【歯車】
冬の保健室は寒い。
ストーブはあるものの授業時間が終わるとスイッチを切られてしまうのだ。
だらだらはしていたいけど、ベッドの中で布団にくるまっているのもつまらない。
総司は保健医の山南の椅子にかけてあった学校指定のカーディガンを羽織ると、スマホとイヤホンと参考書を持って保健室を出た。
出たところすぐの廊下で女子三人男子二人が輪になって何かを話している。そのせいで前に進めなくて総司は溜息をついた。
「じゃまなんだけどなぁ。どいてくれない?」
にこやかな笑顔で言う総司に、五人はビクンと反応した。
「あ!沖田先輩…!す、すいません……!」
「すいませんでした!」
ざざっと廊下の両側の壁に張り付いて、総司のために通路をあける。総司はそんな下級生たちににっこりとほほ笑んで通り抜けた。
「ありがとう」
立ち去る総司の背中を眺めながら、下級生たちはこそこそと言葉を交わす。
「怖え〜!俺沖田さんをこんな近くで見たの初めて」
「むちゃくちゃかっこいいけど……でも悪い噂ばっか聞くよね。目が怖かった〜笑ってなかったよ」
「女関係派手で?ケンカばっかしてて?」
そう言葉を交わす生徒たちに別の男子生徒が言う。
「かっこいいじゃん!クスリとか盗みとかそーゆーのは聞かないしさ!あんだけかっこよくてケンカ強くて頭もよけりゃ女だって寄って来るだろうし!俺あこがれてんだよね〜」
その男子生徒は他の生徒たちから次々と反論された。
「何言ってんの!どこでキレるかわかんないのよ〜!?キレたらすごい怖いんだってよ?ぼっこぼこ!」
「成績はいいみだいだけど授業はほとんど出ないみたいだしさ。なんか雰囲気違うよね、ピリピリしてるっていうか…」
「いまどきケンカなんかだせー」
「ま、要はさわらぬ神にたたりなしってやつ?」
最後の台詞に皆納得してうなずいたのだった。
「う〜寒っ」
ぶるっと震えながら総司は暖かそうな場所を探して歩き出した。
後ろで下級生たちが何を言っていようが、総司には全く気にしてなかった。人は人。自分とは価値観が違う。
大事でもなんでもない奴らに何を言われようと関係ない。
暖かい部屋といったら南側の部屋だろう。1階よりは上の階の方が日がよく当たる……ってことは……。
総司が目星をつけた部屋へ行き、ドア真ん中にあるガラスになっているところから中を覗きこんでみる。
見た限りは誰もいなさそうで、そして想像通り南向きの窓からは暖かそうな日が差し込んでいた。
家庭科室の様で、広いソファのような椅子もある。
総司はそっと引き戸をあけると家庭科室の中へと入って行った。
窓際の長椅子の感触を確かめるように座ってみると、くたびれた感じが意外に心地いい。周囲も静かで、そしてすごく暖かかった。
いい場所を見つけたな、と総司は長椅子に足を延ばして寄りかかろうとしたとき、部屋の反対側で、目を見開いてこちらを見ている女の子に気が付いた。
その子の場所も陽だまりの中で、椅子に座って何か布を広げて……手には針と糸を持っている。そして総司の方を驚いたように見ていた。
「アレ、先客がいたんだ」
初めて近くで聞いた彼の声は、とても艶やかだった。柔らかそうな茶色の髪が、冬の光に照らされてつやつやと輝いている。透明な緑の瞳が驚いたように見開かれている。
ネコ科の肉食獣がもつ静かな緊張感をまとって、彼はこちらを見ていた。
「あ、あの……すいません」
最初からいたのは千鶴の方なのだが、性格からなのか何故か謝ってしまった。立ち去った方がいいのかと持っていた針を針山にさして布をまとめだす。
「別にいいよ。僕が勝手に入って来たんだし。……僕もここにいてもいい?」
座っている長椅子を指差しながらの総司の提案に、千鶴の眼が更に大きく見開かれた。
「はぁ……はい…」
「そ、ありがと」
それっきり言葉もなく、総司は長椅子の腕置き部分に背中をあずけて脚を伸ばした。イヤホンをつけて音楽を聞き、参考書を開く。
まるで千鶴がいないようにリラックスして自分の世界に入ってしまった総司に、千鶴は戸惑いながらももう一度針を手に取った。
あまりにも自然体な彼に、千鶴の緊張もほどける。針を運び出すと、千鶴の意識も元の縫い目へと戻って行く。
窓から降り注ぐ日差しは暖かくまろやかで、ほとんど動かない空気はとても静かで。
そうして静かな時間が流れて行った。
「何を縫ってるの?」
突然近くから聞こえてきた声に、千鶴ははっと我に返った。顔をあげるといつの間にか、長椅子にいたはずの総司が近くの椅子の背もたれに腕を載せてこちらを見ている。
「えっ…えっと……これはですね…演劇部の衣装です」
「演劇部?君、演劇部なの?」
「いえ、私は手芸部ですけど、演劇部の方に頼まれてこうやって縫ってるんです」
総司は机の上にひろげられた様々な色合いと質感の布を見た。
「これ全部?一人で?」
「手芸部としての活動は木曜日で、その日は部員のみんなでやります。これは私が好きで木曜日以外にも個人的にやってるんです」
勉強に飽きたのか、総司は「ふぅん」と言いながら興味なさそうに机の上の布の塊をいじった。
ぎゃあぎゃあうるさいのが総司は苦手なので、木曜日にはここに来るのはよそうと頭の中にメモる。
彼女一人ならいい。
傍に人がいるのは、よほど親しくなければ気が散って疲れてあまり好きではないのだが、最初にこの部屋に入ったときには彼女の気配にさえ気が付かなかった。
それくらい彼女の雰囲気は静かだったのだ。そして実際一緒にいても全然気にならない。むしろ落ち着く。
暖かい日差しと、静かな部屋、そして何かを縫っている彼女……。
まるでずっと昔からこんな時間を一緒に過ごしてきたようだ。
今まで見たことのない子だし、多分下級生だろう。黒い艶やかな髪に真っ黒な瞳。肌が白いせいでコントラストがきれいだ。大人しそうな雰囲気だけど意外に意志は強そうな瞳をしている。
「たいへんだね」
総司が特に考えずにそう言うと、千鶴はおかしそうに笑った。
「たいへんじゃないです。好きでやってるんで」
初めて見た笑顔が、ぱっとあたりを明るくするような邪気や媚びのないものだったので、総司は驚いた。意外に明るそうな様子についついからかうようなことを言う。
「好きなの?こんなちくちくやってるのが?買った方が早くて安いんじゃない?」
千鶴は総司の言葉にも、笑顔をくずさなかった。
「そうかもしれないですね。だからこれは本当に私がやりたくてやってるんです。演劇部の方々も喜んでくださるし私も楽しいし……」
「ふーん。でも…なんかいいね。女の子が縫い物してるのって」
「?そうですか?」
何がいいのかまるでわかっていないような千鶴の様子に、総司は更に好感を持った。肉じゃがやとれたボタンを縫ってあげる系のオンナノコアピールはわかりやすくて嫌いじゃない。けどそういうことをしてくる女の子にはやはりそういう……駆け引きじみた対応になる。それはそれで楽しいけれど、彼女のような純粋なのは心が落ち着く。
総司はにっこりとほほ笑んだ。
そんなこんなで木曜日以外の放課後は、たいていいつも5階の隅にある家庭科室で、千鶴が縫い物をして反対側の長椅子で総司が寝そべりながら勉強をしているのが常となったのだった。
演劇部の衣装が半分ほど縫いあがったある日、総司は遅くになってから家庭科室にやってきた。
毎日来るわけではないものの何となく気になっていた千鶴は、ガタンというドアを開ける音に、家庭科室の入口を振り返る。
「……!ど、どうしたんですか?」
「ん?」
何でもなさそうに答えた総司の唇は、端から血がでていた。
襟元のボタンが取れており、ネクタイもほとんど解けている。髪も乱れて唇のあたりには痣が出来ていた。
「僕が卒業する前に勝っておきたいんだってさ。ケンカを売られたんだよ」
「ケンカを売るって……」
「お世話になっている近藤さんっていう武道家がいるんだけどね、その人の家にまで行ってあることないこと……」
いら立ちを思い出したのか、総司は舌打ちをした。
「おまけに道場破りみたいな真似してくるからさ、ちょっとサシで話そうよって。でお話してきた」
してきたのはお話だけではないのは一目見てわかる。
千鶴は眉根を寄せた。
「唇…消毒しないと…」
総司はペロリと自分の舌でなめると、笑った。
「なめときゃだいじょーぶだよ」
千鶴はかまわず部屋から出て行くと、保健室からアイスノンを持ってくる。そしてタオル地のハンカチでくるむと、総司に渡した。
「これで冷やしてください。あとはどこか…?」
強引にアイスノンを渡されて、総司は目を瞬いた。心配そうに自分を見ている千鶴をからかう。
「君って意外に強引なんだね。僕、勝ったって言わなかったっけ?」
総司の言葉に、千鶴は振り向くと真っ直ぐと総司の目を見て言った。
「暴力は嫌いです。力で解決しないといけない状況や時代は確かにあると思いますけど……。でも私は暴力はきらいです」
きっぱりと言い切った千鶴を、総司はほほえみを浮かべながら見つめた。
自分のことを否定されたのだが、不愉快だとは思わなかった。彼女らしい。そしてそれが……心地いい。
自分と違う価値観でも、それをまっすぐに生きている人間というのは気持ちがいいものだ。総司はそういう人が好きだった。
「…そっか、ごめんね心配させて」
そしてそういう人達の心配は、受け入れる。
総司のヤケに素直な態度に、千鶴は拍子抜けしたようにキョトンとしたのだった。
「できたの?」
ある日家庭科室へ行くと、いつもは机の上に山積みになっている演劇部の衣装がきれいさっぱりなくっていた。
千鶴は布きれを持ちながらにっこりとうなずいた。
「はい。全部終わりました。4月の新入学生への発表会の時に使うそうです」
総司はいつもの長椅子に腰掛けると、辺りを見渡した。
「ふーん。じゃあ君はこれから何をするの?」
どうでもよさそうに言う総司に、千鶴は律儀に返事をした。
「演劇部の衣装を作った後の端切れを頂いたんです。ほら」
そう言って机の上に広げたのは、型紙から布を切り取った後の切れ端で、総司にはゴミにしか見えなかった。
「……何そのぼろきれ」
「これでパッチワークをしようかなって。ほら、舞台がアーリーアメリカンだったので、あまり布も全体的なトーンが統一されていてカントリー風でしょう?これとこれをベースにしてこの色をアクセントにして……」
夢中になってぼろきれを並べている千鶴は楽しそうで、総司は彼女の言葉の意味はほとんど理解できなかったけれども、大人しく聞いていた。
そしてだんだんとわかってくる。
「なるほど。じゃあこのぼろきれをちっさく三角とか四角に切って、模様になるみたいに配置して縫ってくってこと?」
総司の言葉に、千鶴は嬉しそうに頷いた。
「そうです!そうして大きな一枚の布にするんですよ。かわいくて好きなんです」
「それはわかったけどさ、それで大きな布にしてどうするの?」
千鶴は、うーんと考えるように首を傾けた。
「そんなに切れ端は多くないので、多分クッションくらいにしかならないと思うんです。だから……」
「クッションが欲しいからつくるんんじゃなくて、その…なんだっけ?なんとかワークを使いたいからクッションをつくるの?」
なんでそんな無駄なことをするのか、と呆れたように見開かれた緑の瞳に、千鶴は拗ねるように言った。
「…だから趣味だって言ってるじゃないですか。実用じゃないんです」
そんなことをいいながらも、その後も総司は千鶴が作業をしているとよく覗き込んできた。
配色や並べ方について、こっちの方がいいとかああしたら?とか口をはさむ。
「そうだ。それさ、クッション。できたら僕にくれない?」
端切れを同じサイズに切って、デザインと配色を決めて、後は縫うだけになったときに総司が言った。
「ここの長椅子、居心地はいいんだけど枕がないんだよね。ちょうどよくない?」
総司の都合のいい言葉に千鶴は笑い出した。
「いいですよ。じゃあよければもらってください」
「じゃ、僕のになるわけだしやっぱり配色の地の色はさ……」
そう言ってちゃっかり千鶴に却下された配色にするように言ってくる総司に、千鶴はまたも笑った。
彼女の笑い声が、静かな陽だまりの空気を震わす。
こんな時間があったことを、忘れたくないと総司は思った。
何を忘れたくないのか具体的にはよくわからない。彼女なのか笑い声なのか。縫物をしている姿なのか、陽だまりなのか……。
多分全部だろう。この時間、景色、温度や会話。
普段自分のまわりにはほとんど人は寄ってこない。寄ってくる奴はなんらかの理由で自分を利用したい奴かケンカしたいだけのやつがほとんどだ。だからこそ人が寄り付かないようにヤマアラシののように刺をつくってきたのだが。
でも彼女のそばでは、その刺は必要がない。何故だかわからないけれど。
よくわからないなりに、とても大切なものだということはわかっていたのだった。
……それでどうしたかって?
総司は目をパッチリを開けると、自分の部屋の青色の天井を見た。
伸びをしてから布団をまくり上げて起き上がらる。
……それで終り。別に何も起こらなかったよ。
現実なんてそんなものでしょ?僕はそんな……縫い物してるような女の子とつきあうタイプじゃなかったし、彼女の名前さえ知らなかったし。
え?クッション?
それはちゃんと完成したよ。もらった。
総司はあくびをしながら髪をかき上げ洗面所へと向かった。
途中でちらりとベッドの上にころがっているパッチワークのクッションを見る。黒と白で統一されたそっけない部屋の中で、そのクッションだけが色鮮やかな存在だった。眠れないときは抱きしめて、本を読むときはクッションにして、と10年近く使ってきたせいでかなりくたびれているが、総司はそれを大事にしていた。正直これがあるせいでこの部屋に……このベッドに他の女性を呼べないでいるような気もする。
……クッションをもらって。しばらくそれを枕にしてあの長椅子で勉強して。そして受験に卒業。
卒業式の退場の時に、初めて家庭科室以外であの子を見たよ。やっぱり下級生だったみたいで在校生の席に座ってた。目があってかすかに笑って会釈してくれて。僕もちっさくバイバーイって手を振って退場。オシマイ。
多分人生ってのは歯車みたいになっててさ。知ってる?時計の中の歯車。
いろんな大きさの歯車がかみ合って、一番大きな歯車を動かすんだ。
そして僕とあの子の場合、最初の歯車がうまくかみ合わなかったんだろうなって思うんだよね。
僕もガキで……あの子といる時の自分の気持ちがなんなのかよく分かったんかったんだ。ほら高校生だからさ。やっぱりこう……刺激が強い方に思わず目が行っちゃう?みたいな?
総司は洗面所で顔を洗うと、鏡で自分の顔を眺めた。
相変わらず癖の強い猫っ毛の髪はあっちこっちに跳ねている。今日は一応身だしなみを整えないといけないので、軽くムースを付けてなでつけてみた。しかしそれも気休めで多分30分もするとまたあっちこっちに跳ねるのはわかっているのだが。
歯を磨いてうがいをして、寝室に戻ると、総司はクローゼットにかけてあるスーツを選んだ。
ブラックに近い濃紺のスーツに薄い青のYシャツ。ネクタイは……紺に水玉にしよう。
……僕が大学生の時に、高校の演劇部の奴と会う機会があって聞いたことあるんだけどね。
『ねえ、演劇部の衣装を作ってくれてる子いたでしょ、手芸部の。あの子どうしてるか知ってる?』
ふと思い出して聞いんだけど。
『ああ、なんか引っ越しちゃったんですよ。で、転校もしちゃって…。今すごい困ってるんですよね〜』
……ね?現実なんてこんなもん。
結局僕にはもうあの子がどこにいるのか、名前がなんなのかわからないままで、青春の1ページってやつになってるんだよね。
休日なのにスーツを着て、お腹が鳴ると困るからとりあえずカロリーメイトを口に放り込んでコーヒーを飲む。
そして今回の仲人である近藤に見ておくように、って言われた釣書(開けてもいない)を持って総司は家を出た。
そうして10年たってようやく……ようやく今になって、あれが僕の初恋だったんだなってわかるんだ。
あの時はわからなかった。
彼女と会ってる時が楽しくて、本当の自分を出せて、会いたいんだけどなんて思われるのか怖くて会いたくなくなったりして。
そんな風に大事な物を作るのが怖くて。だって失っちゃったらどうする?想像したくないよね?なら大事な物なんて作らないのが一番安全だと思わない?
今はそうは思わないけどね。あの時はそう思ってた。
これだけ生きてきてわかったんだけど、本当に大事な物ってすごく少ない。僕には一つか二つあればいい方。
だからそれに出会えたなら絶対に離しちゃいけなかったんだ。
でも18歳の僕には当然ながらそんなことはわからなくて。
大事な物ってあいまい過ぎてよく分からないけど、でも彼女と過ごしたあの時の風景は今も心の中にしっかりと残ってる。
ささくれ立ったりイラついたりしたときに、時々思い出してるよ。
原点っていうのかな。ギアをニュートラルにいれるような気分。
あの後いろんな子とつきあったけど、ニュートラルで一緒に居られる子はいなかった。1速2速。6速の子とかはいたけどね。そして結局長続きしないで、こうやって今近藤さんにやいのやいの言われてるわけ。
今日もこれで……何回目だったかな?…のお見合い。
近藤さんがお世話になってる人の娘さんとかでさ。失礼の無い様にしろって言われてるんだけど、僕にしたらこれまでと同じなんだよね。結局断るんだから釣書もみないし身上書とかも読まない。
失礼にならないように愛想よくはするけどね。結婚にはそんなに…興味がないんだよね。誰かと一生暮らしていくなんて現実感がないし、それこそニュートラルになれる女の子がいたら考えるけど、一生1速ならいらいらしちゃうし、6速なら疲れちゃうでしょ?
地下鉄に乗ってお見合いをする予定のホテルに入ると、近藤はもう来ていた。
総司より気合いが入っているんじゃないかと思うくらいの、ちゃんとした和装だった。
「お、ちゃんと来たな」
笑顔で迎えてくれる近藤に、総司も笑顔になる。彼も数少ない総司の『大事な物』の一つだ。
「そりゃ来ますよ」
「釣書と身上書は……また読んでないんだろうな……」
哀しそうな表情をする近藤に、総司は持ってきていた釣書を渡した。
「あたりです。お見合いの斡旋はもうこれで最後にしてくださいよ」
「でもなぁ、お前だってそろそろ身を固めんとご両親が心配なさるだろう?」
近藤は釣書を受け取ると溜息をついた。
「とにかく、今日は失礼の無い様にちゃんとするんだぞ。相手の方の名前は、雪村千鶴さんとおっしゃる。お前より二つ下だ」
「はぁい。雪村さんね」
総司が気の無い返事をした時に、後ろから年配の女性の声がした。
「あの……近藤さんでいらっしゃいますか?」
振り向くと留袖の中年女性と……となりに華やかな振り袖を着た若い女性が立っている。
「おお!これはこれは……」
挨拶をはじめた近藤から目を離して、総司は今日のお見合い相手に笑顔を向けた。
真っ黒な髪を緩いアップにしていて、肌は真白だ。瞳が黒くてコントラストが………
……あれ?
なんだか見たことがあるような気がして、もう一度彼女を見る。
「あれ……え?君……」
総司の様子に近藤と中年女性が振り向いた。
「なんだ?総司」
「どうかしましたか?」
目を見開いている総司に、振り袖を着た女性が少し恥ずかしそうに言った。
「……お久しぶりです。覚えていらっしゃるとは思わなかったです」
相変わらずの女の子らしいトーンの声。間違いない。家庭科室の彼女だった。
「えっ……え?」
動揺している総司に、中年女性が不審げに言った。
「まさか……もともとお知り合いだったんですか?でもなぜ今それに……まさか…!」
そしてハッとしたように近藤を見て、総司を見て言い募る。
「釣書も身上書もご覧になってないんですか?それでいきなり今日会いに?そういうことですか?なんて不誠実な……!」
急に怒り出した中年女性を、近藤が必死に宥めた。
「いえ、見てないというわけでは……」
総司は近藤と中年女性には構わず、千鶴に言った。
「…君……あの時の子だよね?家庭科室の……」
総司の言葉に、彼女はコクンとうなずいた。総司はさらに混乱する。
「知ってたの?相手が僕だって……知っててこのお見合いに来たの?」
千鶴はもう一度うなずいた。
「先輩は有名人でしたし……名前は知っていました。写真も、全然昔と変わってなかったので」
唖然としている総司に、千鶴は再び話し出した。
小さな声だが瞳はまっすぐに総司を見つめている。
「私の方からはお断りはしません。そのつもりで今日はこのお見合いに来たんです」
胸に直接飛び込んでくるような言葉に、総司は茫然と立ちすくむ。
頭の片隅、どこか遠いところで小さな小さな歯車がはまる『カチリ』という音が聞こえた。