沖田家の日常
大学の講義が休講だったせいで千鶴は金曜日の午後の2時という早い時間に家に帰ってきた。
京都駅の近く、総司の実家がもっている高級マンションだ。
今日は平日だし家に帰っても誰もいないのはず……なのだが、鍵をあけて玄関を見た千鶴は目を瞬いた。
そこには大きなサイズのスニーカーがあったのだ。
「……」
千鶴はリビングをうかがいながら玄関のカギを締め、急いで靴を脱ぐ。
「……総司さん?」
リビングのドアを開けながら千鶴が見渡すと、大きなソファの上にジーンズに包まれた長い足が出ているのが見えた。
「総司さん!」
千鶴が嬉しそうにソファを覗き込む。
「……お帰り」
寝転んで雑誌を読んでいた総司は、ちらりと視線を千鶴に向けた。
「総司さん帰ってきてらしたんですか?来週の木曜日まではこっちに来られないって言ってたのに?」
千鶴は嬉しそうににっこり笑い、ソファから離れてカバンを置きに行く。そして急いでリビングに戻り、広いソファの空いている所に座り、総司の顔を覗き込む。
「いつまでこっちにいられるんですか?」
「……月曜の朝に実家に行こうかと思ってたんだけどね…」
「え!そんなにいられるんですか?」
千鶴の表情がパッと明るくなる。総司はその顔を眺めて考え込んだ。
「……電話があったんだけど」
唐突な総司の言葉に千鶴は目をぱちくりさせた。
「え?」
「男から電話があった。君あてに」
千鶴は居間の出口あたりにおいてある家電話を見た。自分がいないときにかかってきた電話に総司がでてくれたのだろう。
「そうですか。誰からですか?」
「……同じクラスのなんとかってヤツ。名前は忘れた」
「……」
そう言ってまた雑誌に目をおとした総司を見て、千鶴はようやくピンときた。そして溜息をつく。
「……要件はなんだったんですか?」
「なんか土曜日に一緒に買い物行く約束してるんだって?待ち合わせ場所と時間を決めたいって伝えておいてくれってさ」
「で、総司さんはまたやきもちを焼いてるんですね?」
「……僕が京都に帰ってきてまずかったんじゃない?」
「もう!」
千鶴は怒ると、総司の雑誌を取り上げた。
「大学祭の買い出し係になったんです。紙コップとか紙皿とかもろもろを大量に注文しないといけないんです。遊びじゃありませんから!」
総司の表情は、千鶴の言葉を聞いて少しだけ和らいだ。ソファの上で体を少しだけ起こして千鶴を見る。
「二人きりで行くの?」
「そ、それは…そうですけど……。私が結婚しているのはクラスのみんなも知ってますし、その人も当然知ってます。普通のクラスメイトですよ?」
総司はしばらく考えてから溜息をつき、髪をかき上げた。
「で、僕は明日はほっとかれるんだ?」
「それはだから……今週末は総司さんが帰ってこないって言ってたからちょうどいいかと思って予定をいれちゃったんです。2,3時間で終わると思うので、それまでいい子で待っていてください。ね?」
千鶴がソファに身を乗り出して、背もたれに寄りかかっている総司に近づきにっこり笑ってそう言うと、総司はまた溜息をついた。
「……なんか余裕だね」
「そりゃあさすがにあれだけいろいろありましたから」
何が余裕なのか、何がいろいろあったのか、お互いによーーーくわかっている。
総司は苦笑いすると、降参というように片手をあげ、その手をこちらに乗り出してきている千鶴の肩にまわした。
総司にひきよせられるまま千鶴も彼に寄りかかるように寄り添う。
「……おかえりなさい」
一週間ぶりの夫の顔を至近距離で見つめながら、千鶴は柔らかく微笑んでそう言った。
「ただいま」
総司も微笑んでそう言うと、ゆっくりと唇をよせる。
合わさった唇を味わう様に、総司はゆっくりと何度も何度もキスを交わした。千鶴の細い腕が総司の首にまわされると、総司は彼女を抱え上げて自分の膝の上にのせ、本格的にキスを深めた。
「んっ……そ、総司さん…ん…私、帰ってきたばっかりで……」
千鶴の薄い紫のブラウスをウエストから引っ張り出している総司の手を抑えて千鶴が言うと、総司は唇を離した。その目は何か素敵なことを思いついたようにキラキラしている。
「いいこと思いついたよ」
嫌な予感しかしない千鶴は、張り付いた微笑のままで総司を見る。
「浮気だろうとそうじゃなかろうと、僕を放って男とでかけるのは事実でしょ?」
「……それは…まぁそうですけど……」
「だからさ、アレやってよ。前からお願いしているのにやってくれなかったやつ」
千鶴は不審気に眉をひそめた。何のことを言っているのかわからない。アレとは?
わかっていない千鶴に、総司はじれったそうに言葉を足した。
「アレだよ。千鶴ちゃんの実家から君の荷物をこっちに引き上げるときにさ……」
千鶴の実家から総司と一緒に住む京都駅近くマンションへの引っ越し当日
「これで終り?」
総司がガランとした千鶴の部屋を見渡して言うと、千鶴はうなずいた。
引っ越しパックを頼んでいたため、引っ越しトラックが行ってしまうと後は特にやることがなかった。薫は総司と顔を合わせたくないのか朝から出かけてしまっているし、鋼道は仕事でいない。
机やベッドは総司のマンションにもうすでにあるので、全て実家において行く。
忘れ物がないか千鶴が机の引き出しを開けて確かめている後ろで、空っぽのクローゼットを覗き込んでいた総司が声をあげた。
「これ!これ忘れてるよ!」
その声の勢いに、大事な物を持って行き忘れたかと千鶴も総司の傍に近寄ってクローゼットの中を見た。ほとんどからっぽのその中にブランとぶらさがっていたのは……
「高校の制服?」
「そうだよ!これは持って行くべきでしょう!なんでこんな大事な物……!あー見つけてよかった!」
総司はそういいながらハンガーにかけられた千鶴の紺色のブレザーとスカートを取り出した。唖然としている千鶴をよそに、総司はクローゼットの下に置いてあったフィッツケースを開ける。
「靴下は?やっぱり白だよね。ハイソックスってもうあっちの方に詰めた?」
空っぽのフィッツケースを見て心配そうに千鶴に聞いてくる。
「……あの、すごく言いづらいんですけど、それ何に使うんですか?高校の制服ですよ?」
千鶴が恐る恐る聞くと、総司は天使の笑顔で振り向いた。
「ん?それを聞く?」
「……」
本能が聞かない方がいいと告げていたので、千鶴は無言で首を横に振った。
そしてその制服は当然のように総司の車に積み込まれ、京都駅近くの二人の新居に持ち込まれたのだった。
「アレ、お願いしてるのに全然着てくれないでしょう?」
至近距離でにっこりとほほ笑まれ、千鶴は笑顔のまま固まった。
「……だって着る必要性が…」
「だからさ、傷ついた夫がお願いしてるってのは充分な必要性にならない?着てくれて、楽しいことさせてくれたら、明日君がいない間もそれを思い出してなんとか乗り切れると思うんだよね」
「た、楽しいこと……」
「わかるよね?でもまぁそれは最後でいいよ。まず普通に見たいんだよ千鶴ちゃんの制服姿が!」
駄々をこねるように足をバタバタさせて言う総司は子どものようでかわいいが、言っている内容は子どもからは程遠い。
「だっだって私もう20歳超えてて、絶対似合わないですよ。アンバランスというか……」
「それがいいんじゃない!」
ものすごい勢いで言われて、千鶴は再び目をぱちくりさせた。
「清らかな包装紙につつまれた熟れた果実……食べたいなぁ……」
夢見るようにうっとりとしている総司から、千鶴はそっと離れようとする。が、がっしりと手を掴まれてしまった。
「着てくれるよね?」
黒い笑顔と呼ばれる顔でにっこりとほほ笑まれて、千鶴は催眠術にかかったようにぎこちなく頷くことしかできなかった。
「千鶴ちゃん!!かわいいっっ!かわいいよっ!あ、あっち向いて!カメラ目線じゃないのも欲しいから!」
スマホでパシャパシャと写真を撮られながら、千鶴は遠い目をして総司の指示通りのポーズをとる。
体型がほとんど変わっていない千鶴には、高校の時の制服はぴったりだった。白のハイソックスはなかったので冬用の黒のニーハイを履いている。
「次後姿撮りたいから窓の方見て!」
もう抵抗するのも疲れた千鶴は、機械的に体の向きを言われた通りに変えた。
今夜総司さんが寝たら、スマホの写真削除しよう……
しかしパスワードがわからない。しかしこのまま放置してスマホをどこかに落としたり写真を誰かに見られたら千鶴はもう生きていけない。
前から変態だと自分で言っていた総司だが、千鶴は聞き流していた。
しかし千鶴が制服を着た途端、総司の目の輝きがさらに増した。女性の自分でも制服……学校に限らず仕事の制服も……を着た男性は素敵だと思うし、スーツをきた総司にはドキドキする。それを思えば総司の反応はわからなくはない……が、総司の視線には何分かなりの性的な意味が含まれているような気がして、千鶴は居心地が悪かった。例えて言えばいつとびかかって来るかわからないネコを前にしたネズミの気分というか……。それに制服姿の女性をかわいいと思う男性はたくさんいるだろうが、実際に彼女に制服を着させる男性はたくさんいるのだろうか。どちらにしてもこの写真が流出したら千鶴は社会的に抹殺されてしまう(普通は総司もだが、彼は気にしなさそうだ)。
千鶴はあれこれと頭をフル回転させて対策を考えていた。
そしてその夕飯は当然のように千鶴は制服のままで家で作った。総司はそれを楽しそうにソファから眺めている。
「エプロンつけたほうがよくない?」とわざわざ自らエプロンまで持ってきてくれた。
そして二人で一緒に食べて、片付けて、当然のようにソファにおいでと言われて、キスをして……ゆっくりと千鶴は制服のリボンを外された。
次に千鶴が目覚めたのは薄暗い寝室だった。隣には裸の総司が気持ちよさそうに眠っていて、足元にはくしゃくしゃになった千鶴の制服。
総司の首にかけてある皮ひものネックレスを見て千鶴は小さく微笑んだ。その先端にはこの前二人で買った結婚指輪がぶらさがっている。
千鶴はこのまま眠ってしまいたい誘惑をふりきって、眠っている総司の耳元に唇を寄せた。
「総司さん……」
「ん……」
「総司さん?」
「んー……何……」
寝返りを打ってこちらを向いて、無意識のまま抱きしめようと伸ばしてくる総司の腕をよけて千鶴はもう一度ささやいた。
「携帯のパスワード、何ですか?」
「……けいたい……」
「そうです。スマホの」
「ん……〇〇〇〇――……」
千鶴は総司が完全に寝付いたのを待って、ベッドをそっと抜け降りた。忍び足でリビングまで行き、ダイニングテーブルに置いてあった総司のスマホを手に取る。
『着てくれて、楽しいことさせてくれれば……』
その二つはもうちゃんとした。明日は大手を振って出かけられるはずだ。明日データが消えているのを発見した総司は怒るだろうが、消してしまえばもうどうしようもない。
総司とつきあうようになって千鶴もちゃんと成長しているのだ。やられっぱなしなどではない。
液晶の光だけが灯る暗い居間で、新妻は夫の携帯の中に入っている自分の制服姿の写真を全て削除していったのだった。
★マークはありませんよ〜^_^