【うちに来る?】







 

 


 すごい雨……。
千鶴はベッドの中で、うるさいくらいの雨の音に耳を傾けた。
『温かい空気が梅雨前線を刺激し……』。ニュースによると近畿地方は明日いっぱい大雨洪水警報が発令される見込みだった。府の北部のあたりは土砂崩れが発生し、避難している人々もいるらしい。

 千鶴は真っ暗な中、ベッドの頭のところに置いてあった携帯を開けてみる。

何度チェックしても新しいメールは入っていないかった。

 もう総司と会わなくなって二週間近くになる。一時は合鍵を使って一緒に夕ご飯を食べる時間をつくることができたけれど、学会がいよいよ近くなってくると、学会で共同発表する東京の大学の研究室へ総司は行ってしまったのだ。そのまま東京で開かれる学会に出席し、個人的な用もいくつかあるのでそれをすませてくる、と総司は出発する前に言っていた。いつ帰ってくるのかは教授の都合と個人的な要件の進み具合によるからなんとも言えない、とも。

 総司はもともとメールは要件のみの簡潔なものしかくれないため、この二週間全く消息がわからないままだった。東京にいるのはわかっているけど、東京のどこで何をしているのか。学会はもう終わったのか、個人的な用って?
聞きたいことはいろいろあるけれど、千鶴は彼女ではないし、詮索をしているように思われるのは嫌だったので自分からは聞かなかった。

 携帯に表示されている時計は、日付がもう変わってしまったことを表していた。これで二週間と一日、総司と全く合わない日が続いていることになる。
 千鶴は溜息をついて携帯を閉じると、枕に頭をうずめて瞳を閉じた。

 これ以上夜更かしすると明日の学校に影響がでちゃう……。雨だと薫にも送ってもらえないし……。

そう考えて千鶴は眠りにつこうとした。

 その時、携帯のメール着信音が千鶴の部屋に響いた。

ぱちっと目を開けて、飛びつくようにあわてて携帯を開けると、待ちわびた総司からのメールだった。

 

 


 『今、家についたよ。

 

  うちに来る?』

 

 

 

 千鶴は迷わず返信ボタンを押して、返事を送信した。

 『行きます。』

 飛び起きて適当に服をきると、財布と携帯だけをカバンに放り込んで下に降りる。今日は薫が友達と家飲みと言っていたので助かった。午前0時を過ぎているというのにまだリビングでビールを飲みながら新聞を読んでいた父に出かけてくることを告げ、千鶴はタクシーを呼んだ。

 


 家の玄関からタクシーまでのわずかな距離で、かなり濡れてしまった。
千鶴はハンカチも持ってくるのを忘れていたため、タクシーの中で手で髪をなでたり、服の水滴を払ったりする。

 まったくなんのためらいもなしに、千鶴の口からは一人暮らしをしている女友達の名前がついてでていた。彼女が風邪で熱をだし苦しんでいるらしいので、今から看病に行ってもいいか、と父の鋼道にいうと、医者である父は心配してすぐ行ってあげるように言ってくれた。

 父様に嘘ついちゃったな……。

もともと素直な優等生だった千鶴は、父親に嘘をつくような問題もあまり起こしたことはなかった。

 門限も、もう三回も破っちゃったし、嘘もついちゃったし……。それに明日の大学も、たぶん、サボることになると思うし…。

真面目な千鶴には、どれも総司とつきあいはじめてから初めてするようなことばかりだった。服も部屋着の延長のような服だし明日の教科書も何も持ってきていない。授業をさぼるなんて人生では初めてのことで、千鶴はかなりの罪悪感にさいなまされた。

 こんな時間に一人で家を出るのも初めてだし、そういえば私、タクシーに一人で乗るのも初めて……。

 総司と付き合い始めて自分はなんて変わってしまったんだろう。以前の、計画通りで建設的な毎日が嘘みたいだ。後ろめたいことなど一つもなくて、毎日がほぼ同じことの繰り返し。けれども千鶴は性格上そんな毎日が苦ではなかった。逆に予測可能な方が安心して過ごすことができる。その中で日々小さな楽しみを見つけ、ささやかに過ごしていく毎日は、千鶴にとっては十分に楽しく満足のいく日常だった。真面目に、いい子で、道を踏み外すことのない、あぶなげのない人生。

 でも。

千鶴は信号待ちをしているタクシーの窓から、外を眺めた。


ぽつんぽつんと灯る街灯。
雨と風で気持ち良さそうにうねる街路樹。
人気のない静かな住宅地。


雨のしずくが波のような模様をタクシーの窓につけている。
それに街灯がにじんで、信号の赤色がにじんで、まるで違う世界にいるかのようなとても幻想的な景色だった。

 

 恋をしなければ、きっとこんな景色、知らなかった。

 


 千鶴は飽きもせず、自分の吐息で曇るガラス越しに、外の景色を眺めていた。

 

 タクシーにお金を払い、総司のマンションに雨を避けて駆け込む。階段を四階まで登りながら、千鶴は妙に気おくれしていた。
誘ってくれたとはいえ、夜の12時過ぎだ。総司もきっと最終の新幹線で東京から帰ってきて、疲れているのではないだろうか。軽い社交辞令を本気にして飛びついてしまって、実は迷惑だったかもしれない…。
そんなことを思いながら、さらに濡れてしまった髪を手でなでつけながら、千鶴は総司の部屋のチャイムを鳴らした。

 鳴り終わる前に、ガチャッと音がして総司がドアを開ける。

 久しぶりに見る総司に、千鶴は少し照れてしまい、なんとなく顔が見れない。とりあえず挨拶をしようと口を開けると。

 「あ…」

 何も言わないうちに総司が乱暴に千鶴の腕をつかみ、引き寄せて中に入れ、ドアを閉めた。そのまま千鶴をぎゅっと抱きしめる。
千鶴の手は前に折りたたまれて総司の体との間に挟まれてしまっていたため、総司の背中に手をまわすわけにもいかず、そのままじっと抱きしめられていた。

 ひさしぶりの総司の匂いに深呼吸をして、彼の胸に頭をもたせかける。総司は鼻で千鶴の髪をかきわけるようにしてうなじに顔をうずめていた。

 「……雨の匂いがする……」

総司の言葉に千鶴は閉じていた目を開いた。

 「すごい雨で、ちょっと濡れちゃって……」

久しぶりで、総司に会ったらあれも話そうこれも話そうと思っていたのに、実際に話しているのは社交辞令のような天気の話…。千鶴はなんだかおかしくて、抱きしめられたまま総司を見上げた。先ほど玄関で顔をあわせたものの、至近距離でお互いの瞳を覗き込んだ二人は思わず息を詰めて見つめあう。総司の瞳は、緑色が濃くなって千鶴を見つめている。そしてどちらともなく、磁石があわさるように、柔らかく唇をよせた。

 初めはおずおずと、確かめるようなキスだったがすぐに貪るようなものにかわった。
「ん……」
千鶴の小さな呟きに、抱きしめる総司の腕に力が入る。千鶴はいつもは恥ずかしがってされるがままなのだが、今日は会いたかった気持ちが抑えきれなくて自分からもキスを求めて総司の熱い舌に自分から舌をからませた。そんな珍しい千鶴の仕草に煽られて、総司は歯止めが効かなくなった。


 「ごめん、ちょっと……我慢できない」

そう言うと、総司はその場で千鶴を押し倒した。千鶴は少し驚いたが、それよりも早く総司を感じたくて、背中をそらしながら切ない溜息をつき、総司の首に手をまわす。
熱い吐息とともに総司が千鶴のうなじに口づけをおとすと、抑えきれない甘い声が、千鶴の唇から洩れた。


 

 玄関の上り口に横たわったまま、千鶴はがっくりと力の抜けた総司の裸の背中をぼんやりと撫でた。いつもは重いだろうと、総司はすぐに千鶴から体を離すのだが、今日はまだ千鶴の中にいて、千鶴を抱きしめていた。

 千鶴の手の感触に、総司が顔をあげて千鶴の瞳を覗き込む。少し前髪がのびたようで、緑色の瞳に色素の薄い茶色の髪が幾筋かかかっている。すっきりした額に整った唇……。久しぶりに見る総司の顔を、千鶴は見惚れたように人差し指でそっとなぞる。

 「……そんな顔されると、また襲っちゃうよ」

総司は愛おしそうに千鶴を見て、千鶴の人差し指をそっと舐めた。
千鶴はまだ先ほどの余韻にひたっていて、放心したままぼんやりと言った。

 「……襲って……欲しいです……」

その言葉を聞いて、総司は震えるように溜息をついた。

 「千鶴ちゃん、それは、反則でしょう……。ああ……。もうたまんないな…」

総司が唇をよせようとしたとき、千鶴はふと気が付いた。

 「お、沖田さん……!玄関…!」
「え?」
「玄関の鍵、開いてます……!」

びっくりした総司は、目を瞬いた。一瞬何を言われたのか分からずしばらく千鶴の顔を見つめていたが、ようやく気が付いたように後ろを振り向く。確かに鍵は開いたままだった。誰でも入ってこれる状態でこんなことをしていた自分たちに呆れながら、しぶしぶ総司は体を離しジーンズをはくと、立ち上がって鍵をかけた。そして振り向いた総司は、千鶴を見て突然笑い出す。何事かと千鶴が起き上ると、総司は千鶴の足元を指差しながら言った。

 「千鶴ちゃん、靴……。はいたまま。僕、靴ぬがせる暇もなく襲っちゃったんだね」

見ると千鶴の足にはストラップははずれているものの、サンダルがまだしっかりとひっかかったままだった。
総司はしゃがみこみそれをぬがしてあげて、玄関に散らばっている千鶴のカバンや二人の脱ぎ散らかした服を集め、千鶴に手を差し出す。

「こんなにあせってたなんて、僕たちどれだけ飢えてたんだろうね」

本能のままに振る舞ってしまった自分達を思い出し、赤くなりながらも千鶴は服で体をかろうじて隠して、総司の手をとり、立ち上がった。
「こんなひどい雨の中、千鶴ちゃんが来るっていうから、お風呂わかしてあるんだ。続きはお風呂でしよう」
「……え?」

総司の言葉に千鶴が固まった。。

「あれだけ僕を煽っておいて、そのまま放置するのは許さないよ。さ、お風呂」

総司にひっぱられながら、千鶴はまたもやお風呂で初めての経験をしたのだった。

 

 






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