そして二人はいつまでも
……陰謀だ……!
薫は血が出るほど下唇を噛みしめた。
これは陰謀だ。くそっっ!だから俺は嫌だって言ったんだ……!
それなのにあいつらが……っ!!
くそっ!くそっ!くそっっ!!恨んでやる!一生恨んでやるからな……っ!!!
薫は心の中で、世の中すべてを罵り呪った。
にもかかわらず事態は淡々と進んでいき、薫のどんどんひどくなる罵詈雑言を聞き遂げてくれるような神様も、今日ここには当然見あたらない。
薫の呪いは虚しく秋の青空に吸い込まれていったのだった……
------------------当日朝5時40分------------------
千鶴は暗闇の中で一人、布団の中から部屋の隅、むき出しの木の梁の上にぼんやりと光る小さな青白い光を見つめていた。
何故かこの雪村の里の家に一匹だけ迷い込んで来た小さな蛍。
総司からもらったお腹の中の小さな命を、大事にして前向き歩いていこうとしている千鶴だが、この光を見ると思い出してつらくなる。
総司との最後の夏、蛍が舞い散る泉の中でかわした切ない約束。
優しい手つきと熱い吐息。
大きな温かい体。
とろけるような柔らかな愛撫……
まるで夢のような世界だった。
幸せな思い出であればあるほど、思い出すと胸を切られるように痛い。
もう会えない。
二度と会えない。
あの暖かい手で髪を梳いてもらうことも、不意打ちの口づけも、甘い笑顔も、拗ねた顔も……
昼間の内に何度も蛍を探して外に追い払おうとしたのだが、どうしても見つけることが出来なかった。
そして夜、ふと目を覚ますとひっそりと部屋の隅で瞬いている。そしてそれを見ると、夢うつつに千鶴は総司の事を思い出してしまうのだ。
そろそろ臨月に近い大きなお腹が重くて、千鶴は布団の上で姿勢を変えた。その途端お腹の中で赤ん坊が大きく蹴る。
「元気だして、私がいるから!」まだ生まれていない赤ん坊がそう言ってくれているような気がして、千鶴は微笑んだ。その瞬間目じりから暖かい涙がこぼれ……
千鶴はゆっくりと目を開けた。
見慣れない真白な天井をしばらくぼんやりと眺める。目じりからあふれた温かいものに意識を戻し、千鶴はゆっくりと起き上った。そして周りを見渡す。
そこはホテルの一室だった。大きなダブルベットに寝ているのは千鶴と……一歳半の千代。
すーっすーっと安定した寝息を立てて、ぷくぷくした手を布団の上にだして、安心したようによく眠っている。
今日は、留学期間が終了し日本に帰ってきた総司と千鶴の、結婚式の日だった。
都心から二時間程行った別荘地の湖の畔にあるこじんまりしたホテル。そこで今日の昼から千鶴は総司と結婚式をあげるのだ。
入籍は二年前に済んでおり二人は既に夫婦で姓も同じ、千代という娘も無事産まれているのだが、総司がアメリカへ留学していた都合上式はあげていなかった。
娘のウェディングドレスが見たいという父親である鋼道の声、式くらいはちゃんとあげるように言う親戚や友人たちの声、そして千鶴自身も一応女の子であるからして結婚式は挙げてみたいという希望。
それらのおかげで、総司の留学が終わり日本に帰って来ると、当然のように式をあげる準備が進んでいたのだった。
参列者のうち希望者には、式を挙げるホテルで前泊できるよう部屋をとってあり、千鶴と千代、総司はもちろん前泊してゆっくりと準備する予定だった…のだが。
今千鶴と千代の横のベッドは冷たいまま空っぽだった。
総司の仕事の都合でどうしても前泊ができず、総司だけ直接当日の始発新幹線で来ることになっていた。
だから寂しくて不安で、久しぶりにあんな夢を見たのかな……
千鶴は気持ちよさそうに眠っている千代の髪を耳にかけてあげながら、自分の涙を瞬きで乾かした。
今は二十一世紀で、総司もちゃんと生きていて、子供も元気で、今日は結婚式で。
不安になる要素は何一つないはずなのに、明け方見た妙にリアルな過去の夢のせいでいまだに胸が痛い。
今こうして娘の寝顔を見ている幸せな一日の始まりの方が実は夢で、もう一度目をつぶるとやっぱりあの雪村の里の固い布団の上で、一人で……
千鶴はそこまで考えると、ぎゅっと目を閉じて頭を振った。
もう結婚して二年になる。赤ちゃんもできて総司とも前世よりもずっとずっとわかりあえて理解している。一晩離れているだけでこんなに不安定になるような妻では、総司も心配だろう。
ちゃんとしないと…!
千鶴はそう思って目をあけて、ぎょっとした。
薄暗いホテルの部屋の隅、夢で見た場所と同じ壁に青白い小さな光が瞬いているのだ。
過去と今、夢と現実がごちゃまぜになって、千鶴の心臓がドクンッと大きく鳴った。
まさかそんな……と思いながら暗闇で目を凝らすと、それは蛍ではなくホテルの非常灯だった。
勘違いした自分がおかしくほっとするものの、抑えきれない胸騒ぎと不安を感じで、千鶴はとうとう携帯電話に震える手を伸ばした。
------------------当日朝6時10分------------------
総司は新幹線の中で座席に座ってホットの缶コーヒーの蓋を開けた。と、ジーンズの後ろポケットにあった携帯が振動する。
デッキに出ようかと思ったが、始発新幹線のその車両にはほとんど人がいなく、総司は座席に座ったまま携帯に出た。
「千鶴?」
『はい……。あの今大丈夫でしたか?』
携帯の向こうから聞こえてきたのは、今日正式に式をあげる総司の妻、千鶴の可愛らしい声だった。
一晩会えなかっただけなのに妙に懐かしく恋しい。
自分の気持ちに呆れて、苦笑いしながら総司はコーヒーを一口口に含んで答えた。
「うん。今新幹線乗ったとこ。接続にもよるけど9時ごろにはそっちに着けると思うよ。」
『そうですか、よかったです…』
なんだか元気のない千鶴の声に、総司は少しだけ眉根をしかめた。
「……どうしたの?何かあった?すごい早起きだけね?千代が熱でもだした?親族の誰かが…」
『あ、違うんです。すいません、こんな時間に電話をしたら心配させちゃうかなって思ったんですけど、つい……』
総司は千鶴の言葉に小さく溜息をついて優しく微笑んだ。
「じゃあ…怖い夢を見た?」
『……』
「あたりだね。大丈夫?」
『……すいません……』
きっと顔を赤らめて俯いているだろう妻を想像して、総司の笑みは更に優しくなる。
「最近は減ったけど、前は結構千鶴、明け方にすり寄ってきてたからね。睫を濡らしてさ」
『……知ってたんですか…』
「もちろん」
千鶴のことなら何でも知っている。
明け方、多分前世でのつらい夢をみて、隣で総司が眠っているのを確認してほっとしていることも知っていた。そして確認するようにすり寄ってくる千鶴を胸に抱きしめるのが、総司は大好きだった。かわいくて愛しくて温かくて……
総司も安心する。ちゃんと天女が自分の腕の中にいてくれることを確認して。
「一晩離れただけで寂しくなっちゃうんだ?」
からかうように言う総司に、電話の向こうの千鶴は無言だった。顔を真っ赤にしている千鶴を想像して総司は声に出して笑う。
「あと少しで着くからさ。……大丈夫だよ、僕はここにいる。今度は君を一人になんてしないから。一生離さないよ。」
「覚悟して」。そう続けると電話口の向こうの千鶴は少し笑った。
『……はい』
笑みを含んだ口調でいう妻に、悪夢が祓えたことを感じで総司はほっと安堵の溜息をついた。
☆つづく☆