【行こうか?】
「雨降ってる?」
総司は身を乗り出して、隣に座っている窓際の千鶴の方へ体を寄せ、新幹線の窓ガラスから外を眺めた。
窓ガラスには細かな滴が風に吹かれて筋を作っている。
「ちょっと降ってるみたいですね」
千鶴が答えると、総司は「ふーん」とつぶやいてまた自分の席の背もたれへ体をあずけた。千鶴はそんな総司を見て、少し微笑む。
「何?」
目ざとく千鶴のほほえみを見つけた総司が、少し尖った声で聞いてきた。
「沖田さん……もしかして緊張してます?」
千鶴が悪戯っぽく微笑みながらそう聞くと、総司は拗ねたような表情になり、言い訳するように言った。
「そりゃ少しはするでしょ、普通。駆け落ちした後初めて、彼女の家族に謝罪とあいさつに行くんだから」
総司はそう言いながら深いブルーに黄色の小さな水玉模様のネクタイの結び目をいじった。
「どう?誠実そうに見える?」
落ち着いた紺色のオーソドックスなスーツに白いYシャツ、黒い靴。一つ一つのパーツは銀行員でも通りそうなくらい地味なはずだ。しか天然で茶色の髪や緑色の鮮やかな瞳、醸し出す雰囲気が華やかで少しキケンな感じで、『誠実そう』にはとても見えない。
でもそんなことを珍しく少し緊張しているような総司には言えなくて、千鶴は人差し指を顎にあてて「うーん」と考えた。
「そんなに気にしなくて大丈夫ですよ。一応電話では事情を話してありますし」
「それはそうだけどさ。やっぱり面と向かうとなるとね……」
総司は腕時計をチラリとみると、小さく溜息をついた。
夏が終わってだんだんと季節が変わっていく頃に、ようやくすべてのケリがついた。
持ち逃げされて倒産寸前の危機を千鶴の機転で何とか乗り切り、月末には資産の処分を急いだおかげで当面の倒産の心配は回避できた。その後、例の持ち逃げした東京の所長は、逃亡先の隣国で捕まった。お金は全額は無理だったが8割は返って来ることになり、総司の会社の財政基盤はなんとか持ち直した。
良いことは続くもので、ちょうどそのころ近藤の会社から出資OKの返事もきた。当面は相談に乗ってもらいながら出資金で会社を正常に戻し、株式も公開した上で経営権を買い取ってもらえるような交渉をすることにも了解をもらうことができた。
経理、法律、IT、資産運用、営業……全てにおいてのスペシャリストもそろっている。皆契約が切れればあの総司の実家の仕事部屋からはいなくなってしまうが、それでも顧問料を払ってアドバイスやチェックをお願いすることになるだろう。少しさみしく感じるものの、仕事ではないつながりも既にあり、今後もいい付き合いを続けていける。
後は千鶴の事だけだった。
『京都にご挨拶に行かないとね』
と言い出したのは総司からだった。
近藤の会社とのことが正式に決まった次の日、朝の身支度をしているときに突然思い出したようにそう言ったのだ。
戸惑う千鶴に、とりあえず実家に電話をするように言ったのも総司だ。
『細かいことは実際お会いした時に僕から話すから、とりあえず元気でいることと僕の事と……あとごあいさつにお邪魔したいって言って、都合のいい日時を聞いてもらえる?』
さらっとそう言う総司に、千鶴は驚いた。
一年前のあの日、何も言わずに千鶴の前から去ろうとしたこと、何の説明もなしにここまで連れてきたことから思うと百八十度のかわりようだ。
『いいんですか?』
千鶴がおずおずと聞くと、総司は逆に不思議そうに聞いた。
『何が?』
『だって……』
総司は千鶴の言いたいことを察したようだ。最後のジャケットを羽織るとにっこりほほ笑んだ。その微笑には危機を乗り越えてきた自信がみなぎっており……
『あの時は企業の社長でいられるか、一族を背負った一文無しになるか、どっちに転ぶかわからなかったからね。お嬢さんをくださいとはとても言えなかったけど、今は……まだまだ駆け出しとはいえ会社も順調だし』
お嬢さんをください
千鶴は総司が言ったその言葉に真っ赤になった。小説やテレビドラマなどでたまに耳にするけれど、自分がそういう対象になると……なんだかすごく照れ臭い。照れ臭いけど、ものすごくうれしい。両頬を手で押さえて顔を緩ませて赤くなっている千鶴に、総司はからかうように言った。
『ちゃんとご挨拶に伺いたいって僕が言ってる、ってご家族に伝えてもらえる?』
日曜日の朝に、千鶴は1年ぶりに実家に電話をかけた。
しばらく続くコール音に、誰もいないのかと不安になった矢先、カチャリという音とともに懐かしい父の声が聞こえてきた。
『はい雪村です』
『っ……あ…』
心の準備は十分にして、何を話すかもメモしていたのに、千鶴は言葉に詰まってしまった。しかしそれだけの言葉で父には十分だったようだ。
『千鶴か!?』
問いかけの口調から父の思いが伝わってきて、千鶴の瞳に涙があふれる。
『うん……うん、ごめんね父様……』
後はいなくなった時の事情と今の状況を簡単に説明して、総司の言葉を伝える。
父は喜んでくれた。いろんなことが一度にわかって驚いて混乱していたものの、何度も何度も『嬉しい』と言ってくれた。その言葉にまた千鶴の瞳から涙があふれる。
そして京都の実家に総司と行く日程を決め、千鶴は久しぶりの父との電話を切った。
そして今日……
昼の二時に千鶴の実家を訪問するため、千鶴と総司は朝のうちに総司の実家を出た。
総司の姉のミツと母親は、あれも持って行けこれもご挨拶に持って行け、ああ言えこう言え、いっそ自分達も一緒にお邪魔して謝罪とご挨拶を……!と大騒ぎをしていた。総司と千鶴で興奮している二人をなんとか宥めて、最初はまず二人で挨拶に行く、そしてうまく行ったら両家の顔合わせをしたいのでその時に来てほしいと、なんとか落ち着いてもらって。そして今二人で京都行きの新幹線に乗っているのだ。
「君んちのお父さんさ、武闘派ってことはないよね?挨拶するなり殴りかかって来るとかさ」
落ち着かないように長い足を組みかえている総司に、千鶴は答えた。
「父様は大丈夫です。ちゃんと人の話を聞いてくれる人ですし、電話でも……私が選んだ人で今が幸せならこうして連絡してくれただけで十分嬉しいって言ってくれてましたし。事情を話して謝れば、許すっていうより喜んでくれると思います。でも……」
眉間に皺を寄せて表情を曇らせた千鶴に、総司が少し不安そうに尋ねた。
「でも、何?お母さんはいないんだよね?」
「はい、母様はいないんですが、母様かわりというかなんというか……双子の兄が……もしかしたら殴りかかって来るかもしれません」
ごめんなさい、と謝る千鶴を見て、総司は先行きを考え暗澹たる思いになった。
京都駅は雨が降っていた。千鶴がカバンから赤い折り畳み傘を出してポンとさす。
「傘持ってきてたんだ?」
「はい、予想では60%だったんで。でも荷物になるから一本しか持ってきてないんですけど」
総司は千鶴の赤い傘を取り上げて、二人でさす。
「駅から結構遠いんだよね?君んち。タクシーで行こうか」
「はい……あ……待ってください」
タクシー乗り場に向かおうとした総司は、千鶴に止められて彼女が見ている方向を見る。
そこにはロータリーがあり、様々な方面へ向かうバス亭がぐるりと立ち並んでいた。
「バス?」
「はい……あの、バスじゃだめですか?ちょうどうちの路線のが来てて……」
別にいいけど……という総司をひっぱって、千鶴はバスに乗り込んだ。後ろの方の二人掛けの席に座る。
「このバス、高校に通っているときに毎日乗っていたバスなんです。受験勉強とかお友達とおしゃべりしたりとか……わぁ、すごくなつかしい……たった二年なのに…私あそこの席が好きで…」
千鶴はそう言うと後ろの出口に近い席を指差した。
そういえば最後に総司の家に行くときもこの路線のバスに乗った。あの席には知らない女子高校生が座っていてすごい大量の荷物の千鶴を不思議そうにみていたっけ……
千鶴はあの時の自分、高校生の自分、そして今の自分を思い、その変わりように微笑んだ。
すべて総司と出会ってからだ。
総司に出会っていなければ、きっと自分はずっとこのバスに乗っている平凡な女の子のままだっただろう。
自分の変わり様にすこし驚くけれど、後悔はしていない。
千鶴は隣に座っている総司の整った横顔を見てそう思った。
総司自身は、考えてみれば京都でバスに乗ったのはこれが初めてだった。それに実家にいたころも……バスに乗ったことは数えるほどしかない。しかし不思議と毎日の通学でバスに乗っている千鶴の姿が目に浮かぶ。
「……きっとかわいかったよね。君目当てで同じバスに乗ってるバカとかもいたんじゃない?」
「ええ?そんなことないですよ。高校の時なんて私ほとんど男の子と話したこともなくて……」
おかしそうに笑う千鶴を、総司も微笑みながら見る。
「ま、そのおかげで僕は千鶴ちゃんの初彼氏になれたし初キスの相手にもなれたしね、よかったかな」
赤くなっている千鶴を見て、総司は再び声を出して笑った。その後は二人でゆっくりと流れていく窓の外を眺める。
時折千鶴が教えてくれる思い出の場所……友達と映画を見に行ったり買い物をしたりした大型店舗やよく食べに行ったパフェのおいしいお店……を二人で見て彼女の話を聞く。
自分の知らないころの千鶴の話を聞くのは、総司にとっては楽しかった。
そういった時間が今の千鶴を形成したのだと思うと何故だか何かに感謝したくなる。
そして多分一番感謝しなくてはいけないのは、千鶴を大事に育ててくれた彼女の家族だろう。
そういう人達の思いよりも自分の彼女に対する思いを優先させてしまった一年前の自分。
彼女の家族にとって空白と苦痛の一年という歳月。
彼女の過去も未来もすべてを愛したい。
そんな風に思える自分自身に、総司は驚いていた。千鶴に会うまではそんな感情が自分にあることなど知らなかった。でも……この深い思いを知ることが出来て本当によかったと思う。
総司はそう思いながら、隣に座って窓の外を楽しそうに眺めてている千鶴の横顔を見つめた。
千鶴はバスからゆっくりと降りた。
見慣れているのにどこか新鮮で。でもやっぱり肌になじむ自然な景色。懐かしい匂い。
外は細かな雨が降っていた。
一年前のあの日、もう戻れないかもしれないと少しだけ思った。でも千鶴にとってはそれよりも、総司がまだあの部屋にいてくれるのかの方が不安で心許なくて。早くバスが走ってくれないかと思っていた。
今は総司は傍にいてくれる。それもすぐ近くに。
上からさしかけられた赤い傘に、千鶴は後ろを振り向いた。
総司が優しく微笑んでいる。その笑顔に、千鶴は初めて自分が不安に思っていることに気が付いた。全てを分かっているような総司に、千鶴もほっとして微笑みかけた。
「行こうか?」
「……はい」
空気の匂いも、歩くにつれ見えてくる景色も、水たまりの場所も、千鶴の小さなころと変わらない。
この場所に総司がいることが少し不思議だ。だけれども逆に当然のような気もする。どちらも千鶴のとても大切な物なのだから。
ちらりと総司の目を見てから、千鶴は家のインターホンを押した。
鍵は持っていない。これまで自宅のインターホンを押したことなどなかった。そしてその動作は千鶴に、この家を出たのだという事を実感させた。
ドキドキしながら待っていると、ガチャリという音と共にドアが開いた。
「千鶴か?」
「父様……!!」
一年前とかわらない鋼道が出てきた。会うなり怒鳴られるか叱られるか泣かれるか……とにかく激しい反応があるものだと思っていた千鶴は、意外にも落ち着いて微笑んでいる父親に少し拍子抜けした。
千鶴自身はこれまでの思いがこみ上げてきて涙ぐんでしまっているのだが、鋼道はつっかけを履き、小さな前庭をまたいで、千鶴達のために門扉を開けている。
「君が…総司君かい?」
何のこだわりもないような鋼道の問いかけに、総司も少し驚いたようだった。しかしすぐに気を取り直して答える。
「はい。初めまして、沖田総司と言います。このたびはお嬢さんの千鶴さんを……」
言いかけた総司を、鋼道はさえぎった。
「ああ、まあ積もる話は後にして、とりあえずあがってください。さ、どうぞ。お前もおいで」
鋼道に促されて、千鶴と総司は家へと上がった。小さな千鶴の家には、客間などという物は無くリビングに通される。コートを脱いだりカバンを置いたりしていると、キッチンの方から声が聞こえてきた。
「ぬけぬけとよく帰ってこれたね。しかも男連れでさ」
千鶴が振り向くと、そこには自分とよく似た面影の双子の兄が立っていた。
「薫!」
千鶴の横をすり抜けて薫は総司へと近寄った。
「お前が千鶴をそそのかした男?ふーん、ちゃらそうだね。だまされてるの確定なんじゃないの?」
「薫!」
鋼道が叱る。薫は鋼道には構わず続けた。
「で?何しに来たんだ?形だけでも謝りに来たわけ?」
薫はそう言うと今度は千鶴を見た。
「お前もお前だよ。相談も何もなく勝手に出て行ったくせに今更何しに帰ってきたんだよ。まさかまた一年前みたいにこの家の娘になりたいとかいうわけじゃないだろうな?お前はもう他人なんだよ?」
「薫!」
鋼道が更に厳しく薫を叱った。
千鶴は青ざめて立ちすくんでいた。父や兄を傷つけた自覚はあった。でも確かに自分がこの家の娘であることは変わりはないと思っていた。まさか薫の方から拒絶されるなんて……
鋼道が薫に言う。
「薫!せっかく来てくれた妹になんてことを言うんだ!総司君だってだますような人間ならこんなとこに来たりするはずがないだろう?くだらないことを言っていないで早くお茶を淹れてきてくれ」
「やだよ。こんな奴ら客でもなんでもない」
「じゃあ私のお客様だ!ちゃんと淹れてくるんだ!」
珍しく語気荒く言った鋼道に、薫は不満そうな顔をしながらも大人しくキッチンへ下がって行った。
「あ、あの…父様…」
キッチンへ去って行った薫と鋼道の顔を見て、千鶴がそう言うと、鋼道はうなずいた。
「行っておいで。あいつは妹っ子だったからな、拗ねてるんだよ。その間私は総司君と話をしていよう」
「ありがとう、父様。あの…沖田さん…」
大丈夫、というように微笑んだ総司に、千鶴は微笑み返してキッチンへと消えて行った。
千鶴がいなくなりコートもかけ終えると、鋼道は総司にソファを薦めながら言う。
「さて…と。娘をいきなりさらわれた父親としては、申し開きを聞きたいところだね」
これまでかなり友好的だった千鶴の父の態度に少し気を緩めていた総司は、ぎくりとして鋼道を見た。
表情は笑っているが目は笑っていない。
総司は唾を呑んだ。
債権者と渡り合っているときでも感じなかった逃げ出したくなるような居心地の悪さを、今総司は感じていた。