【クリスマスエレベーター】









エレベーターのドアが閉まりそうだ。
千鶴は小走りでエレベーターにかけより、急いで閉まりかけのドアをボタンを押して開けた。
「すいま……」
謝りながら乗り込もうとした千鶴は、中の扉のすぐ横でボタンを押してくれている人を見て、言葉につまる。
「……せん」

一瞬目があった。

あの人だ。
表情を変えないようにして横を通り過ぎるのにも思わず緊張してしまう。
夜遅く、しかも今日はクリスマスイブのせいか人が少なくて、いつものこの時間なら残業が終わったビジネスマンがたくさん乗っているこのエレベーターも、今日は彼一人しかいなかった。
透き通った緑の瞳が自分を見て、きれいな弧を描く茶色の眉が少しだけあがったのを、千鶴は一瞬だったが見逃さなかった。

近未来的なシルバーのエレベーターの扉が、音もなく閉まる。
この超高層のオフィスビルのエレベーターは速さが特徴で、体に感じるか感じないかくらいの初動から一気に加速する。
耳がキーンとすることもなく、130M上空から地上まで、1分もかからない。
が、千鶴には永遠に感じられた。
千鶴に見えるのは、背の高くがっしりとした彼の背中だけなのだが、それでもこの狭い空間に二人きりでいることがもう緊張するのだ。

彼とは時々朝のエレベーターホールで会ったり、入口のセキュリティーシステムのところで一緒に並んだりする。
このビルには多くの企業が入っているため彼がどこの会社かは知らなかったが、見た目がパッと目立つので、自然に目が行くようになってしまっていた。
明るい茶色の髪はさらさらで艶があり、大きめの瞳が緑色だと気づいたのは半年くらい前、一階にあるコーヒーショップが混んでいてたまたまとなりに座った時だった。もちろん一言も会話なんてかわしていないけれど。
今日はグレーのコートに、あたたかそうな深い赤色のマフラー。黒の手袋。
このオフィスビルは若くてかっこいい男性が多いとこの前遊びに来ていた千が喜んでいたが、千鶴も実はそう思っていた。そして彼がその中で一番かっこいい、などとひそかに思っていたりしたのだ。

残業かなあ

千鶴も残業だったが、当然ながら『お疲れ様でした』などと声をかけるような仲でもないし名前も知らいないし、そもそも相手は千鶴のことを知らないだろうし。
まあそれでもクリスマスイブに一人で残業でこの後予定も特にない千鶴への、これは神様からのプレゼントじゃないかと、千鶴は心の中で神様に感謝した。
その時。

あれ?めまい?

と千鶴が思った瞬間、ガクンと大きな衝動が来て、エレベーターが止まった。
止まったというよりはどこかにぶつかったような反動。脚が浮き上がるような感覚があり、実際千鶴の足は一瞬空に浮いた。次の瞬間、千鶴は「あっ」と体勢をくずしてエレベーターの壁にぶつかり、肩からかけていた鞄を落とす。
「わっ」という彼の声も聞こえたと思った次に、今度は視界が暗くなった。

え?

気を失ったのか転んだのかと一瞬思ったが、手を伸ばすとひんやりとしたエレベーターの壁に触れる。
停電だ。

「……」

驚きの余り状況が理解できなくて、しばらく千鶴は暗闇の中で茫然と立っていた。
ウィーンと低い音で響いていた空調の音もピタリと止まり、完全な静けさ。
暗さに慣れない目は見開いても何も見えない。視覚も聴覚もうばわれ、さらに今はエレベータの中で空中でつりさげられたまま……
事態を把握した途端、千鶴は冷や汗がにじみ出るのを感じた。

え、うそ……閉じ込められちゃったの?こ、ここ、まだ途中で……まっくら……

呼吸が浅くなりパニックになりそうだと自分でも感じた。
経験したことのない全く何も見えない暗闇に、無いも聞こえない静寂。
どうしよう、外に……誰か……どうすれば……

「大丈夫?」

不意に暗闇から聞こえてきた声に、千鶴は息が止まるほど驚いた。
そうだ、すっかり忘れていたが、今はあの人と二人きりというさらにストレスフルな状況なんだった。いや、一人よりは全然いいのだが、初対面の人とうまく話せない千鶴には、この状態で知らない人と二人きりというのは、たとえそれが憧れの人でもかなりきつい。
返事をしなくてはと千鶴は焦ったが、声がだしにくい。
「は、はい…はい。大丈夫です」
前半はどもり、途中はかすれ、最後は裏返って、全然大丈夫ではない。
「どこか怪我でもした?声が変だけど」
動揺しまくりの千鶴とは違い、彼の声は落ち着いている。艶やかな素敵な声で見た目のイメージとぴったり…などと、そんなときではないのに頭の隅っこで思い、それをまた客観的に感じている自分に千鶴はますます動揺した。
「……い、え」
ああ、どうしよう。パニックになっちゃってる。空気が薄い気がする。何も見えない。外に出たい。今すぐ。
「けがはないの?じゃあもしかして閉所恐怖症とか」
「ち、違うと思うんです、…けど……」
上ずった声に千鶴の様子がおかしいことに気づいたらしい、ふと肩に何か触れた。
彼の手だ。
「大丈夫。落ち着いて。すぐにまた動き出すよ。……あ、女の子にあんまり触らない方がいいね、ゴメン」
「いえ!」
千鶴は自分でも驚くくらい必死に答えた。
彼の手が上下が分からなくなるような暗闇の中で、唯一つかめる確かなもののように感じる。このまま浮き上がって闇に飲み込まれてしまいそうな恐怖が薄まる気がするのだ。
「いえ、触ってもらえないですか!?」
「……」
一瞬戸惑ったような彼の気配がして、千鶴は自分の言った言葉の意味に気づいた。
かああああ!と顔が熱くなる。
「ちっ違うんです、そっそういう意味じゃなくて…!その、真っ暗で、あの、…」
ぶっと吹き出す音がして、クスクスという笑い声が続いた。
「……あの……」
恥ずかしさに先ほど前の動揺が吹っ飛んだ。何か言おうと思うが頭が働かない。
このまま闇の中に落ちて行ってしまいそうな心もとさと、変なことを言ってしまった動揺とで千鶴の頭は完全にフリーズしていた。
彼はクスクス笑いながら千鶴の肩に触れた。

「喜んで」

笑みを含んだからかうような声。えっ?と千鶴が驚くのと同時に、ふわりとさわやかな匂いがした。
「抱き寄せるよ」
声と共に千鶴はがっしりとした胸に引き寄せられていた。
「ちょっ…えっ…あ、え!?」
「ほら、とって食いはしないから落ち着いて」
たくましい二本の腕が千鶴の背中に回される。
触っていてほしいとは言ったが、それは肩に触れていてくれるとか服をつかませてくれるとかその程度のことで、ここまでは…!!と千鶴が今度は別の意味でパニックになった。
背筋をつっぱり体を固くして、行き場のない両手は空中にとどまっている。
「あーすごい役得」
楽しそうな彼の声が、顔を押し付けられている胸元から聞こえて千鶴は心臓が口から飛び出すかと思った。

こ、これはっ……これは、ゆ、ゆゆゆ夢?いったいどういうこと!?

千鶴の頭には、今抱きしめられている彼のことしかなくなって、エレベーターが宙吊りになっていることや停電で真っ暗なことは消し飛んだ。
「落ち着いた?」
「はっはははははいっ!も、ももう大丈夫です!」
「そう?じゃあ手を放そうか?」
「はい!」
彼が腕の力を抜いたときに、軽快な音楽が暗いエレベーターの箱の中に響いた。彼の胸元から……千鶴の、ちょうど顔のあるあたりから聞こえてくる。
「あ、僕のだ」
彼がコートの下の胸ポケットから取り出したのは、スマホだった。
ぽっと周囲が明るくなる。
千鶴が彼の顔を見上げると、目があった。至近距離、まだ抱き合っているような状態で、千鶴は再び息が止まる。
彼は余裕綽々でにっこりとほほ笑むと、スマホを覗き込んで操作をしだした。

その横顔を見ながら、千鶴は(彼女からかな……)と思った。
憧れの彼がずっと憧れのままなのは、彼には彼女がいるからなのだ。
朝も一緒にビルにはいってくるのを時々見るし、一階のコーヒーショップや地下のレストラン街で二人で食事をしているのをよく見かける。とても仲がよさそうで親し気で、たぶんそうなんだろうと思う。きれいで明るい感じの人で女性から見ても素敵な人だった。
ということは、当然クリスマスイブの今日だって彼女と約束しているに違いない。
間が持たなくて、千鶴は自分もスマホを取り出した。
「あ、圏外……」
「僕のも。一瞬だけ電波つかんだみたいでメール着信だったよ。……地震があったみたいだね」
「地震?」
大きいのだろうか。心配そうな千鶴の声に気が付いたのか、彼は安心させるように言った。
「大丈夫、それほど大きくないよ。でも大規模な停電が発生してるみたいだ」
彼はスマホをしまった。

「たぶん……もしかしたら長時間閉じ込められちゃうかもしれない。電池を大事にしておいた方がいいかもね」




ブーッという音がずっと聞こえてくるだけで、応答がない。
かなり暗闇に慣れてきた目で、二人は顔を見合わせた。そして、彼が――沖田総司という名前だそうだ――が、もう一度エレベータ内にある緊急連絡用のボタンを押してみる。
「……誰も出ないですね」
「どこもかしこもエレベーターが止まってて、その対応に忙しくて出られないのかな」
「そうかもしれないですね……」
「じゃあ、長丁場になるかもしれないし、座って待とうか?……ああ、スカートだから寒いね。これかけて」
と彼が自分のマフラーをとるのが暗闇で見えた。
「いえっそんな…!大丈夫です。あの、スカートですけど……」
スカートだって気づいてたんだ……となぜか千鶴は恥ずかしくなった。今は真っ暗だから千鶴の服装まではわからないだろうし、と、言うことは千鶴がエレベーターに乗った時に見たのだろうけれど、すれ違ったのは一瞬だったのに。
彼も千鶴の沈黙に気づき、言い訳のように慌てて言った。
「いや、エレベーターに乗るときにパッとだけどそりゃあ見るし、それに僕は君のこと知ってたから……」
「え?私のこと、知ってるんですか?どうして?」
「いや!いやいやいや、あーまずいなあ、なんか僕ストーカーとか変質者っぽい感じ?そういうんじゃなくてね……」
彼が困ったように髪をかき上げる気配がする。
「下のホールとかで朝にたまに会うでしょ、気づいてなかった?」
「え、と……」

気づいていたと言おうか言うまいか、千鶴は一瞬言葉につまった。その間に彼は言葉を重ねる。
「コーヒーショップでも隣になったことあるんだけどな。君は髪の長い女の子と一緒にパンケーキを食べてた」
その時のことは覚えている。混んでるランチタイムは、当然のようにそこのコーヒーショップは相席になる。千鶴は隣に彼が座ったことに驚いたのだが、彼はその時も例の彼女と一緒だった。
なぜかそれがとてもショックで、千鶴はその時のパンケーキの味がまったくわからなかったことしか覚えていなかった。
この年であのルックスなら彼女がいて当然だろう。どんな人かも知らない相手に、嫉妬やショックや独占欲はおかしいと千鶴は思っていたが、だがこの場でその本人を前にして、彼女と一緒にいるところを何度も見たというのも何か言いにくい。

彼は、千鶴の沈黙を自分で解釈してくれたようで、苦笑い交じりのため息をついた。
「全然眼中になしって感じだね、残念だけど。……まあでもそういう感じで、知ってる子がエレベーターに乗ってきたなってパッとちゃんと『見た』んだよ。だからスカートだって知ってるわけ。いつも女の子の足をチェックしてるわけじゃないから。信用できないかもしれないけど、状況に乗じて変なことをするような男じゃないから安心して」
「そんな……そんなふうには思ってないです。その、ちょっと……驚いただけです。あの、じゃあお借りします」
ここで借りないと、沖田のことを疑っていると言っているような気がして、千鶴は彼のマフラーを借りた。
暗くて見えないけど赤いはず。
自分だって一瞬なのに、彼が赤いマフラーをしてたのをちゃんと見てるじゃない、と、千鶴は恥ずかしくなった。

ちゃんと言えばよかったな。私も知ってますって。

彼よりも、千鶴の方が意識しすぎてしまっているせいで、そんなことも言えなかった。



エレベーターの隅で二人は座った。
空調が止まったせいで、しんしんと冷えてきている。
「いつまでこのままなんでしょうか……」
あれからどれくらいたっただろう?30分か1時間か……。停電の混乱はまだピークなのかもしれないが。
彼がポケットからスマホを取り出して時間を見る。
「一時間……半くらいたったかな」
「そんなに…」
「トイレとか水とか大丈夫?」
「はい、私は大丈夫です。沖田さんは?」
「僕も大丈夫なんだけど、寒さがね……」
先ほどからどんどん寒くなって言っている。千鶴の手足はもう感覚がなくなっていた。まさか凍死はしないだろうが、このままあと2時間とか3時間ならかなりきついだろう。
「寒いですよね」
千鶴が手をこすり合わせていると、総司が言った。
「何か話そうか、気を紛らわすためにでも。うーん……最近読んで面白かった本の内容とか、面白かったテレビとか、人から聞いた話とかでもいいよ、何かない?」
「何か、ですか。えっと……」
千鶴が口ごもっていると沖田の苦笑いが聞こえた。
「いきなり言われても困るね。言いだしっぺからいこうかな。僕は……そうだなあ、遺伝子スイッチの話を読んだな、そういえば」
そうして彼が話してくれた話はとても面白かった。
新しいこと、それも緊張することや不安におもうことに挑戦することで自分の遺伝子のスイッチが入り、それまで使われていなかった遺伝子が使われるようになる、という話で、高校デビューや海外に行ったり結婚したりして環境が変わると、人が変わったようになるということを遺伝子レベルで説明するような話だった。
「だからね、ちょっと不安だなーって思うことには自ら飛び込んだ方がいい結果がでるよっていう話」
「なるほど……」
どちらかというと臆病者の千鶴にはとてもためになる。
「違う道で会社に行ってみるとか、知らないお店に入ってみるとか、そういう身近なところからならできそうですよね」
「そう、知らない男とでかけてみたりね」
何かを含んだような沖田の言葉に、千鶴は「え?」と顔をあげた。
「……今日さ、今二人きりでいるわけだけど大丈夫なのかな?」
「何がですか?」
「エレベーターが動いて下についた途端、僕を殴り飛ばすような男が出てくる心配はない?だって今日はクリスマスイブでしょ」
「ああ…!」
恋人のことかと千鶴は頷いた。
「それはないんで、大丈夫です」
「それは彼氏は優しいから大丈夫っていう意味?」
「いえ、彼氏はいないから大丈夫ですっていう意味です」
千鶴がそう答えると、暗闇に慣れた目に沖田がにっこりとほほ笑んだのが見えた。

「そっか。じゃ、次は君の番。なにかある?」





「……で、君は落語の話をしたんだよね」
「そうでしたね。よく覚えてますね」
「そりゃあ、初めて君と話した日だからね。もうちょっと女の子っぽい話をするか、それともなにも思い浮かばないっていうかと思ってたらいきなり落語だからさ。でも意外に面白かったよ」
「『天狗裁き』でしたよね、確か」
「そうそう。落語なんて誰と行くの?って聞いたら一人で行くっていうのにも驚いたな」
食後のコーヒーを飲み終わり、沖田はそう言って笑った。

ここは二人が働いているビルの最上階のレストラン。
今日は、ちょうど一年後のクリスマスイブの夜だ。

千鶴は濃厚なチョコレートケーキの最後の一口を味わって食べる。
「私はそれよりエレベーターを降りた後にいきなり誘われたのに驚きました」
沖田はにやりと笑う。
「そう?結構好意を伝えてたと思ってたけど」
「全然わかんなかったです。でも、その、誘われたことに驚いたというよりは誘い方に驚いたっていうか……」

停電が終わり、緊急連絡用の電話が通じてエレベーターが再び動き出したのは、千鶴の落語の話がちょうど終わった時だった。
エレベーターは音もなく降り、何事もなく1階に到着する。
エレベーターホールは人がまばらで、みな停電があったことにざわついてはいたが大騒ぎにはなっていなかった。
六基あるエレベーターが次々と一階につき、他にも閉じ込められた人がいたことを知る。
異世界に行って帰ってきたような、妙な現実感の中、二人はエレベーターから降りた。
「……もう元通りみたいですね」
きょろきょろと千鶴があたりを見回していると、後ろから沖田が声をかけてきた。
「これからどうするの?」
「え?私ですか?」
家に帰ります、と言おうとしたら沖田が先に言った。
「一緒に夕飯でもどう?」
目を真ん丸に見開いて自分を見上げている千鶴に、沖田は続ける。

「ほら、遺伝子スイッチの話したでしょ?僕は押してみることにした。君もどう?」
「……」
千鶴の口はぽかんとあいた。
「それから明日。土曜日だけど、一緒に落語に行ってみたいな。どうせ押すなら連打でいかない?」




場所と時が移り、再び一年後のレストラン。
沖田と千鶴はディナーを終えて、席を立ち会計をしていた。
「あれ、いつから考えていたんですか?遺伝子スイッチの話をしたときは、誘おうって考えていたんですか?それともエレベーターを降りて思いついたんですか?」
「誘おうって思ったのは……うーん、君がエレベーターに乗ってきたときから」
「えっ!」
会計を済ませた沖田は、千鶴を促し店を出る。
「あ、あの子だって思って、エレベーターに他に誰もいなかったしクリスマスイブでお互い残業だったし、このチャンスにになにか機会を作って最低でも声はかけようと思ってた」
「えええええ」
初耳だ。
千鶴は立ち止まって驚きの顔で沖田を見た。
沖田は平気な顔で肩をすくめる。
「そんなに驚かなくても。君だって僕に彼女がいるって思ってたのに誘いに乗ったわけだし、どっちかっていうと君の方が大胆だと思うけど」
「そ、それは……」
確かにそうだ。
結局、あの例の女性は沖田の単なる同僚だったのだが、それがわかったのはずいぶん後、二人がエレベータに閉じ込められた夜から一か月後くらいだっただろうか。

何かと頻繁にさそってくれる沖田に、とうとう千鶴が聞いたのだ。
その日も二人で夕飯と食べた後だった。
『じゃあ、土曜日は10時に駅でね。それでいい?』
『あの、それはいいんですけど、聞きたいことがあるんです』
『ん?何?』
千鶴は深呼吸をして沖田の目を見た。
『わ、私は沖田さんのなんなんでしょうか?』
決死の覚悟で聞いたのに、沖田の答えは至極あっさりしたものだった。
『彼女でしょ』
そしてちょうど止まったエレベーターから降りて行ってしまう。千鶴は慌てて追いかけた。
『か、彼女なんですか?いつから?っていうか沖田さん、彼女さんが他にいるじゃないですか!』
『ええ?』
これには沖田も驚いたらしく立ち止まる。
『いないよ。どこから聞いたの、そんなデマ』


「まあでも、一か月くらいの間、君が二股かけられてるんじゃないか、遊びなんじゃないかと思いながらも、僕に会ってくれてた理由とか気持ちを考えるとすごく楽しいけどね」
エレベーターを待ちながら、沖田は千鶴の手を取り指を絡ませる。
にやにやと笑いながら調子に乗っている様子の沖田に、千鶴は頬を染めてむくれた。
「彼女がいても会いたいくらい好きでいてくれたんでしょ?」
「違います」
「違うの?じゃあどうだったの?」
そもそも最初にちゃんとそういうことを言わない沖田が悪いのだ。千鶴はもうやめよう、次は断ろうと思いながらも、いざ彼を目の前にしてしまうとやっぱり会いたくて、どんどん好きになって行ってしまう自分の気持ちと『彼女』への申し訳なさに苦しんでいたというのに。
「あの時、悩みながらも沖田さんに会ってた理由は遺伝子スイッチのためだけですから」
そこまでべたぼれだったわけじゃありません、とせめてもの意地で千鶴は言い返す。
「不安に思う新しいことは経験した方がいいって思ったんで」
「ふーん?」
チン、とエレベーターがやってきて、沖田は楽しそうに乗り込み千鶴も続く。
エレベーターの中は千鶴たちだけだった。
1階のボタンを押すと、沖田はコートのポケットから何かを取り出す。
そしてそれを千鶴に差し出した。

「じゃあさ、もう一回遺伝子スイッチに挑戦してみない?」

沖田の手の中にあるのは、宝石用の深い紺色の小さなベルベットの箱だった。
「え……」
驚く千鶴の前で、沖田は箱のふたを開ける。
中に入っていたのは透明に輝く石をつけた銀色の指輪。

「僕と結婚してもらえませんか」

ストレートなプロポーズに答える間もなく、今夜のエレベーターは一階に到着した。
地震も停電もなしだ。

千鶴は一階に到着したエレベーターの中でポカンと沖田を見上げていた。
乗り込んでくる人たちが不思議そうに二人を見ている。
「返事は?」
楽しそうな沖田の声。いたずらっぽく輝く緑の瞳。
断られることは100パーセント無いと思っているらしい余裕な表情が少し憎らしい。
彼が予想している言葉をすぐに返すのは癪に障るので、千鶴はそのままエレベーターを降りた。
後ろから沖田が追い付いてきて顔を覗き込む。
「返事は無いの?」

からかうような彼に、千鶴は頬を染めながらもむくれる。
ここで何か彼にショックを与えるような言葉が言えたらいいのに。そう思いながら千鶴は口を開いた。
沖田の耳に聞こえるのは待ち望んだ幸せの返事。

エレベーターホールにある大きなクリスマスツリーが、二人の幸せを祝うようににぎやかに輝いていた。










【終】