ナイショ





携帯の充電器、目薬、眼鏡ケース、メモ帳にペン立て……総司は、細々としたものを一つの場所に集めた。
 居間兼寝室の部屋はガランとして、部屋の真ん中に段ボールがいくつか転がっている。キッチンの道具や食材はすべて処分した。もう必要のないものだ。意外にたくさんの種類の道具がそろっていて、主にこれを使っていた女の子を自然と思い出してしまう。
総司は、無表情のまま後は捨てるだけになっているゴミ袋を見つめた。ビニールから透けて見えるのは、鍋にトングにお玉。まな板に食器。総司の視線はドーナッツ屋の景品であるマグカップに止まった。不燃物のゴミ袋に転がっているピンクと黄緑色のマグカップ。
 ちらりとそれを見たが、総司はそのまま目をそらし、戸棚を開けて捨て忘れがないかチェックをした。バタンバタンと戸棚を開けたり閉めたりする音が、がらんとした部屋に響く。キッチンでの処分し忘れがないことを確認して、総司はその足で洗面所へ向かった。窓のないそのスペースの電気をつけて、ここも最終チェックをする。作り付けの戸棚の中にも何もないことを確認して、続きのバスルームを覗き、総司は居間へもどろうと踵を返した。
 電気を消す寸前、きらりと何かが光った気がして総司は洗面台を見た。何が光ったのかと洗面台と壁の細い隙間を覗き込むと、奥に確かに何かが光っている。総司はもう一度キッチンに戻り、ゴミの中から菜箸を取り出すと、それで洗面台の横の奥に落ちている物を掻きだした。
でてきたものは、千鶴の髪留めだった。
キラキラしたラインストーンがついているバレッタ。そういえば少し前に、失くしてしまった、と言っていた。どうやら髪の長い女子は、髪をまとめて上げるものがないと風呂に入れないようで、あきらめないでずっと探していたっけ。こんな隙間に落ちていたのなら見つけられないのは当然だ。結局その時はバレッタは見つからず、千鶴はタオルで苦労して髪をまとめて風呂に入っていた。その姿は、それはそれでかわいくて総司は特にバレッタがなくなったことについては何とも思わなかったのだが。
千鶴の物はすべて処分して行こうと決めていた。
これから始まる生活には、彼女を思い出させる物は心を弱くするだけで何もいいことはない。
 けれども総司は、勝手なことに彼女には自分を思い出してほしかった。だから何か身に着けるものを……できれば指輪をあげたかった。変な期待をさせるのはいやなので、安いファッションリングでもいい。
彼女の中のルールのせいで、プレゼントはすることはできなかったが……
あの子は来るかな……
決して誘うつもりはなかったのに、昨日カフェで泣きそうな顔をして震えている彼女を見ていたら思いがけなく、本当に全く思いがけなく、言葉が勝手に口からこぼれた。
 彼女はポカンとしていた。
意味が分からなくて当然だろう。
あの一言だけでもし本当に来たら、それはそれでびっくりする。しかし総司は心の奥の奥では、彼女に来てほしいと思っていた。それはかなり投げやりな……笑ってしまいたくなるくらい愚かな選択。
 彼女にとっても自分にとってもそうだ。
まずは姉さんが発狂するな……
総司は髪をかき上げながら、クスリと笑った。居間に向かって歩きながら、もし彼女を連れて行ったらどうなるかを考えてみる。
 とりあえず仕事仲間からは総スカンだろう。母は……母は案外冷静なような気がする。彼女と自分の関係も、今みたいに時間的にも気持ち的にも余裕のある生活ではなくなる分、衝突も増えるのではないだろうか。
 そして最悪、『別れ』という選択になった場合、彼女に残るのは大学中退、家出の過去のみ。そうはさせない、と言い切れるほど、総司にも実家の現状はよくわかってはいない。今後の生活についても総司自身がわからないことだらけなのだ。彼女を安心させてあげたいけど、やはりそれは難しいだろう。
 となると、やはりベストなのは彼女をおいていくことだ。
散々考えに考えた末の結論で、どの角度から考えてみてもこの答えが正解だと思う。
 だからこそ昨日誘ってしまったのは失敗だった。
 しかしあの時は、そんな心配事項はどうでもいい、と思ったのだ。彼女とこれからの時間を一緒に過ごしていくことが一番自分にとって大事なことだと。
そして一晩開けて冷静になって、やっぱりまずかったって思ってるって……どんだけひよってるのかな、僕は。

総司は苦笑いをして、ガムテープで段ボールの蓋を閉じ始めた。
 もうすぐ引っ越し業者が来る。わずかな自分の服と研究用の本と教科書、資料。一人暮らしの男の引っ越しなんてこんなものだ。ベッドも机も掃除機もあの実家には必要ない。自分がここで暮らしたという事実は、これできれいさっぱり消え去るのだ。
今作業の手を止めると、ガラでもなく感傷的になってしまいそうで、総司は殊更段ボールだけを見てもくもくと荷積め作業を続けた。
 部屋も失くして、こちらで使っていた携帯も解約して、大学も辞めて…ここで積み上げてきた生活を全てクリアしたら、ここでの総司の存在も失くす事ができるのだろうか。
 こちらには自分の実家を知っている人は誰もいない。ここでできた友人たちとは、この先一生会うこともないだろう。すべて捨ててしまったら、それは彼らにとっては、自分という存在が消えるという意味になるのだろうか。  
目の前にいて触れることのできる肉体が無ければ、情報というのは曖昧でしばらく時がたてば霧散してしまう。そうやって思い出も消えていく事実は、実際にはあるだろう。
 思い出と情報と……『心』と……
総司は作業を続けながら、ぼんやりとまとまらない思考をもてあそんでいた。                   
心……気持ち…感情。楽しいと思ったこと、嬉しいと思ったこと、悲しかったこと、傷ついたこと、そして……好きだと感じたこと
これは情報でもないし思い出ともちょっと違う。
 ……これが一番しつこくてやっかいかな……
深い感情は、魂に刻み込まれるような気がする。一時忘れたように思えても、それは場所を変え時を代え何度も何度もよみがえる。そしてその度に同じ思いをするのだろう。 
彼女のむき出しの感情を受け止めた時に、初めて震えた心。
受け入れてもらえないことに対する、初めてのいら立ち。
十分に与えてもらっているのにもっともっとと求めてしまう思い。
「……っつっ!!」
ぼんやりしていたせいで、ガムテープのカッターで指を少しし切ってしまい、総司は我に返った。
そして未練たらたらな自分に再び苦笑いをする。
早くここを立った方がいい。
彼女が来たら来たで後悔するし、来なければ多分かなり……ヘコむ。いや、来ない方がいいというのは本心だ。だが……
 何度目になるかわからない、自分の感情のループに総司は溜息をついた。
その時、玄関のチャイムがなった。
総司は動きを止めて、玄関の方を見る。
引っ越し業者か……彼女か。
 時間的にはどちらでもあり得るのだが、総司は不思議なくらい『彼女だ』と確信していた。
 それはこれまでの迷いを一気に吹き飛ばすくらいの、強い確信だった。
総司はガムテープを置き、段ボールの横から立ち上がった。
もう一度チャイムが鳴る。
総司はゆっくりと玄関に向かって歩き出した。




千鶴と総司は、移動の途中で止まった格式あるホテルで、部屋の窓から雨に濡れる庭を見ていた。部屋の明かりはベッドサイドのスタンドのみで、部屋の隅から迫ってくる闇の中に千鶴の顔がぼんやりとうかんでいる。  
髪は乱れて、頬は心なしか紅潮して、着ているものは総司のシャツをはおっているだけ……         
散々総司と抱き合った後の余韻が、彼女を中から火照らせているのが見て取れた。もう自分のものだという満足感が、総司を満たす。この美しい繊細な存在すべてが自分のものだいうのが信じられない。一度は手放そうと考えた自分に驚くくらい、千鶴の存在は今の総司にとっては全てだった。
ふと千鶴が部屋の後ろを振り返った。
「お湯、たまったみたいですね」
「一緒に入ろうか」
総司がそう言うと、千鶴は「ダメです」と笑った。
「お風呂に二人で入ったら、どうなるかわかりますから」
「どうなるの?」
無邪気な顔をして聞いてくる総司を千鶴は軽く睨んだ。
「一人で入ってきます。あ……」
そう言って千鶴は自分の髪を触った。
「何か髪を上げるもの……何も持ってこなかったです。ホテルだからシャワーキャップがあるかな……」
独り言のようにそう言いながらバスルームへと向かう千鶴に、総司は思い出してジーンズの後ろポケットに手をつっこんだ。
「はい、これ」
総司から手渡されたものは、以前彼の部屋で失くしたと思っていたバレッタだった。
「これ……あれ?失くしたと……」
「引っ越しの準備してたらでてきたんだよ」
「そうなんですか…よかったです。あれ?でも、どうして持ってきてるんですか?」
思いもしなかった千鶴の質問に、総司は一瞬言葉に詰まった。
暫く視線を彷徨わせ、そしてにっこりと笑う。

「ナイショ」
                         






2012年3月発行
掲載誌:DEAREST


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