【万聖節】
ほら、今夜。
この世とあの世の扉が開く――――――
突然しゃがみ込んだ千鶴に、隣を歩いていた千と君菊は驚いた。
「千鶴ちゃん!?どうしたの?」
後ろからくる自転車をよけるために、うずくまった千鶴を道路の脇まで移動させる。ほんの2、3歩の距離なのに千鶴ははそれだけでも辛いようでよろよろと千にすがって歩く。
「急に……何か目の前が暗くなって……」
か細い千鶴の声に、千と君菊は顔を見合わせた。
「貧血かな?どこか休むところ……」
覗き込んだ千鶴の顔は真っ青だ。季節は秋で、涼しくもなく寒くもなく。昼はみんなでマクドナルドで同じものを食べたから、食中毒というわけでもないと思う。高校に入ってから三年、ずっと一緒にいたけれど、突然倒れるなんてなかったから持病でもないだろう。
もうちょっと繁華街だったらカフェとかがあり座れたかもしれないが、あいにく一本奥の通りで、人気のない住宅街だった。
大きな家が立ち並び、時折宅配の車や自転車が通る程度。
「どうしよう……」
千と君菊が困ったようにあたりを見渡した時、カシャン、と音がした。
振り向くと後ろの家の大きな門があいた音だ。
そこは黒い鉄柵がぐるりと広い敷地を囲んでいる大きな洋館だった。門からは前庭らしき植え込みしか見えないが、木々の向うから洋館風の屋根が覗いている。門から屋敷までかなり距離がありそうだが、今ちょうど門が開き、中から男性が出てくるところだった。
「……どうかしたんですか?」
声をかけてきた男は、自分の家の前で女子高生が三人うずくまっているにもかかわらずたいして驚いていないようだった。たまたま目があったからしょうがなく声をかけたような感じだ。
明るい茶色の髪に緑の瞳。背が高く手足が長く、重々しい洋風の門と同じく日本人離れした男だった。年は20歳を少し超えたあたり……大学生だろうか?しかしそれにしては妙に世慣れた感じだ。
千は迷ったものの、口を開いた。
「あの、……本当に申し訳ないんですが……」
「寝かせてきたよ」
豪華なリビングで、出された紅茶と飲んでいると先ほどの男が部屋に入ってきた。千と君菊は慌てて立ち上がる。
「すいませんでした、突然。あの、……彼女は……?」
男はポットから自分の分の紅茶をいれると、カップを持ったまま千たちの横に立った。
「青い顔でつらそうだったね。ベッドに横にさせたらほっとしたように寝ちゃったよ」
「そうですか……」
千は考え込んだ。
どうしようか、このままここに置いて行くわけにもいかない。しかし千鶴の家族はいないのだ。
千鶴の父親が失踪したのは三か月前。警察に届けて捜索しているものの、手がかりは全くない。もともと親一人子一人の苦しい生活だったようで、父親の失踪のせいで今の千鶴は生活費にも困っている。アパート代も滞納していて立ち退きを求められていると聞いている。
今日の千鶴の不調も、その心労や疲れからだと思うのだが。
千が一度自分の家に帰って、自分の父親に車を出してもらって迎えに来てもらおうかと考えていると、その男がにっこりとほほ笑みながら言った。
「だからもう君たちは帰ってもいいよ」
「え?」
「千鶴ちゃんは僕が見てるから」
「……」
千と君菊は顔を見合わせた。
何か……何かへんだ。
「あの……、どうして彼女の名前を……」
言った覚えはないのに。
君菊がそういうと、彼は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに肩をすくめた。
「君たちがそう呼んでたからさ」
「私たちが……」
言っただろうか?千は思い出してみるが、言っていないように思う。だが断言できるほどはっきりした記憶があるわけではない。
「あの、失礼ですがあなたは……」
「そういえば自己紹介はまだだったね。僕は沖田。沖田総司っていいます」
さらりと自分の名前を言った男に、千は怪しんだ自分たちがおかしかったのかと思った。怪しい人物ならこんなに簡単に名乗らないだろう。
「私は鈴鹿千といいます。彼女は君菊です。あの……千鶴ちゃんを休ませてくださったのには感謝しますが、置いて行くわけには……。私が一旦帰ってすぐに車で迎えにくるので、それまで君菊をここにいさせてもらっていいでしょうか?」
沖田という名の男は困ったように眉をひそめた。
「それはちょっと……。怪しまなくても大丈夫だよ。彼女が気づいたら僕が責任もって家まで帰すから。襲ったりなんかしないし。だって君たちは僕がこの家に住んでる沖田総司って知ってるじゃない?彼女に何かあったらすぐに訴えられるしそんなバカなことを僕がすると思う?」
そういってにっこり笑った彼の顔は、邪気がなく明るい好青年そのものだった。
午後のゆるい光が彼の半身を照らしているせいで、髪が明るく輝き澄んだ緑の瞳がきらめく。
「でも……」
「やだなあ、僕、そんなに怪しい人間に見えるかな。道に倒れて困ってた女の子たちを助けてあげたのにこんなに信用されてないなんて傷つくなあ」
「そんな……そんなことは……」
千と君菊は、もう何度目になるのかわからないが顔を見合わせた。
これ以上言うのは失礼だろうか。しかし眠り込んでしまった千鶴を、知らない男の家に置き去りにしていくのはまずいだろう。
だが……
「大丈夫だよ。そんなに心配なら夜にまたおいで。千鶴ちゃんの目が覚めてたら一緒に返ればいいし、まだ寝てるようだったらさすがに起こすし、君たちが来た時に千鶴ちゃんがもう家に帰ってたら、安心するでしょ?」
千は少しだけほっとした。
確かにそれなら助かる。
「わかりました、じゃあ何時ごろならいいですか?」
沖田は首を傾げて「うーん」と考えるようにした。
「そうだな、女子高生をあんまり夜遅くひっぱりまわすのもあれだから夜の7時とか……日が暮れてからぐらいでどう?」
君菊がそこでおずおずと口をはさむ。
「あの、電話番号をもしよろしければ教えていただけないでしょうか?途中で様子が聞けるかもしれないですし……」
「ああ、そっか、そうだね。でもごめんね、電話ないんだ」
千と君菊はぱちぱちと瞬きをした。
「電話がない?携帯もですか?メールは?」
「携帯もスマホもパソコンもないんだ。ごめんね、世間から取り残されてる家で」
「……」
変だ。いや、電話がないだけで変質者とはもちろんいえないが……でも、何か変だ。
しかし沖田という男は千と君菊にそれ以上考える時間を与えるつもりはないようだった。
「申し訳ないんだけどね、僕の外出の予定がくるっちゃったんでそのかわりにもうすぐ来客があるんだ。追い出すようで悪いんだけどそろそろ帰ってもらえるかな?」
「……」
あくまでもにこやかなほほ笑みと共にきっぱりと言われた言葉。
彼の家にお邪魔している立場の千と君菊はこれ以上どうしようもなく、のろのろと立ち上がる。
「あの……」
「大丈夫だから。夜にまたおいで。今夜はハロウィンだから夕方ごろならまだこの近所の子どもたちが仮装して家を回ってるからにぎやかだよ」
「……はあ……」
促されるままに千と君菊は鞄をもって重厚な作りの正面玄関から庭に出た。長々と続く迷路のような植え込みを歩き門まで来ると、沖田が重そうな黒い飾り鉄柵の門を開けてくれる。
「あの、じゃあ、千鶴ちゃんのこと、よろしくお願いします」
「うん、じゃあね」
あっさりと門を閉め、沖田は振り返りもせずに家に戻っていく。
千と君菊は言い知れない不安を感じながら、植え込みの角を曲がる彼の背中を見つめていた。
――――――ずっと君を待ってた――――――
耳元で声が聞こえたような気がして、千鶴はゆっくりと瞼をあげた。
見たことのない天井。薄暗い部屋。
顔をめぐらせてみると、豪華な室内が目に入った。
「……あれ?」
千鶴は起き上がる。着ているのは制服だ。
「……制服のまま寝ちゃったのかな、私……?」
家ではそんなことはふつうしない。というかここはそもそも家ではないではないか。
「ここ……どこ?」
千鶴は混乱した。今日は学校に……行った。そう確かに行った。数学の小テストがあって、お弁当を食べて体育をして千ちゃんと帰ってそれから……
「それから……え?あれ?」
記憶がない。家に帰っただろうか?千鶴はベッドから降りた。
ふかふかのじゅうたんに高そうな家具。自分の家とは全然違う。その家も今は追い出されそうだが……
ふと現実に戻って千鶴の表情は暗くなった。
大家さんのやさしさに甘えるのもそろそろ限界だと分かっている。父もたぶんすぐには見つからないだろう。
だが今のアパートを出たとしてどこに行けばいいのか。今後の生活のことを考えれば最低限高校は卒業したいがあと半年もある。住み込みで働かせてもらうにしても、昼間は高校に通わせてほしいなどと通らないだろう。
千鶴は急に立ち上がる気力をなくして、柔らかなベッドに再び力なく座った。
たぶん行政に相談してみるのがいいのだろうとは思うが、それも千鶴はためらっていた。
失踪する前の父のやっていたことはよくは知らないが、法律を守った正しいことはやっていなかったのだろうと千鶴はうすうす気づいていた。
失踪もたぶんそれに関係している。父のことをあれこれ調べられるとまずいことになるかもしれない。
「でもそんなこともう言ってられないのかな……」
父の心配をするより自分の心配をした方がいいのだろうか。あと半年なんとかしたとしても、父綱道には莫大な借金があることを千鶴は知っていた。綱道がいたころからしつこい取り立てが何度もあり怖い思いをしたことは一度や二度ではない。彼らにしてみたら千鶴は綱道につながる大事なつてだ。そうそう見逃してくれるとは思えない。
「……なんか……」
疲れちゃったな……
口に出すと涙が出そうで、千鶴は言葉を飲み込んだ。
全てを投げ出してしまいたくなるけれど……
「がんばろう」
自分言い聞かせるために声に出してそう言うと、千鶴は立ち上がった。
家に帰ろう。いつまでもここにいるわけにもいかない。
「ここはどこなんだろう……」
千鶴は薄暗い部屋を見渡した。自分のかばんは無い。耳を澄ませてみたけれど何の音もしない。
千鶴はそっと部屋の扉を開けて首だけ出して廊下を見た。
廊下も、まるでホテルのような豪華さだった。全体的に古いけれど。
廊下の壁にランプをかたどった灯りがあり、それがぼんやりと誰もいない廊下を照らしている。音を立ててはいけないような雰囲気に、千鶴はそっと扉を閉めた。
階段が見えたのでそちらに行こうとしたとき。
「キャアーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
女性の悲鳴が屋敷の中に響き渡った。
「ひゃっ!!」
千鶴は飛び上がる。きょろきょろとあたりを見渡すが、悲鳴の後は何も聞こえない。
「な、なに……?何?」
聞いたことのない声。遊びとか何かに驚いたとかではなく、本当の悲鳴だった。
千鶴は自分の脚がすくんだように動かなくなるのを感じる。
「ど、どうしよう……」
悲鳴が聞こえたのは階段とは反対の方向。屋敷の奥だ。
「い、行ってみた方がいいのかな」
困っている人がいるのかもしれない。いや、『困っている』というようなのんきな悲鳴ではなかったが。では千鶴も逃げた方がいいのだろうか。このままここにいたら、千鶴もあの悲鳴とおなじような悲鳴を上げる事態になってしまう?
迷ったものの、千鶴は悲鳴が聞こえた方に行ってみることにした。階段に背を向けて、屋敷の奥へと歩き出す。少し歩き出すと、千鶴はどこからか笑い声が聞こえてくるの気づいた。子どもの無邪気な笑い声。
「……」
千鶴の脚が再び止まる。
おかしい。
普通じゃない。子どもの笑い声が聞こえるのに、当の子どもがいる気配が全くしない。足音も話し声も。
人の気配のない静かな屋敷に女の悲鳴と子どもの笑い声。
千鶴は怖くなった。
に、逃げよう
背中がぞくぞくと寒くなり、髪の一本一本が逆立つような感覚を感じる。
千鶴は早歩きで再び階段へと向かった。笑い声が大きくなって千鶴を追いかけてくるようで、千鶴は後ろを振り向けなかった。そのまま逃げるように階段を降りる。
一階の廊下も窓がなく薄暗かった。
千鶴はもうなりふり構わず走り出していた。
早く……早くこの屋敷を出ないと。
ああ、でも、学校の鞄は……あれをもう一度そろえるお金なんてないし、あれがないと学校にもいけなくなる。
「どこに……」
千鶴は目を見開いたままあたりを見渡した。たいして走っていないのに呼吸がくるしく息があがっている。
前方のあの角を曲がると、たぶん玄関だと思う。
後ろは階段でその途中にいくつも部屋があったが、どれも扉が閉まっていた。
唯一千鶴の斜め前にある部屋の扉が両開きになっており、窓があるのか明るい光が廊下からでも見える。
客間とかリビングとか……そんな感じだ。
千鶴は近くまで行くと部屋の中を覗き込んだ。
思った通り明るく広い部屋だった。
客間なのだろうか、豪華なソファセットとテーブルと椅子もある。角部屋なので三方すべて大きな掃き出し窓で、窓からは緑が生い茂る庭が見えた。手入れされていないようで植物が好き勝手に茂っている。
千鶴は肩の力を抜いて大きくため息をついた。
たとえ夕方に近い弱い光だとしても太陽の光をみることがこれほど安心するとは思わなかった。窓から見える外の景色も、一瞬この家からでられないのではないかと思ってしまった後だけに開放感にあふれている。
先ほどから後ろについてきていた闇が逃げていくような感じだ。
そしてさらにいいことに、千鶴は部屋のなかの椅子の一つに自分の鞄が置いてあるのに気が付いた。
「私の鞄!」
千鶴が椅子に駆け寄ると、確かに自分の鞄だ。
「よかったあ……」
ほっとして鞄に手を伸ばしたとき、背後で大きな音がして扉がしまった。
「!」
千鶴が振り向くと、両開きの扉が二つともしまっている。
風もなかったのに。
千鶴は扉へ駆け寄り開けようとノブをまわした。しかしガチャガチャと動くものの扉は開かない。
「え、うそ……どうして?」
こぶしで扉をたたく。
「誰か!誰かいませんか?すいません、誰か!!」
ふたたびどこか遠くから笑い声が聞こえたような気がして千鶴はぞっとした。
必死で声を上げるが扉は開かず応じる声も聞こえない。
どうしよう、と泣きそうになった時、後ろから静かな声が聞こえた。
「そんなにおびえなくても何もしないよ」
はっと千鶴が振り向くと、部屋の奥、大きな観葉植物の後ろから誰かが出てくるのが見えた。
逆光のせいで顔はわからないが、背が高い。声からして千鶴と同じくらいか少し年上の若い男性のようだ。
「あ……」
彼が近づいてくるにつれて顔が見え、千鶴は固まった。
どこかで会ったことがある。
昔……昔?いや、そうじゃない。もっと身近ですぐそばにいて……
でも、知らない人だ。
その人は千鶴からかなり距離を取った手前で立ち止まった。
茶色の柔らかそうな髪があちらこちらにはねている。顔は整っていて華やかな雰囲気だ。
そして混乱した表情で固まったままの千鶴を、面白そうに首を傾げてみている。
「……久しぶり」
艶やかな声。からかうような笑顔。
でも暗く光る緑の瞳は真剣だ。
千鶴は瞬きをした。
「あの……、どこかでお会いしたことがあったんでしょうか……?」
千鶴がそういうと、その人の瞳にちらりと悲しげな影がよぎった。
「……また忘れちゃったの?」
「……」
『久しぶり』『また忘れたのか』
この言葉から考えれば、やはり千鶴は彼に会ったことがあるのだ。そして自分だけがそれを忘れてしまっている。
「すいません……」
千鶴が謝ると、その人はため息をついた。
「いいよ、もう慣れてるし」
そう言うと彼はふと気づいたように千鶴の瞳に目をとめた。
「……泣いてたの?」
「え?いえ、涙が?」
あたふたと千鶴が答えると、彼の瞳はやわらかく光った。
「泣き虫なのに強くて、つらいのに我慢して、自分が大変なのに人の心配ばっかりで……」
歌うように数え上げていく言葉に、千鶴は飲まれたように彼を見上げることしかできない。
「でももう大丈夫だよ。僕が見つけた。……やっとね」
「……見つけた……?」
「そう、何度生まれ変わっても、記憶をなくしても、僕は君を必ず見つける」
突拍子もない言葉の連続。まるで小説や映画の中のような現実感のない言葉。
そんなことはあるわけがない。
でも、千鶴の心の奥底では、彼が言っていることが正しいと感じている自分がいた。
なにより彼が自分を見る瞳が、彼と自分の関係を言葉よりもあらわしている。
会ったことがないのに、知らないのに、そんなはずはないと思うのに、自分は彼を知っている。自分の半身として、彼の半身として存在している。
「そんな……そんなこと……。あなたはいったい……?」
「『総司さん』」
「え?」
「君は僕をそう呼んでた」
「……」
突然起きたいろんなことに千鶴が混乱して何も言えないままでいると、彼がふと何かに気が付いたように千鶴から視線を外した。
「……そろそろ開くかな。今日はいろんなものが緩くなってるからあちこちで繋がったり切れたりしてるみたいだけどね。二階で何か聞こえなかった?」
「あ、はい。……はい、聞こえたんです。笑い声とか悲鳴とかが……」
どう答えたらいいのかわからないこれまでの質問ではなく、先ほどまでの現実についての彼の問いに、千鶴はぱちっと目が覚めたような気がして答えた。
彼は笑う。
「そっか。怖かったよね、大丈夫だよ。まだ悪さはできない」
「……まだ?」
「そう。開いてつながれば一気になだれ込んでくるけどね。でももう僕がいるから大丈夫。君は僕と一緒に行くんだ」
「え?……え?何の話でしょうか?」
とまどっている千鶴には構わず、彼は窓から庭を見る。
「……ああ、日が沈むね。開くよ」
「開くって何がですか?」
わけのわからない会話に千鶴が困りながらもそう尋ねると、彼はにっこりとほほ笑んだ。
「あっちの世界との扉。今日は一年で一度、扉が開く日なんだよ」
「あっちの世界……」
彼が何を言っているのかわからない。おかしな人だと気にせずこの家をでていけばいいのだろうが、千鶴はなぜかそれができなかった。彼は……彼の言っていることが自分にとって大事なことだとどこかで感じている気がするのだ。
そんな千鶴に、彼は「ほら」と言って手をさしだした。千鶴は彼の手を見て、彼の顔を見上げる。
部屋はすっかり暗くなってしまっていたが、彼の表情はのぼってきた月に照らされてよく見えた。
彼の瞳の色は深く輝いて、千鶴には何を考えているのかわからない。
でも柔らかく千鶴を包むようにほほ笑んでいた。
「僕と行こう」
「……」
千鶴は目を見開いたまま彼を見つめていた。彼も静かな瞳で見つめ返している。
「とこへ……どこへ行くんでしょうか?」
「ここじゃないところ」
「ここじゃないところって……でも、私アパートも、父様も……明日も学校もあるし……そんなところには行けない、ですよ……」
当然ではないか。まだ未成年だし、今日初めて会った人だ。
どこに行くのか、何しに行くのか、いつ帰ってくるのか、何もわからずついていけるはずなどない。
「でも僕がいるよ」
「……」
「ねえ、感じない?」
彼はそう言いながら一歩千鶴に近づいた。千鶴は背の高い彼に圧倒されるように一歩後ろに下がる。しかしそこはもう扉だった。彼はもう一歩進むと、手を伸ばす。
びくっと体をすくめた千鶴にかまわず彼は千鶴の手をとった。
「記憶がなくても、君は、君の体全部で僕を欲しがってる。本当は君もわかってるよね?君のこの……」
彼はそう言うと、反対の人差し指で千鶴のオデコをつんとつつく。
「この賢い頭でダメだって言ってるみたいだけど、指の先から体の中まで……全部が僕を感じてる。欲しいって叫んでる」
「……」
「君の心と本能は、もう僕について行くって決めてるよね?」
千鶴は茫然としたまま首を横に振ろうとした。
でもなぜか振れない。彼の言っていることが自分の心の奥の奥を言い当ててるような気がして。
「体も心も頭も、全部もらわないと僕は気が済まないたちなんだけど、まあ今日はついてきてくれるだけで我慢するよ。……ほら」
彼はそういうと、千鶴の指と指を絡めた。
「18年、いやもっと。ずっと今日が来るのを待っていたんだ」
そして宝石のように怪しく輝く緑の瞳で、千鶴の瞳を覗き込む。
「行こう」
催眠術にかかったように千鶴の脚はふらりと彼が促す方へ動いた。
「庭に入口があるんだ。こっちだよ」
もう何も考えられない。彼の瞳に魅入られたように彼と一緒に行くことしか考えられない。
彼の言う通りだ。千鶴の細胞の一つ一つが彼を欲している。そんなことありえないのに、でも事実そうなのだ。彼のそばにいること、彼に触れていること、彼に見つめられていることが千鶴の全てだ。
「段差があるから気を付けて」
彼に促されて千鶴が満月が照らしている森のような庭に出た時。
「すいませーーん!誰かいませんか!?」
よく通る女性の声が静かな屋敷に響き渡った。
千鶴を包んでいた不思議なシャボン玉のような感覚は、その声でパチンとはじける。
千鶴は我に返った。
聞こえてくる声は続ける。
「沖田さん!?沖田さん!いませんか!?千鶴ちゃんは目を覚ましましたか?」
千だ。
千鶴は振り向いた。
自分を迎えに来てくれたのだ。声が遠いから多分門のあたりにいるのだろう。ガシャガシャという門をゆすっている音も聞こえる。
千鶴は一気に現実に戻った。
いったい何をしようとしていたのか。明日も学校がある。友達も心配するだろうし、早く家に帰ってお風呂に入って宿題をしなくては。知らない家で知らない人に、どこかわからないところに行っている場合ではない。
「あ、あの、友人が…!離してください、私、帰らないと…!」
千鶴がそう言うと、意外なことに彼はすんなり握っていた手を離した。
「君のことはよくわかってるよ」
彼はそう言うと一歩後ろに下がった。
「君は自分の意志だけで動く。無理やり連れて行っても君の心は永遠に手に入らないよね」
彼は手を差し出した。
「だから選んで」
千鶴は彼の手を見て、彼を見上げ、そして相変わらず聞こえてくる千の声の方見た。
「選ぶ……」
「そう。自分の意志で。僕か玄関のあの子か。僕との世界かこっちの世界か」
千鶴は瞬きを忘れて彼を見上げる。
差し出された彼の手を、秋の終わりの静かな月の光が照らしている。
彼は驚くほど静かな表情をしていた。
千鶴がどちらを選ぼうともう覚悟は決まっているような。
千鶴がどちらを選ぶかもうわかっているような。
何度扉をたたいても誰も出てこないことに業を煮やして、千は悪いとは思いつつ勝手に門を押してみた。
「あ、開くじゃない」
鍵でもかかっているかと思ったのに拍子抜けだ。
千は門からするりと中に入ると迷路のような植え込みの道を曲がった。
だいたい怪しいと思ったのだ。この日本にこんな広くて古い屋敷があるのも変だし、そこに住んでるっぽい美青年っていうのも怪しい。にこやかに愛想よく笑ってたけどあの表情からは腹黒さがあふれ出ていた。やはりあんな男のところに大事な親友である千鶴を置いてくるべきではなかった。
こんな風に玄関が見えないようにしているのも秘密主義っぽくて胡散臭い。なにもかも胡散臭すぎる。
千は、道で困っているところを助けてもらった恩を忘れて沖田という怪しげな青年を心の中でののしりながら歩いていた。
「だいたい門から玄関まで遠いのよ。金持ってるからって厭味ったらしいたら……」
千はそう言いながら最後の曲がり角を曲がった。
そしてポカンと口を開けて立ち尽くす。
そこには何もなかった。
昼間に来た時にあった大きな古い洋館。
その周りに生い茂っていた手入れのされていない木々。
確かその間から温室っぽいものや、池のようなものが見えた。
ちらりとだが確かに見えたのだ。
でも今は何もない。
荒れ果てた広大な空き地。
木々も枯れかけて岩がゴロゴロと転がり、廃材のような木がわずかばかり組んであるのがかつてここに家があったという名残りだ。
それもかなり前。
三桁以上の年月が経っていそうなほどの昔。
言葉もなく茫然と立ち尽くす千を、ハロウィンの月が静かに照らしていた。
BGMは嵐のMONSTERでどうでしょーか♪
【終】
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