【今度いつ会える? 2】
部長同志が名刺交換をしている間や関係者の紹介などをしている間、総司は千鶴のことを見なかった。どうしても声をかける必要がある時は最低限の言葉だけを言い、視線は決して千鶴へと向けなかった。
千鶴も、総司を裏切って婚約者がいること、婚約者を裏切って総司とキスを交わしたことで心は大いに乱れていた。
どちらに対しても裏切り行為を行っていた自分が信じられなくて、恥ずかしくて。きっと総司もそんな自分を軽蔑しているのだと感じ、いたたまれない。仕事に集中することで、この残酷な時間が早く過ぎてくれることを祈っていた。
千鶴の心はまだどこか現実と乖離していた。
現実では総司はやっぱり夢の中だけの人で、夢の中の自分が持っていたようなあんな一途な気持ちは現実にはきっと存在しないものだと、千鶴は心の片隅でどこかそう思っていた。
千鶴の婚約者は千鶴が新入社員の時にいろいろと相談にのってくれた先輩で、優しく穏やかな愛情で千鶴を包んでくれた。あまり恋愛に積極的ではない千鶴のことをずっと待って、千鶴のペースに合わせてつきあってくれた。そんな付き合い方は、千鶴にとっては安心できて心安らぐものだった。ふと何か大事なことを見落としているような不安に襲われることはあったが、そんなのは気の迷いで、きっと彼と二人なら5年後も10年後も同じように安定した落ち着いた生活ができるだろうと容易に想像できた。それで彼からのプロポーズを受けたのだ。どうせいつか誰かと結婚するのなら、きっとこの人となら安心できると感じて。
総司と出会ってまだたったの3時間。
それだけの時間で、千鶴は婚約者と二人で三年の間ゆっくりとはぐくんできた関係がすべてひっくり返されてしまったのを感じていた。
ドキドキして。
不安で。
切なくて。
恋しくて。
胸が張り裂ける、というのはこういう感情なのだと初めて分かった。頭で考えている「正しいこと」に従うのは、これまでは当然だったのだが、心がそれを無視して駈け出してしまう。一秒先の自分が、いったいどんなバカげたことをしているのか想像もつかない。それは千鶴にとって足元が揺らぐような不安だった。
今、総司の傍にいたい、彼を見つめていたい、という気持ちはある。しかし千鶴はその不安な状況や今まで知らなかった自分を直視するのが怖くて、逃げ出したいという気持ちの方が強かった。
先ほどの経験はすべて夢として胸にしまって、これまで生きてきた安心できる現実を生きたい。千鶴にとって総司の存在はそれほど強烈なものだった。
拷問のような時間がようやく終わり、総司が部長と千鶴を見送るためにホテルのエントランスに出て、ずらっと並んでいるタクシーを呼び寄せる。もらったパンフレットやらおみやげの紙袋が多かったため、部長はタクシーの後部座席に、千鶴は助手席に座った。
あたりはもうすでにうっすらと夕闇に包まれつつあった。
……よかった……。二人きりで話さなくちゃいけないような状況にならなくて……。
臆病者と言われようと、これが千鶴の本音だった。もうすでにタクシーに乗ってしまっているし、後ろには部長もいる。いくら総司でもこの状況で個人的な話はできないだろう。千鶴が一番恐れていたのは携帯の番号を聞かれることだった。教えることも断ることもどちらもできない。どうすればいいのかわからない。聞かれなければ、あとは会社での仕事上の付き合いに徹すればいいだけだ。このままなかったことにするには大きすぎる出来事だったが、混乱している千鶴には逃げることしか思い浮かばなかった。
後ろで部長と総司が窓ガラスを下げて別れの挨拶をしているのが聞こえる。ここで千鶴がまったく挨拶をしないのも変なので、ぺこり、と車の外に立っている総司に会釈をした。
そんな千鶴に、総司はあの後初めて目を合わせた。
千鶴が思わず震えるほど固い表情で、冷たい瞳をしている。
コンコンと千鶴の窓ガラスを外からたたき、開けるように合図をする総司に、千鶴はおずおずと少しだけ窓ガラスを開けた。後ろから早く行くように他のタクシーからのクラクションが鳴る。総司は、スルリと少しだけ開いた窓から何かを滑り込ませた。千鶴の膝の上に落ちたそれは……。
携帯電話?
薄くてシンプルな黒い携帯電話だった。
「……僕の。持ってて。連絡する」
必要最低限の言葉を伝えて、総司は千鶴を見た。
「あ、……でも……!」
戸惑う千鶴に総司はかぶせるように言った。
「いいから。中身を見ても僕は困る様なものは何もないから。隠した婚約者もいないし」
皮肉を込めた言葉と冷たいほほえみに、千鶴は何も言えず固まった。
話の内容は聞こえないものの、終わったと思った部長はタクシーの運転手に車をだすよう頼んだ。滑るように発進したタクシーの助手席で、千鶴はサイドミラーに小さくなる総司をずっと見つめていた。
一人暮らしの家に帰って夕飯を作っているときも、お風呂に入っているときも、机の上に置かれたままの総司の携帯電話の存在は千鶴を悩ませ続けた。いっそ電源を切ってしまおうかと何度思ったのかわからない。すぐに連絡がくるのかと思っていたが、携帯電話はなかなか鳴らなかった。総司の会社が主催した大規模なセミナーだから、きっと遅くまで後処理にかかわっているのだろう。
千鶴は小さく溜息をついて時計を見た。
……11時半……。明日も会社だし、今日はもうかかってこないかな……。
そう思って千鶴も明日の準備をして寝ようとしたその時、軽快な音楽とともに携帯電話が鳴りだした。
散々迷って、表示を見ると公衆電話から。
きっと総司だ。
わかっても出るのが怖かった。何を話せばいいのか、責められるだけではないのか……。
でもとらないわけにはいかなくて、千鶴は通話ボタンを押した。
『……でないつもりかと思ったよ。』
「……」
『千鶴?』
「……はい……」
残業をなんとか切り上げて、散々公衆電話を探して。ようやく見つけたと思ったら小銭がなくて。コンビニでくずしていたら見つけた公衆電話を他の奴に先にとられてて……。もともと苛立っていた総司は、一日の締めくくりのこのささいな出来事でイライラの臨界点に達していた。自分の携帯の呼び出し音は長々と続き、鳴り続けている携帯を見つめているであろう女性を思い浮かべると、なんだかすべてをぶち壊したくなるような衝動に襲われる。
怒鳴って、わめいて、責めて、責めて、責めて……。
彼女に対してしようと思っていたことは、彼女の声を聴いた途端すべて霧散した。
空っぽになった奥底から強い思いがゆっくりとこみあげる。
「……会いたい」
総司の言葉は、千鶴がいろいろ迷い、考えていたことをすべて吹き飛ばすほどの力を持って彼女の胸に迫った。
……ああ、ほんとうに、ほんとうに……
……私も会いたい……
『家はどこ?』
電話の向こうから聞こえている声に、千鶴はもうなにも考えられずに自分の一人暮らしのマンションの住所を告げた。
玄関の扉を開けた途端、言葉もなく総司にきつく抱きしめられた。そのままもつれるように部屋になだれ込み、床のラグの上で熱いキスを受ける。総司は引きちぎるように自分のネクタイをむしり取り床に放った。そして千鶴のパジャマ替わりのロングTシャツの中に手を這わせたくしあげようとする。
「あ…!まっ待って……!総司さん、待って!」
千鶴の言葉に、総司はギラッとした目をあげた。
「何?こんな時間に一人暮らしの家の場所まで教えておいて、そのつもりはなかった、なんて聞くつもりはないよ」
野生動物のようにきらめく、総司の深い緑色の眼に、千鶴は思わず見惚れた。昨夜見た夢を思い出す。
昨夜の夢を今日の出来事には何の関係もないはずなのに、なぜだか妙に千鶴は納得した。
きっと、こうなるから……だからあんな夢を見たんだ……。
「そんなこと、言うつもりはありません。あの、でも、灯りを……」
総司は初めて気づいた、というように天井の白熱灯を見上げた。
「千鶴を見たいんだけどね……」
そう言いながらも総司は立ち上がって壁にある電気を消し、すぐ横にあるベッドのヘッドランプをつけた。そして再び千鶴に覆いかぶさると、濃厚なキスをする。
総司の手が千鶴の肌を伝うたびに、千鶴の口からは甘い吐息が漏れる。
千鶴は、頭の芯がしびれたようになり、ぼんやりと薄暗い闇に身をひたしていた。
体の感覚がこれまでにないくらい敏感になって、総司の吐息、髪の感触、Yシャツの擦れる音すべてに反応してしまう。深いキスを何度も何度もかわしながら、総司の手はゆっくりと千鶴の胸を包んだ。思わず千鶴の背中が反ってしまう。総司はそんな千鶴を抱き留めてさらに愛撫を続けた。総司の手の代わりに唇が千鶴の胸を包み、総司の手はさらにウエストをさがって下へと向かう。潤んだ部分を探るように確かめられた千鶴は、痛みのあまり小さく叫び声をあげて体を固くした。
総司はふと顔をあげて、千鶴の顔を見ながらもう一度探る。今度はあきらかに痛みに耐えるような千鶴の表情を見て総司は物問いたげな顔で千鶴を見た。
「……初めて、なんです……」
顔を真っ赤にして、目をそらして、千鶴は小さな声でささやいた。
総司はあきらかに驚いていた。当然だろう。今の時代で婚約までする仲だとすれば当然経験はあるのが普通だ。千鶴が他の男に抱かれていたという事実に、総司は気が狂いそうなほど嫉妬をしていたのだ。
「……どうして……」
総司の口から思わず出た疑問。でもそのすぐ後に総司は自分で否定した。
「いや、いいよ」
今は他の人間を二人の間に存在させたくない。
しばらくじっと千鶴を見つめた後、総司は静かな口調で言った。
「……君は、僕の物だ。もう誰にも渡さない」
強い意志を込めたその瞳に、千鶴は心の奥底まで囚われた。
そうだ……。もう、この人なしで生きていくなんて無理……。最初から無理だったんだ……。
この人の嵐に巻き込まれて、熱にうかされて、不安定な心を持ったまま……。
「……っ…!」
総司が入ってくる。
まるで千鶴に刻印を押すかのような残酷な力強さで。この痛みには覚えがあった。
昨夜の夢と同じ……。
痛みのあまり思わずこぼれる叫び声さえも、総司のキスに呑みこまれる。
総司の背中に回した千鶴の手のひらが、総司が入ってくるたびに彼の背中の筋肉が盛り上がるのを感じる。
優しい言葉も微笑みもないけれど、総司の狂おしいまでの想いが伝わってきて、切なさのあまり千鶴は涙をこぼした。
総司にここまで望まれているという事実だけで、千鶴は生まれて初めて自分の体を愛しく思った。
きっとこのためにずっと女でいたような気がする。
彼に望まれて、欲してもらうためだけに……。
ゆっくりと動き出した総司の肩に、千鶴はうっとりと指をはわせた。
彼が深く入るたびに、痛みとともに……不思議な感覚が体の奥底からじわりと湧き上る。
彼の美しい体が全身にうっすらと汗をまとい、自分の体のせいで熱くなり固くなっているのかと思うと千鶴の胸は熱くなった。
こんなに大きくて強い存在が、今は自分の体に夢中になっている……。
それは、初めての千鶴にとってはとても不思議な感覚だった。
耳元で、嵐のように激しい総司の息遣いが聞こえる。どこからか女性の泣くような甘い声が聞こえてくる。
それは自分の唇から零れ落ちた声だと、しばらくしてから千鶴は気づいた。
どんどん激しくなる彼の動きに、千鶴は必死で総司にしがみついた。
「あっ……!あぁっ……」
「っく……!千鶴っ…!千鶴!」
最後に深く千鶴の中に入ると、総司は自分を解放した。
自分の腕の中で声をころして泣いている千鶴に気が付いて、総司は体を起こした。
「……千鶴?」
顔を背けて泣き顔を見せないようにする千鶴の華奢な肩をつかまえて、総司は千鶴の顔を覗き込んだ。
「ごめん……。ごめんね。僕、夢中になっちゃって……。痛かった?」
本当に申し訳なさそうに、困ったように言う総司に、千鶴は目をそむけたまま首を振った。
「違うんです……。総司さんのせいではなくて……」
落ち着こうと何度も深呼吸する千鶴を、総司は抱きしめた。
「私、初めてで……」
「うん。それなのに、床の上で、ムードも何にもなくてほんとにごめ……」
「違うんです。私……」
謝ろうとする総司をさえぎって千鶴は続けた。
「私、どうしてもできなくて……婚約者の人と……」
千鶴の言葉に、総司は黙り込んだ。
「ずっと…3年もつきあってたのに、どうしても……。そしたらあの人は優しい人で、私が古風で結婚前にそんなことすることに抵抗があるんだろう、って。それなら結婚するまで待つよって……。私、古風でもなんでもなくて、婚約してるのに会ったその日に総司さんと……!」
自分の胸の中で他の男を思って泣く千鶴にはつらかったが、どうしてもその男が手に入れることが出来なかった彼女を手に入れることができて、しびれるような優越感と安堵とを総司は感じていた。
泣きじゃくる千鶴になんと言えばいいのかわからず、総司は千鶴をずっと抱きしめ続けていたのだった。