【よくできました】
『気持ちのこもらない体だけの関係』
総司とそういう関係になることになった千鶴は、密かに自分で決めたルールがあった。『気持ちのこもらない体だけの関係』なんてなったこともないから(男性と他の関係にもなったことはないが)どうすればいいかわからないけれど、自分のことを総司が重く感じて離れて行ってしまわないように、少しでも傍に居られるように、千鶴なりに考えたルール。
体を求められたら断らない。
自分からメールや電話はかけない。
自分のために総司のお金や時間を使わせない。
会いたいと言わない。
総司がこの関係を終わらせたいを言ったら素直に従う。
だから総司が、『来月の学会の準備で忙しくなるからしばらく会えない』と言った時、素直に『わかりました。』と笑顔で答えた。
総司はそんな千鶴を面白そうに見て、それじゃ、と言って図書館のいつもの席から去って行った。
残された千鶴は、自分のルールをもう一度おさらいして、これまでが総司が優し過ぎたせいですっかり欲張りになっていた自分たしなめていた。
総司から言ってきたとはいえ、つきあいだしてから三か月程度の間、ほぼ毎日会っていた。総司の家にも入れてもらって十分なくらい優しくしてもらった。『彼女』というものにはなったことがないからわからないが、きっとこんな感じなんじゃないかと密かに楽しんでいたのだ。総司にキスをされると、いつも千鶴は嬉しくて心が震える。抱きしめられると幸せで空に浮かんでいるような気持ちになる。男の人と一緒に眠る、というのも初めての経験だったがとても心地よくて千鶴は好きだった。夢うつつで隣のぬくもりにすりよると、いつも当然のように抱き寄せてくれる。眠っていて意識はないはずなのにとてもやさしく、決して千鶴を拒むことのないその腕の中は、これまで感じたことのないような安心感があった。総司の暖かさと匂いに包まれて再び眠りにつく幸せは、千鶴にとって初めて味わうものだった。
もう十分なくらいいろんなものを沖田さんからもらってるんだから。
ちゃんと我慢して、沖田さんの重荷にならないようにしなくちゃ。そもそも、わざわざ『しばらく会えない』って言いに来てくれた時点で喜ばないと。彼女じゃないなら、連絡が来ないままで放っておいてもいいはずなんだから。
千鶴はそう自分に言い聞かせて、再び机の上の教科書を読み始めた。
連絡がこないまま4日と2時間35分……。
千鶴は溜息をついて携帯を見た。もしかしたら図書館に調べものでふらっとくるかも、と期待して、いつもは夜7時には帰るのに今日も閉館時間の8時まで図書館で予習とレポートをしてしまった。空はすでに真っ暗で、そろそろ梅雨入りするかといわれているだけあって雨がぽつぽつと落ちてきていた。
千鶴は持ってきていた赤い傘をポンとさし、とぼとぼと地下鉄の駅へと歩き出す。しかし千鶴の足は駅ではなく大学内にある駐車場へと自然に向かってしまっていた。そこには総司の車が(大学にいれば)停められている。別にチェックしているわけではないが、そこで総司の車を見て、そして家に帰るのがここ四日間の千鶴の日課になっていた。車の近くまで行って中を見たりするのはストーカーのようなので、駐車場の入口から総司の車を探す。
あ、今日もあった……。
単なるメタリックグレーの鉄の塊なのに、それを見つけた千鶴の心臓は弾んだ。別に総司に会えたわけではなく車を見ただけなのだが、四日も総司の声も姿も見て言いない千鶴には、車を見ただけで総司を感じられて、妙にうれしかった。
学会の準備で忙しい、って言ってたけど帰ってないのかな……。
千鶴は車を確認して満足し、踵を返して地下鉄の駅へと向かう。
ごはんとかどうしてるんだろう。好き嫌いが多いから学食のごはんは嫌いだって言ってたけど……。またコンビニでパンとかおにぎりを買って食べてるのかな……。
駅へと向かう小さな商店街を歩きながら、千鶴は総司のことを考えていた。疲れているのか、楽しいのか。よく眠れているのか睡眠不足なのか。学会の準備とはどんなことをするのか、総司は何をやっているのか。一人でやっているのか、同じ院生の誰かとやっているのか……。
思いを巡らせていると、小さなオープンカフェ風のコーヒーショップから有線放送が流れているのが聞こえてきた。
その曲は総司の車に乗っていると時たまかかる曲で……。
あの夜景の見える山で総司と過ごした時にかかっていた曲だった。
やわらかい女性ボーカルの溜息のような歌声……。この歌声に包まれながら、総司は優しく宥めながら千鶴の体に触れ、求めた。
千鶴の足は自然と止まった。
もう連絡はこないのかもしれない。
千鶴はそっと目をつぶった。
その覚悟だけはしておいた方がいい気がした。
最初から沖田さんのことは好きだったけれど。
気が付いたらこんなに、もっともっと好きになってしまっていた。
笑顔を見て、声を聴いて、ふざけて、からかって、触れて、抱きしめて……。もっともっと好きになる。
沖田さんなしでどうやって歩けばいいのか、呼吸をすればいいのかわからないくらいに。
千鶴は意識して震える吐息を吐いた。
口の中に苦い味がひろがったような気がした。
会えなくなってから5日と2時間30分……。
千鶴はまた駐車場の入口でのびあがって総司の車を探していた。今日は地面につくまえに蒸発してしまうくらい細かい、霧のような雨がまばらに振っていた。千鶴の赤い傘が暗い雨の中で妙に映えている。
「何してるの?」
後ろから突然聞こえてきた声に、千鶴はびっくりして飛び上がった。
「お、おきた…さ…ん……」
振り向くと、総司が傘もささずに、濃紺のウィンドブレーカーのフードをかぶりポケットに両手をいれたまま後ろに立っていた。総司に久しぶりに会えた嬉しさよりも、どうやってこの場に自分がいることをごまかすかの方に千鶴は必死だった。車を持っていない自分が駐車場に用があるなんでありえない。総司の車をチェックしていた、なんてもし思われたら、きっとうっとおしいと感じるに決まっている……。
あわあわと何か言おうとして何も言えないでいる千鶴に総司がまた言う。
「こんなところで何してたの?千鶴ちゃん」
「え、えーと……」
返事につまる千鶴を面白そうに見て、総司はさらに言った。
「この駐車場、うちのゼミの部屋から見えるんだよね。五日間毎日同じ時間に赤い傘がうろうろしてたけど?」
千鶴は固まった。
全部見られてた……。
今日たまたま通りかかって……とか、道に迷って……とかいろいろ苦しい言い訳を考えていたけれど、毎日来てたの見られてたんだ……。
千鶴は真っ赤になってうつむいた。
「僕に会いに来てたの?」
総司がにやにやしながら聞く。
「……ごめんなさい…」
千鶴が涙声でそう謝ると、総司は少し驚いたように言った。
「なんで謝るの?」
「だって……」
なんと言ったらいいのかわからず千鶴は口ごもる。
「……私は、沖田さんの別に彼女じゃないし……。会ってもらえるだけでありがたいのに、会えないって言われて自分から会いにくるなんて……。ごめんなさい……」
思い切って謝ったのに、総司の返事がいつまでもないので、千鶴は顔をあげて総司を見上げた。薄暗がりで、フードもかぶっているので総司の表情はわからなかった。やはり自分がこんなところまでのこのこ来たのはまずかったかと千鶴はいたたまれなくなる。
「……別に彼女とか彼女じゃないから、とかじゃなくて会いたいなら来ればいいんじゃないの」
思ったより優しい声で総司が言った。
「ダメなんです。私はすぐ甘えてしまうので……。そういうことは言っちゃいけないんです」
「なんで?僕は聞きたいよ?」
総司の言葉に、千鶴は目を瞬いた。
「え?」
「僕は、千鶴ちゃんの気持ちが聞きたい。なんで駐車場に来てたの?」
……言ってもいいんだろうか……。めんどくさい女だって思われない?でも沖田さんから聞きたいって……。
千鶴は迷いながらも、口を開けた。
「あ、会いたかったから……です」
自分の気持ちを初めて言葉にした途端、なぜだか涙がぽろりと毀れた。
「沖田さんに、会いたかったんです」
俯いて、あとからあとからこぼれてくる涙を隠しながら、千鶴はつぶやいた。
「よくできました」
総司の、笑みを含んだ声が上から聞こえる。それを聞きながら、千鶴は手で涙をぬぐった。
「はい、これ」
総司の手が千鶴の手をとり、手のひらに何かを置く。
暗闇の中でそれをつまんでみてみると、鍵だった。
「……これ…?」
「僕の家の合鍵。千鶴ちゃんにあげるよ」
千鶴がポカンと口をあけて、涙にぬれた瞳を大きく見開く。
「確かに忙しいけど夕飯は食べるんだよね。千鶴ちゃんこれからはさ、先に僕の家に一人で地下鉄で行って夕飯作っておいてよ。あとから僕は車で行って、千鶴ちゃんと一緒にご飯を食べて、千鶴ちゃんを送ってそのまま大学に帰れば2時間くらいのロスですむし」
千鶴の瞳からまた涙がこぼれた。
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