【掌中の珠14】
春の訪れを感じるが、まだ少し肌寒い。
厨房の裏の狭い空き地にある唯一の陽だまりの中で、花は例の兄弟はほぼ毎日会って授業をしていた。
先生は来る時もあれば来ないときもある。来たときは楽しそうに花の授業を受けて、読み書きの時は先生が教えてくれることもあった。今日は先生も一緒だ。
少年たちと楽しそうに話している笑顔を見て、花も嬉しくなった。
少年たちは毎日城に食材をとどけにくるのでそのついでに。少年たちと毎日会っているうちに共通の話題も増え、花にとっては学校に通っているときのような楽しさだ。
弟が風邪を引いたことや、お兄ちゃんが走るのが早いこと、二人のお父さんは新野の戦いの時の怪我がもとで死んだこと。
暗い顔をする花に、兄の方は大人びた顔で言った。
「しょうがないんだ。この地を誰かが治めてくれないと好き勝手悪さばっかするやつらがなだれ込んできて、商売どころか生活もできないんだ。変な奴らが入ってくるよりは今の曹孟徳が支配してれてる方が安心だよ」
「でも、孟徳さ…丞相は、自分から攻めて行ったんだよ?戦をせずに自分の領地だけ安全におさめていればいいのに……」
花は新野の撤退戦のことを思い出しながら、少しだけ非難がましくそう言った。
そうだ、みんな玄徳さんと平和に暮らしていたのに、孟徳さんが攻めてきたんだ。そのせいで家財道具一切をもって逃げなくちゃいけなかった。
それに火をつけ、燃え上がる様子を遠巻きに眺めていた孟徳を、花は今でも覚えている。
舞い上がる火の粉にマントと髪が吹き上げられて、炎に照らされた横顔に何の表情も写っていなかったのが怖かったっけ。
しかし兄は首を横に振った。
「劉備玄徳は守ってただけだから、攻め込まれたんだ」
花は顔をあげて、少年を見た。
同じ話は玄徳軍の中でも聞いた。皆、足場を固めるために荊州の地を譲り受けるべきだと。孟徳さんもそう言ってたっけ。玄徳さんのあの人の好さが戦を招いたって。
でも人の土地に攻め入るのは、攻め入るほうが悪いんじゃないの……?
『君は優しいんだね。でもそれでは誰も救えない』
以前孟徳に言われた言葉が浮かんだ。それと同じことを、この幼い兄弟はもう知っている。
……私はどうしたいんだろう。
花は目の前で無邪気に読み書きを教え合っている兄弟を見た。
こんな年の子が自分達で生きて行かないといけないような世界は嫌だ。
それにこんな子たちを残して先に死なないと行けなかったご両親だって辛かったと思う。
でも、この世界では、私の考え方だと誰も幸せにならないのかな……
それでも、この子や孟徳さんみたいに、弱っている人に力でつけこむことがいいことだとは思えない。それで自分のところの領民が救えるんだとしても、他の土地の人たちを傷つけて物を奪うことが正しいことだとは思えないよ。
でも、この子たちは今孟徳さんの支配下の土地で、どこからも攻め込まれることもなく暮らせてる。
孟徳さんに変わってほしいなんて思っては無いけど……
『そんな考えで丞相のおそばにいるのは、お辛くはないのでしょうか』
以前、先生から言われたことを思い出した。
孟徳の目指すところには共感できる。できるだけ手助けをしたいと思う。
でもそこに到達するためには、この世界では自分の手で人をたくさん殺したり土地を奪ったりする必要があるのだ。今は戦がなくて三つの国の力が均衡を保っているけど、いつまでもこんな状態が続くとは、孟徳も、目の前の子どもたちも思っていないのだろう。
その時より多くの人を救うのは、より大きな力を持った人。数多くの犠牲の上にある力を……
花の、答えの出ない物思いは少年の声に破られた。
「花、これやるよ」
差し出されたのは小さな布袋に入っていた。
「……なあに? 何かの実?」
先生も覗き込んだが、お嬢様育ちの先生にもわからないらしい。洗い物などしたこともないような白い指で、それを摘み上げている。
「ナツメの実だよ。乾燥させたやつ。今の時期は……まあお城なら手に入らないもんはないだろうけど、結構珍しくて高価なんだ。滋養強壮や疲れに効くって薬にもなってる」
「私、もらっちゃっていいの?」
花がきくと、兄は照れ隠しなのかムスッとした顔でうなずいた。弟の方が説明する。
「いっつも世話になってるからだって。ありがとう、花」
思いがけないプレゼントに、花は頬が自然にほころんだ。
素朴な好意が嬉しい。
たったこれだけのことで、さっきまでの行き場のない悩みも何とかなるんじゃないかと思えちゃうなんて、私って単純だなあ。
「ありがとう!」
花はそういうと、その小さな布袋を大切にしまった。
少年たちと分かれて自分たちの住む棟の方へ歩いている途中、花と先生は徒然におしゃべりをしていた。
「そのナツメはどうやって食べるんでしょう?生のまま食べていいんでしょうか?」
先生の問いに、花も首を傾げた。
まあドライフルーツのようなものだが、薬にもなると言っていたから苦いのかもしれない。でも滋養強壮になるって言ってたから……
「厨房の料理長さんに調理方法を聞いてみます。孟徳さんに何か作ってあげようかな」
先生が驚いたように花の顔を見た。
「まあ!丞相のお食事をあなたがおつくりになっているのですか?そんな召使のようなことをなぜ……」
「いえっ私が頼んでやらせてもらってるんです。周りの人は材料のこととか毒見のこととかで嫌がってるみたいなんですが、私が何か孟徳さんのためにしたくて。孟徳さんも、喜んでくれてるみたいなので、まあいいかなって」
喜んでくれてる……と思うけれど。
花がそう説明すると、先生は「まあ……」と言ったまま黙り込んでしまった。
いつも孟徳とだけ話しているのであまりわからないけれど、やはり花の立場での花の行動は、この世界ではかなり非常識らしい。
孟徳さんは気にしなくていいよって言ってくれてるけど、周りの人たちの文句を孟徳さんが止めてくれてるんだよね……
早くここになじんで孟徳さんに迷惑かけないようにしたいけど、なかなか難しいなあ。
「確かに、高貴な方の食事は何人もの毒見が入ると聞いています。じゃあ、あなたが手ずからつくられた料理は、誰も毒見をしないのですか?」
「まあ、そうです。だけど、作ってる最中に私も何度も味見をするし、できたものは同じものを私も食べるので……」
私が毒見ってことでしょうか。と花は明るく行ったのだが、先生は奇妙な顔をして花を見ていただけだった。
そしてしばらくして。
「そのお話は……有名なのですか?」
「え?そのお話ってなんのことですか?」
「その……あなたが丞相の食事を作られて、毒見役も兼ねているということです」
「有名っていうか、普通に厨房の片隅を借りて作ってるので、みんな知ってると思います」
「そうですか……たいへんなんですね」
眉をひそめた先生に、花はきょとんとした。
「え?いいえ?私が住んでいたところでは別に普通のことなんで……。逆にここでは非常識なことなのに、やらせてくれている孟徳さんに感謝してます」
「……」
しばしの沈黙ののち、先生は立ち止まった。
回廊のすぐ横の庭には丁寧に手入れされた季節の花が咲き乱れ、鳥が鳴き、美しい。
城壁の外の枯れた土地から考えると極楽のような景色だ。
先生は花をまっすぐに見た。
「……私は、丞相のことを……自分勝手な恐ろしい人だとずっと思っていました。でもあなたのことを知って……あなたから丞相のことを聞いて、考えが変わってきたような気がします」
「……」
どこかで聞いたことがある……と考えて、花はあの軍医のお爺さんだと思いだした。
「同じことを、別の人に言われたことがあります」
「そうでしょう。あなたのような女性を唯一の人として、様々な反発を抑えてそばに置いて大事にしているということは、丞相のやり方をよく思っていない者にとっては意外なことだと思うんです。あなたと会って変わられたのか、もともとそういう方だったのか……」
先生は考え込むように言葉を止めると、庭に目をやった。
「あの、先生は、孟徳さんのこと自分勝手な恐ろしい人って、どうしてそう思うようになったんですか?何か孟徳さんにされたんですか?」
先生は花を見て、またしばらく考えるように視線をそらす。
「……私の父親のことはご存知ですか?」
花はうなずいた。
先生がここに来ることになった時、侍女たちが噂話をしているのを花も聞いていた。
「えっと、孟徳さんに反発してるって……」
「そうです。残虐な侵略に苛烈な統治。徳で治めるべきだという考え方の父は、何度も丞相のやり方をいさめる文書を丞相に出しています。それが全然取り上げられないと知ると、今度は同じような考えの仲間を集めて、連名で諫言書を提出し活動をしていました。それが目についたのか、厳しい忠告があり私がここに来ることになったんです。まあ、ていのいい人質のようなものでしょうか」
「人質……」
地方で父親が目に余るようなことをしたら、娘は……先生はここで処罰を受けたり殺されたりするということだ。
なんとなく感じていたことだが、先生自身の口からはっきり聞いて花はぎくりとした。
その話を花にしてくれた時の、孟徳のいつもどおりの無邪気な笑顔を思い出す。
先生は気にする風でもなく続ける。
「父は、丞相は強く頭がよく、弱い人間のことが理解できないのだといつも言っていました。漢王朝の権威を利用して自分の都合のいいように操り、弱い者達を食い物にして自分達の繁栄を貪っていると」
「それは…それは違います。変える途中でそういう風になっちゃう人もいるかもしれないですけど、孟徳さんが最終的に望んでいるのはそんなことじゃないです!」
先生は花の顔を見て困ったようにほほ笑んだ。
「あなたがそう思っていることはわかっています。……私の叔父は、父とは逆に丞相のことを素晴らしい英傑だと言っています。丞相の目指す世界とかそのあたりのことはわかっていないでしょうが、丞相の強さと権力に、丞相側についた方が得だと思っていると思います。そして丞相はそれに応えることができます」
「……」
「私は……父から見た丞相、叔父から見た丞相を知っていたのですが、今あなたから見た丞相も知り、惑うようになりました。丞相のやり方は……正しいものなのかどうか」
先生の視点から見た孟徳を取り巻く状況。
花はそれを聞いて、孟徳が背負っているものの重さをまた実感した。
今の話しだって、孟徳が背負っている物のほんの一部。彼の両肩には自分の領土だけでなく中国全土の今と未来がかかっている。
私に何ができるんだろう。
孟徳さんの、どんな助けができるのかな。
答えが出ない問いを、花はまた思った。
先生がふっと笑った。
「すいません、何か変な話になってしまいましたね。……言いたかったのは、あの、僭越なのは百も承知なんですが、頑張ってくださいということを申し上げたかったのです」
「頑張れ……ですか?」
先生はうなずいた。
「そうです。丞相は素晴らしい才能を持ち、情勢を冷静に分析できる方です。意志も強く失敗もせずに悩まずとも答えを手にできるでしょう。でもあなたは……恐れながら私達と同じように、悩み惑い、失敗をして傷つかれることもある方だと感じています。丞相の傍であなたが傷つかずにいられるように祈っております」
そう言った先生の目はまっすぐに花を見ていてくれていた。
花の心は柔らかく暖かくなる。
丞相の寵姫、孟徳の思い人としてずっと扱われ、花個人を見てくれた人は孟徳の傍にいるようになってからはほんの少しだ。
友達になれるかな。
初めて先生の内面に触れられた気がして、花は思わずぎゅっと先生の両手をにぎる。
「ありがとうございます。嬉しいです。あの、頑張ります」
握手のようにぶんぶんと両手を振られて、先生は面食らったように後ずさったが、すぐに声をだして笑い出した。花もつられて笑う。
二人の笑い声に驚いたのが、鳥が一羽、庭の木から飛び立った。
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