【夏は祭り】
朝の8時半。
千鶴はいつものバス停でバスがくるのを、少し離れたスーパーの前のベンチに座って待っていた。
遅れて来たり、逆に早く来たり。
夏休みが始まって夏期講習のためにいつもと違うバスに乗るようになり、千鶴は定刻より早く来たり遅く来たりするこの路線のバスの癖を知った。
そして彼女の性格のせいもあって、乗り遅れることの無いようにかなり早めに来ることにしているのだ。
バス停の近くにはベンチがあるし、夏とはいっても東北のこのあたりはこの時間は涼しいし、後ろにあるスーパーは9時からだから人もあまりいないし。
千鶴はいつもここで、今日の授業の予習を軽くすることにしているのだ。
今も鼻歌を歌いながら鞄から参考書や筆記用具をだして、パラパラをページをめくる。
鼻歌の曲も終わりの方に近づき、千鶴が参考書に集中しだしたとき……
「歌、上手だね」
ふいに声が聞こえて、千鶴はびっくりして参考書から顔をあげた。ベンチの前は車道なのだがそこに路上駐車していた車の運転席から、男性が顔を出してこちらを見ている。
ベンチに座る時に、このあたりではあまりみない高級そうな車だなとは思ったが、どうせ別荘組だろうと意識にのぼる前に考えることをやめてしまっていた。まさか人が乗っているなんて……しかも窓が開け放してある。
どうやら車の運転席と助手席の窓を開けたまま、リクライニングを下げて寝転んでいたらしい。と、いうことは千鶴が気持ちよく歌っていた鼻歌は全部聞かれてしまっていたのだ。
「よっ」という彼の小さな掛け声とともに、千鶴の想像どおり運転席の座席が現れた。
突然のことに驚いて、千鶴は固まったままだ。
男はそんな千鶴の様子を気にした風でもなく、まるで昔からの知り合いのように話しかけてきた。
「バス待ってるの?」
……コクリ
目に驚きと警戒の色をにじませたまま、千鶴は反射的に質問に答える。
その男性は……やはり別荘組なのだろう。こんな田舎には似合わない恰好良さだ。柔らかそうな薄茶色の髪。つやつやと朝の光に光っていて、千鶴は飼っている茶色のネコの毛並を思い出した。そして印象的な、少し大きめの緑の瞳。面白そうに興味深そうに煌めいて見つめているのもネコのようだ。彼の周りをみずみずしいオーラのようなものが取り巻いていて、千鶴はどぎまぎした。
年は少し上ぐらいか。服もおしゃれだし乗っている車も外車だし、これはやはり夏の間だけここに避暑に来ている『別荘組』の人だろう。
千鶴の住んでいる地域は東北の田舎町だが交通の便がいい。そして夏はとても涼しい。同じ町内にはおあきらかにおしゃれなお金のかかった家が何軒もたっており、そういう家は東京からやってくる人達が夏に別荘として使っている家なのだ。
そしてそういう人たちは、バカンス気分だから、というのもあるのだろうが地元の人とは全然ちがう。
おしゃれな服を着て今風の髪型をして……とにかく垢抜けている。
そしてそういう人達の中で……特に若い男の人は、『ひと夏の恋』のようなものを地元の女の子に仕掛ける場合があり気を付ける様にと、親や近所の人たちから散々聞かされている。
千鶴は今自分がターゲットにされたのかと、背中に冷や汗が流れた。
しかもこんなに……こんなに…なんというのか…破壊力満点だ。気を抜いたらすぐに持って行かれてしまいそうな。
千鶴のフル回転している思考には気づかず、その男性は窓のところに肘をかけると、千鶴の方に少し乗り出した。
シャンプーなのか何かつけているのか…フワリと複雑な、いい匂いが漂い千鶴はまたもやドキリとした。
「死んじゃったのかな?」
突然の彼の言葉に、千鶴は意味が分からず一瞬目を見開いて言葉の意味を考えた。
……わからない。
そこでおずおずと聞いた。
「死んじゃったって何がですか?」
「その歌の男さ。死んじゃったのかなーって」
千鶴が先ほど歌っていた歌の歌詞のことか、と千鶴は首を横に振った。
「……違う…と思います」
「なんで?『もういない』的な歌詞じゃない?」
「あの、最後の方にその人が誰かと二人で遠ざかっていくっていう歌詞があって……」
「そんなとこあった?」
心底疑問、という顔で首をかしげる彼に、千鶴は戸惑いながらもそこのフレーズをもう一回歌った。彼は黙って聞いている。
「……なるほど。『誰か』が女の子とは言ってないけど確かに他の女の子に心うつりしたともとれるかな…。でもそれ『夢』だとも言ってるよね」
「……確かにそうですけど…失恋の曲だとばっかり思ってました。相手が死んだとは……」
「僕は死んじゃった方がいいなあ。一途な方が好きなんだ」
「それだとまた違った印象の歌になりますね」
警戒しないといけない相手なのに、屈託なく話しかけられたせいで千鶴は思わず会話をしてしまっていた。
「それってかなり古い歌だよね?なんでそんな歌知ってるの?」
「有線で……お店の有線でながれてきて。それで素敵な歌だなって思って調べたんです」
彼は眉をあげて少し驚いたような顔をした。
「へえ、意外に行動力があるんだね。その歌のころってさ、携帯がなかったんだね。だからほら……」
なんだっけ、という顔をした彼に、千鶴は微笑みながらうなずいた。
「そうですね、アドレス帳で電話番号とか管理してたんですね」
「僕はオーだな」
「え?」
突然の彼の言葉の意味がわからず、千鶴はまたもや聞き返した。
「アドレス帳に名前を書いてもらうとしたら、僕はO(オー)のページになる。沖田総司っていうからさ。君は?どこのページ?」
「私は…」
つられて答えようとして、千鶴ははっと口をつぐんだ。ペラペラと名前を教えてしまうところだった。
焦ったように口を閉ざした千鶴を、その沖田という青年はおかしそうに見た。
「あれ?警戒されてるのかな?名前、教えてくれないの?」
ストレートにこう聞かれ、どうやって拒否をすればいいのか高校生の千鶴にはわからない。どうすればいいのかと動揺していると、向こうから待っていたバスがようやくやってくるのが見えた。
「あ、あの、バスがきたんで……じゃ…!」
目もあわさず首をすくめたような曖昧な会釈と別れの言葉を残して、千鶴は急いで参考書をカバンにつっこんでバス亭へと走った。
「……逃げられちゃった」
千鶴がバスに乗り込むのを見ながら、総司の唇には楽しそうな微笑が浮かんでいた。
次の日の朝、まさかいないだろうと千鶴がいつものバス停に行くと、果たして例の高級車は停まっていなかった。
ほっとしていつものベンチに座り参考書を開けようとしたとき……
「おはよう、雪村千鶴ちゃん♪」
聞き覚えのある声がして千鶴は後ろを振り向く。
まだ開いていないスーパーの駐車場に止めてある例の外車に、例の彼――沖田総司――が寄りかかってにっこり微笑みながら片手をあげていた。
しかも今何か名前を呼ばれたような……
千鶴は焦ってガタンと立ち上がる。
「な、なんで、わたっ私の名前……!!」
総司は、車から体を離すとネコのように軽い足取りで千鶴の傍に歩いてきた。
「あれ?挨拶は無し?」
「あ、お、おはようございます…」
千鶴が反射的に挨拶を返すと、ちょうど彼女の真ん前まで来た総司はにっこりと満足そうに微笑んだ。
「よくできました。礼儀正しい子は嫌いじゃないよ」
千鶴は目の前にいる彼を、ポカンと見上げる。
背が高い。
スタイルがいい。
こんな……華やかというのか色っぽいというのか…そう言う人には会ったことがない。そしてそれが逆に千鶴を安心させた。
これだけ恰好のいい男の人だ。モテるに違いない。
こんな田舎町のさえない自分など遊び相手にもならないだろう。
少しだけ落ち着いた千鶴は、先ほど疑問に思っていたことを聞いた。
「あの、私の名前、どうして……」
「はい、これ。忘れ物」
と差し出されたのは、千鶴の下敷きだった。
「ちゃんと名前書いてるんだね〜」
笑いをこらえているような総司の言葉に、千鶴は赤くなりながら下敷きを受け取る。
「あ、ありがとうございます。すいません。もしかしてこれのために今日はわざわざ…?」
総司は一瞬驚いたように眉をあげ、そしてにっこり微笑んで首を横に振った。
「違う違う。昨日も今日も、僕は買い出し係」
「え?」
「『スーパーは朝一が一番新鮮でいいものがそろっているのだ。特にここは三陸海岸に近く海の物が新鮮でうまい。ぜひそれを選んで買ってこい』って料理にうるさい友達が言うからさ。それにバカみたいに食べるヤツばっかりだから毎日買い出ししないともたないんだよ」
ああ、スーパーが開くのを待っていたのかと千鶴は合点がいった。朝早くからこのあたりでふらふらしていて、少し怪しいなと思っていたが、それなら納得がいく。
千鶴が小さく頷いていると、ふと視線を感じた。総司が腕をくんで片手を顎にあてて、まじまじと千鶴を見ている。
「……あの…何か?」
「いや、雪村千鶴ちゃんか…って思ってさ」
「え?」
聞き返した千鶴には構わず、総司は「雪村千鶴……雪村千鶴……ねえ…」とブツブツつぶやきながら視線を彷徨わせ、また千鶴の顔を見る。
「……どこかで聞いたことがあるんだよね。どっかで会った?」
「昨日ここで会いましたけど……」
「いや、そうじゃなくてさ。前にどこかであったことあるよね?」
千鶴の頭の中で、警戒アラームがまたもやなりだした。こんな田舎町で男の事つきあったことのない初心な千鶴でも、そういうことを言ってナンパをしてくる男性がいるというのは聞いたことがある。
千鶴がさっと警戒する顔になったのに気が付いたのだろう、総司が楽しそうに笑った。
「あ、また警戒してる。違うよ使い古されたナンパの手口じゃなくてさ……。君ずっとここにすんでるの?」
警戒しながら千鶴がうなずくと、総司は「ふうん」と小さく呟いた。
「僕達が滞在している別荘は、近藤さんっていう人の別荘でさ。今回は大学の仲間だけで来たんだけど、僕は小さいころ何度か近藤さんと一緒に来たことがあるから、じゃあその時にもしかして会ってたのかな……」
本当に考え込んでいる総司に、千鶴も首をかしげた。
別荘組の子供がときたま遊びにまじることはあったが、彼のような子はいなかったような……?
「千鶴ちゃんはどう?僕に何か……見覚えとか名前に聞き覚えとかない?」
千鶴はマジマジと総司の整った顔を見た。こんな綺麗な顔立ちをした子どもなら目立つだろう。しかし子どもの時の記憶などほとんど曖昧で……
千鶴はゆっくりと首をふった。
「そっか。まあいいか。昔の知り合いだったとしても今また新しくお知り合いになったんだしね」
そう言うとバチンときれいにウインクした総司に、千鶴は顔が熱くなるのを感じる。
「名前もわかったし……後は携帯の番号とメアドを教えて?」
ぐいぐいくる総司に、千鶴はたじたじとなった。ふと視界の端にバスが来るのが見えて、千鶴は救いの神とばかりに身をひるがえす。
「け、携帯は持ってません!」
律儀に返事だけはしてバスにささっと乗ってしまった千鶴を見ながら、総司は微笑み、朝のさわやかな空気の中で伸びをしたのだった。
次の日は朝から雨。
千鶴が行くと総司は当然来ていた。今日は車道で路上駐車している。千鶴を認めると、前回の窓から体を乗り出す。
「おはよ」
「おはようございます」
「毎日真面目だね〜」
からかうように言われて千鶴は赤くなった。
「お、沖田さんだって毎朝来てて真面目だと思います」
千鶴の言葉に、総司の表情がふっと真剣になった。
「あの、何か……?」
何か気に障ることを言ってしまったのだろうかと千鶴は困惑した。
総司はしばらくの間無表情で千鶴を見つめていた。
「……いや、なんでもない」
なんでもない、という様子ではないが総司はもうそれ以上は言うつもりはないようにハンドルに腕をのせてぼんやりとフロントガラスを見つめている。
「……君に初めて名前をよばれたなって思ってさ。やっぱりどこかで呼ばれたことがある気がするんだよね」
総司は、暫く記憶の糸を手繰る様な表情をしていたが、辿り切れなかったようで小さく首を振った。そして気分を変えるようににっこりと微笑み千鶴を見る。
「雨だし、送って行ってあげようか?」
そう言って自分の助手席を総司は指差す。千鶴は慌てて首を横に振った。
「けっけけけけけ結構です!」
総司は千鶴の動揺ぶりを見てニヤリと笑う。
「やだなあ、車に乗ったからって変な所に連れ込んだりしないよ?」
「ヘンな……変な所って……ヘンな…」
アワアワしている千鶴を見て、総司はまたもや楽しそうに笑った。結局その日はバスが車で千鶴とおしゃべりし、バスに乗り込む千鶴に手を振って別れたのだった。
次の日も、当然その次の日も、そして土日をはさんで次の月曜日にも火曜日にも……彼はやってきた。
最初は警戒していた千鶴も、毎朝恒例のようになってしまい慣れてくる。何より総司自身がまったく物おじせず意識せず、自然な感じで話しかけてくるのだ。妙に方意地張っている自分の方が馬鹿らしく見えてくる。
警戒は忘れないようにしているものの、千鶴もだんだん打ち解けてくる。
そんなある朝……
「今日の夜このあたりでお祭りがあるんだね」
朝いつものように千鶴がベンチに座っていると、後ろの駐車場に車をとめてやってきた総司がそう言った。
「千鶴ちゃんも行くの?」
千鶴はうなずいた。
「はい、お友達と」
「男?」
間髪を入れずに聞かれて、千鶴は目を瞬いた。
「いいえ、女の子です」
素直にそう返事をすると、総司はにっこりと微笑んだ。
「僕も仲間と一緒に行くんだ。向こうで会えるといいね」
「そうですね」
本当にそう思う。
恐ろしいことに、千鶴は少しだけ総司に惹かれてきてしまっていた。夏が終われば彼はここから去ってしまう。千鶴とは全然違う世界へ。好きになるとつらいだけだとは思うものの……
でもこのバス亭だけじゃなくて別の場所で会えたらきっと楽しい。そしてもう少しだけ仲良くなれたらもっと嬉しい。
千鶴は頬が熱くなるのを感じながら、うつむいたのだった。