【インターネットの普及に伴う無線LANの標準仕様及びそれがもたらす出会いと恋について】
現パロ。沖田さん、千鶴ちゃんともに社会人。
「えーっと、バッファロー……これかな?わいふぁいたいおうむせんえるえーえぬるーたー……うん多分これでいいんだよね」
千鶴は手に持ったその黒い箱のようなものに、ケーブルをカチリとはめた。そして一人用の小さなこたつ机に散らばっている紙をガサガサとあさる。
「えっと……これでもうパソコンを立ち上げればいいのかな?よいしょっと……あ、つながった!よかった!」
千鶴はダンボールがごろごろと転がっている部屋の中で一人でバンザイをした。
引越ししたその夜。
とりあえずインターネットに繋げないと、近くのお店も病院もわからないし、と千鶴は取るものもとりあえず買ったばかりの機器を設定した。もともとそういうメカメカしたものは苦手な上に、最近の技術の進歩がはやくてちんぷんかんぷんだが、会社の人や友達にきいたころ、わいふぁいるーたーというものを使うのが一番簡単だということだったのだ。
無事ネットにもつながり、とりあえずの衣食住の荷物だけほどいて、その夜は引越しの疲れもあった千鶴はそうそうに眠りについた。明日も仕事だ。
部屋の本格的な片付けは、週末まで待つしかない。忙しいは忙しいけれど、新しく引っ越したマンションはインターネット環境完備だしセントラルヒーティングだし、エントランスでのセキュリティチェックもあるし、部屋はワンルームだけどきれいで使いやすい間取りだし、すべてが順調に思えた。
が。
次の朝、出勤の準備を整えて、そろそろ出ようかと思っていたとき、『ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン!』と明らかに苛立っていそうなチャイム音が聞こえてきて、千鶴はあわてて玄関の扉をあけた。
目の前に立っていたのは、スーツにベージュのコートを着た、背の高い若い男性だ。かなり整った顔立ちで、スタイルもよく、普通の時だったら千鶴も思わず目で追ってしまいそうな人だったのだが、今、彼の顔は不機嫌そうに歪められていた。
「あの……?」
「隣の者だけど」
声も艶やかで色っぽい。しかし口調はかなりトゲトゲしかった。
「なんなの?君。勝手に僕のネット環境使わないでくれる?」
唐突にそう言われて、千鶴はドアを開けたまま目をまたたいた。「は、い?」
「多分、君んところの端末だと思うんだけど、僕の無線ルータに勝手に接続してるんだよね」
「え?え!?そうなんですか?」
千鶴が驚くと、沖田と名乗った隣りに住む青年は首をかしげて観察するように彼女を緑の瞳で見た。
「……あんまり詳しくない?」
「は、はい。すいません。すぐに……すぐに接続をやめるようにします!……でも、どうやればいいんでしょう?」
「知らないよ。誰か詳しい人にでも聞けば?とにかく、今日中に出て行ってくれる?」
「はい!すいません!」
慌ててペコリと頭を下げた千鶴を見もせずに、沖田は背を向けてエレベーターの方へと歩いて行ってしまった。
あとに残された千鶴は青ざめながら考える。
隣りの……沖田さん?だっけ?のおうちのネット環境を勝手に使ってる……ってどういう意味だろう?昨日の夜インターネットを見たのは、あれはとなりのおうちから見たの??ちゃんと私もその『むせんるーたー』っていうの買ったと思うんだけど、間違ったのを買っちゃったのかもしれない。
となりのおうちのネット環境から、私のパソコンを外すってことだと思うんだけど、実際に線でつながってるわけじゃないしどうやってつながったのかもわからないのに、どうやって外せばいいんだろう……
まっっったくわからない。何をどこから調べればいいのかもわからない。
千鶴は途方にくれながら佇んでいたのだった。
その夜。
千鶴がダンボールを開けて探し物をしていると、チャイムが鳴った。
待ち人来たりかと思い慌てて玄関をあけると、そこに立っていたのは待ち人ではなかった。
「……隣の人……」
「こんばんは。沖田って名前があるんだけど。沖田総司」
いらっとした光が緑の瞳をよぎり、千鶴は慌てて謝った。
「は、はい!すいません。沖田さん。あの、例の件、ですよ、ね?」
「そう。だらだらと長引くのも嫌だし……」
沖田はそう言いながらふと後ろに気配を感じて言葉を止めた。振り向くと、廊下のあかりが暗くてよくわからないが男性の人影がこちらに向かって歩いてきている。それを見た千鶴の顔が、「あ」と、その人影に心当たりがあるような表情になったのを見て、沖田は悟った。
「ああ、なんだ。ちゃんと人に頼んだんだね。どうせできないだろうから、上げてもらえるなら僕がやろうかと思ってきたんだけど……って、あれ?」
そう言いかけて、暗闇の中から現れた男性の顔を見て総司は言葉を止めた。
「……斎藤君?」
素っ頓狂な驚きの声。斎藤も驚いたように目を見開いた。「……総司?」
沖田は、斎藤と見て、千鶴を見て、そして「ふーん……」と意味ありげにつぶやいた。
「なんだ、彼女できたの?いつの間に?」
とんだ誤解に千鶴は慌てて訂正しようとした。しかしその前に斎藤が答える。
「彼女などではない。家が近い同僚というだけだ。会社でいろいろ聞かれてな。お前と同じマンションだとは思っていたがまさか『早朝からいきなりチャイムを連打した怒り狂った隣人』がお前だったとは」
沖田は、斎藤の言った自分を表す表現(千鶴がそう斎藤に言ったのだろう)を聞いて、横目で彼女を見る。千鶴は視線を反らせて小さくなっていた。沖田は肩をすくめた。
「……まあいいよ。斎藤君ならちゃんとこの子の家とうちの家とセグメント分けてくれるだろうし」
そこで、千鶴がさきほどから疑問に思っていたことを聞く。
「あの……お二人はお知り合いなんでしょうか?」
斎藤と沖田は同時に頷いた。答えたのは斎藤だ。「同じ大学だった」
沖田は「じゃあ」と言って一歩後ろに下がる。
「お邪魔みたいだし、僕は……」
そう言って隣の部屋に行こうとした沖田に、千鶴がおずおずと声をかけた。
「あの……斎藤さんのお礼にと思ってケーキをいくつか買ってきてあるんです。ご迷惑をおかけしてしまいましたし、もし甘いものが嫌いでなければ……」
そう言って千鶴はドアを大きく開けた。
「……どこのケーキ?」
「え?えーと、ケーニヒスクローネのですけど……」
「じゃ、お邪魔しよっかな」
会社帰りの斎藤と沖田のコートを千鶴は受け取る。が、引越ししたての千鶴の家にはハンガーがないので、綺麗そうなダンボールの上にまとめて置いた。
「じゃあ、僕がケーキとお茶担当してるから、君たちちゃっちゃとパソコンとルーターの設定やっちゃってよ」
同じ間取りの上、先に住んでいるせいでキッチンの使い方にも慣れている沖田は、勝手に冷蔵庫を開け始めた。
「うわー、なんにも入ってない」
「…すいません、まだ料理ができる環境じゃなくて……」
千鶴は慌ててキッチンに行く。
「あの、コップとお皿とフォークはさっきダンボールの中から見つけたんで……」
「コーヒーメーカもあるし、お茶はもらえそうだな。斎藤君の方は大丈夫?」
沖田と一緒に千鶴は、今度は斎藤のいる方へと向かう。
斎藤は千鶴のパソコンに向かってなにやら設定をしていた。
「確かに総司の環境に入ってしまっているな。同じLAN内のコンピューターになってしまっているということだ」
「はあ……」
よくわかっていない千鶴に、斎藤は説明をする。
「会社でもそうだろう?共有フォルダを使えばとなりのパソコンの中身も見れる。ここにパソコンのアイコンがあるが、これが隣の部屋にある総司のパソコンだ。そしてここにあるルータの識別IDは千鶴のではない。ということは総司の家にあるルータ経由で、千鶴のパソコンはインターネットにつながってしまっているのだ。だからこのパソコンの指定ルータを、千鶴が購入したルータへ変更すればいい。……ルータのIDとパスワードは?」
「……?IDとパスワード、ですか?」
「そうだ。同梱されていなかったか?」
「ルータの箱の中にですか?」
たくさん紙があって、どれのことだかわからない。だが、無事インターネットにつながったのだからもういいだろうと思って昨日確か……
「あーあったあった」
その声に振り向くと、いつの間にかキッチンに行っていた沖田が、ゴミ箱の中から何やら紙を取り出していた。
「くしゃくしゃになって捨てられてたよ。…はい、斎藤君」
「す、すいません……」
よくわからないが大事な紙だったらしい。千鶴は赤くなってうつむいた。
以降、斎藤はちゃっちゃか設定を済ませ、沖田確認の上、無事二人のネットワークは分断されたようだった。
ちぐはぐな食器で皆にお茶をだしケーキを食べてもらい、千鶴は再度、沖田には謝罪、斎藤にはお礼を言う。
そうしてすべての問題は解決した。
かに思えたのだが。
次の日の夜。
夕飯も食べ、ある程度ダンボールを片付け、風呂に入り寝る前にインターネットを見ようと千鶴がパソコンをつけると。
ピコン!という音と共に、見たこともない小さなダイアログが画面の右上に現れた。
中に文字が書いてある。
『お帰り!』
「……なんだろ、これ……」
突然のことに千鶴が固まっていると、またポップアップでダイアログボックスが表示される。
『あれ?返事くれないの?』
どうやら千鶴に話しかけているらしい。しかもリアルタイムで。
気持ち悪くなって、千鶴は部屋の中を見渡した。
まさかこの部屋には幽霊がいて、その幽霊はパソコンを使えて、とか……
まさかね、とは思いつつ千鶴はそのダイアログの返信らしきボタンを押した。『どなたでしょうか?』
するとすぐに返事が来た。
『ああ、ごめん。僕。沖田総司です。隣の』
「……」
千鶴の頭はわけがわからなくてパンク寸前だった。幽霊出ないのは良かったが、沖田が自分のパソコンに現れるのはなぜ?どうして自分がいまパソコンをしていると沖田にわかるのか?壁に穴があいてるとか……
『あの、沖田さん、これは一体なんでしょうか?どうして沖田さんが?』
どう聞けばいいかも分からず千鶴は曖昧に質問した。
今この状況の全てがわからない。
またピコン!と音がして返事が来る。
『君さ、いろんな意味でセキュリティが甘すぎるんだよね。マンションが提供してるインターネットを共用してるわけだからあんまり甘すぎると、迷惑なんだよ』
『セキュリティが甘いっていうのはどういう意味でしょうか?』
セキュリティが甘くない状況も千鶴にはわからない。でも迷惑をかけてしまうのならそれは直さなくてはいけないと千鶴は真面目に考えて質問した。
『そもそもさ、昨日斎藤君が設定してくれたそっちのルータのIDとPWを書いた紙、今どこにある?』
「……」
千鶴は視線を泳がせた。あの時斎藤にあの紙を渡して……そのあとどうしたか、正直なところ覚えていない。
千鶴は冷や汗を書きながら返事をした。
『すいません。どこにあるかわからないです』
『今、僕が手に持ってる』
「……え?」
思わず千鶴はそう呟いた。それにかぶせるように沖田からのメッセージ。
『だから、今度は僕が君んとこのLANにはいらせてもらった。このルータ設定を使わせてもらって』
『そんなことをしたら、パソコンが共有されちゃうって斎藤さん言ってませんでしたか?いいんですか?』
『僕の方が管理者権限をとったから、僕は君のパソコンを自由に管理できるけど君はできないんだよ』
「え、……ええ!?」
『これもIPメッセンジャーっていうフリーソフトで僕が君のパソコンにログインしてインストールさせてもらった。これからはインストールするのにも全部僕の許可がいるからね。ネットで拾ってきた怪しいソフトを勝手にインストールとかされたりしたら困るからさ』
「そ、そんな…」
『そんなの、困ります』
『そう?でも何が困るかも、君、よくわかってないでしょ?』
図星だ。でもなんとなくおかしいのはわかる。ここは千鶴の家で、千鶴のネットワーク環境なのに、なぜ隣人の沖田にあれやこれやと指示されないといけないのか。見られて困るようなことは多分しないと思うが、それでもプライバシーを侵害されているのには変わらないではないか。
『プライバシーの侵害です。すぐにやめてください』
『僕もいつまでもこのままにするつもりはないよ。君がちゃんと勉強して一人で僕の接続を切り離すことができるようになったら、抵抗せずに受け入れる。そういうことができるようになるころには、インストールしちゃいけないソフトとかやってはいけない設定とか、セキュリティソフトの使い方とか一定レベルの知識はできてるだろうし』
「そんな……」
『そんな、ひどいです!』
『ひどくないよ。勉強すればいいんでしょ。ネットならただで知識が転がってるんだから頑張ってみればいいじゃない』
『頑張るって……』
『あ、斎藤君には僕から言っておくから助けを求めてもダメだよ』
千鶴は口をあんぐり開けたまま固まるしかなかった。
驚きすぎて言葉も出ない、という状況はこういうことをいうのだろう。
『がんばってね』
というメッセージを、千鶴はぼんやりと見つめたのだった。
【(まだ始まったばかりだというのに)終】
Wi-Fiルータの混線…というか誤認識とか、マンションとか引越しとかそういうのを経験したことがない人にとってはなんのこっちゃの話ですいません。
きっとこのあと、千鶴ちゃんは勉強して見事沖田さんを切り離すことに成功するんですが、その頃には二人は両片想いになっていて、「僕のWi-Fiルータ、共用でもいいよ。部屋も共用しようか?」というところでハピエンになると思いますヽ(´▽`)/