボックスに入っている鍵をとり部屋番号を確認し千鶴をうながす斎藤を、千鶴は見上げた。
いつもあまり表情がかわらないのでわからないが、今もとりたて動揺している様には見えない。
千鶴はぶんぶんと首を振って、考えてもしょうがないことを振り払う。過去にラブホテルに斎藤が来たことがあるからと言ってそれがなんなのだ。その時にはもちろん千鶴とはつきあっていなかったし、知り合ってもいなかった可能性が高い。

斎藤先生を好きになってからわかったけど、私ってかなり嫉妬深いんだな

嫉妬深い女性は嫌われるという。あまりそういうことは気にしないで今目の前のことに集中しようと千鶴は思った。
しかし今の目の前の事は、集中するといたたまれない気持ちになるのだ。
だってどんな顔をしたらいいのかわからない。
斎藤が開けてくれたドアから部屋の中に入り、千鶴はそこで立ち尽くした。
「お布団が真っ黒……」
シーツも黒かった。そしてベッド枠はピンク。
衝撃的な色彩感覚に千鶴が固まっていると、斎藤はさくさくと部屋の中に入りエアコンのリモコンをとりあげた。
「個別空調でありがたいな。服はエアコンで乾かそう、風呂にはいって温まるといい」
そう言っててきぱきとバスルームらしきところに斎藤は入って行く。電気がつき、斎藤がキュッと水道をひねるのが見えた。
何故見えたかと言うとそのパスルームは全面透明ガラスばりだったからだ。
もちろん湯船もばっちり見える。水の温度を確認して体を起こした斎藤と、バスルームの外にいる千鶴は、ばっちり目があった。その時の千鶴の顔があまりにも恐怖におののいていたのだろう、斎藤はプッと吹き出す。
そしてバスルームからでて千鶴の頭をポンとたたいた。
「大丈夫だ。俺は部屋から出ていよう」
「そっそんな…!斎藤さんだって濡れているのに、外になんかいたら風邪をひいちゃいます」
部屋の中で後ろを向いていてもらおうか、それとも目隠し?千鶴が思い悩んでいると、斎藤は楽しそうに微笑む。
「部屋はまだ空いていたからな。受付に行ってもう一部屋借りてこよう。服が乾いたとしても、もうそのころには終電も終わっているだろうしここに泊まるしかない」
「えっ?」
目を見開いた千鶴に、斎藤は優しく言った。
「隣の部屋がとれるかわからんが、俺は別の部屋で寝よう。何かあれば携帯に連絡してくれ」
「……」
「じゃあ、おやすみ」
そう言って出て行こうとドアのノブに手をかけた斎藤のコートの袖を千鶴は思わずつかんでしまった。
「……」
何か言いたいのだが言葉が出ない。物言いたげな瞳で斎藤を見たまま千鶴は必死に言葉を探した。
「……どうした?何か買ってきてほしいものでも?」
千鶴は首を横に振る。
自分でも自分の気持ちがわからない。結局何をどうしたいのか。せっかくのデートがこんなしめくくりになってしまって残念なことや、明日の京都旅行は同室なことや、あっさりと出て行ってしまいそうな斎藤が少し寂しいことや……いろんな思いが渦巻いているが、結局要は。
「…一緒にいたいです」
もう少し、とか、今夜だけ、とかではなくて。
ずっと一緒に居たい。傍に居たい。いて欲しい。
斎藤と初めての経験を今したいのかどうかについてはよくわからないけれど。でもこのまま別の部屋で別々に寝るのは嫌なのだ。
何故嫌なのかはわからないけれど、でも斎藤に抱きしめられて触れながら眠りたいと思う。
千鶴の言葉に、さすがの斎藤も動揺したように黙り込んだ。

しばしの沈黙の後。
「……しかし、こんな場所でこんな状況でというのは……」
斎藤がテレビで学習した『女子の理想の初めてのシチュエーション』とは違う。
違いすぎる。
斎藤としては、明日の京都での人気の和風旅館で、夕飯も食べ温泉にもゆっくり入り体を洗い、なんの憂いもない状態で……と考えていたのだ。
今は体は公園の水で薄汚れ冷えきって、明日の旅行の用意やら、こんなどぎつい室内装飾やら、ほぼ真逆といってもいいシチュエーションなのではないか。
そりゃあ斎藤といえどもオトコなので、ラブホテルに入る時に、まっっったく何の期待もなかったかと言えばウソになる。少しはあった。しかし白い顔をして震えている千鶴を見ると、そんな気も失せた。もともと面倒を見るのが好きな性質ではあるので、とにかく暖かかく快適な状況にしてあげたくなる。
しかしそんな気持ちも、こうやって薄暗い部屋で千鶴に腕を掴まれて上目使いで『一緒にいたい』等と言われるとあっさりと消えてなくなりそうだった。
一緒にいたいのはもちろん斎藤もだ。千鶴のこの表情や瞳の色から、『一緒にいたい』の意味がテレビでものんびりベッドに寝転がりなら見ると言う内容のものではないとわかっていると感じられる。だが明日、完璧に考えあげられたシチュエーションでの一夜があるというのに……

しかし斎藤が迷ったのは一瞬だった。
斎藤の言葉でも揺るがない千鶴の瞳を見て、斎藤も腹が決まるというか最後の枷が外れるのを感じる。
斎藤の指が、ゆっくりと千鶴の顎のラインを撫でる。見上げてくる千鶴の瞳を見つめながら、斎藤はその手を彼女の髪に潜り込ませ、少し強引に引き寄せた。
千鶴はほとんど抗うことも無く、されるがままに首を上に向けてかしげる。
そして斎藤はその桜色の唇に自分の唇を重ねた。



黒いシーツの上の千鶴は、対比のせいか肌が抜けるように白く見えた。背景が黒なので浮き上がって見える。
斎藤ははやる気持ちを抑えて彼女に優しくキスをしながらウエストの辺りから自分の手を滑り込ませた。
ビクンと背筋をそらせながらも、千鶴は必死に斎藤の首に手を回し縋り付いてくる。
その様子が可愛くて愛おしくて、斎藤は気持ちが暴走するのが止められらなくなった。
前が小さなボタンになっているニットを、震える指で脱がしていく。
「…千鶴、手を抜いて……」
我ながら声が上ずっているな、と斎藤は頭の隅の冷静な部分でそう思った。千鶴が素直にニットの袖から手を抜くと、丸く輝くように白い肩が現れた。
斎藤は夢中になってそこに口づけをする。千鶴が小さく何かをつぶやいて斎藤の髪に細い指を差し込む。その感触に、斎藤はさらに下腹が熱くなるのを感じた。早くすべてを脱ぎ捨てて千鶴に深く入りたい。何度も何度も彼女を味わって、彼女の涙にキスをしたい。そして彼女の口から洩れる甘い喘ぎ声を自分の口で受け止めて……
ブラのホックをとろうと斎藤が背中に手を回したとき、ベッドサイドテーブルの上にあるそなえつけの電話が鳴った。

プルルルルルルルル
というそのどこか甲高い音は、夢中になっていた二人を一瞬で我に返らせるのには充分で。
「……」
二人は目を見合わせしばし沈黙した後、斎藤が受話器をとる。
「……はい……。はい、は……ああ…了解しました。すいませんでした」
斎藤はそう言うと電話を切り、千鶴の上から降りてバスルームへと急ぐ。斎藤はまだ黒のタートルにジーンズのままだ。
何事かと千鶴が思っていると、湯気にくもって中が見えなくなっているバスルームから、キュという音と共に水音がやんだ。
「あ……」
そういえば斎藤がお湯を入れておいてくれたのではなかったか。二人とも夢中になって忘れてしまっていたが……
シーツで胸のあたりを隠して千鶴はベッドに起き上った。そこにバスルームから出てきた斎藤と目が合う。
斎藤は照れくさそうな顔で言った。
「風呂の湯がだしっぱなしではないかと受付から言われてな」
「…そ、そうですよね……」
斎藤は再びベッドに上がると千鶴の肩を優しく押してベッドに仰向けにした。そして彼女の両脇に腕をついて見つめる。少し気まずいムードが流れているが斎藤にはそんなことにかまっているよりやりたいことがあるのだ。
しかし千鶴は、先ほどのような積極性がなくなってどうも気もそぞろな様子だ。斎藤が耳に口づけをしようとするとびくりと体を震わす。
「どうした?ああ、もしかしてやはり冷えるのか?風呂に入るか?」
そうは言ったものの斎藤は我慢できそうになかった。しかし冷えているのなら千鶴がかわいそうだ。しかし千鶴のうなじは白くて何故こんなに甘いのだろうか。
最初は千鶴の体の事を心配していた思考もすぐにピンク色に染まっていってしまう斎藤に、千鶴は居心地悪そうに言った。
「あ、あの、私……髪、臭くないですか?あの公園の水、綺麗なわけないですし……。それに私、まだお風呂に入ってなくて汚くて……」
「全く気にならんな。千鶴は気になるのか?」
「いえ、私はきにならないんですけど斎藤さんに臭いって思われたら嫌で……」
斎藤は千鶴の首筋に鼻をうずめた。
「いい匂いだ。ほんとうに」
「でも、でも私……」
「まだ何かあるのか?」
「……私、下着が……」
今日はまさかこんな展開になると思っていなかったので、特に何の注意も払わずに着てきてしまっているのだ。運の悪いことに手持ちの中でもかなり古い下着で生地もくたっとなっている。しかも上下バラバラで……
千鶴が恥ずかしそうにシーツで隠そうとするのを、斎藤は無造作にさえぎった。
「あっ」
言葉と共にブラのホックをはずされ、斎藤の長い指が千鶴の胸を包んだ。
「そんなに恥ずかしいのなら脱いでしまえばいい」
珍しく強引な言葉共に、千鶴の下着は斎藤の手によってすっかり脱がされてしまったのだった。








次の日の朝遅く、千鶴は斎藤と一緒に彼のマンションに来ていた。
斎藤が京都旅行の準備をするのを手伝う。着替えの服一式と貴重品だけで、斎藤の持ち物は普段のカバンと同じ大きさだった。
「そんなに少なくていいんですか?」
「京都は秘境というわけではないだろう。何かあればそこで買えばいい」
なるほど…と、今度は千鶴の荷物を取りに行くために二人は斎藤のマンションの玄関を出た。
靴を履くときに少し痛そうに顔を歪めた千鶴に、斎藤は少し迷った後に聞く。
「…痛むのか?」
かああああっと赤くなった千鶴の顔を見て斎藤も赤くなる。自分にはどうしてやることもでいないが、しかし千鶴が痛むのならそれは斎藤のせいでもあるのだからして、やはり気になると言えば気になるのだ。
「……あの、ちょっと痛いかなってだけで…大丈夫です」
「昨日は、その……すまなかったな。あんな風になるつもりではなくて…」
まるで言い訳をするように赤くなりながらどもりながら言う斎藤に、千鶴はくすっと微笑んで自分から手をつないだ。
「そんなこと言わないでください。昨日ああいう風になったのは全部私のせいなんですから。それに、私は嬉しかったです」
そう言って最強に可愛い笑顔で見上げてくる千鶴を見て、斎藤も微笑む。
「そうだろうか」
「そうです。昨日も今日も……それと明日も。斎藤先生とずっと一緒にいられるだけで私はとっても嬉しくて幸せなんです」
何の計算もない素直な愛情表現に、斎藤の心は温かくなった。
今日はこの後千鶴の家に行き、千鶴の京都行きの荷物を持ったら二人でそのまま駅まで行き、京都旅行へとでかけるのだ。
ラブホテルを出た後解散して、それぞれ準備をして駅で待ち合わせをした方が早いのはわかっていたが、斎藤も千鶴も昨日の今日で離れたくなかった。お互いが傍に居ることがふつうで心地よくて。少しの間でも離れていると落ち着かない。
千鶴と出会い恋に落ちるまでは、自分の中にこんな感情があるなんて斎藤は知らなかった。だが今はその感情がとても愛おしい。
斎藤は千鶴を見て微笑みながら言った。
「京都が楽しみだな」
そう言ったとたん、千鶴がふたたびかああああっと赤くなったので斎藤は慌てた。
「いっいや!そう言う意味ではない。夜が楽しみという訳ではなく二人で旅行するというのが…いや、二人というとアレだが、つまり京都がだな、京都だけではないが千鶴と一緒に京都に行けるのが楽しみだと言う意味で……」
体の関係を持ったとはいえ千鶴はまだ初心なのだ。変なことを言って恥ずかしい思いをさせてしまった、と斎藤は言い訳をした。
特に初体験のあとでそういう話題に敏感になっていることもあるだろう。年上で男の自分が気を使ってやらないと。
以前千から、『若先生は大人でしょう?一緒になって気まずがっててどうするんですか』と言われたことがある。その時は、まさに千の言うとおりで返す言葉もないと、斎藤は深く反省したものだ。
今回だって自分は痛い思いなどせずいい思いしかしていないのだし、きちんと気遣うのは当然のことだろうと斎藤は自分に頷いた。
斎藤が千鶴の顔を覗き込むと、千鶴は頬を染めてはいたものの斎藤と目を合わせて……そして、なんと言えばいいのだろうか……妙に誘うような蠱惑的な瞳で(斎藤にはそう見えた)斎藤を見上げた。

「……私は楽しみです……夜も。斎藤先生ともっと仲良くなりたいです。……斎藤先生のことをもっと知りたい」

「………」
思いもよらない言葉にあんぐりと口を開けたまま固まった斎藤の手を、千鶴はくすっと笑って引っ張った。
「だから、早く行きましょう?」
斎藤は「あ、ああ…」と言いながら引っ張られるまま脚を進める。
少し前を歩く千鶴の艶やかな黒髪が、冬の風に吹かれてふわりとなびく。そしてチラリと見える白い耳とうなじ。
ぼんやりとそれに見とれていた斎藤は、千鶴がこちらを見たのに気が付き、見惚れていた自分を見透かされたかと赤くなって視線を逸らせた。

つい最近まで制服を着ていた高校生で。
『女性』として見ることにかなりの抵抗があった彼女。
仕草も会話も純粋ですれていなくて、かわいくて安心できる。
逆に斎藤の方が気を付けてあげないと、無防備に飛び込んでくるような幼さがあった……と思っていたのだが。

今の誘うような笑顔は――アレではないか?

斎藤はなかなか思い出せないその単語を必死で頭の中をかき回す。
これまで千鶴に対してそういう形容詞を思いついたことがなかったので、それは引き出しの奥深くにしまわれていたのだ。

そうだ、小悪魔のようだ

今目の前を歩いている後姿も、いつの間にやら少女らしさはすっかり抜けていた。
優しい曲線を描く肩にすんなりとしたウエスト。柔らかく盛り上がった胸とのびやかな脚は女性であることを歴然と示している。
指先も顎のラインもチラリと見える唇も。
どこから見ても『女性』だ。
事実通りすがりの他の男性たちも視界の端で千鶴をとらえ、見ているではないか。男は皆、彼女のような女性に蜜に群がる蜂のように集まってくるのだ。
幸いにも彼女が積極的に告白してくれたおかげでつきあうことができた斎藤だが、いつの間にかすっかり立場が逆転してしまっていたことに気づく。
『女性』というのは自分の魅力を充分に知りそれを思うが儘に使うことができるのがふつうだが、千鶴はそこの部分が本来の性質からか『女性』になったばかりだからかかなり無防備なのだ。
オトコに対して強力な武器とエサを持っているにもかかわらずそれを自覚していない『女性』。
恋人の男としてはかなり冷や冷やはらはらする毎日が訪れるのではないだろうか。
そして斎藤自身も千鶴に翻弄される哀れな男になるというわけだ。

……いや、哀れではないな。

斎藤はそう思うと、先を行く千鶴を見つめる。

幸せな男だ。

その思いはふわりと胸に浮かび、心の奥の大事な場所にしっかりと収まった。
斎藤はその思いを胸に、脚を速めて千鶴の隣に並んだのだった。













【終】



Dr.斎藤はこれで終りとなります。
ご愛読ありがとうございました!<(_ _)>




あとがき

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