【祈り
1】
最初の頃は、この風斬り音があまりにも頼りなくて、自分の腕の衰えに愕然としたものだけど、最近はそうでもなくなってきた。
ただ、剣のキレは戻ってきたけれど、体力的にはまだ全然だ。
僕は焦りたくなる気持ちを抑えて、淡々と木刀を振り続けた。無理をして、体調を崩して、また千鶴を心配させたくない。
自分を信じて、少しづつ確実に進むしかないんだ。
以前の僕には、考えられないような着実さが、すこしおかしくて僕はくすりと笑った。
また誰かの気配と視線を感じて、僕は振り上げた木刀を降ろして舌打ちをした。
「誰? いいかげん出てきたら?」
僕は袖で、額の汗をぬぐいながら言った。
声がとがってしまう。
ここらには、京にいたころのような命のやりとりをするような輩はいないはずだ。
さっきからずっと僕の後ろの岩の陰にいた人物は、だからそのあたりの農家の誰かが通りかかっただけかと最初は思っていたけれど、どうも違うようだ。でも敵意は感じない。何かはっきり分からないところが余計神経に触る。
「気配は消していたつもりだったんですが……。勘の鋭さは相変わらずですね」
低い静かな声。出てきたのは、あの頃何度も出くわした西の鬼、刀を持たず平助や斎藤君と渡り合ってた奴だった。
「だしか……、天霧…だったっけ?」
思いもしない人物だったので、僕は目を見開いた。
「一人?何の用?」
頭から足の先まで、警戒でぴりぴりと尖っていくのがわかる。こんな感じは久しぶりだ。
天霧は苦笑しながら、言った。
「その、敵意むき出しのところも相変わらずですね。以前は新選組のためだったんでしょうが……。今となってはもう必要ないのではないですか?」
「何の用か聞いてるんだけどな」
僕はうっすらと笑いながら木刀を構えた。
天霧は、両手の手のひらをこちらに見せて敵意の無いことを伝えながら言った。
「事を構えるつもりはありません。人の世の動乱がまだ続いているため、北の鬼たちの様子を見に来ただけです。以前の雪村家のように犠牲になっている鬼はいないか、人と組み西の鬼たちに影響を与える鬼一族はいないか」
「……」
僕は何も言わず、天霧を見つめた。
彼は、澄んだ、落ち着いた瞳をしている。
確かにあの頃の鬼たちは交渉の余地無く敵対していたけど、嘘を言ったりはしなかった。
「千鶴に会いたいの?」
僕は、天霧を見つめる目はそのままで、木刀だけを降ろした。
「その様子では会わせてもらうことは無理なようですね」
天霧は視線を逸らせ、苦笑いをしながら言った。
「何も問題なく暮らしているのかどうかだけ教えていただければ十分です」
彼の真意について、ずっと考えを巡らせていたけれど、どうやら本当に言ったとおり、北の鬼たちの状況を見に来ただけだと感じ、僕は警戒をといて、かすかに微笑みながら言った。
「仲良くやってるよ。何の問題もない」
それを聞いた天霧は、ふっと表情をやわらげた。
「そうですか。よかった。彼女は……つらい思いばかりをしてきたから。個人的に、ですが、幸せになって欲しいと思っていたのです」
状況を聞いて、安心したと言うのに、彼はなかなか立ち去らず、物問いたげな素振りでそこに留まっている。
「まだ何か聞きたいことでもあるの?」
僕が聞くと、彼は何度か口を開こうとして、やめる動作をくりかえした後、言った。
「あなたの体の方はどうなんですか?」
僕はちょっと驚いて目を瞬いた。
素直に話そうか、適当にあしらっておこうか少し迷った後、答える。
「調子は……いいよ。君も知っているとおり、羅刹になっても労該は治っていないけど、以前よりは体も軽いし咳もでない。羅刹の血の方は、ここの水のおかげで随分楽になっている。もう血を求める発作も起きないし。そもそも羅刹化しなくてはいけないようなことは、ここでは起きないからね」
僕が微笑みながら言うと、彼は腕を組んで、目を細め考え込むような素振りをした。
そしてかなり長い沈黙の後、思い切った様に話出した。
「私は……鬼ですので、どうしても鬼のことが気になってしまいます。特に雪村は数少ない女鬼ですし……。失礼な質問であるし、余計なお世話なのは百も承知で伺いたいのですが……、今後あなたは雪村をどうするつもりなのでしょう?」
「何が言いたいのか、わからないな」
僕は、うっすら笑いながら彼を睨みつけた。
彼は僕の殺気を受け止めて、正面に向き直りながら、今度は真っ直ぐに聞いてきた。
「あなたの残りの時間が少ないのは承知しているはずです。あなたがいなくなった後、雪村がこんな田舎村で一人で暮らしていくのは現実的でないのも分かっているはずです。綱道達が羅刹の国を造るために蓄えていた資金があるのは聞いていますが、経済的な面以外にも、今の時代は女一人でこんな所で生きて行けるほど甘くないでしょう。特に雪村のように若く魅力的な女性なら尚更です」
「あんたたち鬼に、彼女を引き渡せと言いたいの?」
僕は、木刀を強く握りなおしながら、微笑んで言った。
彼は、僕の怒りを感じているはずだけど、静かに続ける。
「誤解しないでください。争うつもりはありません。鬼は鬼のところにいるのが幸せだとも思いません。人と鬼との絆というものも確かにあるのだと、雪村とあなた達新選組との関わりの中で学びました。こちらはもちろん、要請があるようでしたら全面的に協力させていただきますが。鬼の側に渡すのが不本意なようでしたら、信頼できる人に後を託すのも一計でしょう」
僕は下を向いて苦笑をした。
「本当に余計なお世話だよね」
彼は、ひるまず続けた。
「斎藤は生きています」
それを聞いた僕は、はじかれたように顔をあげた。
目を細めて、彼の表情を探ったけれど、天霧は相変わらず無表情だ。
「新選組にいる雪村を、ずっと監視してきた中で、斎藤と彼女の関係も把握しているつもりです。あなたには酷な話をしているとは思いますが、斎藤なら……」
僕はそれ以上聞きたくなくて、尖った声で彼の話を遮った。
「斎藤君なら…何? 斎藤君と千鶴の関係なんて何もないよ。部外者のくせに口を出さないでくれるかな」
天霧は沈黙した。
まるで剣で切り裂かれたように、胸が痛む。
本当に血が出ているのではないかと思い、僕は知らず知らず手で胸元をつかんでいた。
それをさとられたくなくて、視線を地面へと移す。
少しの沈黙の後、天霧が言った。
「すいません。言葉が足りませんでした。彼らは……友好的な関係を築いていたと言いたかったのです。それに、斎藤なら、あなたの死後、彼女の相談にいろいろのってやれるかと……」
僕は自分の頬が、かっと紅潮するのを感じた。
深読みしすぎたのは僕の方だった。
天霧は、斎藤くんと千鶴が相愛で、斎藤君の方が彼女を幸せにできる、なんてことを言っていたわけではなく、単に僕がいなくなった後、千鶴が相談したり、頼れる人間を伝えたかっただけらしかった。
「余計なおせっかいをして、申し訳ありませんでした。そもそも……」
天霧は気まずい沈黙を破ろうとしてか、冗談っぽく言った。
「あなたが死ぬ前に、雪村の方からあなたに愛想をつかして出て行ってしまうかもしれないですしね」
僕はとても笑う気分になれず、視線をそらしたままだった。
天霧はそんな僕を眺めながら静かに言った。
「それではそろそろ失礼します。……私はこれから二ヶ月ほど東北と蝦夷をまわります。その後もう一度立ち寄らせて下さい。あなたがもし、斎藤の住所が知りたいようでしたらその時お伝えします。では……」
そう言った途端、強い風が吹き、天霧の姿は消えた。
僕はそのままそこに立ち尽くしていた。
頭上から、雨粒が、一つ、二つと僕の頭に落ちてきたけれど、僕はそんなことには気づきもせず、木刀を握りしめながら、天霧の消えた方を見つめていた。
その通りだった。
千鶴の笑顔を見ている時も、彼女と愛を交わしているときも、満たされた気持ちで空を眺めているときも、この暮らしを始めて、どんな時でも頭の裏に張り付いて離れない。隙があれば、僕の心に忍び込み、囁き、支配する、不安。
その不安と一緒に、必ずちらつく、屯所で斎藤君と話しながら笑っている千鶴の笑顔……。
彼女は、成り行きで僕の傍にいることになってしまった。
もしも、あの時、銃弾から彼女をかばったのが僕じゃなかったら……。
もしも、あの夜、僕が外に出なければ……。
彼女も僕も、隊のみんなと別行動をとることなく、彼女は昼の新選組で斎藤君と行動を共にしていたことだろう。
どちらが彼女にとって幸せだったか、なんて今更考えても意味がない。
現実はこうなってしまったんだから。
彼女が、今は僕のことを一途に思ってくれていることを疑っているわけじゃない。
それでも僕の残りの時間と、それからの彼女のことを思うと、どうしてもこの不安を頭から消すことができなかった。
雨は、細かくまばらで、僕はその中をゆっくりと歩き出した。
考えてもしょうがない、考えるな、自分でできる限りのことをすればいいんだ。
彼女を幸せにして、残りの時間をできるかぎり延ばすこと。
一時、一日を大事にして生きること。
心を落ち着かせようと、そんな言葉を自分に言い聞かせながら歩いていても、言い知れない不安が後ろから追いかけてくるようで、だんだん足が速くなってしまう。
走り出したくなるけど、走ってしまうと、後ろの不安に飲み込まれてしまいそうで、必死に抑えながら、家へと急いだ。
木刀を家の外の壁に放り出すと、僕は家の扉をいきおいよくひいた。
土間と囲炉裏端には彼女はいなかった。
自分の鼓動が、やけに大きく耳の中に響いている。
彼女の名前を呼ぼうと思った瞬間、彼女が奥の部屋から出てきた。
「あ、総司さん。おかえりなさい。これ見てください。いつも総司さんが遊んでる子いますよね、あの男の子。あの子のお母さんがこんなにたくさん千代紙をくれたんです。あら、総司さん濡れてます?雨ですか?お洗濯物とりこまなくちゃ……」
そう言って千鶴は、手に持った、たくさんの色とりどりの千代紙を、僕に見せながらこちらに歩いてきた。
彼女は、いつものままだった。
僕を見た時の笑顔、くるくる変わる表情、弾むような歩き方……。
僕は土間に立ち尽くしていて、彼女は囲炉裏端に上がっていたため、彼女の顔はいつもより近くにあった。
彼女は、黙り込んで彼女を見つめている僕を不思議そうに見て、僕の額にはりついている濡れた髪をかきあげようと、手を僕にのばした。
彼女の指が僕に触れた途端、僕は我にかえった。
それと同時に、自分の奥底からつきあげるような強い衝動がわきあがってきた。
彼女が欲しい。
彼女の心も、体も、時間も、笑顔も、泣き顔も、人生も、全て。全て。
僕の奥底に眠っている、獰猛な獣が咆哮をあげるのを感じた。
僕は、彼女の立っている床に膝をついて、命綱につかまるように、強く彼女を抱きしめた。
彼女の華奢な腰が、大きく反って、折れてしまうのではないかと思うくらい、強く強くしがみつき、彼女の胸に顔を押しつける。彼女は、驚いたようだけど、特に抵抗もせずに僕を受け入れてくれた。
その無条件の信頼が、更に僕の気持ちをあおった。
彼女の両手首をつかみ、彼女が声をあげる隙も与えず、強引に口付けをした。
彼女の手にあった千代紙が床に落ち、滑る様に散らばって、万華鏡のような模様が床一面に広がった。
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