信じていることと腹が立つことは別です





ピピピッという携帯の目覚ましを、千鶴はぼんやりとしながら手で探り、止めた。
カーテンの隙間からいつも通りの朝日が射している。のびをして隣を見ると、枕に顔をうずめるようにして総司が眠っていた。
会社も安定して大学に戻り、総司と無事籍を入れた千鶴は、この三連休を利用して久々に京都から総司の実家に来ていた。明日の夜、会社の件で公私ともにお世話になっている近藤に千鶴を紹介するための会食があるのだ。あまり人に心を開かない総司にしては珍しく近藤にはなついており、入籍したことを報告して正式に妻として紹介したい、と総司から言いだしたのだった。       
しかし昨日は……例のごとくキャバクラで皆で飲んで来たらしい。もうそろそろ契約期間がきれる新八が、ぜひそこで送別会をやってほしいとの希望で。
 新八には千鶴だってお世話になったのだから送別会には出席したかったのだが、千鶴が来るとどうやら男性陣が楽しめ無いようで、彼女だけ家に置いてけぼりだったのだ。
 そんな理由で、千鶴は昨夜は一人で総司の実家でミツや総司の母親と夕飯を食べ、一人でベッドに入った。明け方ごろ、帰ってきた総司が隣に潜り込んできた覚えはあるが、夢なのか現実なのか定かではない。しかしその時間に帰ってきたという事は総司を含め男性陣は皆、今日は夕方まで使い物にならないだろう。今日は土曜日で会社は休みの日だし、別にうるさくいうことではない、と千鶴は自分に言い聞かせながらベッドから出た。
ぴくりとも動かない総司を横目で見て、隣の部屋のクローゼットへと歩いて行き、服を着替える。
水商売の女性に対して千鶴がやきもちを焼くことを、総司は面白がる。男性にとっては……いや総司にとっては、千鶴と水商売の女性とでは比べるような対象ではないようだった。お金を出してお酒を飲む場所にいてもらうのだから、女性にとってもそれは仕事。総司自身は別にお酒を飲むときには女性はいなくてもよく、同席した客人のために用意するだけなので全くの仕事。お酒を飲むという場所だけはくだけているが、オフィスで会議をしているのと変わらないというのだ。
 そう説明を受け、なるほど、とは思うものの、千鶴にとってはそんなに簡単には割り切れない。総司達が愛用しているキャバクラはいつも同じで、そこのナンバーワンのキャバクラ嬢はどうも総司のことをとても気に入っているようなのだ。新八や他の客には営業用のメールしか送らないそうなのだが、総司には個人的な内容のメールを何度も送ってきていると、ちらほらと聞こえてくる。
 総司がそれを面倒臭がっていてくれているのが唯一の救いといえば救いなのだが……
 しかし総司といえどもオトコだ。
しかも別に禁欲的なタイプではなく、どちらかといえば遊びと割り切って簡単に女性に手を出すタイプ……だと思う。
 今は千鶴がいるから他の女性に手を出すわけではないが、男と女の事だ。お酒も入って何かのきっかけで…ということは絶対ないとはいいきれない。
 それで千鶴は総司が例のキャバクラに行くというと不機嫌になってしまうのだが、総司は千鶴がむくれているのが楽しい様だった。
淡い紫色のカットソーとカーディガンを来て、濃い茶色のウールのスカートをはく。食堂に行こうと階段をおりて、千鶴はふと思い立って仕事部屋へと足を向けた。     
仕事部屋の隅に広いソファとローテーブルがあり、時々平助たちがそこで飲んでいるのだ。
 もしかしたら、と思いドアをそっと開けてみると、やはりキャバクラから帰った後そこで飲みなおしたらしくソファで思い思いの恰好でつぶれている男たちがいた。
 平助は仰向けになってソファに横になっており、左之は背もたれの部分に顔をうずめて眠っていた。新八はというと床に大の字になってのびている。土方と斎藤は、ちゃんと部屋に戻って眠っているのだろう、そこにはいなかった。
千鶴は溜息をつくと、廊下にいったん出てリネン類がまとめておいてある部屋へ行き毛布を取り出し、仕事部屋へ戻ると彼らにそっとかけてやる。と、その時、どこかで携帯電話が鳴りだした。
 どこにあるのかとソファの後ろや酒瓶が乱立しているローテーブルの上を慌てて探っていると、メールだったようで着信音はすぐにやんだ。同時に新八が「うう〜ん」と伸びをして、ぼりぼりと自分の腹をかく。
「いて!」
新八は床から起き上ろうとしてローテーブルに頭をぶつけてしまった。ゴンッという鈍い音が響く。
「大丈夫ですか?」
千鶴はあわててローテーブルを動かして新八が起き上れるようにした。そして机の脚の所に新八の携帯が落ちており、着信を示すランプがちかちかと点滅しているのに気づく。
「あ、メール……」
千鶴が呟くと新八は「んあ?」と言って携帯を探り、寝ぼけマナコでメールを読み進めていくと……
「うぐわああああああ!!!」
突然叫びだしたのだ。
「わっ!なんだよ!」
「おっ!なんだなんだ!」
叫び声に驚いて左之と平助も飛び起きる。千鶴もびっくりして目を見開いたまま固まった。
「なんだよ!突然大声出して!」
平助が新八に文句を言う。新八はそれには構わず自分の手首を見て、そして床をあさり、自分の着くずれたスーツの胸ポケットをたたき、叫んだ。
「ない!!」
左之が顔をしかめながらめんどくさそうに聞く。
「何がだよ」
「ロレックスだよ俺の!!買ったばっかの!昨日店で見せてやったろ!?あれ、忘れてきちまった……!」
「ばっかだなぁ!お前!」
左之が心の底から呆れたように言った。
「まじで?あの店に忘れたんか?」
平助が聞くと、新八は涙目でうなずいた。
「店の女の子いるだろ。あのナンバーワンのマリちゃん!あの子から時計忘れてったって、預かってるってメール来たんだよ!」
「なんだ、それならよかったじゃん。受け取りに行けばいいだけだろ?変なとこで落としたんじゃなくてよかったんじゃね?」
平助が肩の力を抜いて、再びソファにドサッと倒れこんだ。
「よくないんだよっ!俺今日昼の飛行機でアメリカなんだよ!一週間!頼む!平助取りに行ってくれ!」
拝むような恰好をしている新八に、平助は露骨に嫌そうな顔をした。
「えー!嫌だよめんどくせー!俺今日これから実家行かなきゃなんねーし!」
新八はすがる様な目を今度は左之に向けた。左之はあっさりと言う。
「ああ悪いな。俺も先約あり」
新八の涙目はそのまま千鶴に向けられた。
「え……私…ですか?」
新八はコクコクとうなずいた。今日の十七時に待ち合わせして同伴してくれるなら返す、とその女性はメールで言っているらしい。
「ど、同伴……」
千鶴が唖然としていると、新八は続けた。
「もちろん女の子なんだから同伴なんかはねえしさ!受け取ってきてくれるだけでいいよ。場所は…」
 まだ引き受けるとも言っていないのに、新八は待ち合わせの場所まで言って来た。そこは都心の駅の近くにあるコーヒーが一杯千円もする高級な喫茶店だ。
 確かに今日、千鶴は特に何の予定もない。総司も今日は睡眠不足で特に一緒に何かすることもないだろう。
 都心までは確かに面倒だが、そんな高級な時計なら早く手元に戻したいだろうし……
釈然としないながらも千鶴が頷いた時、ほぼ同時に平助と左之の携帯がメールの着信を告げた。2人が見ると……
「あ〜マリちゃんからだ…」
「さすがにナンバーワンはマメだねぇ」
 文面はほとんど同じだったが、昨日は楽しかった素敵な男性と飲めてこっちがお金を払わなきゃいけないくらいだ、また来てほしい待ってるわ、というようなテンプレの内容。
それでもまんざらでもないようなにやけ顔の男性陣を見た後、千鶴はもやもやしながら部屋を出た。
 まあいいか…どうせ明日の近藤さんへのご挨拶の品を買わなきゃいけなかったし、靴も欲しかったし…ちょっと早めに出てショッピングしてから喫茶店に寄って、受け取ったらすぐに帰ればいいか…
千鶴はそう思いながら、食堂で軽く朝食を食べ、自分たちの部屋へと戻った。
 そして居間にある机の上に、総司の会社用の携帯が転がっているのを見つける。チカチカとメールの着信があったことを知らせるランプが点滅している。先ほどから新八や左之たちに例の女性からメールが来ていたことを考えると、当然このチカチカが何を意味しているかは千鶴には簡単にわかってしまい……


千鶴は腕を組んで机の上の携帯を見つめた。
そして寝室の閉じられているドアを見て。
クローゼットの扉にかけられている総司が昨日着て行ったスーツを見て。
「………」                     
机の上の携帯を手に取る。
心の中で総司に謝り、会社用の携帯だしと自分に言い訳すると、千鶴はメールの受信ボックスを開けた。
『結婚したなんて信じられない。首からぶら下げてたものを預かっちゃった♪返してほしかったら連絡頂戴』
そしてその下に多分個人用と思われるメールアドレス……
 総司が首からぶら下げていたのは入籍の記念に二人で買った結婚指輪だった。総司は指輪に慣れていなくて指にはめるのがなんだか気になるからと言って、皮ひもに通して首からかけてくれていたのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
千鶴の眼がすわって背後から地響きが聞こえてきたことは、誰も知らない……



「……あれ?千鶴ちゃんは?」
泥が詰まったように働かない頭を軽く振って、総司は食堂に入って行った。時間はもう昼過ぎ、おやつの時間だ。
大きなテーブルには斎藤と土方、左之が座って、お手伝いさんが淹れてくれたコーヒーを飲んでいた。皆今日は私服でそれぞれにくつろいでいる。
 斎藤は総司の言葉に小さく首を振った。
「知らん。そういえば今日は見ていないな……」
台所からミツがせんぺいと緑茶を持って出てきた。
「街の方へ、買い物と用事を済ましに行くって出かけたみたいよ」
「一人で?」
少し驚いたように聞く総司に、ミツがからかう。
「何よ、結婚したからって独り占めしたいのはわかるけどほどほどにしとかないと嫌われるわよ?少しくらい一人で行動させてあげなさいよ」
「……別にそういうつもりで…」
言ったわけじゃない、と続けようとした総司にかぶせるように左之も口を開いた。
「総司はやきもちやき……つーか心が狭いんだな」
「ふむ。付き合いは短いがそれはなんとなくわかるな。にこやかな顔をしてなにも気にしていない様に見えるが実はかなり好みがうるさいというか」
「ストライクゾーンが狭いんだな、要は」
 斎藤と土方も加わり総司がいかに偏狭な心の持ち主かを話し合っているのを聞きながし、総司はポットからコーヒーをつぐと一口飲んだ。そしてコーヒーカップを覗き込んだときに、首元の違和感に気づく。
「……あれ?」
 自分の首に手をやるが、そこにいつもあった皮ひもはなかった。夕べ寝る前、着替える時にはずしたかと記憶をたどるが、風呂以外は普段外さない癖がついている。
立ちすくんでいる総司に、土方が気が付き声をかけた。
「どうした?」
「僕…首に……」
総司が言いかけると、左之がうなずいた。
「ああ、そういやあ最近かけてたな。どうした?新八と同じで昨日の店に忘れてきたか?」
「新八さん?」
自分の皮ひものネックレスと新八が何の関係があるのかと、総司が訝しげな顔をすると、左之が肩をすくめて説明した。
「あいつ、買ったばっかのロレックスを昨日の店に忘れてきちまったんだって。マリちゃん……ほらいたろ?あの例のお前にべったりの女の子。あの子が預かってるってメールが来たんだよ。で、新八はアメリカで行けねーからかわりに千鶴ちゃんがとりにいってくれてるってわけだ。お前も酔った勢いで店に忘れてきたんじゃねーのか?」
総司は首をふった。それはありえない。
 あれは総司にとっては、人に見せびらかすようなものでも気軽に外したりするようなものでもないのだ。どちらかというと誰にも見せたくない大事な物。
 忘れてきたとは思えないが、何かの拍子に皮ひもが切れてしまったのかもしれない。しかしそういう場合も考えて二本のヒモに通してある。皮でくるんであるが中にはちゃんとワイヤーの入っている丈夫な物だ。
総司は昨日、例の「マリちゃん」の表情を思い出した。
『あら、ネックレスしてるの?そういうの嫌いかと思ってた』
 自然に総司の首元に伸ばしてくる長い爪のしなやかな手に、総司は持っていたグラスを渡した。
『あんまり好きじゃないけどね』
 長いつけまつげの瞼を大きく見開いて、次の瞬間マリはクスクスと笑った。
『じゃあどうしてつけてるの?』
『ナイショ』
 ぶーっと可愛らしくむくれるマリにかまわずに、総司は果物をつまんだ。マリは今度は甘えるように上目使いで総司にすり寄る。
『ねえ、今日アフター空いてるの。誘ってくれないの?』
『残念ながら新婚なんだよね、僕。家のベッドで可愛い奥さんが待ってるからさ』
 途端に強張った彼女の顔を、総司は面白そうに眺める。
大事な人以外には、とことん冷たい総司だった。
「……僕昨日最後の方、店でちょっと寝ちゃったんですよね確か」
総司が確かめるように言うと、左之はうなずいた。
「おお。珍しいなお前が寝るって。まぁ遅かったからなぁ」
「……」                       
思うところがあって部屋に戻った総司は、居間の机の上に転がっている会社用の携帯を開けてみた。
 そして舌打ちをする。
「……やっぱり……!」
さらに、心配な事もある。先ほど左之が言っていたことだ。
千鶴ちゃんが、新八さんの腕時計を受け取りにあの女の所に行ったって……?



 買おうと思っていたカジュアル用の靴と、買うつもりはなかった化粧品一式。キラキラ輝く袋に試供品ともども入れられて、どちらもとてもかさばる。
 さらに衝動買いでペアのティーカップも買ってしまった。使うとしたら京都のマンションなのだが、それなら何もこんな遠くで買わずに京都で買えばよかったのだが……つい買ってしまったのだ。ブランド品だったので、これもまた仰々しく包まれて重い上にかさばる。明日の近藤への挨拶用に買った、日持ちする羊羹は、これまた異常に重い……
 これがヤケ買いなのかと考えながら、千鶴は重い荷物を持って待ち合わせの喫茶店の前に立った。
思いっきり待たせようと思いつつも根が律儀なせいで、十分しか遅刻していない。
 彼女……マリさんといったか……は新八が来ると思っているのに知らない女が来て、驚くことだろう。
 千鶴は一度深呼吸をすると、喫茶店へと足を進めた。
さすが高級なだけあって、ウェイターがすかさずドアを開けてくれる。そのまま落ち着いた色調の店内を見渡すと、部屋の隅においてある優雅なソファ席に、一目でそれとわかる女性が座ってショッキングピンクの携帯電話をいじっていた。
 髪の色が目立つ。明るい茶色なのだがいろんな色合いが混じっていて頭を動かすたびに効果的に輝く。そしてくるくるときれいにカールして長く背中を覆っていた。服も垢抜けていて、真白なふわふわの素材のワンピースなのだが、シンプルな分余すことなく体のラインがよくわかる。そしてそのラインは、女性の千鶴から見ても魅力的な凹凸だった。膝上十センチくらいで下品でもなくお高くとまっているわけでもなく、「女性らしい」につきる。大きく開いた襟元には灰色の長く細いショールが巻かれ、全体の甘さを引き締めていた。
 いつもなら気おくれしてしまいそうな存在だが、今日の千鶴は負けてはいられなかった。
 ぐっとお腹に力を入れて、つかつかとその人のいる机まで歩いて行く。
「あの……」
 千鶴が声をかけると、その女性は携帯から目を上げて千鶴を見た。
 長い…一目でエクステだとわかる睫に濃いアイライン。きれいな眉の形。ピンク色のチークが似合う白い肌。
 す、すごいキレイ……
素材がきれいなのもあるが、化粧も雰囲気も何もかも、水商売に洗われたセンスの良さがうかがえた。ナンバーワンというのもわかる。
 今日の千鶴の恰好は、地味なツイードのAラインのコートに、黒のブーツ。茶色のカバン。そして山のようなショッピングバック……正直負けている。が!負けられないものもあるのだ。
 千鶴はごくりと唾を飲んで口を開いた。しかし声を発する前にその女性に言われてしまった。
「座ったら?」
千鶴の横のソファを、きれいにアートが施された長い爪で指差す。
「……え?」
不意打ちをくらって問い返した千鶴に、その女性はバカにするように言った。
「ウェイターが困ってる」
 パッと後ろを見ると、確かに控えめに水を持ったウェイターが背後に立っていた。千鶴が座ったら出そうと思っていた水とおしぼりを持って待っていたらしいのだが、千鶴が座らないので困っていたのだろう。
 千鶴は赤くなってウェイターに謝り、急いで女性の向かい側に座った。
「あっ…!す、すいません……!」
ちんまりと座った千鶴の前に、ウェイターが水を置く。
「ご注文は?」
「あ、えーと……コ、コーヒーを……」
いつもはコーヒーは飲めなくて紅茶なのだが、なぜだかここは大人っぽく(?)コーヒーを飲んだ方がいい気がして、千鶴は注文した。
 ウェイターが去るのを待って、千鶴は女性に向き合い話を切り出そうと顔をあげる。しかし彼女はもう携帯に視線を落として何か操作をしている最中だった。
「……」
 話しかけた方がいいのか、しかし携帯の操作をしている最中に邪魔をしてしまったのは千鶴の方だ。ということは彼女の操作が終わるまで待った方がいいのか……
 考えた末、千鶴は待つことにする。
 しかし頼んでいたコーヒーが来ても、彼女はまったく千鶴を無視して携帯を操作し続けていた。ここまであからさまにされれば、千鶴もなんとなく自分が歓迎されていなことが分かる。
「あの……あの、マリさんですよね?」
ようやく千鶴が問いかけると、彼女は初めて顔をあげた。
「そうだけど何?どこかで会った?」
つっけんどんな言い方に、千鶴は一瞬ひるんだが、勇気をふりしぼって続けた。
「あの、私、永倉新八さんに頼まれて……」
そこまで言った時、女性の表情がパッと一変した。
「新八さんの?ああ、なんだ。新八さんのお知り合いの方?」
話し方も丁寧になり、表情も柔らかく笑顔になる。千鶴は目を瞬いた。
 そうか、これまでは千鶴のことを『客』とは認識しておらず、同業者か何かの勧誘か……とにかく愛想を振りまく対象とは思っていなかったのだろう。
 しかし新八の知り合いとなると話は別だ。ここで千鶴の印象を悪くしてしまい、それが新八に伝わってしまうと彼女の仕事にもかかわる問題になってしまう。そこで客商売用の顔にぱっとかわったのだろう。千鶴は戸惑いながらもうなずいた。
「はい。新八さんは今日の午後からアメリカなんです。ですので代わりに時計を受け取っておいてくれないかと頼まれまして…」
 千鶴はそう言うと、新八の名刺をマリに差し出した。その名刺の裏には、新八からマリへ一筆、時計を千鶴に返しておいてくれるよう書いてあった。
「了解。同伴は残念だけど、また連絡待ってますって新八さんにはメールしておきます。わざわざありがとう。えーと……?」
 千鶴になんと呼びかけたらいいのか、というマリの問いかけに、千鶴はゴクリとつばを飲み込んだ。
「……沖田です。沖田千鶴といいます」
「……」
マリは微笑みを崩さなかったが、さっと千鶴の左手の薬指を確認した。千鶴の薬指には、総司とお揃いのシンプルな細いプラチナの結婚指輪と、DEARESTの指輪がはまっている。
「……ふーん…、沖田さん妹さんなんていたんだ……」
ショッキングピンクの携帯を、パカパカ開けたり閉めたりしながら、マリはひとり言のように呟いた。
結婚指輪を確認したのだから、千鶴が妻だという事は当然気づいている上でのイヤミに、千鶴はムッとする。
「妹ではなくて、妻です」
「え?そうなの?」
バカにしたようにしらをきるマリに、千鶴は怒りを抑えながら続けた。
「……沖田さ…総司さんの指輪も返してもらいに来ました。永倉さんの時計と一緒に返していただけますか」
「……ふーん……」
なにが『ふーん』なのかわからないが、マリは視線を合わせず相変わらず携帯をもて遊んでいる。ふと、何か楽しいことを思いついたようにマリは千鶴の方を見た。
「ねぇ、返さなかったらどうする?」
千鶴はさらにムッとした。
「……勤めてらっしゃるお店に電話をして、時計と指輪を盗られたとクレームをいれます。警察沙汰も辞さないと」
マリを見ながら千鶴が生真面目に答えると、マリは吹き出した。
「やーだ!冗談よ〜!ほら」
 マリはそう言うと、エルメスのバッグから小さな箱を取り出すと、まるで犬にエサをあたえるようにそれを机の上に投げ出した。千鶴が手に取って箱を開けてみると、中には新八が言っていた時計が入っていた。
「あと、指輪も返してください」
千鶴が催促すると、マリはにやにやと笑いながら言った。
「指輪……ねぇ……ね、あれってどうして私が持ってるか気にならない?」
「気になりません」
即答した千鶴の返事を完全にスルーして、マリは楽しそうに続けた。
「あれってネックレスに通してあるでしょ。つまりほら、ネックレスを外すような状況……ってどんなだと思う?みんながお店で飲んでる時にね、私と沖田さんだけちょっと抜け出して………ってやーだあっ冗談よ〜!そんな怖い顔して〜!!超ウケル!!」
 あからさまにバカにされて、千鶴は自分の顔が怒りで赤くなるのを感じた。別に総司とマリが二人で店を抜け出した、などというたわごとを信じたわけではない。しかしさすがに平常心ではいられなくて顔がひきつったところを見透かすようにあざ笑われて、千鶴は胸がムカムカした。
「ほら、これでしょ。そんなに欲しけりゃどーぞ。大して意味もないのにね。モノにすがりたくなる気持ちもわからないでもないけど」
捨て台詞と共に、カチャンと音をさせて皮ひもを付けた総司の指輪が机に投げ出された。
「……」
 投げ出されたものを拾う様で、指輪を手に取るのも屈辱的だが、だがしかし放っておくわけにもいかない。
 千鶴がしぶしぶと手を伸ばしたとき、マリが身を乗り出してきた。
「ねぇ、これ見る?昨日抜け出したとき二人で撮ったエッチな写真!」
ショッキングピンクの携帯をパカッと開けて、嫌でも千鶴の眼に入るように画面を見せてきたせいで千鶴は思わず写真を見てしまった。マリが言った『エッチな写真』というのも耳にひっかかる。
パッと目に入ってきた写真は、店内での原田の腹踊りの写真で………
「あーはっはっはっ!おっかし〜!!!やっぱ気になるの?奥さんってたーいへん!私だったら頼まれてもイヤだわぁ!!」
はっきりとしたバカにされように、さすがの千鶴も限界が近かった。早くここを立ち去ろうと、千鶴は無言で総司の指輪をつかむ。新八の腕時計を自分のバッグに放り込み、席を立とうと手荷物をまとめ始めると、またもやマリが笑いながら言った。
「なーに?奥さん怒ってるの?ごめんごめん!今度はホントの、二人のエッチな写真見せるから!」
 マリはニヤニヤ笑いながら、ショッキングピンクの携帯を開いて差し出してきた。
「……」
 千鶴は無言でそれを受け取ると、開いた携帯の両端を持って力任せに逆側に折り曲げた。
バキッ!
固いものが折れる音がして、割れたプラスチックの破片のようなものが一片け、二片け飛び散る。
 真ん中から折れ曲がり、かろうじてワイヤーのようなものでつながっている元携帯を、千鶴はマリに返して立ち上がった。
 マリはポカンと口を開け、元携帯と千鶴を見比べて……
「ちょっ…!ちょっと何するのよアンタ!弁償してよ!弁償!これは仕事用の携帯でお客さんのデータだって…!」
掴みかからんばかりに詰め寄ってきたマリを、千鶴は両手で押しのけた。
「請求書は沖田さ……夫に送ってください」
そう言い捨てて千鶴は歩き出す。
 後ろで何かが割れる音とマリが怒鳴っているのが聞こえてきたが、千鶴は気にせずレジに行くと、財布から一万円をだしてウェイターに手渡した。
「これであそこの席のお金を払ってください。お釣りはいりません」
『お、お客様……』というウェイターの戸惑った声にも振り向かず、千鶴は荷物を持って驚きながらもドアを開けてくれている別のウェイターに会釈をすると、喫茶店を出た。
と、出たすぐの壁に背の高い男の人が寄りかかるようにして立っていて……
「……沖田さん…」
そこに寄りかかって面白そうにニヤニヤしていたのは総司だった。
腕を組んでリラックスして、まるで楽しいお芝居を観覧しているようなその態度に、千鶴はムッとする。
「……来てたならどうして……」
あの席にきて助けてくれなかったのかと文句を言うと、総司は楽しそうに言った。
「僕なんて無しでも全然大丈夫そうだったからさ」
からかうようなその言葉に、千鶴は更にムッとして総司を睨んだ。
そしてドサドサッと持っていた荷物を総司に押し付ける。
「……じゃあこれぐらい持ってください」
「わわっ」
 急に渡された大荷物に、総司はバランスをとろうと慌てた。ツンとしたまま歩き出す千鶴を追いかけて総司が笑いながら言う。
「なんでそんなに怒ってるのさ?僕の事信じでくれてるんでしょ?」
「……」
千鶴は総司を睨む。
「……信じていることと腹が立つことは別です……って誰かが言っていました」
前に自分がそれを言ったシチュエーションを思い出して、総司はとうとう声を出して笑い出した。
笑っている総司には構わず、千鶴はずんずんと歩き出す。
「ま、待って千鶴ちゃん。あーおかし…!千鶴ちゃんって力持ちだったんだね、ほんとビデオに撮っておくべきだった……あー、でも千鶴ちゃんに壊されちゃうかな……って千鶴ちゃん!ほら怒んないで。車で来たから一緒に帰ろ?駐車場こっち」
「沖田さんは荷物を持って車で一人で帰ってください。私は電車で帰ります」
総司の顔も見ないで歩く千鶴に、総司は笑いながら謝る。
「ごめん!ほんっとごめん。謝るからさ、ほら機嫌直して……千鶴ちゃんってば〜!」
                         

   



2012年3月発行
掲載誌:DEAREST


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