【何度も沖田さんに恋します】
次の日はあいにくの曇り空だった。
朝からまばらな雨が降ったりやんだりしている。
千鶴は風間のフェラーリの助手席で、雨粒が窓ガラスに水玉模様を作っていくのを見つめていた。
夕べ総司は家に帰ったのだろうか。
帰ってなくても斎藤か平助に連絡はしたに違いない。あの二人はどんなふうに事情を話したのだろうか。総司はどう思ったのか……
昨日千鶴が風間のもとへ出かける前に斎藤と、次の日に2千万の小切手を渡す場所と時間を決めてあった。
東京にある沖田家取引銀行の本店。
そこの口座に営業時間前に入金できればとりあえずは乗り切れる。銀行側には、担当営業マンに昨日のうちに連絡して対応をお願いしてある。
待ち合わせはその本店の前、営業開始の2時間前だった。
当然のように路上駐車をした風間は、エンジンをきると車の中から外を見た。
「フン……来ているな」
千鶴は風間の見ている方は見ず、前を見つめたままだった。通り過ぎたときにチラリと見えただけだが、人影は二人……多分斎藤と総司だろう。このまま車の中にいると、また変な誤解をされるかもしれない。早く出た方がいいのはわかっているのだが、千鶴は怖かった。
総司がどんな顔をしているか、見たくない気持ちの方が大きい。
「受け取れ」
ピラリと目の前に紙切れが差し出された。受け取りながら風間を見ると、彼が言う。
「2000万。確かに渡したぞ」
「あっありがとうございます……!」
大事に小切手を持ち、座ったままだの姿勢で千鶴は風間にお辞儀をした。
「礼を言われることではない。これは『仕事の話』で『メリットを感じた』から受けただけだ……そうなのだろう?」
からかうように微笑んでいる風間に、千鶴も笑顔になる。
「でも、無理をきいてくださいました。それにおいしいビーフシチューも。ありがとうございます」
風間の赤い瞳が柔らかな色になった。スッと手を伸ばすと指先で千鶴の頬を、慈しむ様になぞる。
「……」
言いたい言葉はあるが、口にしてもしょうがない。
風間がそう思っているのが、千鶴にも伝わってきた。それは千鶴も同じだった。
しばらく見つめあった後、風間が視線をそらせ車のドアをカチャリと開ける。
「……行くか」
「……はい」
まだ閉まっている銀行の前に、総司と斎藤が立っていた。
総司は私服でカーキ色のジャケットに細身のジーンズをはいて、斎藤はスーツ姿だった。
湿気を含んだ風が二人の服をなびかせている。
千鶴が近づくにつれ、総司の表情が見えてきた。
昨日はあまり眠れていないのか少し疲れた様子で、硬い表情をしていた。また、前のホテルでの時のように掴み合いのケンカになったり冷たい視線で見られたりされるのか、と千鶴は身構えながら総司と視線をあわせる。
総司は、フェラーリを見て、風間を見て、そして最後に千鶴と目を合わせ……
その瞬間に、総司は呆れたような困ったような顔で微笑んだ。
え……
千鶴は驚いた。
小さく溜息はついたものの、総司は優しく受け入れるように微笑んでいる。
驚きのあまり茫然としながら、千鶴は途中で足を止めた風間から離れて、総司にゆっくりと近づいた。黒い手袋をした総司の手が伸び、千鶴の肩を優しく抱いて引き寄せる。
「……お早う」
高度なイヤミなのか頭がどこかおかしくなったのか、それとも斎藤が本当とは違うストーリーを総司に言ったのか……?
千鶴が唖然とした顔で斎藤を見ると、斎藤は無表情のまま肩をすくめた。その様子から、総司は昨日のいきさつから今までの事を全て知っているはずであるということがわかる。
「沖田さん……」
千鶴が総司を見上げると、総司は微笑みながら千鶴に頷いて見せた。
「なにもへんなことはされなかった?」
総司がそう言うと、風間がすかさず口をはさんだ。
「下種の勘繰りはやめるのだな。お前と同じに思われては困る」
「僕は千鶴ちゃんに聞いてるんだよ」
風間の挑発もさらりとかわし、総司は相変わらず優しく千鶴を見つめた。
「は、はい。大丈夫です。何も……何もありませんでした」
「そっか」
総司はにっこりとほほ笑むと、千鶴の肩を抱いたまま今度は真正面から風間を見る。
「いろいろ…世話になったみたいだね。ありがとう」
「……」
風間は何を考えているのかわからない表情で、静かに総司を見つめていた。
随分長い沈黙に、千鶴が耐え切れなくなって口を開こうとした時、風間が言った。
「……負けた、というわけか。演技には見えんな」
千鶴は風間が何を言っているのかわからなかったが、隣の総司はわかっているようだ。
総司は返事の代わりだと言わんばかりの強い意志のこもった、けれども静かな瞳で風間を見ている。
「全く疑いもしないのか?」
風間が再び挑発するように聞いた。総司はうっすらと微笑みながら答える。
「僕は信じるよ。千鶴ちゃんを……千鶴ちゃんとのこれまでの時間を。信じられるくらい強い関係だとわかっているからね」
風間は珍しく苦笑いをしたようだった。
「絆の強さは昨日雪村千鶴からも十分に聞いている」
総司はその質問に、沈黙の笑顔で応えた。そこに斎藤が口をはさむ。
「ご歓談中のところ失礼します。銀行の営業マンが来ているようなので、約束の物をそろそろいただけないでしょうか?」
艶っぽい雰囲気の漂っていた空気は、あっという間に無味乾燥したものに変わった。
風間はどこか白けたような顔で千鶴の方へとあごをしゃくる。
「もう渡してある。後日正式な手続きをさせてもらうぞ」
斎藤は頷くと千鶴から小切手を受け取った。そしてそのままビジネスライクに去っていくかと思いきや、総司の前で立ち止まった。
何事かと斎藤を見つめる総司と千鶴に、斎藤は花がほころぶように微笑んだ。
「……嬉しく思っている。俺はこれから銀行と対応してそのあと土方さんと落ち合う予定だ。平助は家で待機しているから何かあればそちらに連絡してくれ」
斎藤はそう言うと、スッと横切り入口の前に立っている銀行マンのところへと向かった。
「『大切な物』を守り切ったのだな」
斎藤の背中を眺めながら呟いた風間の言葉に、千鶴は以前風間と言い争いをした時のことを思いだした。
愛や忠誠心、信念について、風間は懐疑的だった。つぶれそうな会社を必死に立て直そうとしてる総司と皆を、意味のないことだと笑っていたのだ。
でも、そうだ。確かにみんなで守り切った。それはきっと『会社』というものだけではなく……もっと何か別の物も。
千鶴は隣の総司を見上げた。
茶色の髪が冷たい風に吹かれている。瞳の色はとても深い緑色で、前をまっすぐ見つめていた。
千鶴は言葉にできない思いがこみ上げてきて、総司の手を自分からそっと握った。
総司が千鶴を見て、握り返してくる。
風間はそれを眺め、しばらくしてからからかうように千鶴に言った。
「恋は生物学的にいうと三年で冷めるそうだ。そうしたら俺のところに来るがいい」
「冷めないよ」
「冷めるかもしれません」
すかさず否定した総司とほぼ同時に、千鶴が肯定した。総司はぎょっとしたように千鶴を見た。
「千鶴ちゃん、何言って……」
言いかけた総司にかぶせるように、千鶴は風間の瞳をまっすぐ見ながら続けた。
「冷めても、きっとまた好きになります。好きになってケンカして仲直りして……そしてまた冷めてもきっとまた……。私は何度も何度も沖田さんに恋をします」
「千鶴ちゃん……」
千鶴の男前な宣戦布告(いや愛の言葉なのか?)に総司が茫然としていると、風間が声を出して笑い出した。
「面白い…!本当におまえは面白いな。いいだろう。じゃあ俺は冷めた後お前がもう一度沖田に恋をしない方に賭けるとしよう。他の男の魅力を存分に知れば沖田なぞたいした男ではないことに、そのうち気が付くだろう」
風間はそう言うと、くるりと踵を返し車の方へと歩いて行った。
「もう会うことはないから、そんな機会もあるはずがないよ!」
風間の背中に総司がそう言うと、風間はちらりと後ろを振り向き、何が楽しいのかまた声を上げて笑った。
風間のフェラーリが去るのを見送って。
二人の間に沈黙がおちる。
総司が信じてくれていたことがわかって嬉しかったものの、何となく気まずくて千鶴はちらりと隣の総司を見た。
総司は、澄んだ瞳で風間が去った方向、遠くを見つめていた。
曇り空を背景に、端正な輪郭、長い睫、柔らかそうに風になびいている茶色の髪……
意外にも静かな表情をしていた。
声をかけづらく、千鶴も沈黙を保っていると、思い出したように総司がぽつんとつぶやいた。
「……帰ろうか」
きっと昨日は警察やらなんやらで忙しく、夜帰ってきたら千鶴がいなくて……それでゆっくりなどしていれなくて疲れているのだろう。千鶴はそう考えて、家に帰ったらご飯を作ってあげて、抵抗されても少し仮眠をとるように言って……とあれこれ考える。
総司は銀行の横のコインパーキングへと向かう。そこには総司の車が置いてあった。
パーキングメーターにお金を入れて二人で車に乗り込むと、総司はハンドルに両腕を置いてしばらく考えるように動きを止めた。
シートベルトを締め終えた千鶴が、どうしたのかと彼を見る。総司は相変わらず前を向いたまま口を開いた。
「……車の中とホテルとどっちがいい?」
「……え?」
唐突な言葉に何の話かと、千鶴は問い返した。
総司は今度は千鶴の視線に自分の視線を合わせて、真っ直ぐに聞いてきた。
「車の中かホテル。今から君を抱くけどどっち?一応希望は聞いてあげるよ」
千鶴は目を見開く。
「……えっ…え!?いっ今からって……あ、朝ですよ!?えっ……?」
「そっか、明るいからね。じゃあホテルか」
総司はそう言うとエンジンをかけて車をスタートさせた。ハンドルを切って道路に出た車の中で、千鶴は慌てながら総司に尋ねた。
「あの、あの……な、なぜ……どうしてですか?風間さんのことと関係があるんでしょうか。でもだって沖田さんは信じてくださってるんですよね?」
「信じてるのと腹が立つのはまた別だからね」
前方を見据えながら冷たく答えた総司に、千鶴は青ざめた。
「あの……お、怒ってる……んでしょうか……」
「うん」
総司は端的に即答した。
「……」
千鶴は返す言葉もなく前に向き直り、沈黙したのだった。