【お前が一人で】
『見慣れない番号だと思えば……お前か、雪村千鶴。珍しいな。何の用だ』
スリーコールで出た風間は、驚いた風もなくあいかわらずのゆったりとした話し方で千鶴に要件を聞いてきた。
千鶴はごくりと唾を呑む。
ここは上手く話しを持って行かないと、まずいことになるということははっきりとわかっていた。
気持ちを落ち着かせて、電話を掛ける前に頭を整理して話の持って行き方を考えた紙を見る。
『……とうとう沖田に愛想をつかせたか?』
「ちっ違います!」
風間の言葉に動揺してしまったが、千鶴はもう一度深呼吸をして、極力落ち着いた声で続けた。
「あ、あの今日は商談を持ってきたんです」
『商談?お前がか?』
「はい。あの、以前……最初にお会いした時にあの別荘でお話したと思うんです。風間さんのおじい様のお気に入りの場所で。覚えていらっしゃいますか?」
『……ああ』
「その時に、風間さんは、あの時を売る気になったら連絡しろ、とおっしゃっいましたよね?それでその商談のために今お電話をしたんです」
『……』
電話の向こうで風間が沈黙する。今彼が考えていることが、千鶴には手に取るようにわかった。
何故今突然?
何故千鶴が風間に直接?
風間程の男なら、これらの理由を隠していてもすぐに通常の商取引ではないこと察するだろう。向こうから問い詰められて答えていくよりも、最初からある程度明かしてしまった方が信頼してもらえると千鶴は考え、風間の返答を待たずに口を開いた。
「多分お察しだとは思いますが、緊急にまとまったお金が必要になったんです。それで市場価格より安くあの土地を売りたいと考えています。こちらの事情はどうであれ、風間さんにとってはあの土地が安く手に入ることにはかわりありません。風間さんにもメリットがあるお話だと思って電話しました」
知らず知らずのうちに千鶴は手に汗をかいていた。
百戦錬磨の企業経営者にこんな稚拙な商談を持ちかけて、一歩間違えれば呑みこまれてしまうだろう。でも千鶴の考え得る唯一の希望の光はこれしかないのだ。
千鶴が息を呑んで風間の返答を待っていると、電話の向こうで彼がかすかに笑ったような音がした。
『沖田の会社は業績が上向き、近藤の会社との提携も進んでいると聞いていたがな……。突然まとまった金とは……何があった?』
千鶴はごくりと唾を呑む。
「……何かありました。でもそれを風間さんにお伝えするつもりはありません。ただ風間さんにとってはその事実は何も関係のないことで、この商談への影響もありませんということだけお伝えします」
『ふむ……』
千鶴の脳裏には、風間がうっすらと笑いながら楽しげに思いを巡らせている姿がまざまざと浮かんだ。獲物をもてあそんでいる虎のイメージだが、今はそのプレッシャーに耐えるしかない。
『……いいだろう。こういう機会でもなければあの土地は手に入るまい。敢えてお前の手にのってみるのも面白いかもしれん』
「ほっ本当ですか!」
千鶴は思わず電話にかじりついてしまい、ハッと我に返った。ゴホンと咳を一つして落ち着いた声を出す。
「ありがとうございます。損なお話ではないと思っていますのでご安心ください」
電話の向こうで風間がくくっと笑う声が聞こえ、千鶴は顔を赤くした。
『では詳細はうちの不動産部門に連絡してくれ。急ぎという事だから俺から話は通しておく。来週中くらいにはなんとかなるだろう』
「あ、ま、待ってください!まだお話が終わっていなくて……。あの土地をお売りする条件が一つあるんです」
『……なんだ?』
千鶴はぎゅっと目をつぶった。非常識な条件であることはわかっている。でも……!
「前金として2,000万円を今日中に頂きたいんです」
『無理だな』
即答だった。千鶴の心臓がドクンと音を立てる。冷や汗が背中をつたうのが分かった。
『いかに社長といえどもそれほどの額を動かす……、となるとそれなりの手続きが必要だ。役員会に決裁を挙げる必要がある。社長権限でどれだけ急いだとしても……役員達の収集に2日銀行とのやりとりに1日……すべてがスムーズにいったとしても最低3日はかかる。』
「ダメなんです。それでは……間に合わなくて……」
思わず漏れてしまった千鶴の言葉に、風間が反応した。
『間に合わない……。何がだ』
「……」
風間の質問に答えずに千鶴は沈黙した。
やっぱり駄目だった……。風間ならもしかしたら…と思ったのだが……
唇をギュッと噛んで、もう他に手はないかを千鶴が必死に考えていると、電話の向こうで風間が言った。
『……お前が俺のもとに来るというのなら、結納金代わりに2,000万円くれてやってもいいが』
風間の、自分に対する好意につけこんでいるのだから、こういう提案があるかもしれないとは千鶴は考えてはいた。しかし実際に……風間の声でそれを聞くと体がすくみ、脚が震えるのを感じる。
千鶴はぐっとお腹に力を入れて言った。
「か、風間さん……!これは仕事の話です。ですので仕事としてメリットが感じられないようでしたらもちろん手を引いていただいて結構です」
風間が笑った。
『わかったわかった。本当にお前は気が強いな。そういう反応だとは想定していた』
楽しそうにひとしきり笑った後、風間は再び言う。
『……いいだろう。純粋に仕事として考えてメリットはある。あの土地の価格は今後あがることはあってもこれ以上下がることはないだろうし、あそこに立っている建物も歴史あるいいものだ。安く買えるのならそれにこしたことはない』
「じゃ……!」
条件を呑んでくれるのかと意気込んだ千鶴に、風間はかぶせるように言った。
『ただし、日曜に連絡をし個人的に商談をもちかけ、今日中に頭金2,000万円渡せ、という条件は純粋なビジネスからは外れた要望だということはわかっているだろう?ならばこちらにも条件をださせてもらうぞ』
「条件……」
呟く千鶴に風間は楽しそうに言う。
『2,000万の小切手は、お前がここまで一人で取りに来い』
「……」
『今俺は都内の個人のマンションに一人でいる。タクシーを迎えにやるからそれに乗って一人で来るのだ。そして……そうだな……泊まってもらうか』
「そっそういうのはお断りしたはずです!!」
真っ赤になって抗議する千鶴に、風間は笑いながら答える。
『お前の期待しているようなことはしないから安心しろ。俺を下々の下種野郎と同じにするな。部屋も別だし……ふむ、どうしても嫌だというのなら、俺は一人で近くのホテルに泊まってもいい』
「……え……え?」
千鶴が風間の家に行って……?千鶴は風間の家に泊まるが、風間本人は近くのホテルに泊まる……???それになんの意味があるのかわからず、千鶴は戸惑った。
「私一人で風間さんの家に泊まるんですか?な、なぜ……?」
『理由など簡単だ。お前が俺の家に泊まり朝帰りをした、という事実が欲しいという事だな』
「……」
『わからんか。実際何もなくても例の婚約者とやらは平静でいられないだろう?そこからひびが入り、甘い砂糖水が漏れ出すかもしれんぞ』
千鶴は目を瞬いた。そんな……からめ手のようなことは考えもしなかった。風間からそういう提案があれば自分の好きなのは総司だし、仕事の話だし、と断ればいいと思っていた。しかし、千鶴に直接何かをするのではなく総司の疑いを煽り千鶴を責めさせそれが原因でうまく行かなくなるように……とは……。
千鶴は、自分が風間の家から朝帰りをしたことを知った総司を想像してみた。
想像だけなのにじっとりと嫌な汗が浮かぶ。
あのホテルで風間にスイートルームに運ばれた事件の後、総司と千鶴の中はさらに深まった。千鶴のことを信頼してくれて、嫉妬も抑えるようにしてくれている。しかし……
朝帰りはアウトだろう、と千鶴でも思う。いや、それでも自分を信じて欲しい思いはあるが……実際自分が逆の立場だったら……総司が他の女性と朝帰りしたということを知ったら……
千鶴は電話の受話器をギュッと握った。
そして思う。
信じる。
信じられると思う。
総司が、こういう理由で朝帰りになったけれども何もしていない、信じて欲しいと千鶴に言ってくれさえしたら。
きっと自分は信じられる。
……神様……
「……わかりました。タクシー、お待ちしています」