【やめないよ】
眼前に広がる銀河のような夜景に、千鶴は小さく歓声をあげた。
冬の空気は澄み渡り、小高い山からは夜景と同様に星空も美しい。寒いから、と言って車の中から出ようとしない総司を置いて千鶴は外に出た。
「……すごい……」
町の中に突然ポツンとあるその山は、地元のカップルからは夜景の見える絶景デートスポットとして認知されていた。奥手の千鶴は、そんなことは全く知らなかったのだが、今日総司がホワイトデーのお返し、と言って連れてきてくれたのだ。
駐車場なんてない、普通の山道の崖すれすれの路肩に、等間隔に車がぽつぽつと停まっている。ほとんどのカップルは寒さのために車の中から夜景を楽しんでいるようだった。
後ろから砂利を踏む音がして千鶴が振り向くと、総司が寒そうに青いマフラーに鼻までうずめて立っていた。
「気に入った?」
「はい!私、夜景初めてです!こんなに近くてこんなにきれいなんて……」
目をキラキラさせて食い入るように夜景を見ている千鶴を、総司はほほえみながら眺める。
「ここの夜景はオレンジ系だよね」
「他の色もあるんですか?」
「うん、有名な函館の夜景は、青白い感じできれいだよ」
そうなんですか〜、と感心している千鶴の肩を、総司はゆっくりと抱き寄せた。顔を覗き込むようにして千鶴の唇に自分の唇を寄せて行った時、千鶴の目にオレンジの光の粒が連なって芋虫のように動いていくのが見えた。
「あっ!あれ!あれ電車でしょうか?」
思わず叫んでしまった千鶴に、総司は顔をしかめてキスを止め、千鶴の指差す方を見た。
「ああ〜、そうじゃない?」
どうでもいいような声で返事をして、総司は今度は千鶴を自分の方に向き直らせてから唇をよせた。触れるだけの優しいキス。頬、おでこ、唇と総司は唇をおとしていく。
『気持ちのこもらない体だけの関係』
そう言ってつきあいだしたはずなのに。
総司は、手をつなぐことと今したような軽いキスしかしてこなかった。
きっと総司は千鶴が初めてだということを気にしているのだろう。
千鶴はそう思っていた。
つきあうことになった時も、それを理由に断ろうとしたのだ。結局千鶴の勢いに負けて受け入れてくれたのだが……。
こんな名ばかりの関係では申し訳ない。そう思った千鶴は、今日総司に話そうと思っていることがあった。
車に戻った二人は、千鶴が持ってきたポットのホットコーヒーを飲んだ。総司が車のエンジンをかけ暖房を入れる。薄暗い車内の中、静かな声の女性ボーカルが歌う英語の愛の歌がCDからながれてきた。千鶴はつばを飲み込む。
「あの……。沖田さん。聞きたいことがあるんですけど……」
「ん?何?」
総司はポットのコップに口をつけたまま、瞳だけでこちらを見た。
「……その、体の、体だけの関係が、ないのは、なんでなんでしょうか……?」
ゴホッと総司はコーヒーをむせて咳き込んだ。
「やっぱり私が初めてだから、手を出しにくいんでしょうか……?」
千鶴の言葉にさらに盛大にむせている総司に、千鶴は思い切ったように言った。
「それで、私考えたんですが、この前私クラスの男の子に告白されたんです。それで、それで……」
その先は恥ずかしくてなかなか言い出せず、千鶴は赤くなってどもった。総司はむせるのは治ったのか、妙に静かな瞳で千鶴を見ている。
「それで、その人に初めてをお願いしようかと……。そうすれば先輩も楽に……」
千鶴の言葉は、総司に腕を掴まれて途切れた。
驚いて千鶴は総司の顔を見る。
唇は微笑んでいるけど、いつもは若葉のように優しい色の瞳が、今は氷のように薄い色になっていて、静かに深く怒っているのがわかる。
こんな目で自分を見る総司は初めてで、千鶴は少し怖くなった。
総司は千鶴の腕をつかみ助手席に押さえつけると、千鶴の方にのしかかってきた。
「……そんなに経験したいんだったら、言ってくれればお相手したのに」
投げやりに言う総司に、千鶴はあわてた。
「……!け、経験したいわけじゃ……」
「口、開けて」
総司の唐突な言葉に、千鶴は意味がわからないままも、あんぐりと口を開けた。
それを見た総司は、フッと笑い、千鶴の腕から手を離し両手を彼女の頭に添えると、自分の顔を斜めに角度をつけてまるで人口呼吸でもするようにし舌をつっこんでキスをしてきた。知識では知っていたがこれまでのキスとは180度雰囲気の異なるキスに、千鶴は思わず背中をそらせて顔をそむけようとした。しかし総司が手でがっしりと頭を支えて動けない。
「んっ!んん〜〜!!」
体をのけぞらせると、総司がのしかかってきて押さえつけられる。身動きも全く封じられ千鶴の意思を無視して好きなように扱われるキスに、千鶴は恐怖のあまり涙がこぼれだした。
「うっ…!んんっうぅ…っ」
しゃくりをあげて涙をこぼす千鶴に気が付いて、総司は唇を話して彼女の顔を見つめた。濃厚なキスをしていたのに総司の顔は全く平静で冷たいと言えるほどの表情だった。それがまた千鶴の恐怖を煽る。
「……やめないよ」
総司は千鶴の瞳を見つめながら囁いた。
「君が望んだ関係だ」
そういいながら総司は手で助手席のシートレバーをさぐり、シートを倒した。ガクンッと、横たわる千鶴の上にのしかかり、ふたたび唇を寄せてくる。しかし台詞は冷たいけれど、こんどは手も唇も優しかった。千鶴の髪に手を差し入れそっとキスをする。促すように唇を動かし、千鶴の震える上唇を自分の唇でやさしく挟み、舌でそっと彼女の唇の裏側を撫でる。敏感なところを優しく刺激され千鶴は思わず唇を薄く開いた。その隙間から総司の舌が柔らかく侵入する。
先ほどとは違い、ゆっくりとやさしく舌をからませて宥めるように唇を動かす。総司の手は千鶴の髪に差し入れられてぐしゃぐしゃに乱していた。
「ん……」
今度は鼻にかかった甘い声が千鶴の喉からもれる。それが合図だったかのように、総司の手が千鶴のグレーのニットの下に忍び込んだ。
狭い助手席で体を折るようにしながら、二人の甘い吐息が車の窓を曇らせていった。
身動きができなくて、千鶴は目が覚めた。瞼を開けると目の前にはボタンが外されてむき出しになっている鎖骨があった。そのまま視線を上へとずらすと、若草色の瞳と目が合う。
「……目が覚めた?」
掠れた声で総司が囁く。うなずきながらまわりを見ると、窮屈そうに助手席に二人で横たわり(というより総司の上に千鶴が横たわり)、千鶴の上には総司のダウンがかけられていた。薄暗い車内はエンジンがかけられたままで暖かく、リピート設定になっているのか先ほどの洋楽がまだかかっていた。曇った窓から夜景の灯りがぼんやりと見える。
「体はどう?」
総司の言葉に、千鶴は赤くなった。あちこち痛いような気がするが、狭いところでへんな恰好をしたせいだろう。
「だ、大丈夫です。……沖田さんは、だ、大丈夫ですか……?」
狭い車内で、へんな恰好をした、という意味では総司も同じだ。千鶴の言葉に、総司は面白そうに少し笑った。
「……僕は男だし、初めてじゃないからね」
総司の言う意味がわかって、千鶴はまた赤くなった。
「あ……。はい」
なんと答えればいいのかわからなくて、千鶴はもごもごと返事をした。総司はそのまま何も言わず、千鶴の髪をもてあそんでいた。心地のいい沈黙が車内にひろがる。
千鶴が再び総司の上でうとうとしだしたとき、総司のつぶやくように言う声が聞こえてきた。
「……例の、契約事項……。覚えてる?」
「え…っ?あ、はい」
千鶴は眠りから引き戻されて、返事をした。
「もう一項目付け加えたいんだけど、いい?」
「……はぁ」
「じゃあ、四項目目。お互い以外の人間と体の関係はもたないこと」
千鶴は思わず顔をあげて総司の顔を見た。
総司は千鶴の瞳から目をそらして、面白くなさそうな顔をして窓の外を見ていた。しかし目元がうっすらと赤くなっているのがわかる。
「何か問題でも?」
すこし挑む様に総司が言う。千鶴はまた総司の胸に顔を押し付けて呟いた。
「……ありません」
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