【経験は?】

 






 千鶴の手が震えているせいで、銀色とピンク色できれいラッピングされたチョコレートも揺れていた。
総司がそれを困ったような顔で見ている。
「これって、そういう意味だよね?」
総司の言葉に、千鶴はこれ以上赤くできないくらい赤くなっている顔でうなずいた。
「うーん……」
相変わらず困った顔で、茶色のやわらかそうな髪をかきあげる総司に、千鶴は聞いた。
「か、彼女さんが、いるんですか…?だから受け取ってもらえないんでしょうか……」

 「いや、彼女はいないよ。逆に作る気がなくて。……気持ちのこもらない体だけの関係なら、君だったら大歓迎なんだけどね」
君、そういうタイプじゃないでしょ?
総司の言葉に千鶴は固まった。

 「あ、固まっちゃったね。大丈夫?おーい」
千鶴の目の前で総司は自分の手をひらひらさせた。
「そういうわけだから、申し訳ないけどこれは受け取れないよ。ごめ……」
「かっ体の関係だだだだだだけでいいです!」
千鶴はそう叫んで、チョコレートを総司の手に押し付けた。思わず受け取ってしまった総司が今度は固まる。

 「……ねぇ、意味わかってないでしょ?君さ……こんな事こんな所で聞くのなんだけど……、経験あるの?」

 そこは大学の図書館だった。時間は夜の7時30分過ぎ。図書館終了時間も近いうえ、あまり人に知られていないかなり奥まった場所のため周りに人の影はないが、確かにそういう会話をするような場所ではない。しかし千鶴は緊張のあまり周りが全く見えていなかった。

 「……な、ない…です……けど、経験が無いとダメっていうのでしたらどこかで適当に経験してくるので……」
ぶーーーーっ!
いきなり総司が噴出したので千鶴はびっくりした。
「て…適当に、経験って……!!き、君さ……おかし……!」
ツボに入ったのか、声を殺しながらも笑い転げる総司を、千鶴は憮然として見つめる。

 必死の告白で、こんなに笑うことじゃないと思うんだけど……。

 「ごめん、ごめん。あー…おかしかった。こんなに笑ったの久しぶりだよ。相変わらず君って面白いよね」
涙を拭きながら、ようやく総司は笑いを止めた。
「参考までに聞きたいんだけどさ、どこで、どうやって『適当に』経験してくるつもりなの?」
「え…、そうですね……。道とかでそのあたりの人に……」
総司はまた噴出した。今度はもう立ってられないのかお腹をかかえて蹲ってしまう。千鶴にもおかしなことを言っている自覚はあった。けれどどうすれば経験できるかなんて考えたこともないからわからない。

 千鶴は頬を膨らませ赤くなりながら言った。
「じゃ、じゃあ沖田さんはどこでどうすればいいと思うんですか。逆に教えてもらえると助かるんですけど」
憮然とした表情で言う千鶴を、総司は涙を拭きながらおかしそうに見る。

 「……君さ、経験云々より前に男とつきあったことある?」
つきあったことなんてなかった。けれども『無い』なんて言ったら、また『無いならダメ』と言われるんじゃないかと思い千鶴は口ごもる。
「大丈夫。付き合ったことなくても別にどうこう言わないから、ほんとのこと教えてよ」
「……ありません」

 そっか……。と総司はつぶやいて両手を頭の後ろにして軽く伸びをした。
「千鶴ちゃん、一年生だっけ?まだ十代?」
「19歳です」
総司はフーッと溜息をついて、髪をかきあげた。
「心ある優しい奴は普通、男とつきあったこともないような十代の女の子からのこんな提案は断るんだろうけどね……」

 総司はそう言って、手の中にあるチョコレートの包み紙を開け始めた。
「君のことは気に入ってるし、僕はあいにく心無いズルい男だからさ……」
総司はポンと、夕べ千鶴が作った手作りのガナッシュチョコを口に放り込んだ。
千鶴は何が起こっているのかわからなくて、目を見開いて総司を見つめている。総司は、あ、おいしいねこれ、といいながらチョコを味わうと、千鶴の頬に手を添えて、彼女の唇に軽くキスをした。


 「契約成立」


綺麗な形の総司の唇がスローモーションのように動き、そう言った。茶色い長い睫の一本一本が数えられるほど、総司の端正な顔が近くにある。緑色の澄んだ瞳がいたずらっぽく揺らめきながら、楽しそうに千鶴を見つめている。

 千鶴は何が起こったのか把握できなくて目を見開いたまま固まっていた。唇をなめてみると、チョコレートの甘い味がする。


「ファーストキスだった?」

総司がいつもの笑顔で聞いてくる。千鶴は茫然としたまま総司を見上げてうなずいた。全ての出来事が既に千鶴のキャパシティを超えてしまっていて突然のファーストキスに、顔を赤くする余裕もなかった。
どういうことなのか、どうなっているのか、訳が分からない千鶴は、総司に聞こうと口を開く。


 その時、図書館がもうすぐ閉館する旨の軽快な音楽とアナウンスが流れ、二人の気をそらした。人気のない図書館の中にその音楽が妙に浮いて聞こえる。
日頃の習慣から、それどころではないはずなのに千鶴はとりあえず帰る準備を始めた。総司もマフラーとコートを着てカバンを持つ。

 

 「あの……、結局どうなったんでしょうか…?私はどこかその辺で経験してくればいいんですか?」
総司はその言葉に、また楽しそうに笑った。
「そうだねぇ…。千鶴ちゃんがその辺の人をナンパしてそう提案するのをぜひ見てみたい気はするけど……」
??総司の言うことは、結局のところどうなのか千鶴にはわからない。
「…じゃあ、私は次は……?」

 総司は一度はめていた皮の手袋を脱いで千鶴へと自分の左手を差し出した。
「とりあえず、次は手をつなごっか」
「え?」
ほら、と手をさらに差し出されて、千鶴は赤くなった。
「え?え?」
「手をつなぐくらいで赤くなっててどうするの。これから『気持ちのこもらない体だけの関係』になるっていうのに」
総司は自分から強引に千鶴の手をとり、指を絡めて総司のコートのポケットにつないだ手をつっこんだ。ひっぱられながら千鶴はクエスチョンマークを顔にはりつけて、赤くなってさらに聞く。
「あ、あのその辺での経験は……?」

  「千鶴ちゃんの初めてを、誰か『その辺の奴』にあげるのも悔しいし、『適当に』僕あたりにしておけばいいんじゃない?」
「それってつまり……」
「千鶴ちゃんのファーストキスもバージンも、僕がもらうねってこと。さっき契約したでしょ?」
「け、契約ですか?」
驚く千鶴に、総司はしょうがないなぁ、もう、とつぶやいて立ち止まった。蛍の光が流れる中、図書館の本棚の影に千鶴をひっぱりこむ。

 

「契約事項の一項目目は、お互いを好きにならないこと。二項目目は、気持ちのこもらない体だけの関係になること。三項目目は、そうは言ってもお互いを思いやって大事にすること。これぐらいかな。千鶴ちゃん守れそう?」
「守れそうにありません」
特に一項目目は。もう好きになっていまっている。
即答した千鶴に、総司は苦笑いをした。
「ダメだよ。そこは嘘でも守れるって言ってくれないと、お互い割り切ったうえでの関係にならないからさ。僕がすごい悪いやつになっちゃうし」
「私は別に割り切ったうえでの関係じゃないくてもいいです。沖田さんが悪いやつになりたくない、というのならしょうがないからあきらめますけど……。でも私は、悪い沖田さんでも好きです。これは私が勝手に好きなだけなんで、沖田さんは気にしなくていいんです。それだったら罪悪感もないんじゃないですか?」

 

 千鶴の言葉に、総司は軽く口笛をふいて目を見開いた。しばらく真顔のまま千鶴の顔を見ていたが、視線をそらせて俯き、苦笑いをする。
「……すごいね。覚悟の上ってこと?」
「……うっとおしいですか……?」
不安げに揺れる千鶴の、呑みこまれそうな深く黒い瞳を、総司は長い間見つめた。

 

「……まぁ、いいよ。じゃあ一項目目は千鶴ちゃんのみ免除ってことにして、契約成立にしよっか?」
千鶴の顔が嬉しそうにほころんだ。
「はい!」
と言ってうなずく千鶴の方に体を傾け、総司は、ほんとにつかまっちゃいそうだな……とつぶやきながら唇をよせた。千鶴は今度は目を閉じて、緊張しながらも二度目のキスを受けようとする。


 「もう閉館時間ですよ」


不機嫌そうな図書館員の中年男性の野太い声がして、千鶴は飛び上がり、総司は舌打ちをした。

 

 長い脚で歩く総司にひっぱられ、小走りになりながら二人は図書館の外に出た。冷たい風が吹き付ける中を歩き出す。
大寒波が来ていると昨夜のニュースで放送していたが、総司のコートのポケットの中でつながれている千鶴の手は、暖かかった。








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