【お前だから】
千鶴が仕事部屋の扉を開けると、平助と斎藤が振り向いた。
「さっき総司達から連絡があってさ。今夜は帰れねーって」
千鶴はびくりと肩を震わせた。
風間の家に行く前に総司に連絡して事情を話した方がいいのだろうか……
千鶴がどうしようかと考えていると、キャビネットで資料を繰っていた斎藤が言う。
「事情聴取と現場検証でとりこんでいるようだな」
「……」
しばらく考えた後、千鶴は総司に電話するのはやめようと決めた。
今は総司はたいへんな状態で、そんなところに自分の話をしたら思い悩むことが増えるだけだ。それに……止められることは目に見えている。いくら信じてくれるとは言ってもこんな状態で、風間の家に気を付けて行くってくるように、とは決して言わないだろう。
総司たちが必死になって立て直してきた会社。
あとちょっとなのだ。
総司が千鶴を信用してくれさえすれば、風間も損することなく正々堂々とあの土地を手に入れることができる。総司も以前、あの土地は千鶴達の好きにしていいと言ってくれていた。すべてが丸く収まる筈だ。
……大丈夫。間違っていない。二人で過ごした時間と沖田さんを信じよう
千鶴は平助と斎藤に向かって言った。
「……お金を調達できることになったんです」
千鶴から事情を説明された平助と斎藤は沈黙して顔を見合わせた。
斎藤が静かに言う。
「反対だ。総司はお前が会社のためにそんなことをするのは望んでいないだろう」
平助も反対した。
「俺も!そんなことしなくていーよ!っつーかお前にそんなことまでされたらこっちの立つ瀬がないっつーか……。女の子に苦労かけるなんて俺でさえつらいのに総司がなんて思うか千鶴だってわかんだろ?」
「風間さんとそんなことにはならないって説明したじゃないですか。風間さんはホテルに泊まるって……」
ただ千鶴が風間の家に行って一人で泊まるだけで、前金2,000万が手に入るというのに、ここまで反対されて千鶴は驚いた。
千鶴の体を提供するなどなら斎藤たちの言っていることはわかるが、そうではないと説明しているのに?
斎藤は千鶴の言葉に顔をしかめた。
「そういう問題ではないのだ。実際にお前が風間と……」
斎藤は少し顔を赤らめて言葉を探す。
「つまり……そうならなかったとしても、そんなこと総司にはわからないだろう?」
千鶴はぎゅっと手を握りしめた。
「だから……それは沖田さんに私を信じてもらうしかないんです」
そして千鶴は斎藤と平助の目をまっすぐに見た。
「……大丈夫です」
千鶴の気迫にのまれ、斎藤と平助は再び沈黙した。
千鶴はリスクを理解した上で覚悟を決めて風間の家に行くことを決めたのだ。
それならば斎藤と平助にできることは一つだけだろう。
「……わかった。お前の思いが総司に届くよう俺たちは全力をつくそう」
「何かあったらすぐ電話しろよ!俺ずっと起きてっから!すぐ迎えに行くからさ!」
千鶴はほっとして笑顔になった。
「ありがとうございます……!」
夕方遅くに風間の家につき、エレベーターを降りた千鶴は、複雑に入り組んだ迷路のようなマンションの廊下を歩いていた。
住人のプライバシーを守るために廊下では人と会わないような設計になっている、と一階にいたコンシュルジュだという男の人が教えてくれた。風間から連絡がはいっているらしく、タクシーから千鶴が降りるのを手伝ってくれて丁寧に風間の部屋までへの行き方を教えてくれる。鍵がないと乗ることのできない特別なエレベーターを開けてもらい、千鶴は恐々と乗り込んだのだった。
大丈夫だよね……風間さん、そんな人には見えなかったし……
そう思うからこそここに来たのだが、いざ誰もいない高級そうな廊下を一人で歩いていると不安になる。どんどん奥まった場所に向かっているようで、もう二度と出られないのではないかと考えてしまうのだ。
男性のことなどほとんど知らない自分が、無防備に飛び込むのはやはり早計だったのだろうかと千鶴に迷いが生じた。でももう後戻りはできない。
総司は許してくれないかもしれないと、千鶴はちらりと思う。
『信じる』と言ってくれたとしても、さすがにこの状況では信じきれないかもしれない。
自分の選んだ道は間違っていたのかもしれない。
あのまま総司の家でじっと彼の帰りを待っていればよかったのかもしれない。
例え総司が何よりも大切にして頑張ってきていたことが、すべて壊れてしまうことが見えていても。
例え自分にそれを回避する道が見えていたとしても。
そうして何もかもなくした総司を、暖かく慰めるのが自分の役割だったのかもしれない。
……わからない。どうすればいいのかなんて、いつもわからない。わかったことなんてない。
でも、一年前の秋。あの雨の日に総司について行ったことを、千鶴は後悔したことはなかった。
あの時の自分は、周りの事や常識よりも自分のしたいことを選んだ。
だから……
だから今もそうするしかないのだ。
間違っているかもしれない。
総司と終りになってしまうかもしれない。
でもきっと悲しくて毎日泣き暮らしたとしても、後悔だけはしないだろう。
そして、もし今何も行動を起こさなければ後悔する。
総司と一緒にいられたとしても、勇気を出して自分の道を選べなかった自分に後悔する。
そしてそんな情けない自分を大事にしてくれる総司の事も、彼への思いも不確かなものになってしまう気がする。総司が好きで、総司と一緒に居たいのなら、自分で自分の道を選ぶしかないのだ。それを総司が受け入れてくれることを信じて。
艶やかな深い茶色の扉。千鶴はためらわずにブザーを押した。
「……よく来たな」
風間はゆったりとした濃い色の厚手のTシャツに細身のブラックジーンズをはいていた。初めて見たラフな風間の恰好に、千鶴は目をぱちくりさせる。
「あの……はい、お世話になります」
風間は千鶴を中に入れると扉を閉めて、奥へと導く。
そこは意外にも暖かそうで居心地のいい部屋だった。無機質でお金のかかった家具ばかりおいてある生活間のない部屋かとなんとなく思っていた。しかし実際には深い茶色のフローリングに柔らかそうなアースカラーのラグがひいてあり、座り心地のよさそうな大きなソファに同じく優しい色合いの、少しくたびれたクッション。そしてこれまた意外にもいい匂いが部屋中に漂っている。
「これは……」
千鶴が匂いの元だと思われるキッチンの方へと顔を向けると、風間は小さくうなずいて彼女をキッチンへと導いた。
「今ビーフシチューを作っていたところだ。夕飯は食べたのか」
「ビ、ビーフシチュー……」
唖然として大きな圧力鍋と風間の顔を見比べている千鶴に、風間はなんでもないことのように答える。
「料理は……趣味だな。仕事がどんなに忙しくても自分で作る。いい気分転換になる」
「でも……前に洗濯なんてしないって……」
以前フェラーリに乗せてもらった時の会話を思い出して千鶴がそう言うと、風間は顔をしかめた。
「洗濯は好かん。掃除もだ」
風間はそう言いながら、小皿にビーフシチューを少しとる。
「後ろにスプーンがある。味見をさせてやろう」
千鶴は目を見開いて小皿を受け取り、言われるがまま後ろを振り向いて大きなマグカップにさしてあるたくさんのカトラリーの中から一つスプーンを取り出した。
「……おいしい……!」
千鶴が驚いたようにそう言うと、同じく別の小皿で味見をしていた風間はちらりと千鶴を見た。
「……少しコクが足りんな」
「そうですか?美味しいです!こんなおいしいビーフシチュー、初めてです」
御世辞ではなくそのビーフシチューは本当においしかった。風間は当然だというように頷く。
「店などでは採算がとてもあわないようないい肉にいいワインを使っているからな、当然だ」
そして大きな皿を一枚だしてビーフシチューをよそいながら風間は言う。
「食べて行け。サラダとパンも用意してある。俺も夕飯はまだだ」
運べ、と言われて差し出されたお皿を、千鶴は受け取りダイニングテーブルへ運んだ。
緊張していたはずなのにすっかり風間のペースに乗せられて、千鶴はコートをぬぎカバンを置いて夕飯の準備を手伝っていた。
夕飯は本当においしかった。
「風間さん、これ本当においしいです。パンももしかして自分で作ったんですか?」
「自分で……というよりはパン焼き器がある。材料をいれてスイッチを押すだけだ」
「す、すごいです……!社長なんてやめてレストランとかされた方がいいんじゃないですか?」
「ふむ……考えてみるか」
風間はかすかに微笑むと、パンを一口食べた。
「そうしたらお前は俺のところにくるのか?」
サーモンサラダ(手作りドレッシング)を食べていた千鶴は、風間の言葉にはっとして顔をあげた。
そうだ、すっかり和んでしまっていたがここに来たのは……いろいろ事情があったのだった。
千鶴はゴクンとサラダを呑みこみ、風間の顔を見た。
「いえ、それとこれは話が別です。常連になって食べに行くとは思いますけど」
真顔で応えた千鶴に、風間は珍しく声を出して笑った。
「……お前は本当に面白い。この俺に媚びずに臆せずに物を言う女は初めてだ」
「いろんな女性に臆せずに物を言って欲しいんですか?」
千鶴が聞くと、風間は考えこんだ。しばらくして深い紅い色の瞳で千鶴を見て答える。
「……いや、誰でもいい、というわけではないな。お前だから……お前が俺の前で自然にふるまっているのが嬉しいのだろう」
艶やかに風間の瞳はきらめき、もともと低音の声がさらに低く掠れた。
急にかわった雰囲気に、千鶴は体を固くする。
「あ、あの……」
「沖田にはなんと言ってここに来た?」
相変わらず射抜くような瞳で千鶴を見つめたまま、風間は聞いた。
「何も……沖田さんはちょっと用事でいなかったので……」
「携帯に沖田から連絡はないのか」
「……私は携帯は持っていません」
風間は少し驚いたように目を瞬いた。
総司と一緒に暮らし始めたときに、もう一台総司が契約して千鶴に渡すと言われたのだが、千鶴は断ったのだった。一人でどこかに行くことなどほとんどないだろうし、それに……京都にいる自分の家族に対して申し訳ないような気がして。
京都の自分の部屋には、家出をするまで使っていた携帯電話がそのまま置いてある筈だ。一度こちらに来てから、公衆電話からその携帯に電話をしたことがあるが、ちゃんとコール音はしていた。薫か鋼道が千鶴の携帯電話をそのままにしてくれているのなら、千鶴もその電話意外携帯は使ってはいけないような気がする。
「なぜだ?沖田の会社が携帯料金も払えないほど苦しいとは思えんが」
「……」
「調べればすぐわかることだ」
確かにその通りだ。それに別に秘密にしている訳でもなんでもない。
千鶴はどこから話せばいいのかを考えながら、総司との出会いからまるで駆け落ちのようについてきてしまったことを風間に話した。
話を黙って聞いていた風間は、千鶴が話し終わっても口を閉ざしたままだった。
何を考えているのか読めない瞳で、千鶴をじっと見つめている。
その視線に居心地の悪くなった千鶴が先に口を開いた。
「あ、あの……?」
千鶴の声に、風間はふと我に返ったように千鶴から視線を外し笑った。
「……もともと分が悪いのはわかっていたがここまでだとはな……」
自嘲するような風間の表情に、千鶴はキョトンと目を見開く。風間はもう一度千鶴を見て、机の上にあった彼女の手を握った。
「か、風間さ……」
あわてて引こうとする千鶴の手を力を込めて握り、風間は体を乗り出して彼女の瞳を見た。
「なぜだ。なぜその時……ついて行こうと思ったのだ」
その時の気持ちは、深く考えなくてもわかる。千鶴にとってそれは今も同じ。
「傍にいたくて……好きで……それだけです」
ヒトに空気が必要なように、魚に水が必要なように。
なくなると死んでしまうもの
風間の赤い瞳がゆらりと揺らめく。肉食獣を思わせるような煌めきで、彼は千鶴の瞳を見つめた。
千鶴は目をそらせば襲われてしまいそうな気がして、必死に見つめ返す。
緊迫した駆け引きの幕を閉じたのは風間の方だった。ふと視線を外して、握っていた千鶴の手を持ち上げる。そしてそのまま指先に軽くキスをすると手を放した。
「…!」
指先への口づけに千鶴が驚いて息を呑むと、風間はにやりと笑った。
「……敗者は去るとしよう。後は……沖田が自分の手にしているものの価値にさえ気づかない愚か者であることを祈るのみだな」
風間はそう言うと立ち上がった。
「あの……」
一緒に立ち上がろうをする千鶴を手で制して、風間は言った。
「これ以上俺がここに留まるのは止めた方がいいな。俺はホテルへ行こう。廊下の突き当たりの部屋に寝る用意をしてある。家の中の物は好きに使え。片付けは頼んだぞ」
「は…あっは、はい……もちろんです。あの……」
風間はそのまま振り返りもせずに玄関にむかいあっさりと出て行った。コートも着ず財布も持っていないような気がするが大丈夫なのだろうか。夕食もビーフシチューは半分ほどしか食べていない。
でも……呼び止めてはいけないのだということは、そういう事に疎い千鶴でもわかった。
呼び止めたら……そうしたら多分、彼はあの熱い眼差し通りのことを実行に移すに違いない。風間に手を握られ瞳の奥を覗きこまれた時、本能が危険を告げていた。別に無理やり襲われるとかそういうことではなく……彼のような男性の本気に巻き込まれ引き戻せなくなりそうな予感がしたのだ。
千鶴は風間に握られていた手を、反対側の手でそっと握る。
総司に出会っていなければ……そうしたらもしかしたら……
何十年も前に同じように沖田家と風間家の男性の間で思い悩んだであろう総司の祖母の気持ちが、千鶴には今分かるような気がした。