結婚までにしなくてはいけない八つのステップ
「あれ、それ買って来たの?」
ドアのチェーンを開けに来てくれた千鶴と一緒に部屋に入った総司は、千鶴のおこた兼用の小さな白いテーブルの上に載っているぶ厚い雑誌を見て、そう言った。
千鶴は少しだけ赤くなって言い訳するように言う。
「私も初めてだからよく知らないですし……一度買ってみようかなって」
その、表紙にウェディングドレス姿の女性が載っている分厚い雑誌は当然『セグシィ』だ。
総司はネクタイをはずしYシャツを千鶴の洗濯器につっこんで、、既にかなり持ち込んでいる自分の私服の中からTシャツとハーフチノに着替える。
「ふーん。僕は特に式には興味ないからなあ、千鶴ちゃんのいいようにしてくれたらいいよ」
靴下を洗濯機に入れながら、お風呂ははいっているかとバスルームを覗いた総司に、千鶴が膨れながら言った。
「ダメですそんなの。二人の式なんですから一緒に考えてください」
「え〜?あ、僕先に風呂入っていい?」
バスタオルを勝手に取り出して、先ほど着たばかりのTシャツを脱ぎだした総司に、千鶴は「どうぞ」と言って、夕飯を暖めなおすためにキッチンに向かった。
もちろん二人はまだ結婚していない。しかしできるだけ一緒にいたい。
結婚準備には半年はかかるというが、その間会社で会って時々デートするくらいでは耐えられない(主に総司が)ということで、二人は今、週末同棲のような形で毎週生活していた。
つまり、金曜日の夜に総司が帰るのは千鶴のマンション。そこから土曜日曜は千鶴のマンションで生活して、月曜日の朝は千鶴の部屋から一緒に会社へ出勤。月曜日から木曜日の夜は、しょうがなく総司は自分のマンションへ帰る。もちろん夜に残業のない日は一緒に夕飯を食べたりデートもする。
そんな、ほぼべったり状態なのにもかかわらず、毎日一緒にいられないのはとてもつらい(主に総司が)。プロポーズはもう済んでいるのだから式とかなにやらよくわからない儀式はすっとばした早く結婚……というより一緒に暮らしたいのだ(主に総司が)。
総司はいつもそんなことを言って寂しがったり我儘を言ったりして千鶴を困らせる癖に、具体的なステップは踏もうとしないので、今日千鶴は一歩前にすすもうと結婚情報誌を買って来た。しかし先ほどの総司の、興味がなさそうな言葉では先が思いやられる。
千鶴だって初めてなのだから、結婚を決めたらじゃあまず何をすればいいのかなどわからないのだし、いっしょに勉強してくれないと困るのだ。
よし!今日はまず「一番最初は何をすればいいか」だけ、ちゃんと一緒に決めよう。
千鶴は夕飯のカレーライス(昼間の仕事中に、千鶴の社用メールアドレスに総司からリクエストがあった)をかき混ぜながら決心したのだった。
食後、早速千鶴の膝枕でいちゃいちゃしようとしだした総司をなだめて、とりあえず千鶴はコーヒーを二人分淹れた。
白い机の上に結婚情報誌を総司にも見えるように乗せて、パラパラとめくっていく。
「ほら、沖田さん。ここ見てください。式に必要なお金と、新居や新婚旅行に必要なお金、こんなにいるみたいですよ」
「うわっ結構かかるね」
「それから、引っ越しもしないといけないですし役所関係と……私は苗字が変わるから身分証明書とか銀行口座とか全部変えないと。一日、そういう変更手続きを集中してやる日を作った方がいいって書いてありますね。有給をとる日をあわせてとって、一緒に行かないと」
「えー、せっかく一緒の平日に休みとるなら役所なんて行くよりディズニーシーに行きたいなぁ」
「……沖田さん」
くるくると千鶴の髪をもてあそびやる気のなさそうな総司に、千鶴は溜息をついてさらにページをめくった。
「あっここにこんな特集がありますよ。式までにやらないといけないことが順番に書いてあるみたいですね。『結婚までにしなくてはいけない八つのステップ』」
千鶴の指差した場所を総司も覗き込んだ。
「えーっと何々……?『ステップ1……』」
■ステップ1 双方の両親に結婚の報告をしましょう
土曜日の夜七時。
総司が携帯電話で総司の実家に電話をかけるのを、千鶴は隣で正座をして緊張しながら見つめていた。電話だからもちろん見えないのだが、一応ちゃんとした格好もして、うすく化粧もしている。
途中で電話を代わってご挨拶……とかになったらどうしよう。どうしようってどうもしないよね、ちゃんとご挨拶しなくちゃ。名前と……あとは出身地かな?趣味とかも言った方がいいのかな……
緊張している千鶴とはうってかわって、総司はのんびりと携帯電話を耳にあてコール音を聞いている。
「あ、もしもし母さん?僕。うん。……うん。えーっと……話があるんだけどさ、父さんにかわっ……え?いや別に事故ったりしてないよ。うん。……不倫相手を妊娠させた!?はあ?何言ってるのさ。………ああ、昼のワイドショーで言ってたんだ……うん、うん。オレオレ詐欺ね。いや違うから。僕はあなたの息子の総司だし。……ホントだって……はあ?何を言えばいいのさ……合言葉ってそんなの……」
総司は呆れたように体を起こして、ベッドによりかかると髪をかき上げた。そしてチラリと千鶴を見る。
「嫌だよそんなこと言うの……なんで信じられないのさ、自分の息子でしょ?息子なら言えるはずって、そりゃ言えるけど今は言いたくないの!……なんでって……」
総司はまたチラリと千鶴を見る。千鶴が緊張した顔で不安げに首をかしげたのを見て、総司は溜息をついた。
「あーはいはい、僕がおねしょをしてたのは小学一年生までです、これでいい?」
千鶴が目を見開いて総司を見ると、総司は頑なに視線を合わせないようにまっすぐと空を見ている。しかし耳は真っ赤だった。千鶴は小さく吹き出す。
か、かわいい……!
小学生までおねしょをしていたのもかわいいが、それを恥ずかしがっている総司もかわいいし、結局言わされている総司もかわいい。要は総司ならなんでもかわいいのだ。 千鶴も相当な総司馬鹿になってしまっていた。
総司は横目で千鶴をにらむと、通話を続ける。
「あ、父さん?ようやくかわってもらえてよかったよ。母さん絶対あれからかってたよね、僕だって気づいてたでしょ。……やっぱり。ん?ああ、そうだった。実は僕、結婚しようと思ってて」
ものすごくあっけない報告に、千鶴は目を剥いた。
ええ!?こんな普通に言うものなの?「お父さん、今まで育ててくれてありがとう」とか「一緒に生きていく人を見つけて…」とかじゃないんだ?
驚く千鶴をよそに、話はとんとんと進んでいるようだ。
「うん、そう。同じ会社の子。雪村千鶴って言う名前だよ。……そうだね、一度会いに……ああ、そう?じゃあどっか適当な店とっとくよ、うん。え?明日?ああー……」
総司はそう言うと、通話口を手で抑えて千鶴に言う。
「明日、夕飯でも一緒にどうかって。どこか適当な店で」
「はっはい…!お、お店探しておきますので……!」
緊張のあまり裏返った声で千鶴はそう言うと、結婚情報誌にそういう店の特集がないかあわてて探し始めた。 電話を切った後、総司と二人で店を決めて予約をする。総司がその店の名前と予約時間を父親の携帯にメールしている間、千鶴は結婚情報誌をパラパラと見ていた。総司が「えーっとどれにしようかな……これかな……」と言っているのが聞こえてきたので、何をしているのかと総司の手元を覗き込む。
「……え?これ私の写真ですか?」
「うん、写メったやつ」
「これどうするんですか?」
「うちの親が千鶴ちゃんがどんな子か見たいっていうからさ……えいっ送信、と」
「いやああああああああ!沖田さん!!送信しちゃったんですか!?それ、私白目じゃないですか!すっごい大口開けて笑ってるし……!ちょっ……削除してください!削除……!」
携帯を奪い取ろうとする千鶴の手を、総司は笑いながらかわす。
「何言ってんの。もう送っちゃったから削除なんて無理でしょ。最初は酷いのの方が良いんだよ。会ってみたらかわいくてびっくり!みたいな」
「そんな幸せなことを思っているのは総司さんだけです!だって別にそんなにかわいくないのに!びっくりなんかされないです!せめて写真だけでもちゃんとしたのがあれば印象がいいじゃないですかああ!」
「大丈夫!白目向いて大口開けて笑ってても千鶴ちゃんはかわいいよ」
「もう、沖田さんのバカ!」
その後、総司はしばらく千鶴に口をきいてもらえなかった。さらにまずいことに、『会ってみたらかわいくてびっくり!』というのは、総司の心の底からの本音だった。つまり総司も相当な千鶴馬鹿なのである。
そしてもちろん、千鶴の方の実家への結婚報告は、野生の勘でたまたま実家に居てたまたま電話に出た薫に阻止されて、父親にまで電話をつなげてもらえなかったのだった。
■ステップ2 彼女のかわいい失敗を優しく許してあげましょう
「千鶴ちゃん、これ千鶴ちゃんの案件でしょ?総務が全社メールで周知しておいてって」
「雪村さん、このお客さんからのメール、返信お願いできますか?」
「雪村さん、この報告を早くメール添付でくれって」
今日は朝から千鶴は忙しくパタパタしていた。午後遅い今になってもパソコンのメールはどんどんたまり、処理が追いつかない。そんな中に届いた一通のメール。総司からだ。
『今日は残業?一緒に帰る?』
金曜日だから総司が千鶴の家に来る日だ。しかしこの状況では……
『今日は残業しないといけないかもしれません。でも夕ご飯は作りますね。沖田さん、帰りに一緒にスーパーに寄れますか?夕飯ご飯、何が食べたいですか?』
そして送信。
送信ボタンを押した0.000一秒後に千鶴は気づいた。
宛名、全社メーリングリストだ………
がっくりとオフィスの床に膝をつき、千鶴は青ざめてうなだれた。近藤の会社は全都道府県に少なくとも一つは支店のある大会社だ。社員数は三千名を軽く超える。全社メーリングリストはもちろんそのすべての社員へメールが送信される。
千鶴は机の下に潜り込んでそのまま人生を終えたくなった。しかし当然ながらそんなことはできない。
「あれ?千鶴……」
「雪村さん、このメール……」
ちらほらと気づきだした同僚たちを背に、千鶴はふらふらと休憩室へと逃避を計った。
「おい、総司。メール見たか?」
左之に言われて、総司は読んでいた契約書から顔を上げた。
「何か来てました?」
契約書をおいてマウスを動かし、メールをチェックする。 新着メールは……千鶴からと客からとサービス部からのと……特に急ぎのメールや変わったメールはなさそうだ。
「僕の所には別に……」
「千鶴からメール来てんだろ」
「え?ええ、僕が私用メール出したからその返事……あれ?これって……」
個別に開けてみて総司は気づいた。Fromは千鶴からだが、Toは総司個人ではなく全社メーリングリストだ。ということは……
「左之さんのところにも?」
「来てる来てる。千鶴からの甘々メールが」
「マジで?」
総司は楽しそうに目をきらめかせると、席を立って伸びあがり、千鶴の席の方を見る。そこは空席になっていた。メモ帳やらボールペンやらが置きっぱなしになっているし、パソコンの電源もついているからちょっとした離席中だろう。いや、多分全社メールにあの内容を流してしまったショックで放浪に出ているに違いない。
「そうか、この内容を全社にね……」
総司はにやにや笑いながら千鶴の文面を見た。きっとものすごい量の返信メールが千鶴のもとに来るに違いない。
「千鶴ちゃん!こんなところにいた」
「お千ちゃん……」
休憩室お奥まった隅っこで壁に向かっていちごオーレを飲んでいた千鶴に、千が声をかけた。半泣きになっている千鶴の横に無言で座る。
「……あれよね?『夕ご飯、何が食べたいですか?』」
「ああっ……!言わないで」
千鶴は耳を抑えて小さくなる。千は苦笑いをしながら千鶴の肩をポンと叩いた。
「まあ、気持ちはわかるけどね。でもそろそろ後処理対応しないと」
「……後処理?」
千はニヤリと笑うと千鶴の手を引っ張って立ち上がる。
「そ。多分ものすごい数の返信メールが来てると思うわよ」
『夕飯はハンバーグでお願いします』
『麻婆茄子と豆腐の味噌汁がいいなあ。スーパーも一緒に行けるよ』
『千鶴ちゃんwww間違えて全社メールしちゃったの?ごちそうさまでした(笑)』
『帰りにお好み焼きでも一緒に食べて帰ろう。おごるよ〜』
『いいねぇ若いって。うらやましいです。うちの奥さんなんて……以下愚痴』
『夕飯は千鶴で……とか言うと総司に殺されるから言わないでおくな。返信がんばれよ。左之より』
『君の手料理ならなんでもいいよ』
………
全部で八十七通のメール。全て総司ではない相手からだ。そうしている間にもメールボックスの未開封受信メール数はどんどんと増えていく。千と一緒に自分のパソコンを覗き込んだ千鶴はめまいがした。
「千鶴ちゃん、ちょっといいか?」
千鶴が途方にくれて茫然としていると、パーテーション越しに声がかかり、千鶴はそちらを見た。情報システム部の新八だ。
……ということは……
新八は言いにくそうに頭を掻きながら言った。
「いや、間違いなのはみんなわかってると思うんだけどよ。面白がって返信送ってくるやつらがいるから悪いがまた全社メールで事情説明してくんねえかな?メールサーバに負荷がかかってきててよ。そんで返信はもう送るなって情報システム部が言ってるって本文に書いといてくれれば、千鶴ちゃんも助かるだろ」
なるほど。一通一通に返信しなくてはいけないかと思っていたが、また全社メールを出せばいいのか。恥の上塗りだが後一度だせばこの騒動は終わると思えばなんとかなる。そもそも間違えた自分が悪いのだし……。
「はい。ご迷惑をおかけしてすいませんでした」
千鶴がしゅんとして謝ると、新八は慌てたように両手をふった。
「いや、別に俺あなんの迷惑なんかかかってねーんだけどよ。迷惑っつーかくそこの総司のやろううらやましいって感じのやっかみぐらいで。他の奴らもそうだと思うぜ。気にすんな。ところで当の本人は何て言ってるんだ?」
新八に言われて千鶴は慌てて立ち上がった。そうだ。総司など本文に名前を出されてしまっている。冷やかしだのからかいだのさぞかし迷惑をかけてしまったに違いない。
千鶴が伸びあがって総司の席の方を見ると、総司は普通に座って真面目な顔でパソコンに向かって仕事をしている。一緒に総司の方を見た新八が安心したように笑った。
「あいつは全然動じてねえみたいだな。まあだから千鶴ちゃんも……」
新八がそこまで言った時、千鶴の周りに座っている同僚たちが、ぽつぽつと声を上げだ。
「……あれ?これ……」
「また来たぞ」
「全社メール……」
何事かと千鶴と新八は目を見合わせ、千鶴のメールボックスと見ていると、また全社メールが来ていた。Fromは総司からだ。
『夕ご飯はコロッケがいいな〜♪千鶴ちゃんのコロッケおいしいんだよね。スーパーも大丈夫だよ』
メールを読んだ新八と千鶴は目が点になった。
総司のメールに対して、さらに総司宛てに全社からなんらかのからかいメールや苦情メールが殺到することは目に見えてて……
「くおらあああ!総司!全社メールで返事送ってんじゃねええ!」
新八が大声でどなると総司の席まで走っていく。その背中を唖然として見ていた千鶴に、隣の席の千がこっそりと言った。
「ねえ、これってもしかして沖田さん、全社メールを出しちゃった千鶴ちゃん一人が責められないように自分も全社メールで出したとか……?」
「え?」
まさか、と思い千鶴は千を見た。総司がそんな大きな優しさを持っていたとは……
「それはない」
冷静な声が聞こえてきて、千鶴と千が見ると斎藤が立っていた。ぎゃあぎゃあやっている総司と新八と左之を見ている。
「あいつの性格からしたら、全社に対してノロケたかっただけだろう」
斎藤の分析に、千鶴とお千は妙に納得してうなずいた。その解釈が一番しっくりくる。千鶴はとにかく騒ぎを収めるために総司の分の謝罪も含めて、再び全社メールを書きだしたのだった。
■ステップ3 家族と相手のことについて話しましょう
両家の顔合わせは、総司と千鶴の勤務地でもあり総司の実家もある街のレストランで食事をした。
千鶴の実家はそこから新幹線で四時間以上かかる田舎だが、両親と薫が出てきてくれた。その際にみんなで総司の家にも行きお茶をごちそうになる。
せっかくのご縁なのだし、今度は千鶴の実家にぜひ、ということで明日の連休にあわせて総司達家族が千鶴の地元に来ることになっていた。そのために千鶴は一足先に実家に帰って前泊している。
久しぶりの一家そろっての夕飯。
千鶴の両親は、どちらかというと天然で、『嫁に行く娘と最後の晩餐』といった感傷はほぼなく、食事のメニューもいつもと同じのまったり具合だった。しかしそちらの方がいい。千鶴はいつもと変わらぬ家族にほっとする。
薫ももう家を出ているのだが、今日は帰ってきてくれていた。結婚を知らせたときは一週間口をきいてくれなかったのだが最近になってようやくあきらめたようだ。夜の早い両親が寝てしまい、千鶴がテレビを見ていると薫が風呂から出てきた。
そのまま冷蔵庫を開けるとビールを取り出す。プシッと音を立てて飲みながら、薫もダイニングテーブルの椅子をひいてそこににどっかりと座った。
しばらく無言でバラエティを観て、CMになった時に薫が口を開いた。
「……どこがいいワケ?」
「え?」
「あの変な男のさ」
「………」
総司のことを言っているのかと、千鶴は薫を見た。多分そうだ。
「……うーん……とね…。私と全然違ってて……」
千鶴は薫に説明したいと思った。薫と総司がお互いによく思っていないことはわかっている。でも千鶴にとってはどちらもとても大事で大好きなのだ。薫にも、総司を好きになれとはさすがに言わないが、総司のどんなところを千鶴が好きなのかを知ってほしい。総司にはこれから少しずつ話していけるが薫とゆっくり話せるのは今日くらいではないだろうか。
千鶴は自分の中を探りながら丁寧に言葉を選ぶ。
「……私がこれまで怖気づいてできなかったこととか、やってはいけないと思ってたこととかを、沖田さんは軽々と飛び越えるの。ずっと……これが世界のすべてだと思っていたのに、沖田さんに手を引かれて一緒に飛び越えたら、世界が広いってわかったっていうか……」
抽象的過ぎて自分でも何を言いたいのかわからなくなってしまっている。千鶴は一旦口をつぐんだ。なんと言えばいいんだろう?
「……物の見方がお前とは違って新鮮だってこと?」
薫がビールを一口飲んでそう言った。テレビではCMが終わってバラエティがまた始まっている。千鶴は大きくうなずいた。
「そう!そうなの。新鮮っていうか……楽になるの。こうしなきゃああしなきゃって思ってたのが、実は私が勝手に思い込んでただけなんだってのがわかって」
薫が飲み終わったビールを机に置く。
「……おまえは真面目すぎるんだよ」
「うん……薫、いつもそう言ってたね」
わかっているのに変えることが出来ずに、いつも要領悪く貧乏くじを引いていた妹。そんな妹がもどかしくて、薫は怒りながらも何度も手伝ったりかばったりしてきた。そんな千鶴の手を強引に引っ張って軽々と一緒に壁を飛び越える総司が、薫には簡単に想像できた。あのいいかげんそうで人目を気にしなさそうな男ならやりそうなことだ。優しげで大人しい千鶴のようなタイプは、利用したり支配したりするような男がよってきそうだと、薫は心配していた。
そんなのに比べれば、まだましかもしれないな
薫は席を立ち、もう一本缶ビールをとりに冷蔵庫へ向かった。
「お前も飲む?」
薫の言葉に、千鶴は目を瞬いた。話しは終わったようだ。
しかも、薫は何か妙にすっきりした顔をしている。
千鶴はかすかに微笑んで、薫に「うん!」と返事をしたのだった。
■ステップ4 ケンカをしてもすぐに仲直りをしましょう
その日の夜、総司は寝苦しかった。
そろそろ夏も近くて確かに日中は暑いけれど夜はまだ涼しい。千鶴の狭いベッドももう慣れているしいつもはぐっすり眠れるのに。
なんだか寝た気がしなくて、総司は起きてもぼんやりしていた。パタパタと忙しく出勤の準備をしていた千鶴は総司の様子がおかしいのに気づく。
「沖田さん……。体調悪いんじゃないですか?熱、計ってみてください」
そう言って差し出された体温計で素直に熱を計ると、三十七.四度。
「風邪でしょうか。午前中病院に行った方がいいですね。一人で行けますか?私、午前中だけ休んで……」
体温計を見ながらそう言う千鶴に、総司は笑って立ち上がった。
「おおげさだなあ。七度五分を超えていないなら大丈夫だよ。僕結構よく熱だすから慣れてるんだよね」
そう言って顔を洗いに行く総司に、千鶴は顔をしかめた。
「ちゃんと病院行ってゆっくりして治さないからよく熱がでるんじゃないですか?顔色もよくないですし、今日は病院に行って休んだ方がいいと思います。私、会社行っちゃいますけど風邪用の飲み物とか簡単に食べられるものとか、これからコンビニで買ってくるので……」
「大丈夫だって。そんなに気にしなくていいよ」
「じゃあ、せめて今日一日休みだけでも……」
「うーん、今日はちょっと休めないなぁ」
「じゃあ、この薬、市販の風邪薬ですけどよく効くので、飲んでください」
「薬嫌いだし、眠くなるからいいよ」
そんなやりとりを朝の支度中ずっとかわして、とうとう千鶴は静かになった。千鶴が本気で怒ると静かになることを知らなかった総司は、気にせずにネクタイを結びだす。朝食は食べる気がしなかったので、「いらない〜」と言った時、千鶴がぽつんと呟いた。
「……私が何を言っても聞かないのなら、何故一緒にいるんですか?」
意外な言葉に、総司は「え?」と聞き返す。
「自分の好きなようにしたいのなら、結婚なんてしないで一人で生きていけばいいんじゃないですか?」
「ちょっ……千鶴ちゃん、何を……」
「……一人で会社にも行きたいでしょうから、私は先に行きます」
千鶴はそう言い置くと、さっさとカバンを持って家を出て行ってしまった。いつも優しくてかわいい千鶴の笑顔は全くなくて、目線すらあわせずに。
後に残された総司は、さすがにこのまま会社に行くと千鶴の怒りにさらに油をそそいでしまいそうだと思い、ネクタイを結びかけのままドサリとベッドの上に座った。その途端全身の気だるさが襲ってきて、総司はそのまま仰向けになった。
視界には白い天井。妙に静かな部屋の中。
そう言えばこの部屋で一人になるのって初めてかな……
ぼんやり眼を閉じると、もう服を着替えるのさえ億劫だ。熱が上がりだしたかと思いながら総司はうとうとしだした。
次に目が覚めたときに見えた天井は、千鶴の部屋の白ではなく灰色だった。
腕にチクリと何かが刺さる痛みを感じて、総司はこれで目が覚めたのかと思う。妙に遠くで誰かが話している声が聞こえてきた。
「急性肺炎ですね。いい大人なのにここまで放っておくとはねえ」
年配の男性の声。それに答える若い女性の声は……千鶴だ。
「すいません……。私一人じゃ動かせなくて救急車まで……」
「いや、早く治療しないといくら体力のある若い男性でも危ないことがありますから。あなたの判断は正しいですよ。まあ一週間入院ですね」
「入院?」
思わず総司がそう言うと、年配の男性と千鶴が同時にベッドに寝ている総司を見た。
「沖田さん!」
「気が付きましたか?」
年配の男性は医者だった。総司の腕には点滴が刺さっている。
会社に出勤してこない総司を、千鶴は心配して昼休みに電話をしたらしい。しかし出ない。千鶴は結局午後に休みを取って部屋にもどり、朝の支度のまま千鶴のベッドの上で倒れている総司を発見し……あとは先ほど聞いた通りだ。
「若いからって過信していると痛い目い合うよ。ちゃんと奥さんの言うことは聞いておかないと」
医師の言葉に千鶴が言う。
「まだ奥さんじゃ……」
「ああ、婚約中でしたっけ。ま、似たようなもんでしょう。朝、奥さんに言われた時に病院に素直に来ていればここまで大事にはなりませんでしたよ」
「……」
総司がちらりと千鶴を見上げると、千鶴は「ほら言ったじゃないですか」という顔をしている。
「……はーい。すいませんでした」
不承不承総司が謝ると、医者はうなずいた。
「まず奥さんの言うことを聞く。次は医者の言うことを聞く。そうすればすべてはうまく行くように世の中はできてるんですよ」
そう言って、医者は満足気に出て行った。
「……」
沈黙が病室におちる。
「……僕ヤバかったの?」
千鶴は総司を「めっ」というように睨んだ。
「家に帰ったら朝の支度中の姿のままでベッドの上に丸まって苦しそうにしてたんです。声をかけても返事がなくて熱もすごく高くて……本当に怖かったです」
千鶴の表情が暗くなった。その顔を見て総司は後ろめたくなる。
そうか、もう自分一人の人生じゃないんだな……。僕が千鶴ちゃんの夜の帰り道を心配するみたいに千鶴ちゃんも僕を心配するんだ。
総司は手を伸ばして、ベッド脇に立っている千鶴の手を握った。
「……ごめんね?次からはちゃんと言うことを聞く」
千鶴は素直な総司に少し驚いたように目を見開いて。
そしてふんわりと嬉しそうに微笑んだ。
千鶴にあんな暗い顔はさせたくない。いつもこんな風に笑っていた欲しい。そしてそうするには総司が元気で笑っていればいいのだ。
総司は一つ勉強になった気分だった。運命共同体とでもいうのだろうか。
あ、それ以外にももう一つ勉強したな。
千鶴の幸せそうな笑顔の頬に手をやりながら、総司はしっかりと消えないように脳内にボールペンでメモをした。
『千鶴ちゃんが静かになったときは本気で怒っている時』
■ステップ5 たまには惚れ直してみるのもいいかもしれません
週末の土曜日曜のどちらか、総司は『今日は近藤さんのところに行ってくるね』と行ってよく出かける。
小さいころからお世話になっているそうだし、剣道もならっているとのことだったのでそちらの練習だろうと千鶴は特に気にせず『いってらっしゃい』と言って送り出していた。
だいたい朝の九時ごろに出かけて、帰って来るのは昼過ぎか夕方くらいのときもある。帰ってきた総司は特に何も言わずに普通通り。
だから千鶴も普通に夕飯を作って一緒に食べたり、夜から二人で出かけたり、何も思っていなかった。
ところがある金曜日。休憩室でたまたま左之と平助と一緒になったときの事。
「明日、千鶴も来んだろ?」
平助が言った言葉に千鶴は首をかしげた。明日は特に誰とも何も約束は無い。総司は多分いつも通り今夜から千鶴の家に来るとは思うが。
不思議そうな顔をしている千鶴に、平助が続けた。
「来ねえの?そういえば千鶴、道場にも来たことねえよな」
道場というからには、総司の習っている近藤の剣道道場のことだろう。
「明日何かあるんですか?」
「え?それも聞いてねえの?」
平助が驚いたように左之を見た。
「総司、千鶴に何も言ってないの?」
左之は頷いた。
「みてえだな。俺もあいつなら千鶴を真っ先に誘うと思ってたんだけどよ。なーんでか言わねえな」
左之はそう言うと、隣に座っている千鶴を見た。
「俺と平助と斎藤と新八が、会社の剣道部に入ってるのは知ってるか?」
首を横に振る千鶴に頷いて、左之は続ける。
「社長の近藤さんが結構大きい剣道流派の道場主でもあるせいで、うちの会社には剣道部があるんだよ。まあ他にも吹奏楽部やらフラダンス部やらいろいろあるけど。で、会社の剣道部の練習場所は近藤さんの道場で、総司は小せえころからそこに通ってたらしいんだよな。実際俺らが会社の剣道部に入ったのだって総司に誘われたからだしよ」
「え?そうなんですか?沖田さんが?」
初耳だ。千鶴は驚く。平助もうなずいた。
「うん。俺は前から仲良かったけど、他の奴らとは最初はなんとなーく年も近いし一緒に飲み行ったりしててそのうちスキーとかキャンプとか行くようになって、そしたら総司から『会社に剣道部があって僕も入ってるんだけど見に来てみない?』って」
「そうなんですかー……」
知らない一面だ。時々土曜日に出かけるのは、じゃあもしかしたら会社の剣道部の練習だったのかもしれない。平日の夜ももしかしたら練習に行っていたのかも。
しかし何故それを千鶴に教えてくれないのだろうか?左之も言っていたが、総司の性格から考えると一番最初に千鶴に『見に来てよ。お弁当も作って♪』と誘いそうなのに。と、いうかここまで総司の生活の中である程度の割合を占めている剣道について何も千鶴に言わないという事は、これは多分……
「千鶴には隠してんじゃねえの」
左之のズバリの言葉に、千鶴は固まった。
多分そうだ。わざわざ千鶴には言わないようにしているとしか思えない。どうしてだろう……
「なんとなくわからんでもないけどな」
そうつづけた左之に、千鶴は振り向く。
「そ、そうなんですか?なんででしょうか?私が反対するとか止めて欲しがるとか思ってるんでしょうか?それとも剣道部の人間関係に触れて欲しくないとか……?」
必死な千鶴の表情に左之と平助は一瞬キョトンとして、そして盛大に吹き出した。そして笑いながら平助が言う。
「ちげーって!全然!」
「だよな。こりゃもう明日こっそり千鶴連れてくか?」
笑ながら左之が言うと、平助が「あ!それいい!」と同意した。そして平助は千鶴に説明する。
「なんつーか……恥しいんだろ。照れ臭いっつーか……お前もそういうのない?たとえば小学校のころから好きで集めてた漫画全巻とか見られたくねえとかさ。『あーこの人のルーツってこれなんだ…』とか思われてんのかなーとか思うとこう……」
左之も笑いながら相づちを打つ。
「そうそう!大人になってこじゃれた店とか女の子連れてってんのに…とか思うとな」
「……な、なんとなく……」
わかるようなわからないような……
そういうわけで、千鶴は明日総司を送り出した後こっそりと平助と左之と待ち合わせをして、剣道をしている総司を見に行くことになったのだった。
他流派も含めた結構大きな交流会。
金曜日に千鶴の家に泊まって、朝ごはんを一緒に食べた後『近藤さんとこ行ってくるね〜』と軽く出て行った総司は、もちろんそんなことは一言も言わなかったし匂わせもしなかった。しかし平助と左之に聞くと、市民体育館を借り切って観客も結構くるし、もちろん試合もある有名な会なのだそう。総司はそこで近藤流派の代表として、日本刀での演武と竹刀での大将戦に出るらしい。
千鶴は一応帽子をかぶってマスクをして変装してきたつもりだったが、左之達に案内された体育館はかなり大きくて一般の観客は基本的に二階の観覧席のようなところから見るようになっていた。これなら総司の近くに行くことも無いしわからないだろうと、千鶴は帽子とマスクをとる。
「あ、もう始まっちまってるな〜。総司は……」
ちょうど総司が出てくるところだった。黒っぽい剣道着を着ている総司は初めて見る彼で、なんだか知らない人のようだ。
オフィスでも姿勢がよくて何かスポーツをやっているのだろうと思っていたが、これだったのか……。
千鶴は初めて見る総司から目が離せなかった。
刀を持って構える総司の背筋はピンと伸びて、遠目だがこれまで見たことの無い真剣な表情をしているのがわかる。仕事の時の真剣さとは違う、戦う人の表情だ。スッと音もなく右腕が伸ばされ、その先にきらめく真剣。真っ直ぐ空を見る緑の瞳。
なんらかの型をやっているのだろうが、千鶴にはわからない。しかし様式美というのだろうか、とても美しいと感じた。空気と一体になって、周りから浮き上がりそこだけ神聖な雰囲気に満ちている。残像を残して消える白刃に、総司の動きについて柔らかく揺れる茶色の髪がきれいだ。
千鶴がぼんやりと見惚れている間に、総司の演武は終わった。
刀を鞘に納め、礼をして去る。
張りつめていた空気が弛緩して、千鶴は溜息をついて背もたれにもたれた。そんな千鶴を左之がにやにやしながら見る。
「かっこいーだろ?」
「……」
千鶴の赤くなった頬がその答えだった。
それから昼ごはんを食べに行き、随分待ってからようやく総司の竹刀での試合の番がやってきた。
「おっしゃ、総司の試合相手にハンデやるか」
平助はそう言うと二階の手すりから乗り出して、大声で叫んだ。
「総司〜!」
下で防具をつけようとしていた総司は、その声にキョロキョロとあたりを見渡す。
「こっちこっち!」
再び叫ぶ平助。千鶴は隠れた方がいいのかと迷いながら、でもやっぱり自分が見に来ていることを総司に伝えたいと思ってそのまま平助の隣に立つ。
総司が上を見て平助に気づいた。平助が悪戯っぽい表情で隣の千鶴を指差すと、総司はようやく千鶴に気づいたようだ。
「ぶはっ!驚いてる驚いてる!」
平助が楽しそうに吹き出した。左之も笑う。
「籠手落としてるぞ。ありゃかなり動揺してるな」
「だ、大丈夫でしょうか。私……」
ここに来たのはまずかったかと千鶴がおろおろしていると、左之は笑いながら続けた。
「大丈夫だって。こりゃ負けらんねえとか思ってるんじゃねえか?」
「これで負けたらちょーかっこわりいよな、総司」
そしてもちろん試合は総司の圧勝だった。
交流会終了後、二階の観覧席の後ろ側から、着替えた総司がピンクとグレーのラインの入ったポロシャツと細見のブルージーンズ姿でムスッとしてやってきた。
「何やってんの」
左之が答える。
「千鶴がお前の剣道やってるところ知らねえって言いうからよ。応援に来てやったんだよ」
怒っている様な照れくさそうな顔で、総司は千鶴の横にドサリと防具を置く。
「あの……何も言わずに来てすいませんでした……」
総司はちらりと千鶴を見て拗ねたように言う。
「……別にいいけどさ」
左之が総司の背中をバン!とたたいた。
「よかったじゃねーか!試合も勝ったし千鶴も総司のことかっこいいって言ってたし!今日はお前のおごりだな!」
「……左之さん、よくそんなことが言えますね……」
黒いオーラを出しだした総司にはかまわずに、左之は立ち上がった。
「千鶴のことか?どのみち結婚するんならいつまでも隠しておけねえだろ?そろそろ知らせておいた方がいいんだよ。しかも『かっこいい』まで言われて旦那冥利につきるなー!?この!この!」
ヘッドロックをかけて総司の頭をげんこつでうりうりしている左之に、照れ隠しなのか千鶴の方は水に左之に文句を言い続けている総司。
その後は何故か総司のおごりで皆で焼き肉を食べに行ったのだった。
■ステップ6 時々いちゃいちゃすることも忘れずに
じゃあ今日は新居予定の駅の近くの不動産屋に行って、その後新婚旅行用の旅行代理店に行って……と予定をたてた土曜日の朝。
顔を洗って着替えて終了の総司は、千鶴の準備が終わるのを大人しく雑誌を読みながら待っていた。
千鶴は、化粧は終了し、服は涼しげな緑と黄色の混じったシャーベットみたいな色の細い肩ひものワンピースを着て、持って行くカバンをチェックしている。
もうそろそろ行けるかなと思った総司は、雑誌を置いて立ち上がった。
最後にジュエリーケース代わりのクリスタルのボウルに入っているネックレスを取り出し、つけてから千鶴の準備は終了する。
「お待たせしました。行きましょうか?」
うん……と言いかけて、総司の視線は胸元のネックレスで止まった。
「それ……」
千鶴の胸元にぶら下がっていたのは、ローズクォーツのピンクの石がペンダントトップについたネックレス。
最初のデートの時につけていたものだ。
総司が立ち止まってまじまじと見るので、千鶴も何かと思い自分の胸元を見る。
「これですか?」
「……触っていい?」
え?と千鶴が聞き返す前に、総司の手が伸びてきた。感触を確かめるように人差し指の腹でそっとなでた後、つまむ。指で撫でながら総司はつぶやいた。
「……ひんやりしてるんだね」
総司の瞳の緑の色が濃くなり、ローズクォーツをじっと見つめる。妙な様子の彼に、千鶴が不思議そうに聞いた。
「あの…、沖田さん、これがどうかしましたか?」
総司はそのまま千鶴の瞳を見て答える。
「千鶴ちゃんの体温で、この石があったかくなるかどうか気になってたんだ」
千鶴はキョトンと目を見開く。そんなことは考えもしなかったが、総司がそんなことを考えていたというのは驚きだ。どう返せばいいかわからず千鶴が黙ったままでいると、総司がピンク色の石をもてあそびながら続けた
「最初に一緒に夕飯食べに行った時につけてたでしょ。その時目が離せなくて、手を伸ばして触りたくてたまらなかった」
今は触ることができるとても言うように、総司はペンダントトップを触り続けている。
千鶴は総司の言葉に少し驚いた。
最初の食事……といえば、あのスペイン料理の時だ。全く色気のない会社や仕事の話しかしなくて総司も同僚としての態度を崩さなかったのに、そんなことを考えていたなんて……
千鶴はドキンと胸の奥で何かが跳ねるのを感じた。と、同時に総司がすっと背をかがめ、ペンダントトップに唇をよせる。
「え?ちょっ…」
驚く千鶴の両肩を掴んで、総司はまずペンダントトップ、次にその下の肌、鎖骨のくぼみ、顎のライン、そして耳へとキスをしていく。
「んっ」
感じやすい耳の下あたりに何度もキスをされて、千鶴は少しだけ抵抗した。総司はかまわずキスを続けると、腕を千鶴の体にまわして抱き上げた。
「きゃっ!」
総司はそのまま千鶴をベッドに運ぶと、その上に少し乱暴に落として覆いかぶさるように両手をつく。
「お、沖田さん……?」
「あの時本当はこうしたかったんだ」
総司はそう言うと、ペンダントトップを撫で、その指で上へと千鶴の首から頬へ撫で上げて、最後に千鶴の唇を柔らかくなぞる。
いつもは明るい緑色の総司の瞳が、今はほとんど黒に近い。こういう時は総司が千鶴を欲しがる時で……
唐突に変わった雰囲気に、千鶴はどきりとした。
「沖田さん、今日は出かけにないと……」
総司の人差し指が千鶴の口の中にするりと入る。そしてしばらくさぐると、今度は唇が千鶴の唇を塞いだ。
総司の手が千鶴のワンピースの肩ひもをはずし、もう一方の手が千鶴の背中に回るとキスをしながらブラのホックをとった。
「あ…」
「千鶴ちゃんはあの時何を考えてた?」
「え?」
「僕とこういうことをすることになるって思ってた?」
総司の唇がうなじへと滑っていく。総司の大きな手で胸を包まれて、千鶴はもう出かける予定はどうでもよくなった。
あの時考えてたのは総司のこと。
総司の瞳に自分が映っていることが信じられなくて嬉しかった。
総司の熱に飲みこまれて、千鶴はもうその後は何も考えられなくなったのだった。
■ステップ7 やきもちは二人のスパイスにするといいでしょう
千鶴がそれを聞いたのは、ありきたりだが女子トイレだった。
個室から出ようとした時、後から来ていて洗面のあたりで化粧直しをしている女子社員達の話している内容が聞こえてしまった。
総司と、それから例のサービス部の女性の名前が出ていて、千鶴のドアを開けようとしていた手が止まる。
「え?ホントに?すごい豪勢じゃない?」
「去年度の一番の売り上げ案件だからじゃない?社長も太っ腹だよね〜」
「あのプロジェクト何人くらいだっけ?」
全部で十二名。
千鶴は返事を聞かなくてもわかっていた。去年度の一番の売り上げ案件といえば総司がかかりきりだったあの件だ。プロジェクトメンバーの中には総司と左之、そしてサービス部の女性。確か平助も入っていたはず。
今千鶴が女子トイレで立ち聞きした話だと、社長である近藤は、それら全員をひきつれてここから二時間くらい行ったところにある有名な温泉観光地におごりで一泊旅行に連れて行くことにしたのだそうだ。外の女子社員達はまだしゃべっている。
「さすがに予定があったり家族の都合があったりで全員参加は無理みたいで、総勢若いのメインで八人くらいだって。社長もいそがしいから夜の宴会が終わったら帰っちゃうみたいだし。あの子沖田君に告白するって言ってた」
「え?それって……」
意味深な沈黙が女子トイレに満ちる。
あのプロジェクトの女性は、サービス部のあの人だけだし、彼女が総司のことを好きなのは女子社員の間では結構有名な話だ。そしてその総司が千鶴ともうすぐ結婚する話も。
ますます出にくくなって、千鶴は個室の中で息をひそめた。外の女子社員達は個室に誰かいるなどと思ってい無いようで話を続ける。
「なにそれ、略奪愛ねらってるってこと?いくらあの子でもそれはひくわー」
「何をねらってるのかはわかんないけど。でも沖田さんがあの営業部の子と婚約したってのすごくショック受けてたしあの子も結構長い間沖田さんの事好きで頑張ってたじゃない?だから『ちゃんと自分の気持ちを伝えておかないと次に行けない気がする』って言ってた」
「沖田さんってあの子のコトちゃんとフッたわけじゃないの?」
「特に告白とかはしてないみたいだから、沖田さんもしかしてもしかしたら好かれてたの知らないのかもね」
「あの子があれだけモーションかけてて!?それはないでしょ。女子みんなわかるくらいあからさまだったのに」
「いやー、そのころ並行して沖田さんは営業部の女の子とつきあってたみたいだから意外に気づいていないかもしれないよ?」
「……そんな状態で、情緒あふれる温泉街とかでお風呂上りに告白されちゃったりしたら……」
「ね、どうなっちゃうかな。あの子美人だしスタイルいいしね。いくら沖田さんでもグラッてくるんじゃない?」
「でも結婚直前のラブラブ期だよ〜?」
「そういう時が一番危ないのよ。一夜の過ち的なアレもあるしさ」
きゃいきゃいはしゃぎながら、その女子社員達は化粧を終えてトイレを出て行った。
暫く待ってから千鶴はそっと個室のドアを開ける。洗面台の鏡に映った自分の顔が見られなくて、千鶴は顔を上げずに手を洗った。
総司が近藤さんのことをとても尊敬していることを千鶴は知っている。だからその近藤さんが『ご褒美に』と言ってくれた一泊旅行に『行かないで』などと言えるわけもない。
総司からは、あのサービス部の女性の話は聞いたことがないから、千鶴がいきなり女子トイレで聞いた話を総司にするわけにもいかない。そもそもその話(サービス部の女性が総司に告白するという話)を総司にしてどうなるというのだろう?
『心を動かさないでほしい』なんて、頼むような事ではない。その温泉街は千鶴も女友達と行ったことがあるが、街全体が古き良き時代のテイストになっており外湯めぐりもでいるようになっている。温泉に入った人たちはもちろんみな旅館の浴衣と下駄姿で雰囲気のある街並みをそぞろ歩きするのだ。
そんな中で、あの綺麗な人に告白されて総司の心が動いてしまったとしたら、それはもう千鶴にはどうしようもないことで。
心が動くまでいかなくても一夜の過ちとか思い出のキスとか……
「千鶴ちゃん?」
ぼんやりしていた千鶴は、はっとして生春巻きから目をあげた。
ベトナム料理屋の薄暗い間接照明の下、向かい側で総司がこちらを見ている。
「どうしたの?考え事?」
「すいません……」
「話聞いてた?だから今週末は僕旅行になっちゃった」
千鶴はまた視線を生春巻きに落とす。
「……はい」
「近藤さんからのご褒美だし、僕がいなくて寂しくて寂しくてしょうがないだろうけど我慢してね?」
冗談めかした総司の言葉に、千鶴はちゃんと笑えているだろうかを思いながらにっこりとほほ笑んだ。
総司が外湯から浴衣姿で出てきたとき、空はもう深い藍色になっていた。湯上りで暑くて、総司は袖を肩までめくりあげて辺りを見渡す。
一緒にここまで来た平助と左之はもう先に帰ってしまったようだ。
歩き出そうとした総司に、後ろから声がかかった。
「沖田君!」
「あれ?君も置いてけぼり?」
サービス部の女子社員だ。一緒に旅館まで帰ろうと総司は足を緩めて彼女が追いつくのを待つ。
「夕飯、旅館で飲み放題って言ってたね。ここ日本酒うまいらしいから楽しみだな」
総司の言葉を聞いていないようで、サービス部の女性はかぶせる様に言った。
「沖田君を待ってたの。左之さんと藤堂さんにも先に帰ってもらったの」
「え?」
彼女の言葉の内容と妙に真剣な表情と染まった頬に、総司は立ち止まって彼女を見下ろした。
彼女は総司を見上げて、一息に言った。
「私、沖田君が好き。ずっと好きだったの」
その夜九時過ぎ。宴会も一段落ついて近藤も帰った後、総司は誰もいない旅館の中庭で千鶴に電話をかけた。
なかなかでない千鶴に、風呂でも入ってるのかと切ろうと思った時に『もしもし』という千鶴の声が聞こえる。
「寝てた?」
『……起きてました。どうしてですか?』
「なんか声が変な気がして」
『……』
「何してた?」
特に用事があるわけではない。千鶴の声が聞きたかっただけだ。しかし総司の質問に千鶴はなかなか答えなかった。
「千鶴ちゃん?」
『……お洗濯をして、植物にお水をあげてました。沖田さんはそちらはどうですか?』
いつも通りの返事に、気のせいだったかと総司は安心する。
「こっちはね、宴会が終わったとこ。まだ泊まり組でみんなで飲むけど僕はちょっと酔い覚ましで抜けてきた。ここいいね、千鶴ちゃん来たことある?」
『はい、お千ちゃんたちと去年行きました』
「今度二人で来ようよ。外湯とか一緒に入れなくて寂しいけどいい感じだよね、街並みとかさ」
『……』
また沈黙。普通の日常会話なのだが、やはり今日の千鶴は変だ。まさかとは思うが……
「千鶴ちゃん?」
『……はい』
「僕、サービス部の子に告白されちゃったよ」
『……』
「知ってた?」
『……はい』
やっぱり。
左之と平助にもそれらしきことを言われたし、どうやら知らなかったのは総司だけだったらしい。そういうことには聡い方だと思っていたのに千鶴に夢中で全く気が付かなかった。
「そっか……ごめんね僕知らなくて。この旅行、つらかったよね」
『……そんなことはないです』
総司は小さく吹き出した。
「そうなの?それはそれでなんだか信頼されてるのかどうでもいいと思われてるのかどっちにしても寂しいんだけど」
『……沖田さんが私との事を考え直すとしたら、それはそれで寂しいし哀しいですけど、でも人の気持ちってどっちが先だからとかで動くものじゃないし、私がもしあの人の立場だとしてもきっと諦められないと思うので……』
「……」
多分一人でいろいろ考えていたのだろう。もしかしたら涙を流したのかもしれない。
あの部屋で、植物に水をやりながら総司のことも、それからサービス部の女性についても、それぞれの立場について一人で考えていた千鶴の事を思うと、総司は今すぐ帰りたくなった。
帰って千鶴を抱きしめたい。図らずもつらい思いをさせてしまった彼女を。
つらい思いをしていたのに、それを総司には見せずにさらに相手の女性にまで優しい考えがでできる千鶴に、総司は今とても会いたかった。
「……僕はさ……僕は……」
言葉にしたいのに、言葉にできない。
「……君を好きになってよかった」
次の日の午後四時。一行は出発した駅に戻ってきた。
「あーまた明日から会社かあ」
溜息をつく平助に左之が言う。
「まあまあ。楽しかったからいーじゃねえか。これからどうする?中途半端な時間だから夕飯みんなで食ってくか?」
左之の言葉に同意の声がいくつか上がった。「また飲みになるんじゃないですかー?」という笑い声とともに、皆で移動するかと歩き出したとき。総司が左之に小さく言う。
「すいません、左之さん。僕帰ります」
「おお、お疲れ。また明日な」
「お疲れー」
左之と平助に手を上げて挨拶をすると、総司はそそくさと帰って行った。
「ネコまっしぐら」
呟いた左之に、平助が吹き出す。
「なんだよ。千鶴はネコ缶?」
左之もニヤッと笑う。
「似たようなもんだろ」
そして、隣で寂しげに総司の背中を見つめていたサービス部の女性の肩を優しく叩いた。
「ほら、行こうぜ」
■ステップ8 結婚式はスタートラインです。末永くお幸せに
明日は結婚式、という前日の金曜日まで二人は仕事をしていた。明日から十日間、結婚式と引っ越しと新婚旅行という怒涛のスケジュールだ。
千鶴のマンションの最寄駅で総司と千鶴は降りる。手を差し出すまでもなく自然と手をつないで歩きだした自分たちに、総司はふと微笑んだ。
「どうしたんですか?」
目ざとく気づいた千鶴が訪ねると、総司はつないだままの手を持ち上げた。
「これ。最初に手をつなごうって言った時の事、覚えてる?」
「……覚えてます」
走ってその場から逃げ出したいくらい恥ずかしかった。手が触れたときはどうしようもないくらいドキドキして。手に汗をかいてしまうのを感じて困ったのを覚えている。あの時の爆発しそうな頭と心を思い出して、千鶴も小さく笑った。
「ものすごくドキドキして、顔が熱くて困りました」
「僕は今でもドキドキしてるけどね」
え?と見上げた千鶴に、総司は悪戯っぽくウインクをした。
「君のちょっとしたしぐさとか伏せたときにできる睫の影とか、色っぽくてドキドキする」
千鶴はポカンと目を見開いた。直後に顔に一気に熱が上がるのを感じて、瞼を伏せた。
突然真顔でこんなことを言われたら、どう返事をすればいいのだろう?総司はストレートに思ったことを言うので、いつも千鶴はドギマギさせられるのだ。
「沖田さんは……ずるいです」
「千鶴ちゃんもずるいよね」
「え?」
「その真っ赤な顔とか恥ずかしそうに潤んだ目とかさ。なんかもういろいろズルいよ。こんな可愛くてきれいなモノが明日からは僕のモノになるのかと思うと信じられない」
次々と出てくる総司のドギマギ発言に、一体どんな顔で言っているのかと千鶴が彼を見上げる。総司はいたって平静で、特に恥ずかしがってもいない様子で前を向いていた。
それが余計ズルく感じるのだ。こんなにドギマギしているのは千鶴だけのようで。
総司がふと道の反対側を見て立ち止まる。
「コンビニは?よらなくていい?」
初めての夜にとんでもないものを一緒に買ったコンビニ。
もう明日からはここにくることもないだろう。引っ越しは残っているがこの道は車で通る道ではないし通勤でこの道を使うのは今夜が最後だ。
愛想よくいつも挨拶をしてくれた店主のおじさんに(さすがに例のものを買った後は恥ずかしくて顔が見られなかったが、しばらくしたらまた普通に挨拶してくれるようになったのだ)、いままでお世話になりましたと挨拶をしたいが、ただの客で名前も知らない女にそんなことを言われても店主のおじさんも困るだろう。
千鶴はゆっくりと首を振った。
「……もうこの道を一緒に歩くのも最後だね」
「そうですね」
同じことを考えていたのかと、千鶴は総司を見上げた。
「駅からこの道を歩くのは楽しいんだけど、送って別れるのが寂しいんだよね」
週末は泊まっていくが、平日の残業帰りやデート帰りはいつもマンション下で別れるのだ。総司がそんな風に思っていたなんて知らなくて、千鶴は少し驚いた。総司は肩をすくめて続ける。
「いっつも千鶴ちゃんから別れた後、僕駅まで歩きながら電話で話してたでしょ?寂しかったんだよね。それに誰もいない自分の家に帰るのが、また寂しくてさ」
「……沖田さんがそんなに寂しがり屋だなんて知らなかったです」
「僕も知らなかった。千鶴ちゃんに会って仲良くなるまでは誰かと一緒に過ごすのは……なんていうか外向きの僕というかオンの状態で、一人にならないとオフになれないって思ってた。平助達と遊ぶのも近藤さんの家に泊まるのも、楽しくて好きなんだけどオンの状態で、それがずっと続くのは苦しい、みたいな」
その感覚は分かる気がする。千鶴もみんなといるよりは一人でいる方が好きだ。でも一人でいるよりも総司と居る方が、今は自然だ。……総司ほど寂しがり屋ではないけれど。
マンションの下で、二人は向き合った。今日は千鶴の家族が明日の結婚式に備えて泊まりに来ているので、総司はもちろん上には上がれない。寂しいのは千鶴も同じだが、でも今日だけだ。
「それじゃあ……」
千鶴がそう言った時、総司がそっと千鶴を抱きしめた。
家族や近所の人に見られないかと千鶴は少し焦る。総司はそんなことは気にせずに、千鶴のうなじに鼻をうずめた。
「……いい匂い」
「え?」
「最初からいい匂いだなって思ってた」
「そうですか?特に何もつけてないからシャンプーとかの匂いだと思いますけど……。今は沖田さんも私の家に居るときは使ってるし、いっしょに住む様になったらきっと同じ匂いに……」
「うーん……」
多分違う。
何の匂いかと言われたらきっとそれは『千鶴の匂い』。一番最初のデートでスペイン料理を食べに行く前から、千鶴は総司のことを好きだと思っていてくれたと聞いたし、多分千鶴の方からも無自覚に匂いの罠をはっていたんじゃないかと思う。
そしてそれにまんまとつかまって。
今はこうしてこんなに幸せ。
「僕の鼻がよくてよかった」
「え?」
総司の胸に顔を押し付けられながら、千鶴が聞き返す。
「僕も無自覚だったけど、君も相当無自覚だったんだよってこと」
クエスチョンマークを顔に張り付けている千鶴のおでこにちゅっとキスをして、総司はバイバイと手を振って千鶴のマンションを後にした。
千鶴は首をかしげながら総司のスーツ姿の背中を見送る。
さっき総司が千鶴のことを『こんな可愛くてきれいなモノが明日からは僕のモノになるのかと思うと信じられない』と言っていたが、それは千鶴の方も同じだった。ずっと遠くから思っている総司が今近くにいてくれてこれからもずっといてくれることが信じられない。そして総司のすべてを愛おしく、もっと知りたいと思う。
真剣に仕事をしているときの顔も、剣道をしているときのピンと伸びた背筋も、左之や平助たちと楽しそうにじゃれている笑顔も、怒ったときの冷たい緑の瞳も、千鶴の頬を愛おしげに撫でる優しい指も声も体温も存在全てを。
きっとこれからも知らない総司の表情や仕草を知ることができるだろう。それがとても嬉しい。
もっともっと総司の事を知って、もっともっと仲良くなりたい。
天気予報では明日は晴天。
スペイン風のパティオのある真昼間のレストランウェディングにはちょうどいい。
これからはずっと一緒にいられる。
あの素敵な寂しがり屋の傍に。
終
2012年7月発行
掲載誌:無自覚ラブ
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