【今度いつ会える? 9】









 

 

 
 マニラにある会社借り上げのマンション一階入り口で、何度婚約者の部屋のインターホンを押しても誰もでなかった。
千鶴は染み出てくる汗をハンカチで押さえながら、横の壁にかかっている時計を見上げる。

 朝の9時……。

どこかに出かけるにしては早すぎる。それにあらかじめそれとなくこの週末何をするつもりなのか聞いていた。婚約者の彼は、まだ病み上がりだから家でゆっくりたまった家事をする、と言っていたのに……。

 やっぱり今日行くことを伝えておいた方がよかったかな……。

 しかし、話があるからマニラまで行く、と言えば当然相手はびっくりするだろう。何を話にくるのか聞いてくるに違いない。電話で話すのが嫌でわざわざ話に行くのに、その質問をどうごまかせばいいのか千鶴にはわからなかった。だから何も言わないで突然来たのだが……。また会えないままで帰国するのだけはなんとかして避けたい。千鶴はきょろきょろとあたりを見渡した。と、奥に管理人室らしきものがあるのに気が付いた。

 「ああ、あの人。確か仕事でトラブルが発生したとかで金曜日から泊まりでそこに行ったみたいですよ」

管理人に教えてもらった彼が行った先は、最近開発された工業団地でそこ自体は治安はいいのだが、マニラからそこへ行くまでにスラム街を通らなくてはいけないらしい。
「電車で行くんですか?」
千鶴の質問に管理人は笑った。
「電車なんてとおってないよ。タクシーで行くしかないね」

そこまで行くのにかかる時間は1時間半くらい。

 今から行って11時くらい。帰りの飛行機は17時半だから、14時くらいに向こうを発てれば間に合う。なんとか話はできるかな……。

一応同じ会社だし、婚約者との近況報告のなかで仕事のことは聞いていたため、だいたいどこに行けばいいかはわかる。多分関連会社の工場のシステム室だろう。正確な住所はわからないが会社名や工場名はわかるから多分タクシーで行けるはずだ。
一人旅なんて、海外はおろか日本でもしたことがないが、千鶴は意外な自分の行動力に驚きながらも、長距離タクシー乗り場を管理人に聞いていた。


 初めて見るスラム街に怯えつつ、ちゃんと目的地にまで連れてってもらえるのか自分の英語力に不安を持ちつつ、千鶴はタクシーに乗っていた。たどり着いた先は、看板から見るとどうやら自分が運転手に告げた関連会社の現地工場のようで……。千鶴はお金を払い、タクシーを降りた。高い湿度に気温……。東京とはまるでちがう南国の匂いがする空気の中を、千鶴は入口と思われる場所へと歩いて行った。
近くに居た人に婚約者の名前を言うと、その人は、ああ、という顔をしてついてくるように千鶴に言う。その人が大声で彼の名前を呼ぶと、広いコンピュータルームの奥から彼が出てきた。千鶴を見て驚いた顔をする。

 多分婚約者が来た、ということでわらわらと一緒に仕事をしていたらしき現地の人たちが千鶴を見に来る。彼はそんな人たちを照れ臭そうに払いながら、少し休憩をもらうと了解を得て、千鶴に向き直った。
「どうしたの?何かあった?」
あいかわらず優しい彼の顔を見て、千鶴は言葉に詰まった。はるばる言いにきた言葉がなかなか出てこない。そんな千鶴を促して、彼は部屋を出て自動販売機がたくさんならんでいる休憩室へ連れてきてくれた。お金をいれてアイスティを買い、千鶴に渡す。
「わざわざ来てくれなくてもよかったんだよ。先週末帰れなかったから、今週課長が休みをくれてね。君には言ってなかったけど明日から3日間日本に帰る予定だったんだ」
そうだったのか……。明日日本に……。わざわざこんなとこまで来る必要もなかったかもしれないが、一日でも早く伝えたかった千鶴は、特に後悔はなかった。お腹にぐっと力を入れて、彼の顔を見て口を開く。

 「私、……突然すいません。私、結婚できません。今日はそれを伝えにきたんです」

 


 ガタン、という音で総司は目が覚めた。
ぼんやりと見覚えのない天井を見上げてから、音がした方を見る。
「悪ぃ。起こしちまったかな」
左之が申し訳なさそうな顔で倒してしまったらしきゴミ箱を起こしていた。
「左之さん……。ああ、僕ここで寝かせてもらっちゃってたんですね……。すいません。ありがとうございました」
「今日は昼の営業もないし、別にかまわねーぜ。メシ食うか?」

 仮眠室という名前だが、窓から入る太陽と風が気持ちのいい部屋で、総司と左之は朝食を食べる。食後にコーヒーを飲みながらぼんやり空を眺めている総司に、左之は苦笑しながら言った。
「まったく恋に苦しむ男そのものだな」
総司は特に顔を赤らめるでもなく、苦笑いするでもなく、平静な顔で左之を見た。
「……苦しんでますからね」
コホッと小さく咳をして、総司は淡々と言う。
「……平助からいろいろ聞いたぜ。土方さんが昨日夜遅く来てな。心配してたぞ、みんな」
「過保護だなぁ、みんな」
「お前の態度がそうさせるんだろ。女に惚れるのはかまわねぇがもうちょっと周りを見て、無茶すんな。お前がそんなになってると、相手もつらいもんだぜ」
左之の言葉に、総司はうつむいて小さく笑った。
「……さすが、左之さんだなぁ。言うことが平助とは違うよ。『相手』がね……。確かにそれは僕には効きますね」
「……」
「わかってるんですけどね。でもどうしてもコントロールできなくて……。彼女を苦しめて怖がらせて泣かせて……。でも、もうそれも終わる筈です」
左之は机の上に乗っている総司の黒いシンプルな携帯電話を顎で指した。
「連絡くんのか?」
「……その筈ですけどね。多分今日の夜あたり。連絡なかったら……どうしようかな」
そう言って総司は机の上の手をギュッと握り拳にする。
「……どうなるのかな……」

 左之は溜息をつくと、小さな薬の瓶を取りだして総司に放り投げた。
「まぁ、連絡来たとき熱で行けません、じゃ恰好悪ぃことこの上ないからよ。パブロンでも飲んどけ」
総司はビンを受け取って、にっこりと笑った。
「うん。ありがとう」

 

 

 

 千鶴は長く疲れる話し合いで痛む頭を抑えながら、空港の出発ロビーの公衆電話から電話をかけた。総司を喜ばすような内容ではなかったのだが、状況がわからないまま、また彼を一人にしておきたくなかったのだ。千鶴からの電話がなければ、彼はまたあれやこれや考えて苦しむだろう。それがわかっていた千鶴は、今日の話し合いの結果について伝えようと決めたのだった。
ワンコールで出てくれた総司に、千鶴の胸は暖かくなる。
『千鶴?』
「総司さん……。今からマニラを発ちます」
『日本に着くのは何時?空港まで迎えに行くよ。』
「……ごめんなさい。今日だけでは話が終わらなくて……。彼が明日日本に来るそうなので、明日もう一度日本で話すことになったんです。だから……」
電話の向こうで総司は黙り込んだ。
『なんて言ってるの?』
「……信じられないみたいで。私が他に好きな人ができたっていうことが。あんまり……そういうタイプではなかったので……。結婚自体が嫌でそちらに逃げてるだけなんじゃないかって。式や入籍はいったん取りやめて、もう少し待つからって……」
『会わせてよ。』
「……もしかしたら、そういうことになるかもしれないです。でも、できればそれは、彼も総司さんも嫌な思いをすると思うので、したくないと思ってます。とにかく、明日の朝10時に日本で会うことにしたので……。すいません。結論がまだ出てないんですけど、明日話し合いが終わったら、また連絡します」
『うん。……ありがとう。連絡くれて。』
電話の向こうで総司が咳き込む。
「大丈夫ですか?」
『風邪みたい。左之さんがくれた薬で結構楽になったから大丈夫だよ。』
「……明日、多分会えると思うんで……。ちゃんと大事にしてくださいね」
『……うん。……早く、会いたい。』
耳元に聞こえてくる囁くような総司の声に、千鶴は瞳を閉じた。
「……私も会いたいです」
電話を切った千鶴は、ふぅっと溜息をついた。変に力が入っていた背中や首筋の緊張が、総司の声でほどけていったような感じがする。
大きな空港の窓ガラスの向こう、今まさに離陸しようとしている飛行機を見ながら、千鶴は総司を想った。

 

 電話を切った総司に、平助が声をかけた。
「どうだったんだ?」
「うーん……。ぼちぼち、かなぁ」
総司は平助のベッドに寄りかかった。例のごとく一人でいたくない、と左之の店から帰ってきた総司はそのまま平助の部屋でだらだらしていた。しばらくすると斎藤も来て、三人でゲームをしたり平助の漫画を読んだり……。そんな中総司の携帯が鳴ったのだった。
「なんか、話はしたんだけど相手が納得しないんだって。明日もう一回話し合うんだってさ」
平助は、昨夜土方が話していたことを思い出していた。
そうやって変な希望をもたせてずるずると……。
しかし平助がそんなことを今の状態の総司に言ったとしても、総司はきかないだろう。斎藤でも同じだ。総司が言うことを聞く人といえば近藤だが、昨日土方は出張だと言っていた。

 左之さんの店に引っ張ってってみんなの意見を聞かせた方がいいんじゃねーかな……。昨日の土方さんの話、総司は寝てて聞いてねーしな……。

土曜日の夜は土方はたいていいつも左之の店でシメる。11時ごろなら左之も話し相手になってくれる。ここは人生経験……というより女経験の豊富な二人の話を聞いた方がいいだろう。
「……まぁ、元気出せって。今夜暇になったんだろ?また左之さんとこ行こうぜ!どうせ腹減ったし、飲みたいし」


 夜11時半。左之の店では平助の思惑通り、クローズが掲げられた店の中で土方と左之、平助、斎藤、総司で飲んでいた。今日は総司は昨日のような無茶な飲み方はしていなかった。ちゃんとつまみをとりながら、ゆっくりと飲んでいる。
「そうか、一歩前進ってとこだな」
左之の言葉に、土方が眉間にしわを寄せた。
「それでだな、女に浮かれたヤローが話し合いの場に呼び出されてほいほい行くわけだ。そうすっとそこにいる『婚約者』って奴がえらいそのスジみたいな男でな。手切れ金として500万払え、とか言ってくる……、ってことになってんじゃねーのか?」
土方の言葉に、今度は総司が眉を寄せる。
「いやだなぁ、世間の裏側を知りすぎてる人は。あの子はそんな子じゃないですよ」
「結婚詐欺や美人局にあった奴は、最初みんなそう言ってんだよ。最後までそう言ってる奴もいるけどな。……まぁ、でも少ししか会ってねぇけど、確かにそんな感じではなかったな。外見や服装は見せかけることができるが、目までは無理だからな。ありゃあ……近頃珍しいくらい真っ直ぐで汚れてねぇ目だった」

  優しい表情で千鶴を思い出している土方に、総司は嫌そうに言う。
「そんなやらしい顔で僕の千鶴を思い出さないで欲しいなぁ」
「だれがやらしい顔してたんだよ!」
そう言って土方は日本酒をぐいっとあける。

  「それにしても総司がああいうタイプを選ぶとはなぁ。もっと……ちゃらっとしたふわっとした感じとくっつくと思ってたんだが。意外にお前、女を見る目があったんだな。ありゃあ芯がしっかりしたいい女になると思うぜ」
土方の千鶴評に左之ものってきた。
「俺もそう思ったんだよ。いきなり本命タイプにいくんだなって。あと2,3年したらしっとりしたいい女になりそうだよな」
「ちょっとちょっとちょっと……!二人ともやめてよ。そういう話、すごい不愉快なんだけど」

  話だけで嫉妬している総司に、土方と左之は顔を見合わせて笑う。しばらく笑った後、左之が言った。
「……だけどなぁ、総司。土方さんの話じゃねえが、結婚の準備って結構な金が動いてるからよ。式場の予約だってもうしてるだろうし、しょうもない男だったら結納まで交わして破断になったってんなら慰謝料だって請求できんだぜ。どっちにしろ金で解決しなくちゃいけねぇことがでてくるだろうから覚悟はしとけよ」
左之の言葉に総司は目を瞬いた。
「……そうなんだ。具体的にはそこまで考えてなかったかな。とにかく……彼女が手に入るんなら、僕が払えるものはなんでも払うつもりだよ。千鶴一人に背負わせることは絶対にしない」
総司の真剣な表情に、左之はうなずいた。

  「えらいぜ。男はそうでなくっちゃな。じゃ、今日はもう帰って寝ろ!明日もしかしたら話し合いに参加するかもしれねぇんだろ?寝不足でさえない顔で行ったら相手の男に押し負けるぜ!最高にキメて、勝負服で行って、彼女をかっさらってこい!」
左之の言葉に、総司は笑いながらうなずいて、立ち上がった。

 その瞬間、視界が歪み思わず机に腕をつく。しかし机があったと思った場所には机が無くて……。
総司はそのまま床に崩れ落ちた。
驚いたみんなが総司に駆け寄る。額に手をあてた斎藤が、ひどい熱だ、とつぶやいたのがぼんやりと総司の耳に聞こえた。

「おい、救急車だ!」
誰かの……多分土方の怒鳴り声を聞きながら、総司は意識を失った。





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