【そしてこの手を離さずに】

 

 










「薫……ねぇ薫…」
「邪魔なんだよ。あっちで座ってれば?」
ヤカンの前で立っている薫は、後ろから呼んでも振り向きもしない。千鶴は回り込んで薫の横から顔を覗き込んだ。
「でも……それお茶じゃないよ。お料理につかう昆布茶だし。緑茶はあっち……でも一年前のだからおいしくないかな……」
千鶴の指摘に、薫は昆布茶の缶を持ち上げた。
「なんだよ、別にいいだろこれでも」
「うーん……好きな人はいいかもしれないけど父様は嫌いだよ?私が…準備やってもいい?」
薫はじろりと千鶴を見て、好きにすればと言って台所を去ろうとした。
「あ、待って!薫……あのごめんね、何も言わないで出て言って…謝りたくて…」
出て行こうとする薫の背中に、千鶴はせめてこれだけでもと思い必死に言葉をかけた。薫は一瞬立ち止まる。
「……今更じゃないの?勝手に出て言ったんだから勝手に幸せになってればいい」
「薫……」
「なんの相談もなしにいきなりいなくなって俺や父さんがこの一年どんな思いで暮らしてきたか、わからないだろう?どうせあのチャラ男といちゃいちゃして楽しく暮らしてたんだろうからさ」
「薫…!違うの。沖田さんは悪くなくて……沖田さんは最初一人でいなくなるつもりだったのに、私がわがままを言って連れて行ってもらっちゃったの。相談をする暇も…そもそもどうして行かなくちゃいけないかとかもわからなくて、相談のしようがなくって……」

「いいよ別に、説明しなくても。興味ないし」
そう言って立ち去ろうとした薫に、千鶴はなおも追いすがる。
「せっ説明させてほしいの。決して家族をないがしろにしたわけじゃなくて……ほんとに大事に思ってたんだけど、あの時はそれよりも沖田さんが……」
薫は千鶴に向き直った。あざ笑うような顔で言う。
「結局お前は沖田って男をとったんだろう?いいじゃないか、あいつと二人でどこか遠くで暮らせばいい。俺を巻き込まないでくれ」
「聞いて薫。沖田さんは……沖田さんのことはすごく大事なの。でも、薫のことも……家族の事も大事だよ、それだけはわかっていてほしくて、それで帰ってきたの」
薫はフンと冷笑した。
「きれいごとだね。上にいるよ。勝手にしゃべってすっきりして帰れば?」
そう言い捨てると、廊下に出てトントントンと階段を上がっていく音がする。
帰ってすぐに仲直りできるとは、千鶴も思っていなかった。特に薫は……。仲が良かった分激しいところのあるあの双子の兄は、きっと許してくれないのではないかと思っていた。でも心のどこかでは、もしかしたら自分が帰ってきたことを喜んでくれて、それで水に流してくれるのでは、と都合のいい期待をしてしまっていた。
千鶴は小さく溜息をつくと、シュンシュンシュン…音がしだしたヤカンの方へと向かい、お茶を淹れる準備をしだした。

 

お茶を持って居間へ行くと、総司が何かを話して鋼道がそれを聞いている。
お茶を出しながら千鶴が彼らの話を聞いていると、どうやらこれまでの経緯を総司が話しているらしい。
「……それでお嬢さんの……千鶴さんの機転でなんとか危機を乗り越えることが出来ました」
総司はそう言うと、お茶を置き終わった千鶴を見て自分の隣に座るようソファをポンとたたいた。彼女が座るのを待って、総司は鋼道を見て続ける。
「事情もわからないながらも僕の問題を自分の事として真剣に悩んでくれた彼女に、とても感謝してとても…嬉しく思いました。この先も一緒にいたいと思っていてます。これからもずっと一緒に、同じものを見て同じものを目指して……」
総司はそこまで言うと言葉を切り、千鶴の手を優しく握った。
「同じもので悲しんで、笑って……そうやって二人で生きていきたいと思っています。一年前に無断でお嬢さんを連れて行ってしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。今日お伺いしたのはそのことを謝りたかったのと、今後もお嬢さんとお付き合いをさせていただきたいとお願いしたかったからです。まだ千鶴さんは若いですし大学もありますし……今すぐどうこうとは思っていませんが、結婚を前提にお付き合いしたいと思っています。お許しをいただければ嬉しいです」


初めて見る総司の大人の男性としての態度に、千鶴はドキドキした。真剣な瞳と真摯な口調が、本当に千鶴と一緒にいたいのだと伝えてくる。鋼道は、と父の顔を見てみると、いつも千鶴に見せていた優しい顔とは違い、こちらも真剣な表情をして黙り込んでいる。
息の詰まる様な沈黙の後、鋼道が口を開いた。
「大学は…千鶴がもう一度受験をして入りなおす、という意味かい?」
「いいえ。……実は僕の方で勝手に休学扱いに変更しておきました。できればここで同じ大学に復学して、卒業して……後は彼女の望みしだいですが一緒にいることができればと考えています」
「でも君は会社があるんだろう?」
鋼道が、よくわからない、というように再度質問した。千鶴も初めて聞く内容で、総司の顔を見る。
「もうあとしばらくは…会社にかかりきりになると思います。でも僕も院を卒業したいと思っているので、空き時間を見つけて京都に来て授業をうけて……遠距離になりますけど」
総司はそう言って、不安そうに自分を見ている千鶴に微笑みかけた。
「遠距離、というよりは二重生活かな?京都にも住むよ」
安心させるように千鶴の手をとって総司はそう言った。そして鋼道を見る。
「正直な所、もう千鶴さんにはプロポーズをしていて…了解もいただいています。結婚という形をとったうえでそういった生活をしてもいいかな、とも思っているんですがそこはご家族の意見を伺いたいと思っています」
鋼道は苦笑いをして目をこすった。

「……父親として大学を出るまでは、と思って育ててきたんでね……いきなりの話で考えがまとまらないな、すまないね」
そう言うと鋼道は総司の隣に座っている千鶴を見た。
千鶴の座っている場所で、もう彼女がどちらに属しているのかがはっきりわかる。これまではこのリビングで客をもてなすときは、いつも鋼道の横に座っていた娘が、今は……
「千鶴……お前…お前はそれでいいんだね?」
鋼道の瞳は『それで幸せなのか?』と聞いてきていた。満足そうな寂しそうな瞳の色。
千鶴も鼻の奥がつんと痛くなる。鋼道の瞳を見て、彼女はうなずいた。
「うん……はい。大学の…ことまで考えていてくださったことは知らなかったんだけど、大丈夫」
その思いはついて行った最初のときからかわらない。たとえどんな運命が待っていても、総司の傍にいる方が幸せだとわかっている。
千鶴の表情を見て、鋼道は小さく頷くと寂しげに笑った。
「それなら私が言うことは何もないよ。できれば大学まではこの家から通って欲しいと思っていたが……それよりも何よりも君たちの幸せが一番だと思う。結婚についても……二人で考えて時期を決めるといい。私はどんな結論でもかまわないよ」
そうして優しく総司と千鶴を見た。
「……おめでとう。総司君、千鶴を頼むよ。千鶴、話を聞いたばかりだが、総司君の若さでの会社の経営はいろいろとたいへんだろう。お前がしっかりと支えてあげるんだぞ」
千鶴と総司は、鋼道の言葉に二人で顔を見合わせた。
ほっと安心した笑顔に自然となる。
「ありがとうございます。本当に……いろいろとご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
総司が頭を下げる。横で千鶴も一緒に頭を下げた。

そっと握ってきた総司の手を握り返す。
何故だか千鶴の瞳には自然と涙が浮かんできた。
父に認めてもらったこと、大学にまた通えること……。何もかも捨てて総司について行ったと思っていた一年前。でも結局は何も捨てずにすんだ。いや、総司が捨てないで済む様に考えてくれたのだ。遠距離は不安だけれどきっと今の二人なら大丈夫だと思える。
きっとこれからも、こうやって二人で手をつないで、つらいことや困難なこと、哀しいことや、嬉しいこと楽しいことを一緒に乗り越えて行ける。
つないだ手が暖かい。
自分の存在すべてを受け入れてもらっているような安心感が千鶴を包んだ。
きっと世界がすべて壊れて凍ってしまったとしても、この手だけは暖かく変わることはないのだろう。
そして自分も、総司にとってそういう存在でありたいと千鶴は思った。どんな嵐でも彼を信じて、彼だけを見つめて……

そしてこの手を離さずに。


嬉しそうに見つめあっている二人を、鋼道は優しく見守っていた。

 

 


その後、総司は鋼道に日をあらためて総司の母と姉がご挨拶にお邪魔したいと言っている旨を伝える。
鋼道はもちろん快諾し、詳細な日時については千鶴を通して決めることにする。
「父様……あの薫は……」
千鶴が気まずそうに言うと、鋼道は困ったように笑った。
「拗ねてるんだろうな。一番心配して一番ショックを受けてたのはあいつだからな。今日の話を全部伝えて、両家顔合わせの時には出席させたいと思ってるよ。……でもなぁ……」
そう言って腕を組んだ鋼道に、千鶴もため息をつく。
そんなに簡単に折れるような兄ではないのだ。それは家族である鋼道と千鶴がよく知っている。
「でも…な、薫はお前の事を大事に思っているのは確かだよ。お前の選んだ道がお前の幸せになるとわかってくれれば祝福してくれると思うよ」
そこで突然、これまで黙っていた総司が口をはさんだ。
「もしよければ、お兄さんと二人で話させてもらえませんか?」
千鶴と鋼道は、ぎょっとして総司を見た。
「そんな……血を見るようなことは…」
青ざめる千鶴。
「……何が起こるか…恐ろし過ぎる」
鋼道も呻く。
そんなにヤバいのか…と思いながらも総司はうなずいた。
「反対されている今より悪くなりようがないと思うんです。何が気に入らなくてどうすれば今よりましになるのか直接伺いたいんです」
途端に鋼道が否定した。
「いやいやいや……気持ちはありがたいがそういうわけではないと思うんだよ。どちらかというと君が行くのは逆効果というか……。要は千鶴が薫に相談せずにあんな行動を起こしたことが面白くないんだよ。妹をとられたというか……仲のいい兄弟だったからね」
「シスコン……ということですか?」
総司が少し呆れたように言うと、鋼道は、恥ずかしながら、とうなずいた。
「だからそんなに心配してくれなくても大丈夫だよ。妹がいずれ他の誰かと…というのは当然のことでそれが急に来たから機嫌を損ねているだけだ。ちゃんと理を説いて納得させるから。薫ももう大人なんだからわかってくれるだろう」
千鶴は鋼道の言葉に頷きつつも、心配そうに薫がいる家の二階を見上げたのだった。


 

 

 


                          


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