【なんにも聞かないんだね】
雨の匂いで千鶴は目が覚めた。
見覚えのない天井に少し驚いたが、すぐに思い出す。
なんとはなしに、まだ雨が降っているのか気になって、千鶴はベッドに起き上った。ホテルのタオルケットが滑り落ち千鶴は自分が裸なのに気が付いた。あわててタオルケットで胸を隠し、周囲を見渡す。
部屋は薄暗くなっていた。ベッドの横にある間接照明が一つだけ灯り、部屋をぼんやりと照らしている。その光が、千鶴の隣で、安らかな寝息を立てている総司の端正な顔に、深い影を刻んでいた。千鶴は、むき出しの総司の肩にタオルケットをそっとかけて、起こさないように気を付けてベッドを出た。
しばらく迷ってから、千鶴は総司の着ていたグリーンのストライプのシャツを床から取りあげてはおる。脱ぎ散らかされた二人の服をたたむと、備え付けのライティングデスクの上に置いた。そのまま総司のシャツのボタンを留めながら、千鶴は窓の方へ歩いて行く。ホテルの毛足の長い絨毯が、千鶴の裸足の足音をやさしく吸収する。雨の匂いはするのに、外の雨音は全く聞こえない。千鶴は音がしないように少しだけ観音開きの窓を開けた。
雨は降っていた。山の頂上にあるホテルの周りは、夜よりも暗い木々にかこまれ、かすかな雨音が聞こえるだけで他には何の音もしない。気持ちのいい森の匂いがして、千鶴は小さく深呼吸した。
引っ越し業者が荷物を全部運び出すと、総司は、じゃあ行こうか、とまるでちょっとそこまで買い物に行くように軽く言った。総司の車は、京都インターから名神高速に乗り東に向かう。途中のサービスエリアで昼食を食べ、一時間おきに休憩をとりながらゆっくりとドライブをしたため、静岡インターで高速を降りた時はもう16時を回っていた。総司はそのまま車を自動車専用道路に向け、山の中を走っていく。着いたところは、ちょっと前に有名テレビドラマで銀行系財閥の会長の家として使われたことで全国的に有名になった、千鶴でも聞いたことのある伝統と歴史のあるホテルだった。
千鶴をロビーのふかふかのソファに座らせて、総司はどこかへ行ってしまった。高級そうな内装や、上質な服を着て上品にさざめいているほかの客たち、合間を蝶々のようにひらひらと優雅に歩くホテルマンたち……。千鶴は気おくれして、ソファに固くなって座っていた。
「とれたよ。今日はここに泊まろう」
戻ってきた総司が言う。
「え!?」
「まだ後4時間くらいかかるんだ。一人だったらそのまま一気に行こうかと思ったんだけど、千鶴ちゃん疲れたでしょ」
「でも、ここ……高そうですよ……」
「いいんだよ。僕がそうしたいんだ。たぶん明日からは二人でこんなにゆっくりできないだろうから」
千鶴は場慣れた感じの総司に、手をひかれながら部屋へと連れて行かれたのだった。
「起きてたんだ」
ふっと影が落ち、千鶴の後ろから総司が手を伸ばして、窓を大きく開けた。千鶴が振り向くと、ジーンズだけをはいた上半身裸の総司が立っていた。目の前にある裸の胸板を恥ずかしくてまともに見られず、千鶴はぱっと視線を庭に移した。頬が真っ赤になる。そんな千鶴を総司はおかしそうに見た。
「刺激的な恰好、っていったら僕より君のほうでしょ」
その言葉に千鶴は裸に総司のシャツだけはおった、自分の恰好を思い出した。
「あ、すいません……。服借りちゃって……」
総司は千鶴のウエストのあたりにある窓の桟に、千鶴を挟むように両手を置いた。
「いいよ。男の夢じゃない?自分のシャツだけはおった女の子なんて」
なんと答えたらいいのかわからず、千鶴は赤くなったままだまって外を眺めた。総司も千鶴を後ろから抱きこむようなその体勢のままで、黙って庭を眺めている。
「雨で残念だな。晴れてたらこのホテルから夜景がすごくきれいに見えるんだ」
「そうなんですか?」
見たかったです。と千鶴はつぶやいた。
「……でも、雨も素敵です。夜に溶けていくみたいで……」
「そうだね……」
心地いい沈黙が、二人の間に落ちる。
「ここ、夏に花火大会をやるんだ」
「花火ですか?」
「うん、子供のころによく来た。楽しかった記憶があるよ。千鶴ちゃんとまた見たいなぁ」
「楽しそうですね」
子供のころの総司を想像してみると、千鶴はつい笑顔になってしまう。
優しいほほえみを浮かべながら静かに外を眺めている千鶴を、総司は見つめた。
総司の手が千鶴の鎖骨のあたりにのびる。
その手は、千鶴のうなじの周りを彷徨い、プラチナのチェーンを辿って、見慣れぬネックレスのペンダントトップをつまんだ。指輪の穴に指を入れる。それは総司の人差し指の先っぽにひっかかって止まった。ムーンストーンを撫でて、指で挟み光を反射させるように動かしてみる。総司は指輪の後ろ側の文字を千鶴の肩越しにじっと見ていた。
「何にも聞かないんだね」
ネックレスをいじりながら、総司が言った。
「え?」
「これからどこへ行くのか、とかどこに住んで何をするのか、とかさ」
「それは……聞きたいといえば聞きたいですけど……。聞いたら教えてくれるんですか?」
総司はネックレスから指を離して、悪戯っぽくほほえみながら肩越しから千鶴の顔を覗き込んだ。
「うーん、教えられることもあるし、そうでないこともある、かな」
ほら、やっぱり、と千鶴は少し膨れる。
「ごめんごめん。じゃあさ、千鶴ちゃんが一番聞きたいことは何?それは必ず答えるよ」
生活費とか住む場所とか?総司が笑いながら言った。それももちろん知りたいは知りたいが、千鶴にとって一番というわけではなかった。
「……私は沖田さんと一緒に居られるんですか?」
「え?」
「沖田さんが一人でどこかへ行ってしまったり、やっぱり私は帰らなくてはいけないようなことは、ないんでしょうか?」
それを聞いた総司は、しばらく驚いたように千鶴を見ていたが、苦笑して窓の外へと視線を向けた。
そんな総司を見て、千鶴は不安になる。質問が悪かったのかもしれない。先のこと何て誰にもわからない。病気になってしまうかもしれないし、総司が千鶴に飽きてしまうかもしれない。ほかに好きな人が出来るかもしれない。ずっと一緒に居られるか、なんて答えようのない質問だった……。
そう考えて千鶴が沈黙に耐えられなくなった時、総司は窓の外を見ながら言った。
「……もう学生じゃなくなるから、今までみたいに一緒に居られる時間は少なくなると思う」
千鶴の顔へ視線を移して、総司は続けた。
「……だけど、僕が眠るのは千鶴ちゃんの横で、帰るのは千鶴ちゃんのところだよ」
総司の言葉は、千鶴が欲しかった言葉以上のものだった。
勝手に涙がにじんでくるのが自分でもわかった。
「それが……、私の一番聞きたいこと、……です……」
涙をこぼさないように、一生懸命我慢しながら言う千鶴を、総司は引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
しばらくそのまま二人ともお互いの思いをかみしめていたが、しばらくして総司がぽつりとつぶやいた。
「可愛すぎて女の子を食べちゃった男っていないのかな……」
総司の腕の中で千鶴が目を見開く。
「可愛すぎて、もう千鶴ちゃんを食べるしかないって感じなんだけど」
総司はそう言って、千鶴の着ている自分のシャツをはだけさせて千鶴の白い肩を、かぷっと噛んだ。
「いたっ……って沖田さん!何するんですか!」
千鶴は総司の腕を振りほどいて、窓からあわてて離れる。総司は、ほほえみを浮かべながらゆっくりと千鶴の方に近づいて来た。
「お、沖田さん、落ち着いて……。食べるって食べるって……。どういう意味ですか?」
「どういうってそういう意味だけど?」
千鶴の膝の裏にベッドがあたる。その瞬間を見逃さず、総司は千鶴をベッドに押し倒した。優しく組み敷いて、楽しそうに千鶴の顔を覗き込む。そのまま千鶴の首筋に唇をはわせた。
「……おいしそ」
「……あっ」
そうして、千鶴は総司に思う存分貪られた。