「あっ」
フォークから外れたスパゲッティが、黒い液体をまき散らして跳ねた。
ピッと黒い水滴が千鶴の白い肌に飛ぶ。
「あー……」
トマトソースのスパゲッティを食べていた総司は、面白そうに千鶴を見た。
「だから紙ナフキンをつければって言ったのに」
「……」
千鶴は自分の服を見下ろした。
初めてのデートで迷いに迷っておしゃれをした水玉のワンピースと薄いグレーのカーディガンに小さな黒い点がついている。
「……ほんとでした……」
スパゲッティのソースを飛ばすことなんて他のホワイトソースやトマトソースでもなかったし、気を付けて食べれば大丈夫かと思った。
だって、あの白い紙ナフキンは……なんだか子どものようだしつけている姿は魅力的とは正反対だし。
退院してすぐの総司との初デートでつけるのには抵抗があったのだ。もっと、つきあって三年とかそんな仲なら、勧められた通り紙ナフキンを付けたと思う。
しかしホワイトソースよりもトマトソースよりも、イカスミソースはさらさらでよく跳ねた。気を付けながら、最新の注意で食べていたのだが、最後の最後で跳ねてしまった。
「まあ、これも経験ってことで。……ついてるよ」
総司はそう言うと、手をのばした。
「えっ」
驚いている千鶴の頬を、親指で拭う。
千鶴は全身の神経が頬に集まったように感じた。頬が熱くなって総司の顔が見られない。
三週間の入院中に八回。それ以外の時間でのツイッターでの会話。
今日の総司との初デートの前の二人の関係はそれだけだった。
『はじめまして』
術後久しぶりの固形食での朝食のあと、総司はそう言って突然病室に現れた。
ポカンと口を開けて固まっている千鶴に、総司は楽しそうに笑う。
『事前に連絡したほうがいいかなっておもったんだけど、アカウント消しちゃってるからできなくてさ』
総司は『会えてよかった』とほほ笑むと、枕元にある椅子を指さした。『いい?』
コクコクとうなずく千鶴に総司はほほ笑んだまま椅子に座った。そして千鶴の体調を聞いたり、入院の様子を聞いたり普通の会話を続ける。
手術前にツイッターで告白をした千鶴は、いつその話題が出るかとびくびくしていたのだが、総司はもう一度ツイッターのアカウントを復活させる方法を話して、あっさりそのまま帰ってしまった。
その次も、その次のお見舞いの時も同じで、個人的な話や今後の予定についてつっこんで聞かれることはなく、そうなると千鶴の方もどうしてお見舞いに来てくれるんですかとか、ツイッターでの自分の告白についてどう思ったかなんて聞きにくい。
ツイッターでは以前と同じように、総司が今日あったことや猫の写真を送ってくれたりして、千鶴がぽつぽつとつぶやく通常運転で、前と同じ楽しくて気楽な関係が続いた。
総司は千鶴の体調を気遣ってくれていて、退院を知らせるととても喜んでくれた。
そして退院から一か月後、デートに誘われた。
『体力もついてきたみたいだし、食事ぐらいならいけるかな?今度の週末、約束してたイカスミスパゲッティを食べに行かない?』
食事だけだぞ、疲れたらすぐに帰ってこい、人ごみには行くなよ、とうるさい薫をいなして、ようやくの初デートが今日だった。
手をつなぐなんてもちろんないし、会話もしぐさもまるで友達のよう。
……遠まわしに断られてるのかな?でも、それならわざわざお見舞いとかデートとか誘わないよね?友達から始めてみようかってことなのかなあ。
よくわからないけれど、一度はあきらめた総司とのイカスミスパゲッティデートができて、千鶴は嬉しかった。
彼氏もいなくて手術も成功するかどうかわからなくて。そもそも好きな人自体いなかったのに、今日はその人と待ち合わせてデートなんてしているのだ。
シンプルな黒のシャツとブルージーンズの総司の隣を歩くのは、街中の女の人の注目を浴びているような気がして恥ずかしかった。けれども総司は当然ながら慣れているようで、気にせずいつも通りに千鶴に話しかける。
今だって、何も気にしていないのか平気で頬に触れてきたし。
意識してるのは私だけなのかなと、千鶴はまた赤くなる。
「そこにもついてるよ」
総司が指さすところを千鶴は慌てて見た。「え?どこですか?」こんなに食べハネをつけるなんて子どもみたいで恥ずかしい!と千鶴は必死で探す。
「ああ、千鶴ちゃんには見えないかな、ここだよ」
総司は向かいの席で腰を浮かすと、千鶴の首筋から鎖骨にかけて指でなぞった。
あ……っ!
千鶴がその感覚に抑えきれず、びくんと反応する。胸の音がどきどきとうるさい。
ああ、絶対この音聞こえてる…顔だってたぶん真っ赤だし。
ごまかしようもなく視線をそらせて、何を言えばいいのかと千鶴が困っていると、総司が言った。
「コーヒーか何か飲む?デザートもおいしいらしいよ、ここ」
千鶴の動揺した素振りを見ないふりをして優しくフォローしてくれた総司に、千鶴はほっとした。
「え、えーと……じゃあ、頼んでみます」
「僕も頼もう。ケーキにする?パンケーキもあるけど」
「えっ、パンケーキはもうさすがに入らないです」
「半分こにするって手もあるよ?」
気軽な会話に流れてくれて、千鶴はほっとした。
「あの、すいません。ごちそうになっちゃって……ありがとうございました。おいしかったです」
店のドアを開けてくれた総司にお礼を言って、イタリア料理店を出る。
「いいえ。僕が誘ったんだしね。イカスミ、おいしかったでしょ」
「はい、とっても!」
千鶴がイカスミのおいしさを思い出して笑顔で総司を見上げると、総司もほほ笑んでくれた。
「疲れた?」
「いえ、大丈夫です」
「どこか遊びに行きたいけど、君のお兄さんもうるさいし、まだ一回目だしね。送ってくよ」
「すいません……ありがとうございます」
一回目ってことは次があるのかな……?嬉しいな。
千鶴がご機嫌で歩き出そうとすると、総司がふと気が付いたように言った。
「千鶴ちゃん、イカスミ、まだついてた。そこ」
指さされたところはやっぱり千鶴には見えないところで、総司が指を伸ばす。鎖骨の上あたりだ。
「そんなところまで跳ねてたんですね、恥ずかしい……とれましたか?」
「ん……あれ?とれにくいな。かわいちゃったのかな?」
総司の親指の腹が何度も触れて、千鶴はピリピリとわからない感覚が全身を巡るのを我慢した。総司が体をかがめて、その場所を覗き込んだ。
ふわりと総司のシャンプーの匂いが香り、驚くほど近くに総司の顔が見えて、千鶴は固くなった。
「ああ、ごめん。これほくろだね」
総司が笑って謝る。顔をあげて、至近距離で千鶴と目があった。
わっ……!目が……きれい……
濃い茶色のまつ毛に囲まれた緑の澄んだ瞳が千鶴を見ている。その明るい緑色がふっと濃くなると、あれ……と思っている間にぐんぐん近づいてきて、千鶴のくちびるに柔らかいものが触れた。
「……」
ふれあったのはほんの一瞬で、総司のくちびるが離れるのを、千鶴はぼんやりとみていた。伏せられていた茶色のまつ毛がゆっくりと上がり、どんぐりまなこの千鶴の黒い目と目があう。
総司はほほ笑んだ。
「……早すぎた?」
一回目のデートで、という意味だろう。頭が真っ白になっていた千鶴は、その分総司の言葉の意味がすぐにわかった。
これは……どう答えればいいんだろう?『はい』でも『いいえ』でも今の千鶴の気持ちをすっきりとあらわしているとは言えない。
「……びっくり、しました」
「びっくりだけ?怒ってない?嫌じゃなかった?」
「お、怒ってないです。嫌とかも……その……全然ないです」
「そう、よかった」
総司はそう言うと、腕を伸ばして千鶴の腰に回した。引き寄せられて、抵抗する余裕もなくさらに総司との距離はゼロになり、今度は本格的にキスをされる。
またもや固まっている千鶴に、唇を話した総司は楽しそうに言った。
「大丈夫、僕、そんなに手が早い方じゃないから安心して」
これが、『手が早い』んじゃないんなら、『手が早い』っていうのは一体どんな状況なんだろう……
千鶴はぼんやりとそう思った。
【終】