【あじさい】
総司の使っている駅から家までは歩いて20分。
決して近くはない。実際近所の人たちは駅までバスを使ったり自転車を使っている。
けれども総司は駅から家までつながるこの道が好きで、いつも歩いていた。
高校での友達とのバカ騒ぎと部活でのキツイ練習の後、いろんなものが抜け落ちたような気持ちで日暮れの中を好きな音楽を聞きながら一人で歩く。
途中までは本屋や喫茶店、ファーストフードの店が立ち並び、いろんな人達がいろんな理由でそれぞれの時間を過ごしているのを眺めるのも好きだし、そこを通り抜けた先にあるちょっと大きめの公園の中を通り抜けて行くのも森林浴のようで気持ちがいい。
今の時期はちょうど紫陽花が咲き始めたころで、薄い青色の空気に溶けそうな花を視界に入れながら、何も考えずに歩くのが好きだった。
部活で使った汗まみれのタオルやTシャツの入ったスポーツバックを肩にかけ、紫陽花を眺めながら総司が歩いていると、向こうから見たことのある人影が歩いてくるのが見えた。
……いや、歩いていない。ぼんやりと道のわきにつったって咲きかけの紫陽花を眺めている。
この公園は人通りも多いからそれほど危険ではないけれど、もうそろそろ暗くなるし、そもそもこんな時間に彼女が外を歩いているのは珍しい。この時間は彼女は家で忙しく家族の夕飯を作っている時間なのだ。
「千鶴ちゃん」
総司が声をかけると、その女性はパッとこちらを振り向いた。
肩までの黒い髪に大きな瞳、長い睫。会社帰りではなく一度家に帰って着替えた様で、ジャージ素材のブルーのロングスカートにシンプルなVネックのニット。最近はあまり会うこともなくなっていたがそれでも家が隣で朝出かけるときには顔をあわせる……というか、総司がわざわざ千鶴の出てくる時間に合わせて家を出るのだ。
さすがに思春期真っ盛りの高校生男子としては近所の年上社会人のお姉さんと一緒に駅まで歩いたりはしないが、それでも前の方を他の通勤通学の人影に交じって歩いている彼女の後姿を眺めながら歩く朝は、総司にとって楽しみの一つだった。
彼女の本当の母親は、総司がまだ小さかった頃病気で亡くなった。それからしばらくして新しい「お母さん」がやってきて、その人は嘘か本当かは知らないが(総司は嘘だと思っている)熱がある、あそこが痛い、ここが痛いと言ってほとんど家事をしない人だった。そのくせ昼間はめかしこんで街の方へ友達と食事に行ったりしているが。
千鶴は生来の人の好さからか、高校生のころから義理の母親の世話も含め家の家事を一人でやっていたのを総司は知っていた。
無事社会人となった今でもそれは同じで、ほとんど残業のない部署であったことも幸い(?)して、彼女はいつも帰って来ると家でのんびりしていた義理の母と仕事から帰って来る実の父のために夕飯を作ってやっていた。
「何してるの?めずらしいね」
総司より六歳も年上の社会人なのに、双方の性格からくるものなのか総司の方が何故かタメ口だった。千鶴は誰にでもそうだが丁寧な言葉を使う。立場的にも、何故か年下の総司の方が上というか……頼りにされている。千鶴からも世間からも。
「総司君……今帰りですか?」
「うん」
そう言いながら総司はさっと視線を彼女の上から下まで巡らせた。
……何も持っていない。カバンも財布も携帯も。
何かあったかな、と思いながら彼女の顔を見ると、感情の隠せない彼女はあからさまに動揺した瞳をしていた。
「どうしたの?……大丈夫?」
総司が思わずそう聞くと、千鶴は少し驚いたような顔をした。そして視線をそらせて気まずそうに苦笑いをする。
「総司君は……そういえば鋭いんですよね結構。よく見てると言うか……」
「どこに行くつもりだったの?」
「……コンビニに……」
総司はもう一度千鶴の手を見る。
「……でも何も持ってないじゃない?財布は?」
本当に素直に疑問を口にしただけなのだが、千鶴の大きな瞳に一気に涙があふれた。
総司はギョッとする。
「え…っ何?僕何かひどいこと言った?」
慌てる総司に千鶴が笑いながら(泣いているけれど)涙を拭く。
「いえ、違います。ほんとに私って駄目だなぁって………っ」
言った瞬間こらえられなくなったのか、千鶴は両手で顔を覆ってしまった。肩が細かく震えているのと小さなしゃくりあげる声で泣いているのが分かる。
これはただごとではないと思い、総司はとりあえず泣いている千鶴を少し奥まったところにあるベンチへと促した。
ハンカチも持ってきていない千鶴に総司が渡せるのは、スポーツバックの中に入っている汗臭いタオルだけだった。
さすがにこれはまずいよね…と思いながらもらったティッシュでもないかとカバンの中をあさっていると、千鶴が『それでいいです…』と言いながらスポーツタオルに手を伸ばした。
「これ使用後だよ?」
千鶴はわかっている、というように頷くと、総司から渡されたタオルに顔をうずめて涙でぬれた頬を拭う。
「……くさいです……」
指摘されて、総司はタオルを取り上げた。
「だから臭いって言ったでよね?」
好きな人にかがせたい臭いではない、絶対に。
総司は耳が熱くなるのを感じながら、スポーツバックにタオルを押し込んだ。もう二度と貸さないぞと思っていると、千鶴がぽつんと呟いた。
「……私、結婚しようと思って」
「はあ?」
唐突な宣言に、総司は間抜けな声を上げた。
「千鶴ちゃん彼氏いないでしょ」
断定的に答えたのは、確実に男と付き合ったことがないのを知っているからだ。伊達に近所に住んでいるわけではない。
「いないですけど、お見合いするんです」
「はあ?」
総司はまたもや聞き返した。
「千鶴ちゃんまだ24歳でしょ?なんでそんなお見合いなんて……しかも断るつもりないってまだ会ってもいないんじゃないの?」
「そうですけどすごく良い方だっていうお話ですし」
「お見合いの話があったってこと?親戚とかから?」
千鶴はゆっくりと首を振った。
周りで咲いている紫陽花の大きな花房が宵闇に溶ける中、千鶴の白い顔だけがぼんやりと浮かび上がる。
「義母(はは)からです」
千鶴の返事に総司は心の中で舌打ちをした。本当にあの家は……特にあの義理の母親は千鶴にとってはよくない。
全くよくない。
とっとと家をでて縁を切ればいいとは思うものの、お見合いして結婚というのは考えていたのとは違う。
「……私は、本当に自分でも思うんですけど頼りなくて……今もおサイフ忘れてきてしまったし、一人で生きていくのは無理だっていう義母の気持ちもわかります。これからどんどん歳を取っていくばっかりですし、これまで男の人と付き合ったことのない自分がこれから誰かと出会って付き合うなんて考えられないですし……。それなら今お見合いで好意的に受け入れてもらえる年齢の時に、お見合いをして結婚してしまった方がいいのかなって…」
千鶴の極めて低い自己評価に、総司は眉根を寄せた。
「何言ってるのさ。千鶴ちゃんはちゃんと真面目に学校卒業して就職してるよね、しかも安定した公務員。金銭的にも保障的にも全然一人で生きていけるししっかり自分の将来考えてるじゃない」
総司がそう言うと、千鶴は自分の膝の上に置いてある手に落としていた視線を、総司に向けた。
咲き誇る紫陽花を背景にこちらを見ている千鶴は、ぎくりとするほど色っぽく儚く、総司は思わず視線をそらす。
「総司君は優しいですね。でも私は……そのあまり男性からしたら魅力的な方ではないので……」
「そう君の義理のお母さんから言われたの?」
千鶴は何も言わなかったが、多分そうなのだろう。千鶴の将来を親身になって心配している風を装って、千鶴をさっさと片付けて家から追い出したいのだろう。もしくはそのお見合いの相手が、あの女の好きなブランドな家系とかなのかもしれない。
「千鶴ちゃんは結婚したいの?」
「……」
総司の質問に、千鶴はかなり長い間答えなかった。もう答えるつもりがないのかと総司が思い始めたころ、ようやく千鶴はゆっくりと口を開いた。
「……私はこのまま……このままのんびりゆっくり毎日を過ごしたいです。知らない人といきなり…暮らしていくのは不安の方が大きくて。でも私がこうやってふらふらしてることが周りの人たちを心配させているのなら結婚した方がいいのかなって思います」
総司は溜息をつくとベンチの後ろ側に手をついて足を組む。
「……千鶴ちゃんはさぁ…」
総司はそう言うと言葉を探す。
「……千鶴ちゃんは見た目と中身が違いすぎるんだよ。自分の意見とかなくて言いなりになる大人しそうな女の子に見えるけど、実はちがうじゃない?」
千鶴は驚いたように目を見開いた。
「そう……ですか?」
「うん。上手く言えないけどわかってるのは僕と、あと癪だけど薫くらいじゃないかな」
「薫」というのは、もう家をでて違う街で働いている千鶴の双子の兄だ。総司とは犬猿の仲だが千鶴に対する理解度としてはかなりのレベルだ。それがお互い分かっているせいで余計腹が立つのだが。
「例えばさ、知らない駅まで行くとして使い慣れたJRと乗ったことのない私鉄とがあると、千鶴ちゃんはとりあえず私鉄の方を選ぶでしょ?」
唐突にとんだ話に、千鶴はぱちぱちと瞬きをした。
言われた内容を考えると、確かに自分は乗ったことのない方を選ぶだろうとは思う。だって乗ったことがないのだからどんな面白い駅名や素敵な景色があるからわからないではないか。JRの方は毎日の通勤で使っているから駅の感じや車内についてもなんとなく想像はつく。
首をかしげながらも千鶴が頷くと、総司はにっこりとほほ笑んだ。
ぱっと水が弾けるようなその笑顔に、千鶴はまた目を瞬く。無邪気で可愛い笑顔……というわけではない。もともときれいな顔立ちと色気のある雰囲気を持った子だったが18歳の今は……
そこまで考えて千鶴は顔を赤らめた。
何考えてるの。総司君は子供のころから一緒に遊んだ子で、まだ高校生なんだから……
18歳の高校生にドキドキしてしまう自分に戸惑い、千鶴は自分が欲求不満なのかと不安に思った。やはり早く結婚した方がいいのだろうかと考えていると、総司が続けて話し出した。
「千鶴ちゃんが見合いして誰か知らない野郎と結婚するとして、その男はそんな千鶴ちゃんのことなんか絶対理解しないよ。乗り慣れたJRの方が良いって言うに決まってる。っていうかそもそもどっちに乗るか聞きもしないんじゃないかな?そうして千鶴ちゃんも私鉄の方に乗ってみたいなんて言い出せなくて……一事が万事こんな感じだと思う。千鶴ちゃんのそのちょっとズレた好奇心を長所だと思うような男と結婚しないと、苦しい人生が待ってるよ、きっと」
こちらを見て静かに話している総司の緑の瞳を、千鶴は覗き込んでいた。
こんなに成長してからマジマジと彼の瞳を見たのは初めてだが、緑の光彩の奥で金色の光がきらめいていてとてもきれいだった。
JRと私鉄の話のどこが自分の長所なのかよくわからない。でもそんなところまで知っていてくれて、しかも好意的にとらえてくれる総司に、千鶴は心の奥底から暖かい何かがこみ上げてくるのを感じた。
この感じは……そう。薫や千ちゃんや……仲のいい人といると感じる安心感。
このままの自分でいいのだと思える安堵感。
そして千鶴はこれまでの経験から、そんな風に感じさせてくれる人は出会う人達の中ではほんの少しだとわかっていた。
デートに誘われたり携帯番号を男性から聞かれたことは何度かあった。でも誰と会っていてもいつも本当の自分を出せない感じだった。
そして彼らの望んでいるだろう自分を演じるのに疲れてしまって一度のデートでお断りをするのもいつものことだ。
お見合いして結婚する男性が、その数少ない波長のあう理解者であるとはかぎらない。いや、多分理解者ではないだろう。そうなると自分は総司の言うとおり、一生自分を押し殺して生きて行かなくてはいけないのだろうか。
「だからさ、僕と結婚しようよ」
さらに跳んだ話についていけなくて、千鶴は目を見開いた。
「千鶴ちゃんは誰でもいいから結婚したい。僕は千鶴ちゃんは千鶴ちゃんの良さをわかってくれる人と結婚した方が良いと思う。そして僕はわかってる」
三段論法……と言えるのかどうかわからない総司の論理に、千鶴はでも、そこまで心配してくれているのが嬉しくて微笑んだ。
「ありがとう。ごめんなさい心配させて。お見合いの話ももうちょっと考が……」
「いや、別に心配してるわけじゃなくて、僕今生まれて初めてプロポーズしたんだけど?」
「ええ?」
笑いながら総司の顔を見た千鶴は、薄ぐらい闇の中真剣な顔をしている総司を見て笑顔をひっこめた。
「え?えっと……」
「きっとうまく行くと思うよ。そんなお見合いとかでいきなりあった野郎なんかよりは」
「えーえっと……」
これは何の冗談なのだろうか。真面目に考え出した途端『冗談だよやだな〜』と笑われそうで千鶴は口ごもった。
「それは……大きくなったらっていう意味?」
千鶴の言葉に総司は明らかに機嫌を悪くした。
「どういう意味?僕もう十分大きいと思うけど?」
そう言いながら『ほら』というように腕を広げた総司を、千鶴は思わず見た。
そして改めてみた総司の体にまたもや黙り込む。
いつのまにこんなに肩幅がひろくなったんだろう。腕もがっしりとして手もとても大きい。千鶴の手なんてすっぽり包んでしまえるくらいに。引き締まった腰に長い足。身長は千鶴より10cm以上は高い。
力も強そうで、抱きしめられたら振りほどけないだろう……
そこまで考えて千鶴はまた赤くなった。ほんとうに自分はおかしい。だって彼はまだ高校生で……
「男って18歳からは親の承諾なしに結婚できるんだよね?まぁうちの家族は反対しないと思うけど。千鶴ちゃんはもう成人してるから反対されてもOKだしね」
「え?結婚って今ってことですか?」
驚く千鶴に、総司は当然と言うようにうなずいた。
「いいんじゃない?今で。何か問題でも?」
何が問題かまったくわからないという表情の総司に、千鶴は唖然として口を開けた。
だいたいつきあってもいないし、歳の差だってある。近所に住んでいる幼馴染で、そりゃ子供のころはよく遊んだが今は朝の挨拶、たまに立ち話で近況報告くらいだ。高校生の総司はモテるようで、バレンタインやクリスマスには家の前で女の子が待っているのを見かけたことも何度もある。
「問題って……全部問題のような……。だって総司君、高校生でしょう?」
「うちの校則に『結婚不可』なんて書いてないし、べつにいいんじゃない?」
「勉強とか…」
「?するよ?普通に。なんで結婚したら勉強できなくなるのさ?」
「……だって金銭的にもどうやって暮らしていくんですか?」
千鶴の問いに総司はにっこりとほほ笑んでうなずいた。
「うん、だからさ。千鶴ちゃんが養ってよ」
「……」
あっけらかんという総司に、千鶴は返す言葉もなかった。総司はそんな千鶴の様子を気にした風もなく続ける。
「千鶴ちゃん公務員でしょ?同期の男で早い奴ならもう結婚して奥さん養ってるんじゃない?そいつらと同じ給料もらってるんだから暮らしていくくらいはできるよ多分。それにうちの親も僕が大学卒業して就職するまでは親の義務でしょって言えばお金出してくれると思うし」
一応世間では、結婚した男は一人前と言う認識で、自分の稼ぎで妻子を養うのが良しとされていて……
女に養われるのはヒモといってあまり尊敬される立場でななく……
だいたい高校生男子と結婚した社会人女性なんてきいたこともないし……
千鶴がアワアワと言った反論を、全て総司は一蹴した。
「そんなの人それぞれでしょ」
「そ、それはそうですけど……」
「そんな『世間』とかわけのわからないもののせいでなんで自分の人生を変えようと思うのか、僕にはさっぱりわからないよ」
本当に『さっぱりわからない』と言うように肩をすくめた総司に、千鶴はもう反論することができなかった。
た、確かに自分がこれまで羅列した総司と結婚できない理由は、人の勝手な価値観だ。そんなものより本人たちの気持ちの方が大事だと言うのは理解できなくもない。しかし、それはそれとして、じゃあこれならどうだ、と千鶴は口を開いた。
「そもそも結婚は、その、お付き合いして好き合った男女がするもので……」
「千鶴ちゃんお見合い相手の事なんか別にすきじゃないでしょ?付き合ってもいないし。でも結婚しようって思ってたんじゃないの?」
「そ、そうですけど……じゃあ総司君はどうなんですか?だって彼女とかいるでしょう?」
「いない」
渾身の一撃だと思ったのに即答で返されて、千鶴はまた言葉を失った。それでもなんとか気を取り直してもう少し頑張ってみる。
「でも、もしかしたら今後すごく好きな人があらわれるかもしれないじゃないですか」
総司はものすごく気楽な感じで答えた。
「ああ、それなら大丈夫。僕ももしかしたら他の女の子が好きになれるかな〜ってつきあってみたこともあるけど全然だめだったから」
「全然だめって…?」
「そう。物心ついたころから僕が好きなのは千鶴ちゃんだけだったんだよ。多分これからも千鶴ちゃんだけだと思う。だからそっち方面…浮気とか?の心配はないよ」
千鶴はポカンと口を開けたまま総司を見た。
な、何を言っているのかわからない……いやわかるけれど。わかるけれどもなんだか展開が早いというか突拍子もないというか……
恋愛慣れをしていない千鶴にはついていけない。いや恋愛慣れしている人もこの展開にはついていけないのではないだろうか。
「ね?何も問題はないでしょ?幸せになろうね」
なんだかすでに結婚することになっている流れを必死に引きとどめようとして千鶴は慌てて遮った。
「まっ待って待ってください!わ、私そんな……総司君は…小さいころから弟みたいに一緒に育ってきて、そんな旦那様とかそんな……!」
総司は片眉を上げて、千鶴を見た。
「男として見られない?」
言いたいことを一言で言ってくれた総司に、千鶴はコクコクと何度もうなずいた。
「それも大丈夫だよ。これから男として意識してくれればいいんだから」
「いえ、だからそれが意識できないって……!」
言いかけた千鶴の唇に、暖かいものが重なった。
先ほどから見開きすぎてドライアイになりかけていた千鶴の瞳は、更に大きく見開かれる。
目の前には総司の茶色の長い睫。
過ごし長めの茶色い前髪が瞼にかかっている。
顔に角度をつけているせいで高い鼻はぶつかってはいない。
そして唇は……
いつも微笑んでいる総司の唇は、今は千鶴の唇に重ねられていた。
「っ…!」
はっと我に返って身を引こうとした千鶴の頭を、総司は両手で抑えてさらにキスを深めた。何度も何度も優しく感触を確かめるように唇を動かしたかと思うとからかうように舌でそっと千鶴の唇をなぞる。
千鶴の抵抗が止んで力が抜けたのがわかると、総司も手の力を緩めた。
紫陽花の青と夕闇の青との境目がわからなくなるような薄青い空気の中で、二人は静かに唇を重ねる。
しばらく千鶴の唇を楽しむと、総司やゆっくりと唇を離した。
千鶴はうっとりなのか茫然なのかわからないがぼんやりとしていた。
「千鶴ちゃん」
総司が声をかけると、千鶴はハッと我に返り総司の顔を見た。とたんに夜目でもわかるくらいみるみるうちに真っ赤になっていく。
その千鶴の表情をみて、総司は勝ち誇ったような顔をした。
「ね?やってみる価値はあるでしょ?」
そう言ってバチンとウィンクをしてくる総司に、千鶴はもう返す言葉がなかった。
そうして反論を全て封じ込められた千鶴に出来ることは、力なく頷くことだけ……
【終】