【今度いつ会える? 1】
「……らくん。……きむらくん?」
ぼんやりと白い世界を漂っていた千鶴は、その声にふと我に返る。
「雪村君?」
はっとした千鶴は、あわてて左右を見渡して声の主を探した。
「なんだ、堂々と部長の横で居眠りしてたのか?」
からうような声とほほえみが本気で咎めてはいないことを示していたが、千鶴は後ろめたい思いで赤くなった。
「す、すいませんでした……!御用はなんでしたか?」
千鶴はタクシーの後部座席で隣に座っていた部長に、顔をむけて尋ねる。
「今から行くビジネスセミナーの案内状を見せてくれないか」
は、はい!と千鶴はあわてて自分のバッグから招待状を取り出して部長に渡した。部長はそれにもう一度目を通しながら、苦笑いをする。
「……やれやれ、あいかわらずすごいホテルのワンフロアーを借り切ってやるもんだなぁ」
部長の呆れたような言葉に、千鶴はふふっと小さく笑って答えた。
「このセミナー開催者は大企業ですもの。きっとお金がありあまってるんじゃないでしょうか?」
千鶴と千鶴の部門長である部長は、日本を代表するこの大企業が開催するビジネスセミナーに招待され、今タクシーで会場である一流ホテルに向かっていた。そのセミナーではビジネス界での有名人やその分野で最前線の研究をしている教授などを招き、この業界での現状や今後の市場見込み、世界でのトレンドについて講演が行われることになっていた。開催した大企業は、自社のヘビーユーザに対する講演会と会食のサービスとともに、普段は会えない社長や代表取締役などの取引におけるキーマンを招待することによって、トップ同士の顔つなぎをする場としても利用していた。
「まぁいいさ。講演の中身自体は面白そうだしあちらの会社のトップとも会える。せいぜい名刺を配ってくるよ。君には講演の席はないからその間は会食の広間でゆっくりと昼飯でも食べてればいい。講演会の後の名刺交換の時は呼ぶから頼んだよ」
「はい。一応我社との取引状況のリストも作ってきましたので、各部署の責任者の方と取引の内容は事前にお伝えします」
千鶴の言葉に、部長は満足そうにうなずき、冗談を言う。
「講演会は長いから、昼飯を食べた後今の続きでゆっくりと昼寝でもしてるといい」
千鶴は真っ赤になる。
「すっ…すいません……!寝てはいなかったんですけど……ちょっと……考え事を……」
それは本当だった。
ぼんやりと考えていたのは今朝の……夢。
千鶴は昔から不思議な夢を頻繁に見ていた。
時代は多分江戸の末期ごろ。刀を差した男たちの中で男装している自分。時系列で見るわけではなく、日によって幼い日々だったり、大人の女性になった時だったりはするが、基本的に世界観や登場する人は共通しており夢の中の千鶴も、今の千鶴だった。
そして夢の中の千鶴……自分は、いつも一人の男性を目で追っている。
まるで舞い散る桜のように華やかで、儚くて、いさぎのいいその人は、ある時は千鶴をからかい、いじめ、ひどい言葉をなげるものの、結局いつも助けてくれた。夢の中で千鶴は彼の一挙手一投足に一喜一憂し、恥ずかしいくらいに夢中だった。
昨日の夢は、そんな自分が……その彼と初めて夜を共にした夢だったのだ。
彼と夫婦のように一緒に暮らしている光景や、口づけをされているところ、抱きしめられているところを夢で見ることはあったが、夜の……そういう行為を夢でみたことは、これまで一度もなかった。
この不思議な夢は妙にリアルで感情や感覚を生々しく感じるのだが、昨日の夢もそうだった。
触れるだけでドキドキする彼の手が、布団の上に膝まずいている自分の着物の帯をゆっくりと解く。千鶴はそれをまるで催眠術にかかっているように固まったまま見つめていた。
部屋の隅にある灯りが二人をぼんやりとした光の中に閉じ込める。
解いた帯を枕元に放り投げた彼は、目が離せないとでもいうように千鶴の夜着の袷を見つめながらゆっくりとはだけさせていく。千鶴は我知らず震えだしていた。空気は暖かくて春のようだったが、緊張と不安で体が勝手に震えてしまうのだ。
彼はそれに気が付くと、濃い、ほとんど黒く見える緑の目で千鶴を見た。野生動物のような荒々しさを込めたその瞳は千鶴が初めて見る瞳で、震えはますますひどくなる。反面、自分が嫌がっていると彼に思われてしまわないかと不安にも思っていた。そんな千鶴の心の揺れが瞳に全部でていたのだろう、彼はフッと優しく顔をほころばせ千鶴の頬に手を添え顔を寄せる。
「……きれいだよ」
千鶴の耳元で甘くささやく声に、千鶴の脚は力が抜けたようになり彼にもたれかかった。彼はそれを優しく受け止めて唇を合わせる。だんだん深くなる口づけとともに、体が反転して布団に仰向けに寝かせられたのがわかった。彼の熱い体が覆いかぶさってきて、初めての感覚に女性としての本能が怪しくざわめいた。なにかつかまるものが欲しくて目の前にある彼のたくましい肩に手をおく。彼の首筋から肩のラインは千鶴の好きなところだった。すっきりとした首、たくましく広い肩、けれども細見でとてもきれいだと思う。今は着物に覆われていない彼の肩を千鶴はドキドキしながら指でなぞった。それが彼を煽ったのだろうか、彼の動きが性急になる。彼の唇が首筋をたどり、彼の大きな手は胸を包んで……。
「ホテルのエントランスでいいんですよね?」
タクシーの運転手の声に、千鶴ははっと我に返った。頬が赤く、体がほてっているのを感じる。
「あ、はい。エントランスでお願いします。あのタクシーチケットで……」
千鶴はあわててカバンの中をあさった。
「じゃあ、私受付してきますね」
「ああ、ここで待ってるよ。うちの会社の担当者がアテンドしてくれるはずなんだがな……。君を連れてきていることを知らないだろうから紹介しておかないと……。彼はどこかな」
千鶴が受付へと向かっているとき、部長はキョロヨロとセミナーを開催した会社の社員で、自分たちを招待してくれた担当者を探していた。講演会にはその担当者が部長につき、名刺交換の時も自分の会社のトップに部長を紹介することになっている。千鶴は会ったことはないが、何回が電話を取り次いだり、アポを入れたりはしたことがあった。
「こちらにお名前と貴社名をご記入ください」
受付を済ませて部長の傍に戻ろうと、あたりを見渡すと、部長の傍には若い背の高い男性がいて部長と談笑していた。背中を向けているのでわからないが顔見知りのような二人の雰囲気に、あれがうちの会社の担当者の社員なんだろうと千鶴は足早にそちらに向かった。
近づくにつれはっきりと見えてくる彼の後姿に、千鶴はドキリとする。
茶色い柔らかそうな髪、スーツの上からでもわかる細見なのにがっしりとした均整のとれた体、そして……千鶴の好きな首から肩にかけてのライン……。
……これは、夢?……現実……?
混乱してフワフワと足が宙を浮いているような心持で、千鶴はゆっくりと二人に近づいて行った。
まわりの招待客たちのざわめきが急に遠のく。
千鶴に気が付いた部長が、手をあげて、雪村君!と千鶴を呼んだ。
部長の声と視線を追って彼が振り向く。……ゆっくりと。
そして千鶴の想像通りの顔が、驚きの表情になる。
長い睫に縁どられた、緑のきれいな目が見開かれる。
部長の方に傾けていた長身をゆっくり起こして、彼は千鶴に向き直る……。
二人は息をのんだまま見つめあった。
彼の方も信じられない、という顔をしている。
千鶴は混乱していた。
あれは、夢じゃないの?私が勝手に見ていた夢で…。じゃあなぜ、夢の人が現実にいて、しかも驚いて私を見ているの?まるで私と夢の中で会っていたみたいに……。
「二人とも知り合いだったのか?」
二人の態度に部長が不思議そうに言う。その言葉に我に返ったのは、彼が先だった。
「いえ、知り合いというか……。あ、もう講演の始まる時間ですよ。お席にご案内します。こちらにどうぞ…」
「おお。じゃあ、雪村君はとなりの会食コーナーでしばらく時間を潰していてくれ」
部長の言葉に、茫然としながらもうなずいて二人を見送った。立ち去る間際、彼はちらりと千鶴を見て、物言いたげな顔をした。千鶴は何故か彼が言いたいことがわかった。
部長を案内して講演が始まったら自分は抜けてくるから、君はそこで待っていて。話がしたい……。
彼の言いたいことはわかったが、千鶴はしばらく一人になって考えを整理したかった。昨夜見た夢と相まってどうすればいいのかわからない。どんな顔で彼を見ればいいのか、どんな話をすればいいのか……。
千鶴はホテルの中をうろうろして、一般の客室の方に抜ける階段を見つけた。そこは人がほとんど来ない階段で、千鶴はさらにその後ろに回り込んで壁によりかかった。
「……どうしよう……」
千鶴は口元を両手で押さえてずるずるとしゃがみこんだ。
「どうなってるの……」
千鶴が途方にくれたようにつぶやいた途端、夢の中で聞きなれた声がした。
「君……!」
はっとして顔をあげると、ついさっき部長と講演会場に入って行ったはずの彼が息をきらして立っていた。
驚いて跳ねるように立ち上がった千鶴の顔を、まじまじと見つめる。
「……千鶴……だね?」
名刺交換も紹介もしていないのに、自分の名前を呼ぶ彼に千鶴は目を見開いた。
「……違った?」
そういう彼に、千鶴は茫然としたまま首をゆっくりと横にふる。そんな千鶴をじっと見つめながら彼は言った。
「呼んで。……僕の名を」
試すように、怯えるように、慎重に言う彼の言葉と、きらめく緑の瞳に射すくめられて、千鶴はつばを飲み込む。そして、囁くようにその言葉を口にした。
「……総司さん……」
その言葉と同時に、千鶴は強く抱き寄せられた。そのまま壁に押し付けられて覗き込むように顔を寄せられる。千鶴の瞳を探るように見て、彼女のピンク色の口紅がきれいに塗られた唇を見る彼に、千鶴は足から力が抜けて行くのがわかった。
もう、どうしたらいいのかわからない。
でも今は……。彼に、キスをしてほしい……。
千鶴はかすかに震えながらも、そっと瞳を閉じた。OKのサインだと認識した総司は、ひきよせられる磁石のように唇を合わせた。
探るように、味わうように、総司の唇はやわらかく動いた。どこまでなら許されるのか、何をしたら喜ぶのか、嫌がるのか、すべてを知りたいというように様々に角度を変えて千鶴の下唇をついばむようにキスを続ける。千鶴の胸は詰まるように高鳴って、息が苦しかった。我知らずキスの合間に熱い吐息をついてしまう。それでも唇が離れると切なくて寂しくて、自分から求めてしまう。そんな千鶴に、総司は最初はあったためらいや遠慮をかなぐり捨てて、彼女を強く抱きしめると一気にむさぼる様なキスをしてきた。唇を開かせて舌で千鶴の口の中を思う存分味わう。総司の勢いに、千鶴の喉からは甘い声が漏れる。
「ん……!はぁっ……。んん……」
総司の腕は千鶴をぴったりと自分の体にあわせて、手は千鶴の背中やウエストにしっかりとまわされていた。
どのくらいそうしていたのだろう。二人はかなり長い間口づけで会話をし、頬へ、瞼へ、髪へ、と愛撫のような唇をおとし、また唇を貪って……。何度も何度も気が遠くなるほど繰り返した後、ようやく二人は唇を離した。けれどもきつく抱きしめられた体と、愛おしそうに千鶴の髪をかきまぜている総司の手はそのままだ。
しばらくの沈黙の後、彼がポツリと言った。
「……君があの会社にいたとはね……」
総司の言葉に、千鶴は彼の胸の中で目を開いた。目の前にあるきっちりと締められたブルーのストライプのネクタイを見ながら、少し考えて千鶴は聞いた。
「……どうして私を知ってるんですか?あれは……夢じゃないんですか?」
千鶴の言葉に、総司は体を少し離して千鶴の顔を見た。
「……どういう意味?僕を知ってるんなら……思い出してるんじゃないの?」
「思い出す?」
千鶴は、自分はずっと不思議な夢を見ているのだと思っていた、言うと、総司は驚いて、そして千鶴を抱きしめながら説明してくれた。
あれは前世でのできごとだということ。自分はかなり小さいころからすべてを思い出して、ずっとずっと千鶴を探していたこと。新選組の他の面々とは現世でもめぐりあって今でもつるんでいること。彼らには記憶がないこと。千鶴を見つけられなくて、もうあきらめようとしたけれど、どうしても他の女の子だとうまく行かなくて、やっぱり千鶴が好きなんだと思い知らされたこと……。
「君にも記憶がなかったらどうしようかと思ってたけど、たとえ記憶がなくても絶対もう一度好きにさせてみせるって決めてたんだ」
総司の言葉に、千鶴は夢での彼を思い出して微笑んだ。
「……でも僕のことをを覚えていてくれて……嬉しいよ。本当に」
「……私も……」
嬉しい、と続けようとしたとき、ホテルのフロアにクラッシックの音楽が突然流れ出した。それとともに講演会が終わったとのアナウンスが入る。講演会は二時間ちょっとだったはずだ。どれだけ長い時間キスを繰り返していたのか、愛をささやいていたのか、と千鶴は恥ずかしくなって顔を赤らめた。
総司は、といえば全然そんなことは気にしていないようで、なんだ、もう終わったのか、とつまらなそうに言っている。
二人は身だしなみを整えて、一緒にロビーへと急いだ。部長を探しながら総司が言う。
「この後名刺交換会とかいろいろあるけどさ、面倒なのが終わったら二人で……」
言いかけた言葉は、部長の呼び声にさえぎられた。
小太りの体をゆすりながら、千鶴の部長は総司と千鶴の傍にやってきた。千鶴は講演会の資料を受け取りながら部長に、講演会はいかがでしたか?と聞く。
「うん、まぁ面白かったけど……」
そういいながら部長は、総司と千鶴を見比べた。講演会の前と比べてあきらかに二人の雰囲気が違う。
「なんだい、君達。講演会の最中ずっと外で二人でしゃべってたのかい?仲良くなったの?」
部長の言葉に、千鶴は赤くなって、仲良くなんて……ともごもごと言い訳を口にした。総司は彼らしく、ストレートに言う。
「そうですね。ずいぶん仲良くさせてもらいました」
そういいながら意味ありげな、からかうような瞳で千鶴を見つめる。その言葉とまなざしに、千鶴は先ほどまでの二人を思い出してさらに赤くなった。
そんな二人をみて部長が冗談のように言った。
「おいおい。だめだよ、雪村君に手を出しちゃあ。彼女はもうすぐ我社のホープと結婚するんだから」
その言葉に、総司のほほえみが固まるのがわかった。千鶴の顔の血の気もひく。
部長はのんきに続ける。
「なぁ?雪村君。3年くらいつきあっていたんだよな。婚約はもうしてるんだろ?来月だったかな?再来月?招待状を早く送ってくれよ」
千鶴は青ざめた。
ひどいことに、総司と会えた驚きと喜びで、本当に、すべて忘れていた。
自分が婚約していることを。二か月後に式が控えていることを。
総司は千鶴を見つめたまま立ち尽くしている。
「……結婚……?」
茫然とつぶやく総司の声が、千鶴の胸につきささった。