【HeartBreaker 1】 ※SAMPLE※




「まだ残ってたのかね」
聞き覚えのある声に、千鶴は苦笑いをしながら振り向いた。暗くなった会社のエントランスの非常灯の中に、見覚えのあるシルエットが浮かび上がる。
「大久保のおじ様」
「いかんよ、嫁入り前の娘がこんな遅くまで仕事をしてちゃあ。さ、送って行くから乗っていきなさい」
「でも……」
とまどう千鶴に、大久保は優しく言った。
「君を小さなころから見てきているからね。本当に父親のような気分なんだよ。君の本当の父親の綱道さんは研究で忙しいから、僕がせめて君の心配くらいはしなくちゃ。さぁ」
車のキーを見せながら茶目っ気のある顔でそういう大久保のふくよかな顔に、千鶴はあきらめたように笑った。

「……もう帰ろうと思ってたんです。じゃあ、お言葉に甘えて……。近くの駅まで」
小さいころからよく遊んでもらったり入学祝いをもらったり。大久保は千鶴にとって父の旧友というよりも親戚のおじさんというくらい身近な存在だった。可愛がってもらっている分逆らえない。
「いかんいかん。こんな美人さんが夜ひとりで帰るなんて! 女房に怒られる。家まで送って行くよ」

この様子では、もう一度オフィスに戻るのなんて許してもらえそうにない。千鶴は返しに行こうと思っていた焼却炉の鍵を黒いコートのポケットに滑り込ませた。これまでも何度か家まで鍵を持ち帰ったことはある。明日返せば大丈夫だろう。そして千鶴は、ベビーピンクのマフラーを巻きなおして大久保の背中を小走りで追いかけた。
 千鶴の父、綱道の事業は、薬品の研究開発を主な業務としている研究開発専門の会社だった。そのため機密書類や扱いに注意が必要な薬品が日々大量にゴミとなり、それの捨て場所として自社に巨大で強力な焼却能力を持つ焼却炉を持っているのだ。そしてそこに入るための鍵と指紋認証登録がされているのは、千鶴と綱道、そして綱道の旧くからの友人で共同経営者の数人のみだった。


 エントランス前に停められていた大久保の車の助手席に千鶴が乗ると、大久保はすぐにエンジンをかけた。社屋から門までの道をゆっくりと運転しながら他愛もない話をする。
「今日はうちは鍋でね。早く帰ってこいって女房から言われてるんだ」
「いいですね。一人だと鍋はできないですから、うらやましいです」
「はやく結婚しなさいよ。千鶴ちゃんこの間二十歳になったんだったかい? 君なら相手はよりどりみどりだろ」
「ふふっ、残念ながら全然そんな話ないんです」
 研究施設も兼ねた巨大なビルは、残業の社員もたくさんいるのだろう、まだあちこちに電気がついていた。大久保は一度車を停めてゲートを開けるためのリモコンを車の中から操作する。ゆっくりと上へと上がりだす分厚い鋼鉄の門を見ながら、千鶴はいつも思うことをまた思った。

 

……たしかに新薬の開発には莫大なお金が絡むし重要機密だとは思うけど……。ここまで厳重にする必要が本当にあるのかな……

 

「ん?」
千鶴の思考は大久保の不審げな声に妨げられた。
ゲートの方へと目をやると、開いたゲートの下の隙間から身をかがめて誰かがするりと入ってくるのが見える。
暗くてよく見えないが、背が高く……男性のようだ。
「守衛は何をやってるんだ……!」
大久保が車の外に出ようとする前に、その影はスッと大久保の車に近寄り運転席側の窓をコンコンとたたいた。

 門灯の青白い光に一瞬浮かんだその顔はドキリとするほど整っていた。
千鶴は思わず見入る。
 涼しげな眼差しにすっきりと通った鼻筋、いくらか冷たそうな唇が甘い顔を引き立たせている。さらりとした薄い色の髪が、車を覗き込んだ動きで男の綺麗な目にかかった。

暗くてよくわからないが、黒っぽいタートルに濃い色のナイロンのコートらしきものを羽織った、かなりカジュアルな格好で、白衣かスーツ姿しか見ないこの会社の中では異質だ。
 大久保は舌打ちをしながらパワーウィンドウを下げて文句を言う。
「おい! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ! 社員の迎えがないものは勝手に入れんのだ! まったく、守衛に言われな……」

ぶしゅ!

妙に水っぽい音とともに、大久保の言葉は途切れた。
奇妙な音に驚いて振り向いた千鶴の見ている前で、ゆらりと大久保の大きな背中が崩れる。
 千鶴は、何が起こっているのか理解できず唖然としたまま声も出せずに固まっていた。そんな千鶴には視線も送らずに、外の男は開いている窓から手を入れてドアのロックをはずし、大久保の襟首を掴んで車外に引きずり出した。
そしてそのまま、まるでゴミのように大久保を道路に投げ捨てる。
 千鶴にちらりと見えた大久保の胸には、じわじわと赤黒いシミが染み出しており、大久保の表情は目を大きく開いたまま止まっていた。

千鶴が目を見開いて見ている前で、その男は千鶴の隣の運転席に乗り込むとドアを閉め、エンジンをふかした。

 ゲートは、既定の時間を過ぎても車が出庫しなかったため、けたたましいアラーム音を発しながら再び上からゆっくりと下がり始めていた。異常事態を察知したのか社屋の方から警備員や社員たちが走ってくるのがサイドミラー越しに見える。

 何が起こっているのか、この隣で平然とエンジンを確かめている若い男が誰なのか、大久保がどうなったのか、千鶴にはまったくわからなかったが、このままここに座っていてはいけないということだけはわかった。はっと我に返り、千鶴は、機械仕掛けのように鍵を開けようと助手席のドアに飛びついた。

その時、千鶴の後頭部に冷たく固いものがあたる。

「……動かないで。動くと撃つよ」

言葉もなく固まっている千鶴に、その男はまた言った。
「前を見て座って、シートベルトをして」
艶のある、魅力的な声で、妙に優しく言うその言葉に、千鶴は動けなかった。
 シートベルト! と男は苛立たしげに繰り返したが、千鶴は体がこわばって動けない。シートベルトを締めようとしない千鶴に男は溜息をつき、身を乗り出して千鶴側のシートベルトを引っ張る。
 千鶴は、自分の胸の前の至近距離でふと見上げたその男と視線があった。

状況に不似合いな微笑を浮かべたその目は、茶色の長い睫にきれいに囲まれて、凍えるような緑色だった。

 

ぶしゅっ! ぶしゅっ!
車を停めようと前に走り出してくる警備員たちを、その男は表情一つ変えずに銃で撃った。妙な音がするのは銃の先端についているもののせいだろう。

 

消音機なのかな……

 

妙に現実感がなく、ふわふわと浮いているような気分でぼんやりと千鶴はそんなことを考えていた。

その男はエンジンを何度かふかすと一気にアクセルを踏み込む。車に何か重いものが――多分人間が――ぶつかる音と衝撃が、何度も車内に響く。
 もう、いったい何人に怪我をさせたのか、何人社員が死んだのか千鶴にはわからなかった。暗い門灯に照らされて、アスファルトにまき散らされている黒いものは、多分社員たちの血。千鶴が茫然とそれを見ていると、車が急発進した。そのせいで千鶴はガクンッ! とのけぞりシートに後頭部をぶつける。

はっとして見た目の前には、降りてきている最中の分厚いゲート。車はさらに速度を増しゲートに突っ込んでいく。

 

あたる……!

 

千鶴は思わず目をぎゅっとつぶり首をすくめた。

ガガガガガッ!

車の天井を擦るすざましい音が車内に響き渡ったのは一瞬で、次にはもう千鶴の乗った車は門の外を走っていた。  サイドミラーの中、ぐんぐん遠ざかる会社のゲートの前に誰かが倒れているのが見える。たぶん守衛のおじさんで、この男に殺されたのだろう。
朝と帰りにいつも千鶴ににこにこと挨拶をしてくれる気のよさそうなおじさんだった。
 次々と起こる衝撃に、千鶴の心の一部は完全にマヒしたようになっていて、もう胸も痛まなかった。



綱道の会社は東北の地方都市にあり、研究のために広い敷地が必要だった。そのため街中よりは少し外れたところにある。民家は少なく畑や野原が多くて、すぐ裏は山になっている。
 その中を銀色のセダンは音もなく猛スピードで走って行く。

「……さてと、なんとか脱出したはいいけど、小さな街だしこのままだとすぐ脚がついちゃうね……」
なんでもないようにつぶやく隣の男を、千鶴は恐る恐る見た。

 薄茶色のあちこち跳ねた髪、悪戯っぽく光る緑の瞳、状況にそぐわない、まるで楽しんでいるような表情が、子供のみたいな無邪気さを与えている。しかし体は細見ながらもがっしりと筋肉質で背が高く、彼が大人であることを表していた。黒いレザーの手袋に黒のタートル、ブラックジーンズと黒ずくめの全身だが、カーキ色の厚手のナイロンコートとこげ茶のごついワークブーツだけが色を添えている。

 違う状況なら、素敵な人と言っていいくらい華やかな、色気のある風貌だった。だが今の千鶴にはそれが逆に恐怖を煽る。
 ふと自分の手に視線をやると小さな赤い点が甲についていた。それを見た千鶴の心臓が固まる。

 

……血……。大久保のおじ様の……。

 

大久保は死んだのだろうか。あの、車から引きずり出された様子は、既にこと切れていたようだった。
 それに何人もの警備員や社員たち……。この男に撃たれた人も車にあてられた人も無事ですんだとはとても思えない。

千鶴は胸が詰まって息が苦しくなった。
何を聞こうか、何から聞けばいいのか千鶴が言葉を探していると、男は車をゆっくりとドラッグストアの広い駐車場に入れて、停めた。

「そのまま座ってるんだよ」
逆らうことを許さないその声に、千鶴が助手席で固まったままでいると、男は車を降りて助手席まで回り込みドアをあけて千鶴の手をとった。
「行くよ。逃げようとしたら……わかってるよね?」
 傍から見たらまるで恋人同士のように、愛おしそうに千鶴のウエストに回した彼の手には、外からは見えないよう千鶴の黒いウールのコートの下に隠れて、銀色に鈍く光る銃が握られていた。彼の背の高さのせいですっぽりと包まれるようになってしまう千鶴には、逃げることなど無理だった。そのまま彼は千鶴をつれて近くの地下鉄の駅まで歩くと、地方都市の中では一番の繁華街までの切符を千鶴に買わせて、地下鉄に乗った。

 地下鉄を降り、パチンコ店で駐車場に停められていたパイクとメットを盗み……。もういくつの犯罪行為を犯したか数え切れなくなった頃、バイクは千鶴の会社とはかなり離れたところにある四階建ての小規模なビルに停まった。  

その男はジーンズのポケットから鍵を取り出し、真っ暗に静まり返ったビルのシャッターをあけると、千鶴を促しバイクを中に入れた。外からバイクが見えないのように再びシャッターを閉め、男は千鶴の手首を痛いくらいの力で掴むと屋内にあるエレベーターで三階まで昇る。


「このビルは僕の仲間のビルでね。好きに使っていいって言われてるんだ」
彼の言葉に組織的なものを感じて、千鶴は恐怖におびえる瞳でその男を見た。単なる気がふれた男がしでかしたことならば、恐ろしいながらも隙もあるはずだ。そこをついてなんとか逃げ出せないかと考えていたことは無駄だったことになる。会社を襲ったこと、そこからの逃避行、隠れ場所の確保。すべて計算づくだとしたら自分が逃げる隙など許さないくらいの完璧さだった。

 「……なぜ……。なんのために……?」
エレベーターを降りようとせず立ちすくんだまま青ざめて聞く千鶴を、その男は冷たい緑の瞳で見た。そして千鶴の腕を乱暴に引っ張ってエレベーターから引きずり出す。
「ほら、部屋に入って」
 エレベーターの先にある茶色のドアを開けると、人が住んでいる気配はないがそこは住居になっていた。
 そこに放り込むように乱暴に引っ張られて、千鶴はせめてもの抵抗で腕を振り払った。男は特に怒りもせずに面白そうな顔をして、千鶴にはかまわず黒の皮手袋を脱ぎながら部屋の奥へと入って行く。
 電気をつけると、部屋の突き当たりは一面ガラス張りの大きな窓になっていた。
 高台にあるそのビルからはガラスの向こう遠くに町の灯りがきらめいて見える。
それを背景に、男はゆっくりと千鶴に振り返った。

彼の表情に、千鶴の背筋に寒いものが走る。
微笑ながらその男がポケットから取り出したのは……

 ジャックナイフ。

パチンと音を立てて刃をたてるそれを、千鶴は固まったまま見入っていた。
男は相変わらず柔らかく微笑みながらジャックナイフをきらめかせて近づいてきた。千鶴は思わず後ずさる。
「……な、何を……っ!」
言いかけた千鶴に向かって、その男は刃を向けた。千鶴の手の甲に熱い痛みが走る。

ぽたぽたと赤い滴が滴り落ち、フローリングに赤い水玉模様を作った。

千鶴は茫然と自分の血を眺め、青ざめた顔でゆっくりと視線を男へと移す。

恐怖と痛みで頭の芯がしびれたようになった千鶴を、興味深そうに男は見ていた。

「……へぇ?まだ傷は治らないんだ」

男が何を言っているのか千鶴にはわからず、彼は本当に狂っているのではないのかと千鶴は思った。

「……『血のマリア』」

何も答えない千鶴に、その男は歌うように続ける。

「二十年後に君はそう呼ばれて、体力、知力共に人間を圧倒する羅刹の頂点に立っているんだよ」

 

二十年後……? らせつ……? 何を言ってるの?

 

千鶴の表情を見て、男は楽しそうに笑った。
「僕の事、狂ってると思ってる?違うよ、本当に狂ってるのは二十年後の世界。このままじゃ人間はきっと羅刹に食い尽くされて全滅する」
そして脇の戸棚を開けると、千鶴に白いタオルを投げてよこした。
「ほら、それで血を抑えて。まだ変異してないとはいえそんな危険物をまき散らされると迷惑だよ」

そして、また窓へと歩いて行き、出窓部分に腰をかけて千鶴を見る。
「……僕の名前は沖田総司。君を殺すために二十年後の未来から来たんだよ」


 茫然と、手をタオルで押さえながら彼を見上げる千鶴の大きな瞳には、彼の背中越しに見えるまるでナイフの様な三日月が映っていた。







**** 以下続く ****