小暑

四年目 夏の終わり 雪村千鶴
スイカと浴衣のイベント後ごろのお話。





大きな石の上に座って、蔵の壁に寄りかかって、総司があくびをするのを千鶴は横目で見ていた。

午後おそく。でもまだ夕方までには時間がある夏の昼下がり。
千鶴が涼みに来た例の場所には、例によって総司と、例の黒猫がだらっとくつろいでいた。あの大きな石は夏はひんやりとして涼しいのと、蔵の影になっていて通り抜ける風がここちいいのを、総司と猫は知っているらしい。
千鶴も当然知っているから来たのだが。
あいにく一番ひんやりとして涼しいところは総司と猫にとられていたので、石の手前側に腰かけた。
それでも生い茂った木の影でさやさやと葉擦れの音と共に通り抜ける風が涼しい。

「眠いんならお部屋で横になってた方がいいんじゃないでしょうか?安静にしてろって言われてるのに……」
総司は寝っ転がってるくらい深く腰掛けて蔵の壁に寄りかかって、足を投げ出していた。
あくびをして目を閉じている。
「ここでちゃんと寝てるよ。だいたいあの部屋で布団の中でなんて暑くて寝れないよ。今日は熱もないし体も楽なんだってさっきも言ったよね。君こそこんなところで油売ってないで、洗濯とか炊事とかないの?」
「炊事はもう雇われてる方たちがやりますし洗濯も……」
「僕のごはんでも作ってきたら?あれこれ食べろー食べろーって持ってくるじゃない」
千鶴は赤くなってぷうっと膨れた。
「あれは……私だけじゃなくて、近藤さんとか他のみなさんが沖田さんにって持ってくるんです……あれ?」

ふいにぎらぎらと照り付けていた日が陰り、千鶴は空を仰いだ。
ふっと吹いてくる風もひんやりと冷たい。

総司も片目をあけて空を見上げた。
「一雨きそうだね。涼しくなるな」
「昨日も今ぐらいの時に夕立がありましたもんね」
「雷がすごかったよね」

他愛もない話をしているうちに、空はどんどん暗くなりとうとうポツリとしずくが千鶴の頬にあたった。
「あ……」
どうしようかと千鶴が立ち上がる。
千鶴の場所では濡れてしまう。総司と黒猫のいる場所は蔵からのひさしが伸びているせいで濡れないが、狭い。
総司が寝そべっている今の状態では千鶴は入れない。
部屋に戻ろうと千鶴が石から離れた時、「どーぞ」といたずらっぽく笑みを含んだ声で総司が言った。
「いいんですか?」
「別に僕専用の場所ってわけじゃないし。狭いけどね」
雨脚が早くなる。
夕立の常で雨粒が大きく、このままではずぶ濡れになってしまう。
「すいません!お邪魔します」
総司がやや体を起こしてくれたおかげでできたスペースに、千鶴は体を潜り込ませた。黒猫が迷惑そうに立ち上がる。が、外は大雨で出て行けずに、不満そうに「にゃ〜」と鳴いた。
「ご、ごめんね。狭いよね」
千鶴が猫に謝っていると、「手、どかして」と総司の声。
え?と思っている間に、どさっと総司の頭が千鶴の膝に乗っかった。
いわゆる膝枕だ。
「!!!」
驚きで固まっている千鶴を、総司は膝の上から見上げて笑った。「狭いからしょうがないでしょ」
茶色の前髪の間から見える、総司のきれいな若葉色の瞳に微笑みが浮かび金色に解けた。
千鶴の心臓は一瞬ではるかかなたの空へと飛んでしまう。
しかし、総司はいつも通り。
視線を空に移すと、「あー、凄い雨。でも涼しくなったな」とつぶやき、また目を閉じてしまった。 猫も、わずかにできたスペースにめんどくさそうに再び丸くなって落ち着く。

ふ、普通にしなきゃ……!
猫さんにも沖田さんにも居心地が悪くならないように、普通にっ…!
真っ赤になってる顔は寝てる総司にはみえない。猫も気にしないだろう。うるさく話したり体をそわそわ動かしたりしないで、ゆっくりと……
千鶴は深呼吸をした。
この猫にも、総司にも、こんなに近づいたのは初めてかもしれない。
「……」
平常心平常心…と唱えているうちに、はるかかなたに飛んでいた千鶴の心臓がようやく戻ってきた。
茶色の髪に長い睫、すっきりした鼻筋に広い肩。すぐそばには黒くてつやつやした毛のカタマリが丸くなっている。
千鶴はなんだか楽しくなってきて、心の中でふふっと笑った。


雨に閉じ込められてるみたい……

目線だけで空を見上げる。ひさしから雨粒が次から次へと滴り落ちてきて少し先の景色も見えにくい。
雨の音がうるさいのにとても静かだ。空気がひんやりとして雨の匂いに包まれる。

そして千鶴は、自分の膝の上で目を閉じている総司を見た。
端正な顔のつくりはそのままなのに、肩の厚さや顎のあたりが薄くなっている。彼の中の病魔が、ゆっくりと侵食していっているのだ。
いつも飄々としてこの世に未練などないようにふるまっている彼が、実は病魔と必死に戦っているのを千鶴は知っている。
食欲がなくてもいつも無理やり食べて、食べて、眠って。
もっと組長として働きたいのに。新選組の剣として役に立ちたいのに、できない口惜しさを我慢して、それでもちゃんと薬を飲んで療養しているのを、看病している千鶴は知っていた。
それなのに、病魔は総司の努力をあざ笑うように彼の体力を奪い、熱をだし、食欲を奪っていく。
彼が、薬を飲みたくない、食事はいらないとわがままというのは、いつまで病魔と戦えばいいのか、いつかは勝てるのかいやどうせ勝てはしないのにと心が折れそうになった時。
それでも彼は一人で折れた心をまた結びなおして、病魔と闘っていることも千鶴は知っていた。

沖田さんの目に映っているのは、近藤さん。そしてその隣の土方さん。
新選組として活躍している隊のみなさん。

千鶴は再び雨空を見上げた。
千鶴のことは映っていない。でもそれがさみしいとはなぜか思わなかった。

さっきよりは雨の勢いが弱くなってきた気がする。
周りの木の葉は雨に洗われて緑が濃く、土は水を含んで生き生きと、カエルの鳴き声に、木の枝で雨宿りをしている鳥の声。

なんでだろう?と千鶴は空を見上げながら考えた。
この気持ちはなんなんだろう?

『その人が好きでその人の役に立ちたいって思える人。自分のことより大事に思える人』

この場所で初めて金平糖をもらった時の、総司の笑顔を思い出す。
あの時も夏だった。
とっても暑くて……
きっと、それは、私にとっては沖田さんなんだ。

わが身を犠牲にしてとかそんな悲壮感は一切ない、今の自分の気持ちを千鶴は理解した。そしてそれが幸せな理由も。

『大事に思ってもらうより、誰かを大事に思う方が幸せだよ』

沖田さんが大事。
沖田さんが幸せで笑っていてくれて、沖田さんの望むようになってたら、それで私は幸せなんだ。
たとえ沖田さんの病気のせいでそれが残りわずかだとしても。
傍にいられるだけで私は幸せなんだ。
とても幸せで、その人を思うだけでこんなに心が温かくなる。

涙も衝撃もなく、その感情はすとんと千鶴の中に降りてきて胸の奥に落ち着いた。
こうやって沖田さんと雨宿りをして夏を過ごしているのがとても幸せ。
西瓜を食べて秋の紅葉に冬の大根、着物を冬物に変えて雪を見て。
そしてまた春の若葉。
これまで一緒にいくつもいくつも日々を重ねて季節を重ねてきたように、これからも普通の毎日を沖田さんのそばで重ねていきたい。
残された時間がわずかだとしても、その間はずっと。



千鶴が身動きをしたのが伝わったのか、総司が目を閉じたまま口を開いた。
「雨音が小さくなってきたね。雨はやんだ?」

千鶴は慌てて空を見上げた。だいぶ空は明るくなってきたけれど、まだ雨はぽつぽつと降っていた。
「いえ、まだ少し……降ってます」
千鶴の声が変だったのか、総司は目を開けた。
「どうしたの?」
千鶴はほほ笑んだ。人の感情の動きに敏感な沖田さんらしい。
「いえ、別に……涼しくなって過ごしやすくなってきたなあって」
総司もゆったりとほほ笑んで、再び目を閉じた。
「そうだね」
こんな言葉ですら、交わせることがとても幸せ。
「はい」

しばらくして雨がほぼあがるころ。
ひさしからぽたりぽたりとおちてくる雨の名残を、千鶴は見ていた。
「雨、やんだ?」
再び目をつぶったままの総司に聞かれ、千鶴は首を横に振る。

「いいえ、まだ……」
「まだ降ってるの?」
「はい」

雨音はもう聞こえないはずなのに、総司は目をつぶり千鶴の膝に頭を預けたまま動こうとしなかった。
千鶴は総司の顔を見て、そして傾いてきた夕日に反射して輝くしずくを眺める。


この時間が、もうちょっとだけ続きますように。
もうちょっとだけ、もうちょっとだけ、重ねて行けますように。