夜の虹



後日談 




「千鶴がいない?」
午後遅くの市中見回りから帰ると、駆け寄ってきた平助から総司はそう言われた。どこか屯所の隅っこで掃除でもしてるんじゃないのと思ったけれど、平助は屯所中を探したらしい。
「それに部屋が……」口ごもる平助に総司が羽織を脱ぎながら聞く。
「部屋って千鶴の部屋?」
 沈黙。
 どうやら言いたくないらしい。らちが明かないと、総司はとりあえず千鶴の部屋へと向かった。
 千鶴とは朝あいさつをしたっきりで、午前は隊内で剣術指南をしてそのまま市中見回りに行ったっけ。この後は夕飯まで時間があるから会いに行こうと思っていたんだけど。
 途中から斎藤と土方が何事かとくわわり、平助から事情を聞くと口々に声を上げた。
「やはりな。いくら相愛だと言っても総司のあの人目を気にしないいちゃつきぶりが千鶴には嫌だったのだろう」
したり顔で言う斎藤に平助もウンウンとうなずく。
「おれも、総司はやりすぎだって思ってた」
土方が頭を掻く。
「注意はしたんだがな、遅かったか……」
 千鶴の部屋の襖に手をかけて、総司は横目で皆を見た。
「僻みはみっともないですよ。僕達はうまくいってるんで」
 そうして襖を開ける。
 そこはきれいに整頓されていた。いつもは部屋の隅に置いてある裁縫道具も片づけられ、繕い物や洗い物がまとめておいてあるカゴも片づけられてガランとしている。畳は水拭きをしたのかさっぱりときれいになっており、部屋の隅々まで埃が払われていた。
 千鶴はいつも部屋をキレイにしている方だが、これは……
「立つ鳥跡を濁さず、だな……」
土方がつぶやく。
「おれも屯所探し回ってこの部屋最後に覗いてさ、なんか……がらんとしててもう戻ってくる気がねえっつーかそんな気がして……その上、これ、見てくれよ」
 平助はそう言うと、脇に置いてあった文机の上を指で示した。そこにはなんと、千鶴がいつも使っている筆が真っ二つに折って置いてあるではないか。
 皆は顔を見合わせた。覚悟の上での出奔と見えなくもない。
 総司は無言で筆を見た後、部屋の中を一通り見渡した。
「やだなあ、みんな。千鶴ちゃんは今ずっと片恋してた僕とようやく相愛になれて幸せいっぱいなんですよ。僕から離れて出ていくなんてあるわけないじゃないですか」
 ニッコリとほほ笑む総司の笑顔だが、どこかひきつっているように見えるのは気のせいか……。
 総司は肩をすくめた。
「僕と相愛になってから、屯所から一人で出かけるのも大目に見てもらえるようになりましたし、ちょっと買い物が長引いてるだけですよ。すぐ帰ってきますって」

 しかし、その夜、千鶴は帰ってこなかった。
 次の日も、その次の日も。結局十日たった今も、千鶴は帰ってきていない。
 十一日目の朝、千鶴抜きで朝飯を食べながら平助がポツンとつぶやいた。
「ほんとに出てっちまったんかな……」
左之が答える。
「いや、何か事件に巻き込まれてる可能性もあるぜ。あの千鶴が挨拶も無しに出てくとか俺には考えにくいんだが」
「挨拶とかして、出ていくのが総司にバレたら逃げ出せねえって思ったんじゃねえのか」
 土方がめざしをバリバリと食べる。斎藤がしばらく考えてから言った。
「すべて計算づくだった……とは考えられないか」
「計算づくって、なんだよ?」新八が聞く。斎藤は静かに答えた。「屯所から逃げ出す手段として、総司と相愛になれば監視の目も緩むと考え、それを狙って総司のことを好いているフりをした、ということだ」
 おお〜……と、皆から声にならない声が漏れた。
 そんな黒い千鶴は考えたこともなかったが、もし千鶴が計算づくで総司を篭絡してそのおかげで監視の目が緩み手際よく逃げ出せてしめしめと思っていたとしたら……ひどい悪女だが、そんな千鶴はそれはそれで……
 皆それぞれ妄想の中で悪女な千鶴をしばらく楽しんだ後、頷いた。
「そもそもあの千鶴が、何で総司なんかと、と思ってたんだがそれならしっくりくるな」
と土方。
「そうです。総司の事など大して好きではないが利用できると、考えたのではないでしょうか」
 斎藤がきりりとしたまなざしで土方を見る。平助もどこかほっとしたように笑った。
「そーか、そうだったのか。総司は可哀想だけど……まあそれは有りうるよなあ」
左之が肩をすくめる。
「まあ、俺もなんで総司なんだ? って思ってたしな。総司は剣はそりゃ強いが性格はあれだし女心なぞわかんねえだろうし、千鶴にも優しくなかったしな」
 総司は冷たい緑の瞳で皆を見渡した。
「そう思いたいのはわかりますけど、見苦しいですよ。千鶴と僕は相愛なのに、どうしても僕をフラれ男にしたいみたいですね」
「でも実際千鶴ちゃんはいねえんだしよ。出てったのは総司と夫婦になりてえって近藤さんに言った三日後だ。総司が原因ってのが普通だろ?」ご飯を掻っ込みながら新八が言う。
「僕は何の原因でもないですって。どこかで迷子とか、あとは左之さんが言ってたみたいに、事件に巻き込まれてるのかもしれないですね」
 事実総司は、隊務の空きを見つけて市中を探し回っていた。千鶴の行きそうな場所や千鶴を見かけた人がいないかの聞き込みで、皆には内緒だがここしばらくあまり寝ていない。
「それにいちゃいちゃだって土方さんに変なオキテを押し付けられたから、全然ですよ」

 変なオキテとは。
 さかのぼること十三日前。近藤の前で相愛であることを伝えた総司と千鶴は、幸せの絶頂だった。
 近藤との話が終わり皆からの追及やら質問やらに答えながらも、お互いに目で会話をし、千鶴は恥ずかしそうに頬を染めてうつむいたり、総司がかわいくてしょうがないという目で千鶴と見たり。
 皆はもやもやしながらも、千鶴がそれでいいと言い、近藤も祝福しているのなら何も言えない。夕飯の片づけを総司が優しく手伝ったりオデコを小突いたりしているのをジト目で眺めることしかできなかった。
 しかし次の朝。土方は目撃してしまったのだ。
「あ、ちょっといい?」
 かなりの早朝、廊下を歩いていた土方は曲がり角の向こう側からそんな総司の声を聞いた。
 なんだ? あいつやけに今朝は早いな、飯当番じゃねえはずだが……なんて思って曲がり角を曲がって見た光景に、土方は固まる。
 壁に両手で千鶴を囲むようにしている総司。総司の腕の中でトロンと見上げている千鶴。
 あわわわ……と土方が見ている前で、んちゅーーーーーーーっと総司は千鶴に口づけをしたのだ! しかもかなり熱烈なものを!
 土方が茫然としていたその間、約……どのくらいだろうか?一分? 五分? 
 土方には永遠にも感じられたが、総司はやめる気配がない。顔の角度を変えてさらに体を押し付けて深く深く……ありゃあ、舌入れてんじゃねえのかっ?
「くぉらあああ! 総司! なにやってんだてめええ!」
 土方が我を失って怒鳴ると、総司は驚いた風もなく唇を離した。土方に気づいていたのに千鶴にちょっかいを出していたのだ。千鶴は当然気づいておらず、総司の腕の中で真っ赤になって目を見開いている。
「ひ、土方さん……」
「てめえらなにやってんだ、朝っぱらから!」
総司は土方の光などどこ吹く風で肩をすくめる。
「何って……見たらわかるでしょ。それに朝っぱらからだけじゃなくて夜だってやってましたよ」
「なっおっ、ちっ、どっ…っ」
 動揺の余り土方は言葉にならなかった。
『何? お前、千鶴と同衾したのか? いったいどこで?』と聞きたかったのだが、朝の爽やかな光の中で、顔を真っ赤にしている千鶴の前では言葉にできない。
 総司はケラケラと笑った。
「いやだなあ、土方さんいろいろ想像してるでしょ? 僕の千鶴で想像しないでくださいね。島原でも行って来たらどうですか?」
 図星だったこともあり、土方の怒りは天を突いた。
「うるせええええええ! おまえら! ちょっと来い!」

 そして副長室に連行し、自分の前に正座させた後、土方はたっぷりと墨を含ませた筆で紙に何かを書いた。
 総司が覗き込む。
「一、士道に背くまじきこと、一、局を脱するをゆるさず、一、勝手に金策いたすべからず………なんだ、局中法度じゃないですか」
「最後に、お前らのを特別に付け加えたんだよ」
 そう言ってまだ墨が黒々としている紙を総司と千鶴の目の前に突き出した。千鶴がおずおずと受け取る。

「一つ、局内でむつみ合うこと許さず……」

 千鶴はそう読むと、真っ赤になった。
「す、すいません……。あの、でも、その、部屋は別々で、昨夜はその……寝る前と、起きたあとに廊下で会っただけで……む、む、むつみあったりとかはしてません……」
 真っ赤になって両手で頬を押さえている千鶴。土方はギロリと総司を見た。「てめえ……」
「なんですか? 勝手に誤解したのは土方さんですよ」
「……」それはその通りだ。あの千鶴のキスシーンを目の前で、しかも相手が総司で、土方自身も少々頭に血がのぼってしまったのは認める。
「……だが、その法度は絶対だ。こんな独り者の男ばかりの屋敷で、ただ一人いつも女といちゃついてる奴がいたら風紀が乱れんだよ。しかも女は商売女でも何でもない千鶴だ、穏やかでいられるヤツは少ねえ。この法度は守ってもらうぞ」
「ええ? じゃあ、破ったら切腹ですか?」
「わ、私もですか?」
 青ざめた千鶴を見て、土方は可哀想に思いながらもうなずいた。千鶴が断らなかったら総司が強引にあれこれしかけるのは目に見えてる。
「……そうだ、かわいそうだが新選組の規律を守るためにはしょうがねえ」
総司と千鶴は顔を見合わせた。
「じゃあ、僕らはどこですればいいんですか?」
しゃあしゃあと聞いてくる総司に、土方は再びキれた。
「知るか! 出会い茶屋にでも行ってりゃいいだろ!」
 真っ赤になっている千鶴が気の毒で、土方は手を振った。「あーもう出て行っていいぞ、朝飯の準備ができたころだろ。総司、千鶴を困らせんなよ」
 出ていきかけた総司がムッとした顔で振り返る。
「困らせたりなんてしませんよ。子ども扱いしないでもらえますか」
 その顔を見て土方はあやうく吹き出しそうになった。
「ああ、悪かった」
 そうか、こいつも祝言あげたら一家の主になるんだもんなあ、それを半人前の弟扱いされてちゃあ、嫁さんの手前締まらねえな。
「総司」
 ひょいと上半身だけのぞかせた総司に、土方は言った。
「言い忘れてたが……おめでとさん」
 総司は一瞬驚いたように緑の目を見開いて、そしてにっこりとほほ笑んだ。
「ありがとうございます」


「まあ、変な局中法度を作られたせいで千鶴ちゃんと口づけをしたのはあの朝が最後でしたけど、ちゃんとうっとりと応えてくれてましたよ。いなくなった日の朝だって、普通に会話しましたし」
 ちょいちょいはさまる総司のドヤ顔エピソードにカチンとくるが、千鶴が心配なのは同じだ。皆は朝飯を食べる手を止めて『うーん』と考え込んだ。左之が言う。
「自分で出て行ったら……総司には悪いがある意味安心ではあるよな」
 斎藤がうなずいた。
「その通りだな。あの部屋の片づけ具合から総司から逃げ出しただけのような気もするが、万が一何かに巻き込まれた可能性も考えて探してみるとするか」
「ちょっと、一君。探してくれるのは嬉しいけど、一言余計――」
 総司が言いかけた時、廊下を大股で歩く音がしてすぐに、近藤が顔を出した。
「おお! みんなそろっているか」
土方が驚いて顔をあげる。
「近藤さん? 早いじゃねえか、どうしたんだ?」
 近藤は困り果てたように頭に手をやった。
「……実は雪村君らしき人物について心当たりがあるという話を聞いてな、急いでやってきたんだ」

 近藤の話は、近藤が別宅に囲っている妾から聞いたものだった。お幸というその女性が市中へ買い物へ出た時、店の主人との世間話の中で聞いたというのだ。
 最近の京は人の出入りが激しいという話の中で、『うちの近くの屋敷もね、ずいぶん前に空き家になってしばらくしたら、いろんな輩が入れ代わり立ち代わり出入りましてねえ……』
 で、ほんの少し前からその屋敷に住みだした『女』の特徴が千鶴にそっくりだというのだ。
 薄桃色の着物に白の袴。一つ結びで男の格好した女の子でしたよ、と。

「千鶴だ」
総司は箸を置いて立ち上がった。
「その屋敷はどこですか?」
 近藤が慌てて総司の肩をつかみ座らせようとするが、総司はもう廊下にでようとしている。
「総司、待てまだ話は全部終わっておらんのだ」
「道々聞きますよ。近藤さん、教えてください」
「まあ待て! 総司、待つんだ」
近藤の顔があまりにも真剣だったので、総司は目を見開いた。そして近藤の指さす床にとりあえずといった風に座る。
「なんですか?」
 近藤は、視線をさまよわせてしばらく言葉を探した後、思い切ったように言った。
「その……その『女』、雪村君はな、男と一緒にくらしているそうなんだ……」

 

「おい、総司やめとけって。傷つくだけだぞ」
「左之さんの言うとおりだって。明日とか明後日に来ようぜ、そしたら頭もちょっとは冷えてるだろうし」
 左右でサラウンド状態の平助と左之を無視して、総司は近藤から聞いた例の屋敷へとずんずん歩いて行った。斎藤も黙ってついてきている。多分土方あたりに面倒なことになったら頼むなどと言われてきているのだろう。
 総司の心の中では千鶴を信じる天使と、信じない悪魔が戦っていた。
 いやいやいや……まさか千鶴ちゃんが浮気とかそんなのあるわけないよね、そんな気配すらなくて三日前にいきなり別の男と出会って浮気とか、あの子にはありえない。
 だが、斎藤が言っていた悪女千鶴だったら……
 総司は、夫婦のふりして一緒に過ごした日々を考える。 
あの時からすでに、千鶴の心の中には別の男がいて、総司をたぶらかして何とか屯所から抜け出そうとそのためだけに演技をしたとか……
 いやいやいや、それもあり得ない。ケンカしたり笑いあったり、あれが嘘なんて思えないし、そもそも千鶴は命が危なかったのだ。最終的に屯所から逃げ出すことを考えているのなら、あんな風に総司をかばったりしないはずだ。
 じゃあ、なぜ千鶴は帰ってこない?
 どこか遠くに連れ去られたのか、それとも何か事情があって監禁されていたのかと考えていたが、お幸によるとその男装した『女』、千鶴は普通に買い物に行ったり家事をしたりして外出しているらしいのだ。
 総司の足は自然と早まった。
 
 お幸から聞いたあたりに来ると、例の店があった。
 総司は立ち止まる。あそこの店主に聞けば、千鶴が住んでいる屋敷を教えてくれるだろう。近いと言っていたからすぐにわかるに違いない。
 ……ぼくは、本当に知りたいのか……? あの子が帰ってきてくれるなら知らないままの方が……
 知らないままの方がいいんじゃないのか? 男と女のことは相手のことを一から十まで知らない方が……
「忙しいところをすまぬが、少々聞きたいことがある」
 総司の葛藤などまるで気にせず、斎藤がさくさく店主に声をかけた。総司が慌てて止めようとしたが間に合わない。
「へい、なんでしょう」
「男のふりをした白いはかまの女が住んでいるという屋敷を知りたいのだが」
「ああ、それでしたらすぐ後ろですよ」
 道の反対側を指さされ、斎藤は総司の横を通り過ぎた。「行くぞ」
「ちょっと……ちょっと待ってよ一君! なんでそうあっさり進めちゃうのさ、僕としても心の準備が……」
「嫌なことは早く済ませた方が良い。千鶴に捨てられた事実は変わらん」
「まだ捨てられてないって!」
「『まだ』ということは、自分でも捨てられたことを認識しているのだろう? なら早く現実を目の当たりにした方が良い」
「まだっていうのは言葉のアヤで……ってか一君、早くフラれろって思ってない? 待って待って待って!」
 総司が止める間もなく、斎藤は「頼もう!」と言ってその家の玄関の扉を開けてしまった。
「誰かおらぬか」
「ちょっと、一君!」
 後ろから総司が引っ張ろうとし、それを斎藤が振り払おうをしたとき。
「はーい、どちらさまですか?」
と中から軽やかな声がした。
 こ、この声は……!
 平助、左之、斎藤、総司は顔を見合わせた。千鶴の声だ。しかもおびえているとか悲しんでいるとかではなく、明るくのんびりとした……そう、新婚の嫁のような。
 その声を聞いた途端、総司の腹が決まった。
 千鶴はもう、総司の思い人なのだ。千鶴が異議を唱えようとなんだろうとそうなのだ。同じ枕で同じ夢を見て、これからも同じ景色を見ていこうと約束した。悪女でも天使でもなんでもいい。
「……千鶴を、連れて帰る」
 総司がまっすぐ前を向いてそうつぶやくと、平助たちは顔を見合わせた。そしてうなずき合う。
「ああ、連れて帰ろう、協力するぜ」

 パタパタという足音が近づき、皆がごくりと唾をのんだ直後。ひょいっと千鶴が顔をのぞかせた。
「え? みなさんお揃いでどうしたんですか?」
 後ろめたい表情をするか、それとも逃げ出すか……と思っていた皆は、千鶴の反応にガクッとずっこける。
「……」
 混乱して言葉がでない皆の前で、千鶴がきょとんとした顔で立っている。皆を代表して、当事者である総司が口火を切った。
「えっとー……君はここで何をしてるの?」
 総司は頭を掻きながら千鶴に聞く。暴力沙汰になって泣き叫ぶ千鶴を引きずって屯所に……などということもちらりと考えていたのだが、千鶴のこの能天気さに毒気を抜かれた。
「看病をしてたんですが、もう治ったみたいなんで。今日、屯所に帰ろうと思って、今、家の片づけをしてたんです」
「……」
 皆はまたも顔を見合わす。総司が代表で聞いた。
「看病って誰の?」
「え? だから、多分親族の……」
どうにもかみ合わない会話ながらも、皆が質問し千鶴が答えていくにつれだいたいの話が分かってきた。

 十日前の昼、折れてしまった筆の代わりを買おうと市中に出かけた千鶴は、八百屋のおかみさんからある話をきいた。
 それは、最近近くの家(この家だ)に、丸坊主の蘭方医がちょくちょく出入りしているという話だった。
『それに加えて女の子も出入りするようになってね。あの蘭方医、父親くらいの年だろうに若い子を連れ込んでるのかしらって話してたのよ〜』そう言って千鶴の顔をみて、『あら』と言葉を飲み込む。
『あなた……その女の子に似てるわね』
 自分に似た女の子と蘭方医……父様ではないだろうか。自分に似た女の子については心当たりがないが、親戚やいとこかもしれない。
 屋敷の場所を聞き出すと、千鶴はその足で屋敷に向かう。
『すいませーん。誰かいませんか』
 声をかけても誰も出てこない。が、かすかにうめき声のようなものが聞こえた気がして、千鶴は勝手に上がっていいものかどうか迷いながらも、『すいません、お邪魔します』と謝ってから家にあがった。そしたら……
「血まみれの男の人が倒れてたんです。いえ、父じゃありませんでした。もっと若くて……で、その人は私に似てたんです」
 意識のない彼を放っておくわけにはいかず、千鶴はとりあえず看病をした。彼はよくなってはいたが、一言もしゃべらなかった。傷は銃創で服も洋装。何か訳ありなことは一目でわかる。そして自分の血縁者であることもわかった。
『あなたは……私の何? いとことか?』
 看病をしながら聞いても、彼は答えてくれなかった。

 千鶴は総司たちにそう説明すると、後ろを振り返って手で指示した。
「今朝、起きたらその人の姿がなくなっていたんです。動けるようになって出て行っちゃったんだと思います。あの人が私のなんなのか、父様とどういう関係なのかはわからないままでしたけど、傷が治ったのならよかったかなって」
左之が頭を掻いた。
「ああ、そりゃまあ……よかったけどよ。たいへんだったのはわかるが、俺たちに連絡も無しに十日も外泊ってのは……」
「え? 私、すぐに手紙を書いて近所の子にお金を渡して屯所に届けてって頼んだんですけど……」
「ええ?」
 皆が驚いていると、千鶴が通りを見て「あ、あのこです」と声をかけた。
 やってきた鼻たれ小僧は背の高い男たちに囲まれても物おじせずに受け答えする。
「俺、ちゃんとわたしたぜ、えーっと……」
 子どもはそう言いながら皆の顔を見渡した。そして斎藤を見るとパッと顔を輝かせる。
「この人に!」
 総司たちはいっせいに斎藤を見た。
「一君?」
 斎藤は「む」と顎に手をやって考えた。
「そのような文を受け取った覚えは……」
「渡したよ! 夕方に屯所の前で、はい、これって!」
 しばらく考えていた斎藤は、「もしかしてあれのことか」と思い当たる節があったようだ。
「文とは言われなかったのでな。ちょうど夕方になり涼しくなってきた故、鼻をかんで捨てた。あれが千鶴からの文だったのか」
「ちょっと、一君……」
「斎藤、お前なあ……」
 皆がへなへなと崩れ落ちる中で、千鶴だけが事態をわかっていなくて不思議そうに首をかしげていた。

その夜、屯所の千鶴の部屋の前で。
「じゃあ、総司さんは私が家出をしたって思ってたんですか?」
おかしそうにコロコロ笑っている千鶴を見て、総司はむくれた。
「そりゃ思うよ。いきなり連絡もなくいなくなって、部屋は妙にきれいになってるし筆が折られて置いてあったし……そういえばあれはなんでなの?」
「掃除は、あの朝たまたま頑張ってやったんです。筆はその掃除の時に折れちゃって。それを買いに出かけたんですけど、そこで父様らしき人がっていう話を聞いたんです」
総司はため息をついた。
「一君ときたらまったく……」
ふふっと千鶴は笑うと、総司の顔を覗き込んだ。いたずらっぽく輝く黒目がちの大きな目がかわいくて、総司はドキリとした。
「でも嬉しいです」
「嬉しい? なんで」
「私がほんとにいなくなったとしたら、総司さん、ちゃんとああやって探しに来てくれるんだなって」
「……探すよ、そりゃ」
 総司ちらりと千鶴の向こう側と反対側を見る。人影はない。
「大事なお嫁さんだからね」
 しかもこんなにかわいい。
 総司は顔を傾けてゆっくりと千鶴に口づけをした。
 他の誰かになんか渡すものか。千鶴が嫌だと言っても離さない。
 
 千鶴がいなくなってからというもの、毎夜毎夜眠れない合間に思い描いた柔らかい唇。優しい笑顔に暖かい体。
 総司は大事に大事に抱きしめた。





2015年10月25日
掲載誌:夜の虹


戻る