そして二人はいつまでも 




第四話




------当日午後二十一時------
 
「ねえ、薫の部屋に千代を迎えに行く前にちょっとホテルの裏の湖に散歩に行かない?」
髪を拭きながらバスルームから出てきた総司に、千鶴は目を瞬いた。
「裏に?散歩道でもあるんですか?」
「披露宴の前にちょっと話したけど、蛍が見られるんだよ」
 千鶴は特に何も考えず頷いた。今日一日ほとんどゆっくりできなかった総司と、二人きりで散歩もいいな、と思い立ち上がる。
 当然のように伸ばされる総司の手に自分の手を重ねて。
手をつないで部屋を出るときに、総司が言った。
「君のつらい記憶を、これから一つ一つ僕と一緒に上書きして、……幸せな記憶にしていこう」
千鶴はその言葉に思わず立ち止まる。
「総司さん……」
総司が、何気ない誘いの言葉にそんな意味を込めていたことに千鶴は驚く。                 
 「幸せになれないってわかっていて、君は僕についてきてくれた」
総司はそう言うと、視線を千鶴へむけて、にっこりと、花がほころぶように微笑んだ。

「ずっとずっと……僕はこれをしたかったんだよ。ずっと昔からね」
 
 水辺の草むらには柔らかな光が飛び交っていた。
別荘地の小さなホテルのため泊まり客もあまりおらず、蛍を見に来ているらしきカップルがぽつんぽつんと点在している以外、人気はほとんどなかった。
「雪村の里の泉の方がたくさんいたね」
総司がゆっくり歩きながら言う。
「そうですね…でもきれい……」
ちらちらと揺れ動くか細い光は、消えてしまいそうで、でもしっかりと消えずに瞬いている。
 暗闇に灯る光を見ていると、千鶴は脳裏にこれまで見たことのない前世の景色が浮かんでくるのを感じた。
それは総司のいなくなったあとの雪村の家で……

夏の夕暮れ……
「あれ?蛍?」
夕飯の前に様子を見に来てくれた寺の男の子が、少し驚いたように言った。
 臨月近い大きなお腹で洗濯物を取り込んでいた千鶴は、その声に少年の視線の先へと目をやる。天井に近い木の梁、薄暗い隅にぼんやりと瞬く小さな光があった。
千鶴は溜息をつく。
「そうなの。いったいどこからなのかわからないんだけど一匹だけずっと迷い込んでいて……」
総司を思い出すので蛍を見るのはつらい…とは心配性の寺の男の子には言わないようにしようと千鶴は心の中で思う。
「こんなところにいても仲間もいないし、水辺だってないし…昼間のうちに見つけて外に出してあげようとしてるんだけどいつも見つからなかったり手が届かなかったりで」
 今もそうだ。古い家なので天井だけは高い。何か長いもの……総司が残した刀くらいしかないが、それを伸ばせばでとどくだろうか…。しかし総司が大事にしていた形見の品を、そんなことにつかっていいものか……
千鶴が蛍を見上げながら悩んでいると、寺の男の子がきっぱりと言った。
「総司だね」
「……え?」
寺の男の子が言った意味がわからず、千鶴は聞き返した。
「あれ、あの蛍。きっと総司だよ」
トクン……と小さく胸が鳴って、千鶴は男の子を見つめた。
「ちょうどお盆だしさ。あいつ千鶴を心配して様子を見に来てるんだよ」
千鶴は、蛍を眺めている男の子と一緒に梁の上で瞬く蛍を見上げた。                   
定期的に瞬く光が、まるで総司が千鶴に優しく話しかけているように思える。                  
『調子はどう?』
『君はいつも頑張りすぎるから』
『体、大事にしなよ』
『ここにいるから』
『そばにいるよ……』


「あれ!?千鶴なんで泣いてるの!?」
総司がぎゅっと手を握り、驚いて顔を覗き込んできた。
千鶴は涙が頬を伝うのにはかまわずに、ぼんやりと総司の顔を見る。
 そこは幕末でもなく雪村の里でもなく、現代……。結婚式をあげたばかりのホテルの裏だった。
一瞬の間に膨大な距離の時間を飛び越えて、過去の記憶はストレートに千鶴の胸に入り込んできた。
 そうだ……そうだった。
 あんなこと、すっかり忘れてた。総司さんは……    
千鶴は自分の涙をそっと拭った。
そして悪戯っぽく微笑みながら総司を見上げる。
「総司さん……自分が蛍になった記憶ってありますか?」
「…は?…何?僕が?蛍?泣いてたのと関係があるの?」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、きれいな緑色の瞳を瞬かせている総司を、千鶴は愛おしそうに眺めた。   
「総司さん、亡くなった後に蛍に姿を変えて様子を見に来てくれてたんですよ。忘れちゃったんですか?」
「えー?何を……」
「薄情者ですね」
昼間の仕返しとばかりに言う千鶴に、総司はわけがわからない。
「僕が?蛍?」
「覚えてないんですか?亡くなった最初のお盆に、総司さんは蛍になって身重の私の傍にずっといてくれたんです」
自信満々に言う千鶴に、総司は呆れたように言う。
「いや、まぁそれはさ……お盆に死んだ人が帰って来るっていう言い伝えであってさ……僕がほんとに蛍になったわけじゃないでしょう?」
「いいえ、あれは総司さんでした。昼間探そうとしても隠れてしまう意地悪さとか、後ほんの少しで手がとどくのに〜!っていうぎりぎりのところにとまってる底意地の悪さとか、かとおもえばあきらめた後にからかうみたいに目の前に飛んで来たりするところとか……あれは総司さんの性格そのものの蛍でした。覚えてないんですか?梁の上から私を見ていた記憶とかないんですか?」
楽しそうに言いつのる千鶴に、総司は呆れ笑いをしながら、記憶にないね、と言う。
「はくじょーもの」
ちょっと拗ねるように下から見上げて可愛くいう千鶴に、総司は『降参』というように手をあげた。
「ごめん。ほんとにそれは申し訳ないけど思い出せない」
千鶴は少し頭を傾けて、謝る総司を優しく微笑んで見つめた。そして水辺で瞬いている蛍に視線を移す。
「……でもあの時の私は、家にずっといてくれたあの蛍が総司さんだってほんとに素直に信じられたんです」
そう言ってつないでいる手をぎゅっと握る。
「明け方寂しくて不安で目が覚めると、ちょうと視界に入るところで、いつもやさしく瞬いていて……あの優しい灯りに何度も救われました。夏が終わってもあの灯りの思い出だけで胸が暖かくて……」
 千鶴は暗闇の中総司を見上げる。
ホテルからの遠い光と足元をぼんやり照らしている遊歩道の抑えた光の中で、千鶴の白い肌が浮かび上がる。
そのまっすぐな瞳は、総司の瞳の奥の奥まで見つめているようだった。
「私は…前世で幸せでした。総司さんと生きた時も、亡くなった後も……」
千鶴はそう言って、少し離れた足元で遊ぶ、蛍の柔らかな灯りへと視線を移す。
「総司さんがいなくなっても、総司さんの想いはしっかりと私の周りに残っていました。それを感じることができたから、蛍もきっと……って思ったんだと思います。幸せな記憶も、……つらい記憶も、総司さんにかかわることは全部私の宝物です。『幸せになれないとわかっていてついて行った』んじゃありません」
千鶴はふたたび総司を優しく見上げる。
「総司さんについていかなければ、幸せになれないってわかっていたんです。だから無理矢理でもついていきたくて……。江戸で松本先生に『甲府につれていく』って言ってくださった時は本当に嬉しかったです」
総司は千鶴の顔を食い入るように見つめ、動かなかった。
千鶴は続ける。
「だから…さっき総司さんがおっしゃった『上書き』は、きっと必要ないんです。現世でも前世でも、総司さんは私に与えてくれたつらさや悲しさ以上に、暖かさや優しさや幸せをくださっていました。私がそれを思い出せなかっただけなんですね、きっと」
そう言った瞬間、千鶴は総司に抱きしめられた。
感情のまま強く強く抱きしめる総司に、千鶴はそのまま抱かれる。千鶴の耳元で総司の押し殺した声が聞こえた。
「…ありがとう……」
千鶴は手を総司の背中へ回すと彼をぎゅっと抱きしめる。
「前世で千鶴が幸せでいてくれた事が、僕は本当に嬉しい」
震えるように言う総司に、千鶴は優しく囁いた。
「幸せでした。総司さんに会えただけでも幸せだったのに、想いを返していただいて、さらに有り余るくらいの幸せいただいて……」
千鶴は総司の胸に顔を押し付けると柔らかく微笑んだ。
「逢えて、本当によかったです…」
千鶴を抱く総司の腕に、力がこもった。
 

暗闇に音もなく舞い散る蛍の光の中で、二人はいつまでもいつまでも一つの影のまま夜の闇に浸っていた。






2011年10月発行
2013年11月発行
掲載誌:Something Blue

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