【シンデレラの指輪 1】











業務用の掃除機のスイッチを止めると、誰もいないオフィスは静寂に包まれた。
千鶴は掃除機を大きなワゴンに立てかけ、今度は各机の横においてあるゴミ箱のゴミを回収するためのゴミ袋を手に取った。手際よくゴミを捨てて行く姿は、既に3年目の余裕を感じさせる。
「ふう……」
一番たいへんなフロアの掃除があらかたおわり、千鶴は小さく溜息をついた。
掃除会社のアルバイトを始めたときは仕事がきつくて半年も続けられないと思ったものだが、がんばってみたら体力もついたし、お給料もいいし、何より夜の時間での仕事なのがとても助かっている。
昼は、教師の資格を取るために大学に社会人枠で通っているために時間がとれないのだ。 通常の大学の単位と教員資格の単位のための授業数が多くて、平日昼間はほぼアルバイトができないし、土日をほぼいっぱいアルバイトを入れてしまうと教採にむけての勉強ができなくなってしまう。だから平日の夜10時から夜中の1時までのこの仕事は、睡眠時間がきついけれども千鶴にとっては都合がいい。
「あとは……一番上の階だけかな」
千鶴はそうつぶやくと、掃除用のワゴンを押してエレベータへと向かった。

テレビで大騒ぎしている有名高層のテナントビルの一群の中に、千鶴が掃除を担当しているこの会社はあった。流行の最先端のビルの広大なフロアの最上位部分を丸ごと4階分を借切りしている。一体ひと月の家賃がいくらになるのか、千鶴には想像もつかなかった。
この10年で急成長したこのIT会社の本社ビルは、千鶴がアルバイトをしている会社の掃除のかいあってどこもかしこもピカピカだ。エレベータの扉も鏡のように反射して、千鶴の掃除会社専用のピンクの冴えない作業着姿を映し出した。
最初はこのパッとしない服を着るのはかなりの抵抗があった。千鶴はまだ20代なのだ。お金や時間はないけれどもちろんおしゃれには関心がある。誰とも会わないこの仕事だとしても、やはり好きな恰好をしたいものだ。
しかし、これも3年もしたら慣れた。
気に入らない作業着でも確かに掃除はしやすいし、大きなポケットは便利だし、汚れても少しも胸がいたまない。できればこの格好は誰にも見られたくないけれど。
上の階につくと、千鶴はまず廊下の突き当たりにある大きな扉――社長室の扉を開けた。
このフロアで掃除をしなくてはいけないのは、この社長室と幹部用の部屋だけだ。
セキュリティに厳しいこの会社は、社員によって入れる部屋がきまっており、指紋、静脈、声紋と様々な認証方法で厳しく制限されている。この会社自体もこの技術でここまで急成長したらしいから、社の商品を試す場でもあるのだろう。
しかし掃除をする千鶴はフリーパスだ。掃除会社からここに派遣されている掃除担当者は、千鶴の他にたくさんいるが、夜は千鶴とあともう一人の中年の女性だけだった。千鶴が上部分2階を、彼女が下2階を担当し、仕事の最初と最後は軽く挨拶と打ち合わせをするが、仕事中は一人だ。
社長室は、たいてい綺麗に使われており掃除もほとんど必要ないためいつも先にする。

社長室の掃除を手際よく終えると次は続き部屋になっている幹部部屋だ。
かなり広いフロアで、壁一面が大きなガラス張りの窓になっており手前に広くゆったりした机が四つあるから、幹部はきっと4人いるのだろう。きっちり整理されている机もあれば、乱雑に書類が乗ったままのものもある。
広い部屋の手前半分の部屋の電気だけつけて千鶴は掃除を始めた。
まず、木製でつやつやとした深い茶色の幹部用の机のまわりをざっと掃除をする。特に目立つ汚れもゴミもないからほんとうにざっと。
そして足元にあるゴミ箱の中身ををワゴンのゴミ袋へあける。
紙屑のゴミに交じって、キラキラした何かがゴミ袋に入ったのを目の端でとらえて、千鶴はゴミ箱を足元に置き、ゴミ袋を覗き込んだ。
「……これ……」
それは金箔がふんだんに使われた高級感のある厚い紙だった。
「……手紙?あ、何か書いてある……招待状…?」
緑の若葉が装飾的に描かれたその紙は二つ折りの手紙サイズで、ピカピカと光っている。捨てるにはあまりにもキレイで、千鶴はためらったが、ゴミ箱にあったのだから捨ててもいいのだろうと、もう一度それをゴミ袋に入れようとした。その時。

「ん……誰だ?」

誰もいないはずの幹部部屋の、電気の付いていない向こう側から声がして、千鶴は飛び上がった。
びっくりした拍子に、手に持っていた招待状を無意識に作業着のポケットにつっこむ。
どこから声が……と千鶴があたりを見渡すと、部屋の向こう側、まだ電気をつけていなくて真っ暗な所に置いてある豪華なソファセットから声が聞こえてきたようだ。
千鶴は恐々と明かりのついていない方を覗き込んだ。
広い会議用の机の、さらにその向こうに、ゴージャスな革の応接セット。
「あの……すいませんでした。そ、掃除の者です。誰もいらっしゃらないかと思って……」

「ああ…すまない。眠り込んでいたようだ」
黒い革のソファの上で、一人の男がむくりとおきあがった。朝はきっとぴっちりアイロンがかけてあったと思われる白にブルーのストライプのYシャツに、少し緩んだブルーのネクタイ。社長室からの灯りがまぶしいのだろう、顔に手をあて目をこすっている。お腹の上とソファの向かいのローテーブルにはキングファイルと資料の山になっていた。
どうやら仕事をしていて眠り込んでしまったらしい。この部屋にいるということは幹部の誰かなのだろうか。
この幹部用の部屋と隣の社長室は、千鶴が掃除をする時間帯にもたまに誰かが残って仕事をしているときがあった。しかしたいていそういう時は、掃除会社経由で「今夜は最上階の掃除はしなくていい」との事前連絡が入るので、こういうふうにはちあわせをしたことはなかった。
千鶴はどうしようかと迷う。
「あ、あの……掃除、どうしましょうか?」
「……」
寝起きが悪いのか、その人はぼんやりしているようだ。千鶴のいる場所からはその人の居る場所が薄暗いせいで表情までは見られないが。
「…あの…?」
返事がないので千鶴がもう一度言うと、その人は身じろぎをし、同時に膝の上にあった資料がバサバサッと音を立てて落ちた。その人が慌ててそれを止めようと伸ばした手は、今度はローテーブルの上に積んであったキングファイルの山にあたり、バタンバタンと盛大な音を立てながらキングファイルが雪崩を起こす。
千鶴は慌てて彼の傍に行き、床に散乱した書類を片付けようとしゃがむ。
「す、すまないな。ちょっと寝ぼけていたようだ」
動揺したように同じくしゃがみこんだ彼に、千鶴は「気にしないでください」と言おうと彼の顔を見て。
千鶴は一瞬目を見開いた。

隣の社長室の灯りに半分だけ照らされている彼の顔は、そのせいで余計陰影がはっきりとし彫りが深く見えた。
片目が見えないのではと思うほどの長めの黒髪が、すっきりとした額をさらりと覆っている。頬から顎へのラインはすっきりとしており、唇は薄い。そして瞳は切れ長で、冷たいと思えるくらい整っていた。
この顔に見つめられたら、きっと自分ならどぎまぎしてしまうだろう。違う世界の作り物のような……
彫刻のような整った顔立ちに、甘さや優しさを感じない冷たい瞳。しかし今は、彼は自分がしでかしてしまった失敗に動揺しているのか、寝坊のせいか、その両方かもしれないが、うっすらと頬を染めて焦ったような表情をしていた。
普段は隙などまったくないのだろうと思わせる人の、そんな表情が千鶴を少しだけ安心させてくれる。
それに……こんな大きな会社の幹部なのだから、偉い人なのに違いないのだが、……かわいい、と思ってしまう。

いくつくらいなのかな

千鶴は床に散らばった資料を片付けながら、同じく床に膝をついてキングファイルをローテーブルの上に再びつみあげている男性をちらりと盗み見た。勝手に頬が熱くなるのを感じる。
Yシャツの下の体はすっきりとしていて贅肉ひとつついていない。腰は細く、全体的に華奢だが、それは男性としてはの話であり、千鶴と比べると大柄だし肩幅も広い。重そうなキングファイルを軽々と片手で持ち上げるたびに腕の筋肉が盛り上がるのがYシャツからもわかる。
男性を品定めしているような自分に気づき、千鶴はパッと目をそらしてさらに赤くなった。まじまじと見つめてしまった事を彼にばれてしまったのではと焦ったが、千鶴は電気の付いている方を背にしているため逆光になっていた。そのせいで千鶴からは彼の端正な顔が見られたのだが、多分彼からは千鶴の顔は見えないだろう。
初めて会った男性の顔を、失礼なほど見つめるなんて。両親が亡くなってからずっと生活に追われて、そんな浮ついたことは考えたことも無かったのに。

……でも、素敵な人だな

普段のアルバイトと大学の往復では、出会う事すらない人だ。社会に出たらこういう人達とたくさん出会えるのだろうか?
しかし千鶴が目指している教師にはいないかもしれない……
「ありがとう。助かった」
彷徨い出る千鶴の思考は、冷静な声で破られた。ふとみると床に散乱した書類はすべて片付き、ローテーブルの上に積み重なっていた。そして例の彼が、床に片膝をついた姿勢で、千鶴を見つめている。
「いえ…!あの、すいませんでした。お邪魔をしてしまって」
「いや、かまわない。帰ろうと思っていたのだがつい眠ってしまったようだ。今は……」
彼はそう言うと振り向いて壁にかかっている時計を見る。むきだしの顎から首にかけてのラインが男性らしく、千鶴はドキッとした。
「もう12時半か……終電は終わっているな。帰りはどうするのだ?」
「え?私ですか?」
まさかそんなことを聞かれるとは思っていなくて、千鶴は目を瞬いた。
「大丈夫です。このバイトはもう長いですしいつも通りに……」
自転車で帰るのだ。自転車で1時間。かなり大変だが、2時半には眠れる。そしていつもなら8時半に起きて、9時半からの講義に出るのだが、幸い明日は土曜日だ。久しぶりに朝寝坊ができる。
斎藤は「そうか」と頷くと立ち上がった。すらりとしたその姿を、千鶴は見上げる。
「今日はもう掃除はいい。ありがとう。気を付けて帰ってくれ」
おずおずと立ち上がった千鶴に、彼は「お疲れ様」というと軽く微笑んだ。




一緒に仕事をしている中年の女性に挨拶をして、千鶴はおんぼろの自転車で深夜の街へとこぎだした。

……優しい笑顔だったな

特に何を話したという訳ではないが、彼の笑顔を思い出して千鶴はほんのりと微笑んだ。名前も何も知らないけれど、あの人が働いているオフィスなら、これからはりきって掃除してしまいそうだ。どの机の人なのだろうか。幹部部屋にある4つの幹部の机のうち、二つはいつも汚い。一つはお菓子のおまけや何やら小さな人形やらが所狭しと飾ってある。そこの机の足元のゴミ箱にはいつもお菓子の包装が捨てられている。もう一つの汚い机は、綺麗な女性のカレンダーや女性からのプレゼントらしききらきらしたペーパーウェイトなどがおいてあり、机を見ただけでも色っぽい雰囲気が漂っている。千鶴は思い出して顔をしかめた。
どちらも、さっきのあの素敵な人の机のイメージではない。

赤信号で自転車を止め、後ろを振り向きそびえたつ彼のビルを見上げる。一番上のフロア……先ほどまで千鶴がいたフロアは、今は電気が消えて暗くなっていた。
彼も帰ったようだ。
あんなところで働いている人だ。住んでいる家も立派なのだろう。
千鶴は再び前を向いた。素敵な人だったが、取り壊し寸前のおんぼろアパートに住んでる自分とは関係がない。どうせ彼は、眠りを妨げた掃除婦のことなど明日には忘れているに違いない。千鶴の顔も影になっていて見えなかっただろうし。
千鶴は肩をすくめると、青信号を見て自転車のペダルを踏んだのだった。





NEXT





戻る