【都督の初夜4】


  

時刻は夕方、これからだんだんと暗くなるという頃。
自邸に戻った公瑾は、迎えに出た召使にとるものもとりあえず「花は?」と聞いた。

「お出かけになりました」

あっさりした召使いの言葉に公瑾の脳裏に、先ほど呉夫人に言われた言葉がこだました。

『玄徳殿のところがあるじゃないですか。とても懐の深い御人だそうですから、あの娘がこの呉で辛い目にあっているとなれば喜んで迎えてくれるでしょう』

「……ど、どこに……どこに……」
青ざめた公瑾の問いに、召使はのんきに首を傾げて「さあ?」と答えた。そして玄関にいた他の召使いに聞いた。
「奥様がどちらに行かれたか聞いてます?」
「さあ……」
公瑾は立ち尽くしたままだ。その表情を見て、召使たちもようやく、この質問の答えがとても重要らしいということを悟ったようだ。
屋敷の中へとつぎつぎに召使たちに聞いていくと、ようやく花の行方を知っているらしい一人にたどりつた。
「そういえば、『ちょっと帰らないといけなくなって…』っておっしゃってました」
「どこに帰るっておっしゃってました?」
「さあ、そこまでは……」
「歩いて行かれたのかしら?」
「馬車も馬もいるからたぶんそうでしょうねえ…」
「おひとりで外出なんて」
「異国の方と伺ってましたが、やっぱり変わってらっしゃるのね」

さわさわと話している声を聴きながら、公瑾の胸の痛みはどんどんと強くなっていった。

帰る……
どこへ帰るというのか。
考えられるのは……

『玄徳殿のところがあるじゃないですか。とても懐の深い御人だそうですから、あの娘がこの呉で辛い目にあっているとなれば喜んで迎えてくれるでしょう』

固まっている公瑾の横で、召使たちが話している。
「お城じゃないでしょうか?だって一昨日まで暮らしていらしたのですし、何が御用があったんじゃ?」
「そうですね、歩いて行ける距離ですし」
「ならもうそろそろお帰りになりますわね」
召使たちの冷静な回答は、もう公瑾の頭には入ってこなかった。

玄徳どののもとに返ったに違いない。
それしか考えられない。
私が……私が自分の欲望のままに突っ走ってしまったから………

公瑾はふらふらとなんとか自室まで戻ると、ガクリと寝台に座り込んだ。
布団からふわりと花の甘いにおいが鼻をくすぐり、公瑾の胸の痛みは後悔とともにさらに強くなった。

どうして私はいつもこのような失敗をしてしまうのか。
大事にしなくてはいけないものを、ちょっとした油断やおごりでこの手で壊してしまう。元に戻らないものだってあるというのに……!
今回などすべて私の責任ではないか。ようやく手に入れた彼女におぼれて我を忘れて欲望のままにがつがつといってしまった。
そうだ、我を忘れたのだ。
あたたかくて柔らかくて滑らかな花の体に、理性が飛んでしまった。彼女に無理をさせているのではとちらっとは思ったがそんな気遣いよりも自分の強い欲望に流されてしまった。ずっと我慢してきたからか自分を止められず、何度も何度も……
彼女の涙もぐったりとした体にも気が付いてはいたが、それにまた煽られてしまった。

昨夜に戻ることができたら。

そうしたら今度は必ず一度だけで済ませる。
いや、昨夜だけではない。これからは必ず一晩一回にする。誓ってもいい。そして中一日……いや最初の一か月は中三日……いやそれは少し長すぎる。私もつらい。中二日にしよう。
そして朝も、風呂に強引に一緒に入るなど勝手なことは決してしない。
風呂の中でもう一度彼女を楽しむのも、あれは最高の経験だったが今後は決して風呂では……!!!

公瑾が薄暗い部屋のなかで神に向かって自分の罪を懺悔し、心を改めると誓っているとき。
玄関あたりがざわざわとざわめきだした。
しばらくして、召使が気遣いながら部屋の外から声をかけてくる。
「あのー……公瑾様?たったいま奥方様がお帰りに……」
バタン!と扉を開け風のように走り去った公瑾に、召使の言葉は最後まで言われることはなかった。


「どこに行っていたのです!」
青ざめて怒りまくっている公瑾が飛び出してきて、花はぱちくりと目を瞬いた。
「え?ちょっと忘れ物ととりに帰って……」
バン!と公瑾が花の横の壁をたたき、花の言葉は途切れた。

「まあ…!壁ドンだわ…」
「え?今はやりの?」
「ええ!」
「生で見たのは初めてだわ〜」

のんきな召使たちの声を聞きながら花は目を見開いたまま公瑾を見上げた。
ほとんど声を荒げることのない、ましてや暴力的なところを花にも他の女性にも見せたことのない公瑾のこの所業。いったいどうしたというのか。
「こ、公瑾さん?あの、これ……」
花はそういうと手に持っていた細長い袋を持ち上げた。「ほら、これ覚えてます?公瑾さんからもらった笛です。お城に忘れてこっちに越してきちゃったんで取りに帰ってただけなんです」
公瑾からもらったものを大事にしているということになり、彼のご機嫌がよくなるかと思ったのだが表情は全く変わらない。どころかさらに彼を怒らせたようで、花の横の壁で握りしめているこぶしにぎりっと力が入っているのが横目で見えた。
「公瑾さん?どうし……」
「……あなたの『帰る』ところはここです」
「え?」
「あなたの帰るところは、ここ、私の家だということを言ったのです」
「ああ…」
花は目を瞬いた。
「そうでした。まだ慣れてなくて……」
「早く慣れてください」
かぶせるように言われて、花は「はい…」とおとなしく返事をするしかなかった。公瑾から発するピリピリオーラに圧倒されて、『何をそんなに怒ってるんですか?』とは聞ける空気ではない。

『帰る』っていう言葉の使い方がだめだったのかな?
言葉遣いに厳しい人なんだな。先生みたい。これからは気を付けないと。

花が見当違いの方向に学習をしていると、公瑾が体を離した。
「こちらに」
「え?はい」
腕をつかまれて連れて行かれたのは、公瑾の書斎だった。花を机の前に立たせたまま、公瑾は棚から大量の竹簡を取り出した。
公瑾や尚香たちに教えてもらって花はある程度簡単な文字の読み書きならできるようになったのだが、まだ子どもレベルで普通に読んだりすることはできない。何かを読めといわれるのかとおそるおそる竹簡を覗き込むと、それにはなにも書かれていなかった。
公瑾はそれをずいっと花の方に差し出す。
「これを差し上げます」
「はい……ありがとうございます……」
これで何をするというんだろう?と花は首を傾げた。

「これから外出するときは、これに出ていく時間、帰ってくる予定時間、行先、会う人間の名前を必ず書くように」

「……」
「そしてそれを私に出してください。見て私が了承した場合のみ、この屋敷からの外出を許可します」
花は先ほどから目を見開きすぎていてドライアイになりそうだったが、そんなことも忘れるくらいさらに目を大きく見開いた。
「え?どうしてですか?どうして公瑾さんの許可がいるんですか?」
「あなたが私の妻だからです」
「妻だと、夫の許可をもらわないと家から出られないんですか?そんなこと聞いたことないです」
公瑾は花の反論を一笑にふした。
「あなたが知らないだけでしょう。そもそも私のような地位の男の妻というのはそうそう気軽に一人で出歩いたりしないものです。今日もあなたは一人で出かけたそうではありませんか。前にも一人で街に飛び出したあなたを探して危ないところから私が助けたのを忘れたのですか!?」
「あれは夜だったから……だから今日は早めにでてすぐに帰ってきたんです。それにお城は目と鼻のさきじゃないですか」
「夜でも昼でも同じです。あなたはもう一人の人生ではないのです。私に恥をかかせない用に家からでないでください!」
「恥って……」
花はショックをうけた。
「恥ってどういうことですか?私が公瑾さんに恥をかかせちゃうってことですか?」
「いつまでも子供っぽさが抜けずに常識知らずのままではそうなるでしょう」
冷たい表情で横を向いてそういう公瑾に、花の中で反抗心がむくむくと湧き上がる。
「……行先はと帰る時間は、できるだけ朝に公瑾さんに伝えるようにします。でも!許可とかもらえなくても関係ないです!」
「関係ないとは?」
ぎろりと横目で花を見た公瑾の視線は、普通の人間なら凍え死ぬくらい冷たいものだったが、花にはきかなかった。
「自分の行動に公瑾さんの許可なんかとりません!だいたいそれが常識なんてほんとですか?」
「私がうそを言うとでも?あなたは家長であり夫である私をなんだと思っているのですか!」
「嘘を言ってるとは言わないですけど、都合よく大げさにいってるんじゃないかなとは思ってます」
公瑾はいらいらとしたため息を大きくつくと、「もういいです」と片手をあげて花を止めた。
「頭を冷やしてください。私は帰ったばかりでまだ着替えもまだなので、風呂と食事をしてきます」
そういって振り返りもせずに公瑾は部屋を出て行ってしまった。
薄暗い公瑾の書斎で、残された花は机の上の竹簡の山を見る。

……絶対におかしい。他の奥さんたちだってみんな外出してたし、街には女の人があふれてるのに!納得できないよ。

だが公瑾は聞く耳を持たないようだ。屋敷の使用人に公瑾の言っていることが正しいのかを聞いても、雇い主がまちがっていると堂々と言うのは難しいだろう。もし正直に『正しくない』と答えたとしてもそのせいで、心の狭いところのある公瑾の不興をかい職を追われたらかわいそうだ。と、いうことは公瑾より立場的に強い人に聞かなくてはいけない。
「よぉし…!」
花はさっそく公瑾からの言いつけを守り、机の上の竹簡に今の時間と、1時間後の時間を書いた。
「それと、行く場所、は、お城っと……。会う人は、大喬さん小喬さん尚香さんたち」
もう夜だし心配かけないように馬車でいけば文句はないだろう。……いや文句だらけだと思うがかまうもんか。

花は屋敷を出た。








つづく