【好きになったのは…】





 

 最初に好きになったのは声だった。

本棚の向こう側、周囲を気にしながら誰かが携帯電話で話している。その声がなんとなく千鶴の耳についた。
まるで艶やかな水の玉を転がしているようで、話し方がなんだかからかっているような楽しんでいるような華があって、どんな人が話しているんだろう、と気になってしまったのだ。

 

 飛び石のような時間割のせいで、いつも2時間から長いときは4時間くらい次の授業まで時間をつぶさなくてはいけなくて、家が大学から遠い千鶴は予習も兼ねて大学の図書館で過ごしていた。図書館の一番奥、つきあたりだと普通は思う壁まで行ってそこで右をみるとさらにスペースがある。中庭がガラス越しに見えて、勉強や読書用の机が置いてあるが誰も気づかないのかあまり人がいなくて、たいていどこかの机が空いている。


 大学に入学してから半年以上が過ぎ、そのスペースを利用しているメンバーもだいだいいつも同じ。その中の一人の声を千鶴が聞き分けてしまうようになったのは、本当にそんな偶然からだった。

 


 本棚の後ろから出てきた人は、いつも千鶴とは通路を挟んだ斜め横、中庭が見えるガラスの前の机にこちらに背を向けて座っている人だった。千鶴と目があったその人は、携帯電話を持った手を軽く上げて、図書館の中で通話していたことを謝るように会釈をして自分の席に座った。すらりと背が高くて、垢抜けた印象。一目見て自分とは違う世界の人だと感じた。華やかで、きっと運動神経とかもよくて、なんでもスマートにこなして……。どちらかというと大人しい千鶴から見るとまぶしくて、そしてなんとなく苦手な人種だった。

 でも素敵な声……。

 彼は一人で図書館に来ていたので、声を聴くことはほとんどできなかった。しかしそのスペースを利用しているその他大勢の中からは確実に認識して、なんとなく来ていないと気になってしまうようになっていた。






 次に好きになったのは肩のライン。

千鶴の席から、ふと気分転換に中庭を見るといつもその人の後姿が目に入る。そうして見ているうちに、なんとなく首から肩にかけてのラインがとてもきれいだと感じるようになっていた。自分の薄くて丸いそれとは違って、角ばっていてがっしりしている。かといって筋肉質というわけではなくしなやかで滑らかで……。そして真ん中にくぼみのある広い背中。何かスポーツをやっていたのだろうか。姿勢が良くてパワーを秘めていそうな背中だった。男性の体についてそんなにマジマジと意識したのは千鶴は初めてで、これまで考えたこともなかったのに……と千鶴は自分で不思議だった。







 その次は手。

シャーペンをくるくると回す癖があるその人は、その長い指で器用にそれを回していた。大きくて節ばって、すこし浅黒いその手は時々柔らかそうな茶色の髪をかきあげたり、繊細なラインを描く顎にあてられたり……。千鶴がぼんやりと手の動きを見ていると、視線に気が付いたのかその人が振り向いたりすることもあった。そうすると千鶴は赤くなって慌てて顔をふせて勉強の続きにもどるのだった。

 

 ある日、また千鶴がぼんやりと、くるくるとシャーペンをまわしているその人の手を見るとはなしに見ていると、回し損ねたのかシャーペンが指にひっかかって床に落ち、千鶴の脚元に転がってきた。ずっと見ていた千鶴はすぐに気が付き、反射的にシャーペンを拾うとその人に渡そうと顔をあげた。そして後ろを振り向いてこちらを見た彼と目が正面から合う。


にっこりと緑の目を優しく微笑ませて、ありがとう、と言った彼に、千鶴は恋に落ちたのだった。


 もちろん恋に落ちたからと言って、彼とどうこうなろうという気は千鶴にはまったくなかった。あんなに素敵な人、もう彼女がいるだろうし、大人っぽいからかなり年上だろう。自分なんかが告白しても相手にもされないに違いない。それにどんな人かなんて全く知らないし……。
千鶴にしてみたら図書館で姿を見れるだけで十分、さらに何かの拍子に声まで聴けたらその一週間はそれでOK!というような典型的な片思いだった。しかし目で追っていれば当然相手も気が付く。何度か目が合うと、彼も千鶴のことをいつも図書館であう子だと認識しているのだろう、にっこりと笑顔で会釈してくれるようになった。千鶴も真っ赤になりながらも会釈を返す。ほんとうに稀に、学食や大学生協やキャンパスで歩いているときに見かける時があったが、そういうときも目が合うと会釈してくれるようになった。

 


 そんな些細なことでもう十分すぎる程胸が一杯の毎日だったのだが、そんなある日……。

 


その日は千鶴はお昼をまたいで図書館に居る日で、彼もいつものスケジュールだとそうだった。昼休みになると、図書館のその奥まったスペースに居たわずかな人達はみんな昼食に出てしまい、残されたのは千鶴と彼だけ。12時を30分ほど過ぎてそろそろ学食がすいたから行こうかな……と千鶴が席を立ったのと全く同じタイミングで、ガタガタッと音がして偶然にも彼も財布を持って席を立った。

 他に誰もいないスペースで、立ち上がった同士思わず目があう。自分でも驚くことに千鶴の口が勝手に動いた。
「……あ、あの……。お昼ですか?……一緒に……いかがですか?」
彼は本当に思いがけなかったみたいで、一瞬目をぱちくりさせて固まって……。そしてにっこり笑って言ってくれた。
「うん、行こうか」

 自分の横に並んだ背の高い彼に、千鶴がカチンコチンになっていたのだが、彼はそんなことを全く感じていないように楽しそうに歩きながら言った。
「それにしても、姫の方から誘ってくれるなんてね……。光栄だなぁ」
至近距離で聞こえてくる艶やかな、笑みを含んだ声に千鶴は頭が爆発しそうになりながらも、一生懸命彼の言葉を理解しようとする。
「……ヒメ……?」
「あ、ごめんごめん。つい……。名前なんて言うの?僕知らないよね?あ、僕は沖田。沖田総司って言います」
「ゆ、雪村千鶴と言います。頑張りますのでよろしくお願いします……!」
千鶴は頭に血が上りすぎて、自分でももう何を言っているのかわからなくなっていた。そんな千鶴の言葉に総司が吹きだす。
「ぶっ……!別にがんばらなくてもいいよ…!昼ごはん食べるだけだし。学食だよね?」
「はっはい!!すいません!」
「千鶴ちゃん、リラックスリラックス。急にこんなことになっちゃって僕も少し緊張してるけど、楽しくご飯食べよ?」

 総司の言葉に、千鶴は目を見開いた。かなりテンパっていた頭と心に総司の優しい表情と言葉がすぅっと入って行く。

 話したことのない人と初めてご飯を食べるのだから、どんな人だって少しは緊張するはずで、それを隠さないで自分も緊張していると言ってくれた総司のことを、千鶴は優しい人だと感じた。年上の余裕なのか、性格なのか、からかうようにしていても本当につらいことにはならないよう気を使ってくれているのを感じる。現に今だって何を話したらいいのか全くわからない千鶴のために、いろいろと話題をふってくれているのは総司の方だ。誘ったのは千鶴の方なのに……。

千鶴の変に固くなっていた強張りは、少しずつとれていく。
ずっと想っていた素敵な声や肩、緑の瞳がすぐそばにあって自分を見ていることには、照れて緊張してしまうが、千鶴は楽しく昼ごはんを食べることができたのだった。

 

 

 

 一緒にご飯を食べて、荷物を置いたままの図書館の元の席に二人で戻って。
またいつもの定位置で勉強を始める。
総司はちらりと携帯電話の時計を見て、30分くらいたったのを確認すると、そーっと後ろを振り向いた。

 図書館の机は、それぞれブースのようになっていて両端と前に衝立があり、勉強や読書している人が見にくくなっている。しかし総司の席は千鶴の横……少し斜め後ろのため、お互いに結構見える。

 時々伸びをしたり、横を向いて資料を読んだりすると、千鶴が総司の視界に入ってくるのだ。

 ……今日はどうかな……。

 後ろをそっと見た総司は、想像通りの光景に思わず吹き出した。笑い声が出そうになるのを、周りの人を気にして必死にこらえる。

千鶴は盛大に舟をこいで眠っていた。頭が机につくかと思うくらいすれすれに下がったかと思うと、ハッとして持ち直す。しばらくするとまたふら〜と、今度は通路側に倒れて……。あ、転ぶ……!と思う瞬間にまたもや持ち直す。
眠いのなら机に突っ伏して眠ればいいのに、彼女は必死に起きていようと頑張り、結果ふらふらと頭をゆらして時折夢の中に入り込んでいるのだ。
最初にそんな彼女を見たとき、総司はあまりにも盛大なふらつきように、わざとやっているのかとしばらく見つめたくらいだった。しかし、それが起こるのはたいてい彼女が昼ごはんを食べた30分後くらいから1時間ぐらいだし、それ以外の時間はとてもまじめで見た目や持ち物、服装も大人しい感じの、とてもわざとそんなふざけたことをしそうもない雰囲気だったため、これは天然なんだとわかったのだった。
彼女のその日課は、何の嫌味もなく心の底から面白かったので、総司はひそかに居眠りしている彼女を見るのが楽しみになっていた。


そしてこっそりつけたあだ名が……眠り姫。


 今日は姫はいるかな、眠るかな……。と図書館にいく小さな楽しみになっていた。他の机に座ってる人からは見えないので総司一人の楽しみで、昼ごはんが終わるとこっそり振り向いて楽しんでいた。もちろんただ楽しんでいただけではない。
ある日、いつもはスレスレで回避する机と千鶴のおでこが、とうとうゴツンッ!と痛そうな音がしてぶつかった。千鶴は一瞬目を開けたが、またすぐ夢の世界へと入り込んでしまう。総司は笑いをこらえながら席を立ちあがり、床に置いてあった彼女の布製のバッグを机の上に置いて、また机にぶつかりそうになった彼女の頭をそっと支えて、バックの上にゆっくりと、目を覚まさないようにのせてあげたのだった。千鶴は相変わらず目をさまさず、しかし安心したようにそのままバッグの上で眠り込んだ。

 起きた時、どうするのかな……。

総司が勉強もそこそこに千鶴が起きるのを楽しみにしていると、彼女がふっと頭をバッグから起こすのが視界の端に見えた。そのまま横目で様子をうかがっていると、彼女は不思議そうに机の上の自分のバッグを見て、首をかしげながらまたそれを床に戻して勉強に戻った。総司はどうしても笑いで肩が震えてしまうのをごまかすために、用もないのに席を立ったのだった。







 

 初めて一緒に昼ごはんを食べてから、何度か……、本当にたまに一緒に昼ごはんを食べた。学食で、だが。
そして挨拶はもちろん、会えば少し立ち話をするくらいにはなっていた。千鶴は本当に素直な、女の子らしい優しい子で、そのくせ時々おやっと思うような強いところを見せる。はかなげな外見とは裏腹に結構行動力があり、へんな度胸もあり……そして最初の印象どおり天然だった。総司がからかい、千鶴が天然でボケで、総司がつっこみ、千鶴が赤くなってかわいく怒って……という定型の会話パターンが出来上がっており、それは双方にとって心地のいいものだった。清楚な感じの外見も、サラサラの近頃珍しい黒髪も、それがよく映える黒目がちの大きな瞳も、華奢な、けれども女性らしい体つきも総司のお気に入りで、可愛がっていた。

 


 そして2月14日-------------。

 

ゼミの同級生やバイト先の知り合いなどから既にいくつかチョコレートをもらっていた総司は、本当に千鶴からチョコをもらうとは全く想像もしていなかった。自分のことを気に入ってくれているとはわかっていたが、そこまで真剣だとは気づいていなかったのだ。
もう高校生でもないし、今更チョコレートで告白はないでしょう、とほかの女性からもらった時はうまく義理チョコや冗談に紛れ込ますことができたが、目の前で震えているチョコレートには、何故かそういう対応はできなかった。

 ……しょうがない。あんまりイメージダウンはしたくなかったけど……。
 正直に本当のことを言って、相手が悪かったねって言って、断ればいいか…。
 笑顔でやれば、今後もあんまり気まずくはならないよね、多分……。


 「気持ちのこもらない体だけの関係なら、君だったら大歓迎なんだけどね」












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