【Baby Baby
Baby】SAMPLE
千鶴は千からもらった美人絵をぱらぱらと見ながら溜息をついた。
新選組屯所の離れにある千鶴の一人部屋には、西向きの腰窓から午後の遅い光がさしこんでいる。
千鶴は美人絵の一つを手に持ち、光があたるようにしてもう一度よく見てみた。
確かにきれいだし、髪型もかわいいし、着物もおしゃれだけれども………千鶴には無理だ。だって新選組の屯所に軟禁されて、さらに男装までしているのだから。
でもこの美人絵にでてくるような女性が、男の人が魅力的だと思う女性で、魅力的だと思って欲しいのならこういう恰好をしなくてはいけないのだ。そこでいつも考えは止まってしまう。
こんな恰好は状況的にできなくて。
そうなると魅力的とは思ってもらえなくて。
そうなるとこの日本は戦乱の世へとつきすすむことになり、無駄に血が流れてしまうのだ。
三段論法の最後の一文だけが妙に突きぬけているが、薫の説明によるとそういうことになるのだ。
千鶴はまた溜息をついた。
人が無駄に死んでいくのを見るのはいやだ。新選組に捕えられた最初の夜、あの時に千鶴を襲ってきた羅刹だって元は普通の青年達だったのだ。物騒な世を収めるために新選組が出来て、そこに入り、隊規を破ったせいであんな薬を飲まされ化け物になってしまい、しまいには仲間の手で殺されてしまった。彼らにだって親兄弟がいただろう。心配している友達だっていたに違いない。
あんな人達をこれ以上増やさないためにも、千鶴が頑張るしかない、という薫の言う事はわかる。わかるのだが……
そこで千鶴部屋の反対側へ視線を移した。少し離れたところに投げ出してある本……春画本を恐る恐る手に取る。美人絵は千からもらったのだが、春画本は薫から渡されたもの。
先ほど中を見た時はそのあまりの内容に驚いて「ぎゃっ」と叫んで放り投げてしまったのだ。
……でも見なくてはいけない。
千鶴はぎゅっと唇を噛むと、恐る恐る本をめくった。ここは千鶴の部屋だから覗き込むような人はいないにもかかわらず、大きく開くのがなぜかはばかられて、そっと。
タコに襲われてる……
そこに描いてあったのはタコに襲われて喘いでいる裸の女性だった。
「……」
いくらそういうことに疎い千鶴でも、自分がタコに襲われなくてはいけないとは思っていない。実際にタコが性的な意味で女性を襲うかどうかもどうでもいい。
ただ、問題はこういうものを男性が好んで見ている、ということなのだ。
こんなのが好きな男性と、なんやかやできるのだろうか?何故こんなものが好きなのかまるで理解できないのに、その男性と心を通わせることができるとは思えない。いや別に夫婦になるわけではないので心を通わせる必要はないのかもしれないが、しかしそういうことをするにはやはり、ある程度相手の考えている事がわからないとうまく行かないのではないだろうか。経験がないので全て想像だが……
何をやるのかというと、要は『誘惑』とでもいえばいいのだろうか。
薫の作戦によると、適当な男性をなんとか誘惑して千鶴と子どもと作ってもらわなくてはいけないのだ、何故か。
いや、何故かはわかっている。日本が戦乱の世へつきすすむことをさけるため。無駄に血が流れるのをさけるため。
そのためには千鶴が、男性を誘惑して、赤ちゃんとつくらなくてはならない……ということらしい。
まず、女性としての魅力で男性を誘惑する―――屯所に軟禁状態かつ男装をしなくてはいけないので不利。
次にその気になった男性と春画本で見たあれこれをする―――経験がないためとにかくやってみないことにはわからず、これも不利。
赤ちゃんが産まれてくるには十月十日かかるのだ。早く仕込まなくてはいけないのはわかっている。だからこそ千と君菊に事情を話して、誘惑の仕方を教えてもらったりしたのだが、どうにもこうにも最初の一歩をどう踏み出せばいいのかがわからないのだ。
いや、正直に言おう。
勇気がないのだ。人選はもう済んでいる。いろんな方面から多角的に考えて、今の状況で子づくりを頼めてなおかつその後についても後腐れなくあっさりと別れてくれそうな人はあの人しかいない。
しかしその人はいつも千鶴をいじめていて…いやからかっているのかもしれないが、どう逆立ちしても『誘惑』などという雰囲気にもっていけそうもないのだ。その人自身も、他の隊士と違ってあまり女好きでは無いようで、新八や左之のように島原に毎晩繰り出すなどということもない。近所の子どもと遊び、剣の鍛錬をして、巡察をこなす……こう書くとものすごいクリーンな好青年のようだが、千鶴を楽しそうに苛めている彼は真逆である。でも、だからこそ誘惑などする余地もなくて……
千鶴は何度目かの溜息をついた。
これでは本当に堂々巡りだ。もう充分に悩んだ。本当に本当に平和な世の中になってほしいと思っているのなら、次に起こすべきは行動だ。
千鶴はきっとまなじりを上げて立ち上がった。
「きゃあああああ!!!いやああああああああ!」
集会所の裏から聞こえてきた千鶴の悲鳴に、井戸端で稽古後の水浴びをしていた平助と新八、左之は顔を見合わせた。もの問いたげな新八の顔に、平助が呆れたように肩をすくめて答える。
「総司だろ、どうせ。また千鶴にちょっかいかけてるんじゃねえ?」
「あいつも好きだよなあ」
左之が手ぬぐいで頭をわしわしと拭きながら言う。平助も手ぬぐいで首筋を拭きながら答えた。
「なんでああ千鶴の嫌がることばっかやるのか、俺わかんねえよ。総司けっこう千鶴のこと気に入ってると思うんだけど」
左之がニヤリと笑う。
「気に入ってるからいじめちゃう〜ってやつだろ」
「そうなのか?」
新八の問いに左之は肩をすくめた。
「さあね。どこまで本気かはわかんねえけど、あいつが自分から話しかけていく女子なんて千鶴ぐれえだろ。総司自身が気づいてるのかどうか知らねえけどよ」
平助は最後に手ぬぐいをパン!と振って水けを飛ばしてから背伸びをした。
「あのままじゃいつか千鶴に本気で嫌われてしょんぼりするんじゃねーか?」
「お、賭けるか?俺は…そうだな嫌われない方に飲み会一回!」
「え!?何それ飲み会一回って?おごりってこと?」
慌てる平助に左之がうなずく。新八も面白うそうにニヤリと笑うと、腕を組んで考えを巡らせた。
「じゃあ〜……俺は嫌われる方に飲み会一回!」
「ええ〜!新八っつあんも参加?じゃあ俺は俺は〜うーん、総司はひどいけど千鶴は優しいからなあ……嫌わなそうな気もするけど、でも結構ひどいことしてるからなアイツ……よし!じゃあおれも新八っつあんと同じで嫌われる方に飲み会一回!」
左之が嬉しそうに目をきらめかせた。
「お?じゃあもし俺が買ったら飲み会二回分おごってもらえるわけだな?」
「何言ってんだよ。俺と新八っつあんで一回分の飲み会代をワリカンにするってことに決まってるじゃん」
「なんだそりゃ、じゃあ俺が負けたら二人分払うのかよ!」
ごちになります!という声と、笑い声が井戸の周りに響いた初夏の昼下がりだった。
「沖田さん!!取って!取って下さい!!」
千鶴は必死になって総司に自分の頭を差し出した。そこには一匹の小さなトカゲがキョトンとした顔で乗っている。
頭を変に動かすと、首のあたりから服の中に落ちてしまいそうだし、かといって自分の手で触れないし……で、千鶴は不自然に背筋をのばした良い姿勢のまま総司につめよる。
「あっはははは!君の頭の上があったかくて気持ちいいみたいだよ。もう少しそのままにしておいてあげれば?」
総司はといえば迫ってくる千鶴を軽くかわして逃げ回り、その隙に千鶴の頭を指差して大笑いだ。
「おっ沖田さん〜!あっ!動いた!いやああ!ほんとに嫌いなんです!取ってください!!!」
とうとう涙をにじませながら怒り出した千鶴に、笑い疲れた総司はようやく近寄った。
「そんなに嫌がることないじゃない。ほら、緑色できれいだよ?」
総司はそう言って千鶴の頭からトカゲを取り上げると、ひょいと彼女の目の前へ差し出した。
「ぎゃああああ!!!」
驚いてのけぞり、千鶴は地面に尻もちをついた。それを見て総司がまた笑う。
お尻が痛いのと、笑われたのと、トカゲが気持ち悪いのとで、千鶴の怒りは爆発した。
「もう!もうもう!沖田さんなんか嫌いです!もう沖田さんはやめます!頼もうと思ってたけど他の人にします!」
怒りに任せて口から出た言葉に、千鶴自身が驚いた。
しまった!と思い自分の口を両手で抑えたが後の祭り。すでに総司の目は興味深げにキランと輝いてこちらを見ていた。
「やめる?何の話?」
妙に静かな声が逆に怖い。千鶴は言葉に詰まった。総司はかまわず続ける。
「『他の人にする』……ねえ……。なんのことかなあ?心あたりは特にないんだけど……。ね?千鶴ちゃん何の話?何か面白いことでもあるの?」
「……何もありません」
「『頼もうと思ってた』って言ったでしょ?僕に何を頼もうと思ってたの?」
尻もちをついている千鶴の前に、総司はひょいと座り顔を覗き込んでくる。強迫のつもりなのか右手には先ほどのトカゲも持って構えている。
千鶴は横目でトカゲをみながら、最後の抵抗を試みた。
「……知りません」
「知らないわけないよね?他の人も知ってるの?聞いてこようか……」
「しっ知りません!他の人は誰も……!」
言いかけて、千鶴は気づいた。総司の表情はしてやったり、と微笑んでいる。ひっかけられたと唇を噛む千鶴を後目に、総司は楽しそうにさらに追及する。
「ふうん?皆は知らないんだ。僕だけかあ、光栄だな。ぜひとも知りたいね。何を頼もうと思ってたのさ?」
「……」
総司が右手のトカゲをずいっと千鶴の顔に近づけた。
「きゃあああ!やっやめてください!」
千鶴は後ずさって、勢いでよろめきながら立ち上がった。その拍子にピンとひらめく。
「あ、あの、言います!『頼みたいこと』を言いますので……今夜私の部屋まで来ていただけないでしょうか?」
総司はキョトンとした顔で立ち上がった。
「今夜?なんで今は言えないの?」
「……それも今夜話します」
「なんでわざわざあんな離れにある君の部屋までいかないといけないのさ」
「……その理由もあわせてお話しますので」
頑なな千鶴に、さらに好奇心がそそられたのか総司は楽しそうに微笑んだ。
「ふうん……まあいいか。じゃあ今夜君の部屋に行けばわかるんだね?」
蜘蛛の巣というにはあまりにもつたない罠だが、なんとか獲物がかかってくれた。
「……楽しみにしてるよ」
去り際に流し目でにやりと笑ってそう言った総司の顔を見て、千鶴はどちらが獲物かわからなくなった。
しかし、もう後戻りはできない。つきすすむだけだ。
千鶴はドキドキしながらうなずいた。