【Something
Blue 1−1】
『青は藍より出でて藍より青し』『Blue
Rose』の続編です。前作を読まないと話がわからないと思います(スイマセン……)。
内容については信用せずフィクションとしてお楽しみください。
「おめでとう……、でいいのかな?千鶴ちゃん、妊娠してます」
千鶴は固まったまま、目の前の鈴鹿先生、通称お千先生を見つめた。ずっと体調が悪くて、心配してくれた一に無理矢理予約を入れさせられ連れてこられた大学の付属病院で、千鶴は思いもよらなかった妊娠を告げられた。
「……もしかして、覚えがない?8月……ぐらいだと思うけど?」
お千の言葉が何を言っているのかに気づいて、千鶴は真っ赤になった。
「お、覚え、あります……」
お千と千鶴は、大学の先輩後輩だったという気軽さで、かなりつっこんだことを聞いてくる。
「相手は…沖田君でいいのかな?彼は今どうしてるの?社会人?千鶴ちゃんはまだ学生よね。とりあえず彼と相談した方がいいわね」
「沖田先輩は……、今アメリカにいて…」
「あら、そうなの?いつ帰ってくるの?」
旅行か出張に行っているのだと思ったお千は気軽に聞く。
「あちらの大学の院にMBAをとりに留学しているので後最低でも2年は…」
「あら……」
お千は千鶴の答えに黙り込んだ。そして心配そうな顔になって千鶴の手をとった。
「……千鶴ちゃん、検査では妊娠反応があるけれど、今日はまだ赤ちゃんの心音は確認できなかったの。まだ早すぎるからかもしれないけど、もしそうじゃなかったら……」
「……そうじゃ、なかったら……?」
「……赤ちゃんはお腹の中で死んでしまっている、ということなの」
お千の言葉に、千鶴はさらにショックを受けて青ざめた。お千が千鶴の手をぎゅっと握る。
「だから、一週間後にもう一回きてほしいんだけど……。それまで一人で……大丈夫?斎藤君には……言えないわよね。誰かこの話をお話できて頼りにできる人は傍にいる?」
「いえ……一人暮らしなので……。でも、大丈夫です」
健気に微笑んでみせる千鶴を見て、お千は眉をひそめた。妊娠初期はただでさえ精神が不安定になる。千鶴の場合、予期せぬ妊娠で結婚していない上に彼女はまだ学生だ。唯一頼りにできる彼氏は遠い外国で、さらに悪いことに赤ちゃんの生死の不安がある。これをすべて一人で被るのは相当なストレスの筈だ。しかし医者の一存で患者のプライバシーを他の人に明かすわけにはいかない。お千は指で顎をたたきながら考えた。
「千鶴ちゃん、じゃあとりあえず一週間後じゃなくて3日後にもう一度来てみてくれる?」
このまま一週間千鶴を放っておくのは危険だと、お千は判断して言った。彼女の体調の変化や心情の相談にも乗りたいが、今は混乱していてとても無理だろう。とりあえず頻繁に病院に顔をだしてもらって自分がチェックするしかない。
「千鶴ちゃん、妊娠は一人じゃできないのよ?ちゃんと相手に相談して、ね?」
お千は大学で剣道部のマネージャーをやっていた。前世の記憶を持ったまま、千鶴と一、総司と大学の剣道部で出会った。年齢が離れていたため活動時期はほとんどかぶっていないけれどもOB会やら大会やらで何度か彼らとは顔を合わせていた。特に千鶴とは、彼女の前世の記憶がなくても気があってかわいがっていた。一と総司とは、お互いに前世の記憶があるということで何度か話はしたが、前世でもそれほど仲がよかった、というわけでもないし、お千も前世での人間関係を引きずるのは嫌だったため、普通の先輩、後輩の仲だった。
一が自分の学部の後輩になり、彼から千鶴の体調が悪いから診て欲しいと頼まれた時は、二つ返事で了承したのだが……。
現世では総司のことはそれほどよく知らないが、千鶴にべた惚れという印象がある。彼ならきっと千鶴の不安を受け止めて包んであげられるに違いない。ただ、千鶴の性格を考えると、自分からは言い出さないのではないかという不安がつきまとう。それでも二人が近くにいれば自然に総司は気づくだろうが、アメリカとなると千鶴の自己申告がない限り総司はわからないだろう。しかし、医者という立場のお千には、これ以上患者のプライバシーに踏み込むことはできなかった。
千鶴が蒼い顔をしながらも、お千を心配させないように笑顔を張り付かせてお礼を言って立ち上がった瞬間、彼女はよろめいた。お千がとっさに支えなければ倒れていたに違いない。千鶴の顔色を見てお千ははっとした。さっきよりもさらに蒼く、白いと言っていいほど顔色が悪くなっており、額には汗も浮かんでいる。
「千鶴ちゃん、ちょっと隣の部屋で横になって。斎藤君、付添できてるのよね?呼んでくるわ」
そう言って看護婦を呼んで千鶴を隣の部屋に連れて行ってもらう。千鶴はもう考える力もないのか、ぐったりとして言われるがままになっていた。
一は待合室にいた。お千が呼ぶと何かあったのかと眉をしかめて近づいてくる。さすがに斎藤に千鶴の妊娠のことをお千から言うことはできないので、そこはあいまいにぼかして。
「……と、言うわけだから気を付けて家まで千鶴ちゃんを送って行ってあげて欲しいの。車で来てる?よかった。そっと運転してあげてね。それからしばらく彼女のことに気を付けてあげてて」
「それはもちろんだが、病名はなんなんだ。原因は?」
「うーん……。まあ精神的ストレスからくる疲労、って感じでどうかしら。あんまり私の口から患者のことペラペラ言えないのよ。医学部生なら斎藤君もわかるでしょ?」
お千の言葉に一は黙り込んだ。一が進もうと思っている進路は臨床ではなく研究だが、医者としての守秘義務については知っている。しかし……。
「だが、今回のことは総司が頼んできたことだ。様子がおかしいから千鶴を病院に連れて行って欲しいと。当然あいつは結果を聞いてくるだろう。なんと言えば……」
「時差があるし、距離も離れてるんだからなんとかごまかせるでしょ。電話にでないとかメールの返事をしないとか。とりあえず三日後にもう一回来るように言ってあるから、それまでなんとかごまかして。その後ならある程度具体的なことが言える、と思うから」
「……千鶴は大丈夫なのか?」
お千の言い方に、一は不安になったのか心配そうに尋ねた。
「すぐにどうこう、っていうことはないけど、とっても慎重にしなくちゃいけないことは確かね。私もできるだけ注意しておくわ。斎藤君三日後にまた彼女病院まで連れてきてあげてね」
お千と一が診察室の外でそんな会話をしている間、千鶴はベッドの上で茫然としていた。
自分はまだ大学生で、総司はアメリカに留学している。卒業して要領よく大企業に就職した総司は、資格をとって経験をつんで将来的には近藤の学校法人で役に立ちたいと言っていた。そのため厳しい社内選抜に合格して会社の費用でアメリカにMBAをとりにいけることになったのだ。今ここで彼の志を折るようなことは、千鶴は絶対にしたくなかった。でも、じゃあどうすればいいのだろう?自分が大学を辞めてアメリカに行けばいいのだろうか?休学にするにしても、いつ復学できるかもわからない。自分の夢も日本にいる家族もすべて置いてアメリカに?それよりも、総司は今新しい環境で必死に夢を追っているところだ。そんなところに自分が行くのは邪魔になる以外の何物でもないような気がする。じゃあ、じゃあ、日本で一人で産む?総司はアメリカに行ったきり、というわけではない。クリスマス休暇や夏休みには日本に帰ってくるだろうし、今だってほぼ毎日スカイプで話して、メールのやりとりもしている。今回の病院行きも、千鶴の様子がおかしいのを心配した総司が、自分から病院に行こうとしない千鶴に業を煮やして一に頼んだためだった。そんな総司に妊娠出産を内緒のままで済ませられるわけもない。いや、そんなことよりも。
赤ちゃんの心臓の音か確認できないって……。
知らないうちに千鶴の目に涙が浮かんで頬を伝っていた。
どうしよう……。私全く気付かなくて沖田先輩がいなくなってからずっとあまり眠れなくて、ごはんも食べられなくて……。それが悪くて……?
産まない、という選択肢は最初から千鶴にはなかった。総司がなんというか、とか、状況が、という心配もあるが、今はこのお腹の中の命がなんとか生き延びて欲しい、愛させて欲しい、とそれだけだった。
千鶴を家まで送ってきてくれた一が心配しているのは分かっていたが、千鶴は気分が悪くて体がだるくて限界だった。食事を作ろうと一は言ってくれたが、食欲は全くなく食べることを考えるだけで吐き気がした。とりあえず横になりたいから、と言ってなんとか一に帰ってもらうと、千鶴はベッドに倒れこんだ。
つわりは、単に気持ち悪いだけかと思っていたが、お千が言うには個人差があってなんともない人もいれば立てないくらいだるかったり、食べていないと気持ちが悪くなる人もいるらしい。
千鶴は四六時中気持ちが悪くて、妙にけだるく疲れやすく眠いタイプのつわりのようだった。食べられないのなら無理して食べなくてもいい、でも水分だけは摂るように、というお千の言葉を思い出して千鶴はベッドの脇に一がおいてくれたポカリを一口飲んだ。
眠っているときだけが唯一気持ちが悪くない時なのだが、最近眠ると嫌な夢ばかりみる。体調が悪いときは悪夢を見るというが、つわりのせいでこんないやな夢ばかりみるのだろうか。つらくて悲しくてもう二度と立ち上がれなくらいの絶望を、千鶴は毎夜夢のなかで味わっていた。断片的にしか覚えていないが、血、恐怖、孤独、死……そんなものを連想させるような夢だった。
そんな夢を見た後は気分が落ち込み精神的にとてもつらい。さらにつわりのせいで肉体的にもつらい。
気丈な千鶴は自分でも気が付いていなかったし弱音もはかなったが、心身ともに限界に近かった。
眠るのイヤだな……。でもしんどくて、眠くて……。
寸前まで抗っていたが、これまで味わったことのないような全身にひろがる疲労感に千鶴の瞼は徐々に閉じていった。
沖田先輩に……会いたいな……。会って、抱きしめて欲しい。大丈夫だよって言ってほしい。
怖い夢をみないように、ずっとそばに……。
眠りについた千鶴の頬には、涙の痕が一筋残っていた。