【恋人たちのクリスマス 〜夏と海と冒険と〜】
パソコンの画面が霞んで見えて、千鶴はぎゅっと目をつぶった。
ため息をついて椅子にもたれかかる。
「はあ……疲れた……」
場所は大学の研究室。千鶴はいつの間にか真っ暗になっている部屋を見渡した。
クリスマスイブの今日は誰も残っておらず千鶴だけだ。根を詰めて作業していたため日が暮れたことにも気づかなかった。
机の電気だけでパソコンの液晶を見つめていたので頭が痛い。
千鶴はもう一度ため息を着くと、持っていた紙を机の上に置いた。その時机の端に置いてあったプレゼントの袋が目に入る。
「……」
千鶴は無言でそれを手にとった。
急いで仕事を終わらせて、一日しかいられないけれど沖縄に飛ぼうと朝の時点では思っていたのだ。
プレゼントの中身はサングラス。
初めてのクリスマスプレゼントに何がいいのか散々考えた。男性に――恋人に贈るプレゼントなんて初めてで、しかも万年筆とかネクタイとか無難なものを贈るようなライフスタイルではない彼に、一体何がいいのか。さんざん考えて悩んで迷って。
あの、緑の綺麗な目にとって沖縄の太陽の光はとっても辛いと思うので、紫外線カットのブランド物のサングラスに決めたのだ。
太陽の光にまぶしそうに目を細めてるのも好きなんだけど
千鶴はぼんやりとプレゼントを見ながら、沖縄での総司を思い出す。茶色の髪が太陽の光を反射して、まぶしそうな緑の瞳が青い空に映えてさらに明るく見えて、とてもきれいだった。
あれから二ヶ月。
今この雑然とした研究室を見渡すと、ひょっとしてあの南の島でのできごとは夢だったんじゃないかと思う。最後の空港で告白されて、沖縄に行くことになって。そのあと二人で離島を旅行もした。
でも東京での千鶴の職場や私生活の後始末に時間がかかり、最初は来年だった沖縄への移住が、結局年度末まで伸びてしまったのだ。その上総司が会いたがっていたクリスマスも、今日になってダメになってしまった。
総司にその旨は伝えた。だが、駄々をこねられるかと思いきや意外にあっさりと納得してくれて、勝手だがそれもまたさみしい。
沖縄には私みたいに内地から旅行にくる女の子はいっぱいいるし、沖縄の女の人たちも綺麗だし……
総司のあのルックスと愛想のよさで、女子が群がっていることは容易に想像がつく。だからきっと総司は千鶴ほど寂しくも切なくもないのだろう。
あれは、危険な目にあってドキドキして、夏で海で……って沖田さんが勘違いしただけだったのかも。
千鶴の例の引っ込み思案な思考が再びむくむくと黒い雲を広げていく。
あんなにキラキラしてて素敵な人がこんな冴えない千鶴のことを好きだなんて、やっぱり夢だったのかもしれない。垢抜けなくて要領の悪い千鶴に、あの時だけ同情して思わずあんなことをいっただけなのかも。
暗い研究室を見渡して、千鶴はこの後ろ向き思考が決定事項のように思えてきた。
こんなクリスマスイブにまでパソコンにかじりついているのは千鶴だけなのだ。同僚はみな要領よく仕事を終えてクリスマスを楽しんでいる。三連休に有給を足して家族と過ごしているものまでいるというのに。
世界中から見放されて、この寒空にたったひとりで仕事をしているような気分に陥ったとき。
千鶴の携帯が光った。
マナーモードにしていたためブブブブと机の上で振動もはじめる。千鶴は慌てて携帯を持ち上げて相手も確かめずに電話に出た。
『千鶴ちゃん?』
聞こえてきた第一声は、千鶴の胸を覆い尽くしていた黒い雲を一気に吹き払った。
「沖田さん?」
『うん、そう。今千鶴ちゃんの大学まで来てるんだけど、千鶴ちゃんどのへんにいるの?』
千鶴はポカンと口を開けた。「……え?大学?」
『そうそう。えーと今は本館ってとこで学内地図を見てるんだけど、千鶴ちゃんって経済学部の研究室だったよね?経済学部は………あ、これかな?経済学部A棟』
「はい……そこの3階です……沖田さん、でも私の大学は東京にあるんですけど……」
千鶴の言葉の途中で、電話の向こうで総司が誰かに話しかけているらしき声が聞こえた。
『あ、すいません、経済学部棟ってここからどう行くんですか?え?ほんと?どうもありがと。……え?千鶴ちゃん何か言った?今親切な人が連れて行ってくれるって言うから、ちょっと切るね』
突然巻き込まれた台風のような状態に、千鶴は頭がついていかずに切れた携帯を見つめる。頭を整理しようとしていると、すぐに廊下から足音がしてバタンと研究室のドアが開いた。
「メリークリスマース!千鶴ちゃんに沖縄の空気をお届けにきたサンタだよ〜」
扉に立っていたのは、当然ながら総司だった。
さっきまで沖縄での総司を頭に思い描いていた千鶴は、初めて東京で会う総司に驚いた。黒の細身のダウンに鮮やかな赤い柔らかそうなマフラーをぐるぐる巻きにして、ジーンズにワークブーツにざっくりとしたベージュのセーター。
冬服もかっこいい……
完全に思考がショートした千鶴が思ったのは、こんなことぐらい。呆然としている千鶴とは逆に、総司はつかつかと千鶴に歩み寄ると、いきなり抱きしめた。
「あっ…!あ、え?…お、沖田さん……」
慌てる千鶴に、先ほど想像していた緑の綺麗な瞳が至近距離から覗き込む。
その瞳は、総司の心の全てを表しているようで、千鶴は言葉を失った。
熱くて切なくて焦がれてて……
そして重なる唇。
空港での最後の別れ以来、初めてのキスだった。
少し強引で、でも総司も緊張していたのだと彼の固い体からわかる。そして千鶴が受け入れると、その固さがほっとほぐれるのも。
暗い研究室でのパソコンの薄暗い光の中で、総司と千鶴は何度もキスを交わした。
「メールとかLINEとかで僕がいないのに楽しそうだったりすると爆発しそうになるんだよね」
研究室の椅子に座って、膝の上に千鶴を抱きながら、総司はそう言った。
「電話で声とか聞くと、そういうこと言っちゃいそうだし、言ったら嫌われるだろうし?」
総司は自分の指が、千鶴のなめらかな髪をすいていくのを見ながらそう言った。千鶴は総司の言葉に驚いたように体をおこして総司を見る。
「そんな……楽しそうなんて別にそんなつもりはないですし、嫌ったりなんて」
「そう?でも話すたびに言われたらやっぱりウザいでしょ。僕ならウザい。……でも会いたかったんだ」
こういうことを言うのも面倒くさがられたらどうしようかと思うものの、ようやく千鶴を胸に抱きしめている今、思わず気持ちがこぼれてしまった。流石に照れくさくて瞳を伏せて、真ん丸な茶色の瞳で見つめてくる千鶴の視線から目をそらす。
ふっと頰に千鶴の指の感触がして総司が瞳を開けると、千鶴が至近距離で見つめていた。
「……沖田さんがそんな風に思ってくれて……私、嬉しいです。私の方こそ、沖田さんはもう私のことを忘れちゃったのかなって思ってたんです。すぐに沖縄に行けなかったし、沖縄に行けるのも最初は年内だったのに年度内にのびちゃって、クリスマスもダメになっちゃって……」
千鶴の言葉に総司は安心した。安心して嬉しくて甘えたくなる。
「うん。正直なところ、辛いけど……。辛いから、君が来れないなら僕が行こうかなって。それで今朝電話もらってすぐに飛行機手配して、来ちゃった。……千鶴ちゃん」
最後は真面目に千鶴に呼びかけた。せっかくはるばる沖縄から飛んできたのだ。彼女に会うためだけに。しかも今日はクリスマス。この先の二人の行き着く先は言葉にしなくてもわかっているだろうとは思うが、念には念を入れてちゃんと言っておいたほうがいい。
千鶴は何事かという表情で見る。
「今日、僕はこっちでホテルとってないんだ。それで、君の家に泊まりたい」
「はい、もちろんです」
快諾されて、総司は疑わしげに千鶴を見た。
これは……これはまた分かってない気がする。しかし今夜の総司は一味違うのだ。そういつまでも高校生のような付き合い方ではいられない。会えなくて焦れて悶々とするのはもううんざりだ。
たとえ千鶴がわかっていないとしても、家に泊めてもらえるのなら二人きりだ。千鶴を怖がらせないように、彼女の嫌がることはしないで、全部を自分のものにすることはできるはずだ。
総司は心の中で頷くと、「ありがとう」と千鶴には笑ってみせた。千鶴は総司の脳内など知る由もなく微笑み返す。
「会社は大丈夫なんですか?」
総司は諦め顔で送り出してくれた斎藤と平助の表情を思い出す。「うん。一応今はオフシーズンだしね。それに、たまには僕の実家に顔でも出せばいいんじゃないかって。毎年この時期はうるさいからさ」
「え?沖田さんの実家って東京なんですか?」
千鶴が聞くと、沖田はちょっと考えてから頷いた。
「うん。……知ってるかな、沖田リゾートっていう会社なんだけど」
千鶴は目を見開いた。知ってるもなにも……
「高級ホテルチェーンですよね?沖田さんの実家なんですか!?」
ものすごいボンボンではないか。沖縄であんな小さな事務所で貧乏暮らしをしているような身分ではないのでは?
千鶴の表情からそんなことを感じ取ったのか、総司は肩をすくめた。実家のことを話すと相手の目の色が変わるのは、これまでの経験上よく知っている。特に女の子の態度が180度変わるのは何度も見てきた。
千鶴はそんな子じゃないと思うけれと……と、しかし少しだけ警戒しながら、総司は言った。
「そう。別に秘密じゃないし付き合ってたらそのうちわかるだろうからさ。でも、家業はやり手の姉があとを次ぐし、婿に入った義兄も優秀で、僕は関係ないんだ。あんなガチガチの世界に入る気はこれっぽっちもないしさ。家族ももう僕のことは諦めてるし。でも後を継ぐとか財産がとかそういうのは抜きにして、家族としては別に仲がいいからね。親族や各ホテルの支店長を集めてやるクリスマスパーティが今夜なんだけど、出ろ出ろって特に母親と姉が毎年うるさいんだよ」
でも今夜は千鶴の家に初のお泊りだ。そんな家族行事に出ているような暇は……
「出席しましょう!」
身を乗り出して目をキラキラさせてそう言った千鶴と見て、総司は眉をしかめた。
「千鶴ちゃん、言ったよね?僕は家族のことは好きだけどあの会社とか人間関係に戻る気はないよ?斎藤君と平助とあの『きらきら青い海』を続けるんだから、クリスマスパーティーに出席しても何の意味も……」
「ロビーにチラシを置かせてもらいましょう!」
「は?」
「沖縄に、沖田リゾートのホテル、あるじゃないですか。『きらきら青い海』のパンフレットとチラシを置かせてもらいましょう!できればホテルのアクティビティの提携会社とかになれるといいですけど、場所が遠いし実績もないですし、今の規模じゃあなってもとてもまわせないですよね。でもホテルに泊まってる人への宣伝でちょっとは連絡が来るかもしれませんし……それに平助君とか沖田さんとか個人でインストラクターとして登録させてもらえれば定期的に仕事ができるようになるかもしれないですし」
総司はぱちぱちと瞬きをした。
それはまあ……どこのマリンスポーツ会社もやってることだし本来は総司達もやるべきことで、これまで面倒でやってこなかっただけではある。沖田リゾートのような高級ホテルにはなかなか『きらきら青い海』のような小さな会社のチラシは置かせてもらえないが、このクリスマスパーティの場で少しだけ頼めば置かせてはもらえるだろう。そこから仕事が来るかどうかは運で、来た仕事を継続的なものにできるかどうかは総司たちのサービスの質次第なのだから、正確に言うとこのこともコネとは言えないし……・
でも今夜は千鶴の部屋で二人きりのクリスマスナイトを過ごす予定だったのだが。実家のクリスマスパーティなんて夜通しやるのが恒例だし、総司が久しぶりに顔を出したとなれば帰してもらえるはずはない。
「うん、まあ……ホテルにチラシを置かせてもらうのは前々からやらなきゃなとは思ってたけど……」
「じゃあ今ですよ!行きましょう。私のことも『きらきら青い海』の新しい社員ですって紹介してもらえますか?沖縄でお会いした時に顔を覚えておいていただいた方が何かといいんじゃないかって思うんです」
「……」
紹介は、違うんじゃないだろうか。
『きらきら青い海』の社員じゃなくて、僕の恋人ですっていう紹介なんじゃ……
とは思うものの、総司の実家目当てじゃないという意味では嬉しいことなのかもしれないと、総司は首をひねりながらも、同意したのだった。
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