宵蛍
川岸に立った近藤が、慌てたように少年を呼び止めた。
『えー?なんでですか?近藤さん、これたくさん捕まえて籠にいれたら、きっと提灯みたいで帰り道が明るいですよ』
そう言って見上げる小さな総司の頭に、近藤は優しく手を置いた。
『蛍の命はな、一週間くらいなんだ。その間に一生懸命光ってつがう相手を見つけて、そして死んでしまう。今お前が捕まえたりしたらその蛍は相手を見つけられず、子供を残すこともできず、無駄に光って死んでいくことになるんだぞ』
近藤はそう言うと、優しく総司のまだ小さな手をとった。
『帰り道が暗いのなら、ほらこうやって手をつないで行こう』
総司は、暖かく大きな近藤の手を見て、にっこりと微笑む。
『はい。……でも、蛍っておかしな虫ですねぇ。一週間しか生きられないのに、つがう相手を探すことしかしないなんて』
僕はそんなつまらない人生ごめんだな。と言う総司に、近藤は苦笑いをした。
『……まぁ、お前も大きくなって女性を好きになればわかるだろう。愛する人を見つけて命をつないで行く、というのは理屈じゃないんだよ』
『……僕はそんなことわからなくていいですよ。近藤さんの傍にいて、近藤さんと同じ方向を見て、近藤さんの役に立てればそれでいいんです』
『はははは!頼もしいことだ。』
近藤の豊かな笑い声が、気持ちのいい夏の夜に溶けて響いた……
バリバリバリッ!
ボリ!ボリボリボリ!
胡瓜の漬物を噛んでいる音が、蝉のうるさい鳴き声と混じって夏のじっとりとした空気を揺らす。
総司はぼんやりと真っ青な空にタケノコのように生えている入道雲を見上げながら、濡れ縁の柱によりかかって、胡瓜をぼりぼりと食べる。
まだ出来上がる前の漬物樽に入っている胡瓜をこっそり持ってきたせいか、漬物にもかかわらずいい歯ごたえだ。
千鶴に見つかったらまた怒られるかな……でも暇なんだよね〜。裏の川で洗濯してる千鶴のところに遊びに行こっかな……
総司が欠伸をした時、向こうから子供の声が聞こえてきた。
「総司〜!」
「なんだ、また来たの?今日は稽古の日じゃないだろ?」
暑い中、走ってきたらしく汗びっしょりの男の子に、総司は気だるげに言った。ただし、後半部分は辺りを気にして声をひそめながら……
この男の子は、年のころ十歳くらい。総司と千鶴の家のご近所さんだ(と、言っても歩いて二十分はかかるが)。
総司達が住んでいる、雪村の里がある山の中腹あたりにある結構大きな寺の息子だった。何故か総司にとてもなついており、ひょんなことから総司は彼を含む寺にいつも遊びに来ている村の男の子たちに無料で剣を教えているのだ。
そしてそのことは千鶴には内緒。
だから男の子は、総司の言葉に焦ったように辺りを見渡して、シーッっと人差し指を自分の口に当てて総司を睨んだ。
「ナイショなんだろ?シーッ」
そう言う男の子に、総司も小さな声で答える。
「大丈夫だよ。千鶴は裏の川で洗濯中。それで何しに来たの」
「剣と碁は、一人で練習しても上手くならないんだって。上手くなるのに一番いい練習方法は、自分よりうまい人と試合することなんだって」
前の道場の先生が言ってたんだ、という男の子を総司は横目で見る。
「……で?」
「だから総司!木刀で試合してよ!」
「やだよ」
即答した総司に、男の子は頬をふくらませてぶーたれる。
「なんで〜!?」
「だいたいさぁ、君程度の腕でこの僕に一対一の稽古をつけてもらおうなんて贅沢すぎだよ。あの辺の友達と試合してればいいだろ」
「それじゃあ上手くならないんだよ!なぁ〜!頼むよ総司ぃ〜!」
「あのねぇ、僕は、か〜な〜り強いよ?試合なんかしたら、例え木刀でも君死んじゃうよ」
「だから殺さない程度に稽古つけてくれって言ってんの!」
ねだるように総司に訴えていた男の子は、突然何かを思い出したように、あっ!と言って嬉しそうな顔をした。そして勢い込んで言う。
「そういえばさ、友達に聞いたんだよ。例の泉の場所!だいたいしか覚えてないらしいんだけど、そこならもしかしたらいるかもよ?それを教えてあげるからさ……」
総司は片眉をあげて、少年を見た。
「……それ、確かな情報なの?」
男の子は、交換条件として総司に気を持たせればいいにもかかわらず、バカ正直に、う〜ん、と困った顔をする。
「そいつもその泉を見つけたのは道に迷って偶然見つけたらしいし、結構前だし……どれだけ本当かはわかんないや。でも、そいつだけなんだよな、実際その泉を見たことがあるのって。あとはおばあとかの昔話で昔からうちの村に伝わってるだけ。そいつはその泉で、小魚が泳いでいるのを見たって言ってた。あと水辺にはいろんな虫がいたって。だから今の季節ならその泉にきっといると思うんだよな」
少年の言葉に、総司は腕組みをしながら片手で顎を撫でて考える。
少し前にふいに思い出した近藤との幼いころの思い出。
川辺に一面にひろがる、小さな光を放つ蛍。静かに、音もなく瞬いて、今思い返しても夢のような美しさだった。
その話を何の気は無しに千鶴にしたところ、なんと千鶴は蛍を見たことがないと言う。父親の綱道が医者として忙しく、そのような場所に連れて行ってあげたり、蛍狩りや蛍籠といった遊びもしてくれなかったらしい。
その時は、ふーん、と言ってそのまま会話を終えた総司だったが……
ふと、千鶴と一緒にあの美しい光を見たい、と思ってしまったのだ。
千鶴は喜ぶだろう。自分も……、幼いころに見たあの景色をもう一度見てみたい。
今度は愛する人と一緒に。
そう思って、寺の男の子にこのあたりで蛍の見られる場所を聞いたのだが、帰ってきた返事は驚くものだった。
東京から来た偉い学者さんが言うには、この山はなんだか特殊な石でできていて、川にはその石から流れ出た成分が混じっている。
それは結構強いものなので、そのせいで小さな生物……、小魚や水辺の昆虫たちはそこに住むことができないそうなのだ。
実際この山は昔からめだかもいないし、川辺にはヤゴやアメンボなどの虫もほとんどいない。さらにこの山の湧水を飲むと万病に効くという言い伝えが古くからあり、ふもとにある山から流れ出た水場には、近隣からやってくる水汲みの人々が絶えない……
それを聞いた総司は、頷けるものがあった。
羅刹の血を薄めるという雪村の里の水。きっと山の上の方にある雪村の里は、その川の水の上流、源泉に近いのだろう。だからきっとその特殊な鉱石の効力も強く、羅刹という濃い血をも薄めてくれるのではないだろうか……そしてその反作用として、小さな生き物はこの水では生きていけないのだろう。
ということはもちろん蛍もこの山にはいない、という事になる。
そうなんだ……とがっかりした様子の総司に、寺の男の子は気を使う様に言った。
この山のどこかに、隣の山から来ている水が湧いている泉がある。昔、隣の山で雨で増水した川に落ちた男が、流され水に揉まれ気が付いたらこの山のその泉に出ていたらしい。その水には強い石の成分は混じっていないので、メダカやイワナが泳ぎ、水辺には虫がたくさんいるそうだ…
しかし肝心の、その隣山から来ている泉の場所がわからない。寺の男の子は、それとなく村のヤツに聞いておくよ、と言ってくれていたのだ。
「……いいよ。じゃあ、今からその場所に行ってみようか。それで虫とか小魚がいる泉を見つけられたら、稽古つけてあげるよ。みっちりね」
総司のその、そこはかとなく黒い笑顔に男の子は少しだけ背筋が寒くなるのを感じたが、うん!と大きくうなずいた。
総司の強さはよく知っている。多分少年が知っている以上に強いだろう、ということも知っている。いつもはだらだらとめんどくさそうにしているが、実はちゃんと鍛錬を積んでいるし、素振りもしているのを少年は知っていた。そんな総司に、特別に一対一で稽古をつけてもらえるかもしれない。
「行こう!」
寺の子はそう言うと、早速総司の袖を引っ張って立たせて、走り出した。
「ちょっ、ちょっと待って!千鶴に出かけるって言っておかないと……!」
笑いながら言う総司に、男の子は、あっそうか、と言って、走り出す向きを千鶴が洗濯しているという川へと変えたのだった。
なんだかこそこそしながら歩いていく大小の男二人の背中を眺めながら、千鶴は、怪しい……と眉根を寄せた。
ちょうど洗濯が終わり、裏で洗濯物を干している最中に総司と寺の男の子がやってきた。やけに明るい笑顔でちょっと出かけてくる、帰りは遅くなるから、という二人に、千鶴は不審に思いながらもうなずいたのだが……
千鶴は手早く洗濯物を干し終わると、竹でできた水筒に水を入れる。そして朝残ったご飯をさっと握って幾つかのおにぎりにすると竹の皮で包んだ。それを手ぬぐいで包んで、千鶴はあわてて二人の後を追いかける。
最近総司がおかしい。定期的に里に行き何かしているようなのだ。それには寺の男の子もかかわっているようで……二人でこそこそ何かを話しているのを時々見かける。もともと総司は京都にいたときも、暇があれば近所の子供と遊んでいたし、里の子供たちと仲良くなるのは別にいいのだが、何かを千鶴に隠しているような。
今日は、千鶴はこっそり二人の後をつけて、総司が里で何をしているのか確かめるつもりだった。
里に行くのなら昼ごはんや水は、総司達は里の家からもらうのだろう。後をつけている千鶴は、それらを調達できないのでちゃんと持って行こうとあらかじめ考えていたのだ。
気配に聡い総司に気づかれないように、かなり距離をあけて千鶴や総司と寺の子の後をつける。
……あれ?
里へ行くものだとばかり思っていたのだが、二人は反対の方向……山の奥へと行く道へと曲がった。
お寺か里に行くのかと思っていたのに?この先はどんどん険しくなる山道だけだと思うんだけど……
千鶴はじっとりと額に浮かぶ汗をぬぐいながら、こっそりと後をつける。
辺りはうっそうとした木と草、岩ばかりで人影は全くない。聞こえるのは蝉の鳴き声だけ。
千鶴は暑さのあまり、持ってきた竹筒の水を全部飲んでしまっていた。ふと耳を澄ますと水が流れ出ているような音がした気がして、千鶴は少しだけ道を外れて木々をかき分け音の方向へ向かう。思った通りそこにはきれいな湧水が湧き出ていた。
手ですくって、千鶴は思う存分冷たい水を飲む。と、そこに道の先を歩く総司と寺の男の子との会話が、蝉の鳴き声の合間に漏れ聞こえてくる。
うめくような総司の声。
「暑い……」
寺の男の子もいつもの元気はどこへやら、苦しそうに呟く。
「俺ももうだめ……」
「君、水とか持ってこなかったの?」
「そういうのは大人の総司が気が付くのがふつうだろ!」
「あ〜……どこかに湧水とかないかな……」
湧水を竹筒に入れていた千鶴は、その声に目を瞬いた。自分の手のひらを流れていく冷たい水と、総司達の声が聞こえる方向とをきょろきょろと見やる。
ガサガサッ
突然聞こえてきた大きな音に、総司ははっとして木刀に手をやった。男の子もぎょっとしたように音がした方を見る。
二人は緊張した面持ちで、音のした草むらから何かが出てくるのを待ったが、特に何も出てこないし草むらの向こうに何かがいる気配もない。
総司は慎重に草むらに近づくと、木刀でそっと草をかき分けて向こう側を覗いた。そこは特に何もなく木や草、岩があるだけで生き物がいるような気配はない。総司は足を踏み入れて、さらに奥に入って見てみた。
「……何もいないみたいだね。木の枝でも落ちたか、鳥か……」
総司の声をさえぎって、男の子が驚いたように言った。
「総司!あれ!」
男の子が指差した先には、ちょろちょろと岩と岩の間からきれいな水が湧き出ている水場があった。
「水だ!」
「きれいだし!やったぁ!!」
喜び勇んで水を飲んでいる二人の男を、千鶴は遠くの木の陰から、やれやれ……と思いながら眺めた。
それからしばらくの間、男二人とその後ろからこっそり後をつけている千鶴の行軍は続いた。
あの後、ぎらぎらと輝く太陽は雲に覆われ、少しは過ごしやすくなった気がする。しかしあいかわずの暑さで、前を行く総司は裾をからげ袖は肩まで腕まくり、男の子にいたってはほぼ裸の状態にまで前をはだけさせていた。千鶴も暑くて着物がじっとりと汗ばんでくる。
どこまでいくのかな……っていうか何をしに行くの?何かを探しているみたいだけど……
もともと体力のある総司に、すばしっこく元気な男の子。二人についていく千鶴は、へとへとだった。もう帰ろうかと思い踵を返した途端、ポツン、と水滴が千鶴頬を打った。
空を見上げるとポツリポツリと雨が降り出していた。
ここのところ、いつもこの時間になるとにわか雨が降るんだよね……すぐに止むけど結構激しく降るからこれじゃ濡れちゃう……あ、そういえば……
千鶴は先ほど通り過ぎた小さな洞穴を思い出した。草の陰になって見にくかったが、すぐ近くにあった。あそこで雨宿りをしてもう後をつけるのはやめて帰ろう。そう思って千鶴が踵を返したとき……
「総司〜!!寒いよ〜!」
気温が急激に下がったせいで、かいた汗が急に乾いたのだろう。寺の男の子が今度は着物をきっちり着込んで総司に泣き言を言った。
「……僕も寒い……」
洞穴に向かおうとしていた千鶴は、その声に仕方なく足を止めた。
コツンと何かが頭に当たった気がして、総司はその何かが飛んで来たらしき方向を見やった。
確かこっちの方……、ななめ後ろの草の後ろの方から……
ぽつぽつ降ってきている雨の中、総司はそちらの方に足を向ける。男の子も不思議そうな顔で総司を見上げながら後ろをついてくる。
「「あっ」」
草をかき分けた途端現れた小さな洞穴に、総司と男の子は声をあげた。
「洞穴がある!ここで雨宿りしようぜ!」
男の子が叫んだとたん、堰を切ったように空から大粒の雨粒が勢いよく、大量に降ってきた。
「うわー!降ってきた!総司、早く早く!」
男の子が総司の袖を引っ張る。総司は何か考えているような表情をして辺りを見渡していたが、せかす男の子の声にあきらめ、急いで洞穴に入って行った。
洞穴に入って行く二人を、千鶴は道の反対側で、しゃがんで大きな葉っぱを傘のようにさしながら見ていた。
千鶴は小さく溜息をつくと、やっぱりあの二人だけだと心配だから自分もついていこう、と思い直したのだった。
「ねぇ、何か持ってきてないの?」
洞穴の中で立ったままだいぶ雨脚が落ちてきた空を見上げて、総司は寺の男の子に言った。
「何かって?」
洞穴の中の乾いた土の上で座ったままの男の子は、総司の問いかけにめんどくさそうに答える、
「お腹すかない?何か食べるもの、持ってきてないの?」
総司はそう言うと、何を思ったのか洞穴から外に出て、大きな声で叫んだ。
「お腹がすいた〜!!」
寺の男の子が、総司の意味不明な行動にあきれたように言う。
「何やってんだよ、総司。叫んだって何にもでてこないよ」
「……そうかな……でてくるんじゃないかと思うんだけどね……」
総司が言った通り、雨が上がって元の道に戻る時に、道の端にそっと置かれているおにぎりを総司が発見した。
「ほら、あったでしょ」
そう言って見慣れた竹の皮を開いて、中のおにぎりにかぶりつく。
「総司、おまっ……! 大人だろ!こんな落ちてるの拾っていきなり食べちゃだめだよ!」
「大丈夫、おいしいよ。君もどうぞ」
平然とそういう総司に、同じくお腹がぺこぺこだった寺の男の子はおずおずとおにぎりに手をのばした。
「うまい!」
一口食べてなんともない、と悟った途端、男の子は大口を開けてばくばくと食べだした。
最後のおにぎりは食べずに、再び竹の皮に包んで懐にしまった総司に、男の子が文句を言う。
「なんだよ〜、それも食べたいよ」
「だ〜め。これは……作ってくれた人の。もしかしたら自分は食べないでお腹を減らしてるかもしれないしね。ほら、早く行こう。もうすぐでしょ?その、君の友達が見たっていう泉の場所」
自分がそっとおいたおにぎりを、何の疑いもなく食べてしまった総司にあきれながら、千鶴は再び歩き出した男子チームの背中を眺める。
ぐうっと鳴るお腹を押さえて、千鶴は距離を置いてもう一度二人の後ろをこっそり歩き出したのだった。
前を行く二人が道から外れたところで、千鶴は彼らを見失ってしまった。ここまできて……!という思いでさらに先に行ってみたり、もう一度戻ってみたり、あちこち探していると、突然寺の男の子ものらしき叫び声が聞こえてきた。しかも、相当せっぱつまったような……
総司がついているから大丈夫だろう、と千鶴は思うものの、ここに来るまでの総司の大人とは思えない使えなさぶりに不安が残る。
千鶴は焦って声のした方に向かって走った。そちらは道から外れた場所で、枝をかき分け草を踏み分け、石に転びそうになりながらなんとかたどりつくと、少し先の開けたところに総司と男の子が立ちすくんでいるのが見える。
千鶴は、はっとして、低木の茂みにしゃがんで様子をうかがう。何を見ているのか、彼らが凝視している先を目線で追うと……
「ク、クマだよ……総司……しかもでっかい……」
「見ればわかるよ。背中を向けちゃだめだよ。それからもう大声あげて刺激したりしてもダメ……!」
「ご、ごめん……」
二人の五十メートルほど先には、かなり大きなクマが前足をあげて立ち上がっていた。どろんとしたクマの眼が二人をじっと見ている。
「……ど、どうすんの……総司」
総司だってわかるものか。
クマに出くわしたなんて人生で初だ。田舎から来た新選組隊士たちから、クマに出くわしたという冒険譚を何度か聞いたことがある程度で、どこが弱点なのかどうすればいいのかなんてまるでわからない。
「……ほら」
その時、総司は寺の子から何かを手渡された。クマを気にしつつ総司がその渡されたものを見てみると……
「……木刀……?」
「総司かなり強いんだろ。戦ってやっつけてよ」
「クマと…!?君って意外にSなんだね」
確かに一発威嚇で打ち込んでみてもいいかもしれないが、クマがそれで逃げてくれるとは限らない。逆上して向かってきたら……
クマの強さはわからないが、自分だけならともかくこの男の子まで守れるかどうか……さらに、多分横のしげみには千鶴がいるはずだ。声をあげたりして千鶴の方にでも向かわれたら、今総司がいる場所からではとても守ることができない。
どうするか……
総司の額から珍しく冷や汗が流れ落ちた。
どうしよう……!
千鶴は半泣きになって、クマと対峙している総司達を見た。ここで自分が立ち上がったり声をあげたりしてクマの気をそらせば、総司達は逃げられるかもしれない。しかし、総司はまず逃げないだろう。なんとかして千鶴を庇おうとするに違いない。そうなると自分を含めて総司の足手惑いは二人。いくら総司でもクマを一撃で、しかも木刀でやっつけることは不可能だ。
考えに夢中になっていた千鶴は、しゃがんでいる自分の肩口あたりに生暖かい息がかかっていることに気が付かなかった。
なんだか息のような唾液のような湿ったものが首筋に飛んだような気がして、千鶴が無意識に首をぬぐい軽く後ろを向くと……
そこには小さなかわいらしいクマが二頭、不思議そうに千鶴を見ていた。
小熊!?
そうか!多分あの、総司さんたちの前にいるクマさんはこの子たちのお母さんで……!!
千鶴にひらめくものがあり、しっしっという声で小熊たちを前へと押しやる。小熊たちは不思議そうな顔をしていたが、うながされるまま前へと歩き出し……、そして母クマがいることに気が付いて駈け出した。
母クマは突然茂みから出てきた小熊たちに驚いたようで、立ち上がっていた前足をおろして、小熊たちに近寄って行く。
「今だよ!」
視界の端に、低木の茂みから逃げ出す千鶴の山吹色の着物を確認してから、総司は小さく叫ぶと、寺の子を促して走り出した。母クマは総司達を追おうか、子供たちの傍にいた方がいいか一瞬迷い、特に腹も減っていなかったのだろう。奇妙な侵入者については見逃すことにしたようで追いかけてはこなかった。
茂みをかきわけると、そこには小さな泉が広がっていた。
夕暮れ時のブルーとオレンジの混じった空が、静かにその泉に映っている。
喉の渇きに耐え、雨にうたれ、腹をすかせ、クマに追われた男たちの旅は、ここで終着駅を迎えた。
「……ここ?」
総司の問いに、泉の静かな美しさに呑まれたようになっていた少年はぼんやりと答えた。
「うん……多分。俺の聞いた場所はこのあたりで……」
そう言って寺の男の子は、泉の水を覗き込んだ。
「めだかは……、もう暗くてわかんないな……虫は……総司見える?」
「うーん……、蚊とかはいないみたいだけど、もともとこのあたりにはあんまりいないしね」
「もうすぐ暗くなるな……とりあえず今日は帰ろうよ。おれ夕飯に間に合わなかったら母ちゃんに殺される」
そわそわしている少年に、総司は言った。
「ええ?またクマに襲われたりするのはごめんだよ。僕は残って虫と魚を確かめる。君はいいよ、帰っても。道に迷った分差し引いてまっすぐ帰れば寺からはそんなに遠くないでしょ?」
「うん、じゃあ俺帰る。またな!」
手を振りながらかけていく少年を見送って、総司はゆっくりと泉に近づいた。
「小魚は……、見えないけど、虫の鳴き声は聞こえるな……ってことは……いるのかな?」
そうつぶやきながら総司は身を乗り出して泉を覗き込む。と、足もとが滑り……
「わあぁぁっ!」
バッシャン!
叫び声とともに聞こえてきた激しい水音に、千鶴は思わず隠れていた茂みから飛び出した。
「総司さん!?」
慌てて泉に駆け寄る千鶴の耳に、泉の中から総司のからかうような声が聞こえてきた。
「やっと出てきたね」
泉の中にいる総司は、何故かちゃんと着物を脱いでおり、濡れた髪をかき上げながら楽しそうに千鶴を見ていた。泉の脇には脱ぎ散らかされた総司の下駄と着物が置いてある。
「……総司さん……?」
落ちた、というよりは暑さから水浴びでもしているようなのんきな総司に、千鶴は気が抜けた。
「……大丈夫そうみたいですね」
軽く睨むようにした千鶴に、総司は声をあげて笑いながら、引き揚げてくれるように千鶴に向かって手をのばす。千鶴がその手を掴んで、体重を後ろにかけて総司が泉からあがるのを助けようとしたとき、ぐいっと逆に手をひかれた。
「きゃあ!」
バッシャン!
再び大きな水音があたりに響き渡り、次の瞬間、千鶴は頭からずぶ濡れになって、大笑いしている総司の腕の中にいた。
「総司さん!!」
悲鳴のような千鶴の声に、総司の返事は笑い声ばかり。
帰りに私どうすればいいんですか!と怒る千鶴を抱きしめて、総司は、僕の着物を貸してあげるよ、と楽しそうに言う。
夕暮れの静かな空気に響く、総司の楽しそうな声と、泉の気持ちのいい水とで、千鶴はなんだか怒る気が失せて、もう、と小さく言いながらそのまま総司に抱きしめられて、彼の胸に頭をあずけた。
「……いつから気づいていたんですか?」
だんだんと暗くなってく空を見ながら、小さくつぶやいた千鶴に、総司が楽しそうに返す。
「洞穴のあたりかな……っていうかおにぎり置かれてても気づかないってありえないでしょ?」
お腹すいてない?一つ残ってるよ。という総司に、千鶴は微笑んだ。
「ふふっ。ぺこぺこです」
自分が脱いだ着物の間からおにぎりをだそうと、総司が泉から手を伸ばした時に、千鶴がそういえば、と思い出したように言った。
「総司さん、なぜあの子と一緒にここに来たんですか? ここに来たかったんですか?」
「ああ〜……、実はね……」
どこから話そうかと考えながら、総司が着物を持ち上げたとき……
「あっ」
千鶴の小さな叫び声とともに、総司の着物の下からか弱い小さな小さな光が、ふわりと空に浮かび上がった。
その光を追って、総司も視線を巡らす。
泉を振り返った二人の瞳に入ってきたのは、静かな光がいくつも泉の上を踊るように舞う、幻想的な景色だった。
「……蛍……ですか……」
随分時間がたった後、千鶴がつぶやく。
「うん……」
何故だか大きい声を出すのがはばかられて、千鶴を背中から抱きしめながら総司も囁くように言った。二人のかすかな動きで、泉がたぶんと静かな音を立てる。
千鶴は少しだけ後ろを振り向いて総司を見た。
「このために、ここを探してらしたんですか?」
「うん。君と……、見たくて」
千鶴の方は見ずに、妙に真剣な表情で、泉の上を舞っている蛍たちを見つめながら総司はそう言った。
総司の瞳に、蛍の柔らかな光がちらちらと揺れて美しい。
千鶴はその光をじっと覗き込んだ。
視線を感じたのか、総司も蛍から瞳を外し千鶴を見る。そして悪戯っぽく笑った。
「ねぇ、知ってる?蛍が光る理由」
その表情に、千鶴は少し警戒しつつも、知りません、と素直に答えた。総司は千鶴にまわした腕に力を込めて言う。
「蛍はね、光ることで子供を一緒に作る相手を探してるんだって。つまり……」
そう言いながら総司の手が怪しい動きを始める。
「ここでは蛍たちが相手を求めて、そして子供を作ってるってわけ。だからさ」
総司の大きな手が泉の水の中で千鶴の着物の袷から入り込んできた。
「ちょっ……! 総司さん、ここ外……」
千鶴の焦ったような声は、総司の唇で途絶えた。
ん……、という声が聞こえたきり、二人の動きで泉がたてる小さな水音以外の音が聞こえなくなる。
存分に千鶴の唇を味わって、総司はようやく唇を離した。
間近にある、とろんとした千鶴の瞳を見つめながら総司は囁いた。
「僕の中ではね、蛍は大好きな人と二人で見るものなんだ。だから君と見ておきたかった」
見ておきたかった……
総司の言葉に、千鶴のぼんやりとしていた頭はふっと現実に戻る。
そして先ほどの、妙に真剣に蛍を見つめていた総司の瞳を思い出した。
「……今日からは、私の中でも蛍は大好きな人と……総司さんと二人で見るものにします」
真面目な顔でそう言う千鶴に、総司は優しく微笑んだ。
「……来年も、この蛍を一緒に見に来よう」
そして、再び唇を寄せながら続ける。
「……ねえ、覚えていてね」
「?何をですか?」
幾度も繰り返される、軽くて、けれども甘いキスに意識を持って行かれそうになりながらも、千鶴は問い返す。
「今日のこと。この景色。蛍の恋と……僕の恋心」
総司の言葉に、千鶴の胸は熱くなり体が小さく震える。
「ずっと……覚えていて。僕以外とは誰とももう蛍を見られないくらい、ずっとずっと……」
総司の手が水の中で千鶴の体を熱く抱き寄せる。
「……来世まで……」
それきり言葉は途絶え、後は熱い溜息と切れ切れの切ない吐息、静かな水音、蛍の光……
終
2011年6月発行
2013年11月発行
掲載誌:あなたにすべての幸せを