【いくらあれば大丈夫?】
「……というわけなんです。そしてこれがその報告書で……」
千鶴はそう言いながら枕元に手を伸ばして分厚い紙の束を取り上げた。
「後で全部目を通してほしいですけど、とりあえずはここの表を見てもらえますか?左之さんが三つの案を考えてくださっているのでどれがいいか……って沖田さん、聞いてますか?」
千鶴が枕に半分顔をうずめている総司を覗き込むと、総司はしぶしぶ片目を開けた。カーテンの細い隙間から日曜の朝の光が一筋二人の寝室に差し込んでいる。
「ん〜……」
総司がそのまま寝返りをうとうとしたので、千鶴は、沖田さん!と呼びかける。
「あとにしようよ〜、せっかくの日曜日なんだからさぁ……」
「でも沖田さんの方から『あの件はどうなったの?』って聞いてきたんじゃないですか。だからこうやって説明してるんですよ?それにこれはほんとに急ぎの案件で……」
すらすらと反論する千鶴に総司は枕の下に頭を潜り込ませた。
あれから総司達はわき目も振らずに事業の立て直しに取り組んできた。が、仕事の効率を上げるためにも休みは必要だ、ということで基本日曜日は全員休みを取ることにしたのだ。それでも総司と千鶴はなんやかや仕事があり、完全に一日オフの日は珍しかった。
財産の整理や債権者とのやり取りも、トラブルや問題は山のようにあったがみんなで協力して少しずつめどがつきつつある。資金援助と、経営自体を買い取ってもらいたいと考えているベンチャーキャピタル会社の社長である近藤との交渉も、今はもうプレゼンが終わった段階まできている。そしてかなり気に入ってもらえたようで、交渉は大詰めに入っていた。
この交渉がうまく行けば、とりあえず急場をしのぐための資金提供と経営指導を受けることができ、さらにその後業績に問題が無ければ経営権だけ買い取ってもらい今後は経営は専門家にやってもらうことができるようになる。そうすれば総司の父のようにワンマン経営のために苦境にたたされるようなことももうなくなるのだ。
もちろん沖田家は今後もオーナーとして会社にかかわっていくことにはなるが、経験と知識が必要な実務は優秀な人材に任せることができるだろう。
千鶴の役目は今は、忙しく飛び回っている総司と実動部隊である平助や左之、斎藤たちの間に入り、連絡と調整役になっていた。
わからないところはちゃんと理解できるまで何度も聞き、その上で総司に報告する。総司の意見と指示を、より具体的に聞き出して実動部隊に伝える。
専門知識はなくても千鶴には業務に必要な能力があり、自然とそういう役になったのだった。
仕事をしていて報告や判断が必要な問題が持ち上がれば、平助たちは「総司に言っといて〜」とか、「総司に聞いといてくれるか?」と千鶴に頼むだけでよかった。総司にしてみても皆が今何をしていて何に困っているのかを千鶴から聞くことができ、指示を千鶴にしておくだけで、後は土方との対外交渉に専心することができる。
千鶴一人では何の能力もないのだが、立派にチームの一員としてなくてはならない存在にいつのまにかなっていたのだった。
頭を枕の下に隠してしまった総司に、千鶴は言った。
「沖田さん!もう……。社長さんなんですから聞いてください。社長?」
言い聞かせるように問いかけてくる千鶴の言葉に、総司は枕の下で目を見開いた。そして枕をずらして、千鶴を見る。
千鶴はパジャマを着て資料を持って、総司をのぞきこむ。
「沖田さん、起きてくださいましたか?じゃあこれ…」
総司は千鶴が差し出してきた資料は見ずに千鶴に言った。
「もう一回言ってみてよ」
「え?この資料を見て……」
「じゃなくてさ。社長、って」
悪戯っぽくきらめく緑の瞳を見て、千鶴は少しだけ用心する。しかし沖田の意図がわからずにとりあえず口を開いた。
「……社長…?」
「この資料を見てくださいって」
「社長、この資料見ていただけますか?」
千鶴がそう言うと、総司はにんまりとほほ笑んだ。
「う〜ん!いいねぇ!じゃあ千鶴ちゃんは秘書ね。『雪村くん、そんなことより僕の方からも君に話があるんだよ』」
ぽかんとしている千鶴に、総司が言う。
「ほら!社長と秘書プレイだよ!ちゃんと演って」
「ぷっぷれい!?」
総司は、驚いている千鶴の細い手首を掴み引寄せる。
「雪村君、そんなつまらない話よりもっと楽しい話をしようよ……体でさ」
「おっ沖田さん!!」
総司は資料をバサッと床に放り投げると、千鶴をベッドに仰向けに押し倒しのしかかる。
「社長!やめてください!セクハラですよ!……でしょ?」
総司はそう言いながら千鶴のうなじに唇を寄せた。
「お、沖田さん!朝からそんな……」
「社長」
どうやら『社長』と言わないと話を聞いてくれなさそうな総司の様子に、千鶴はしぶしぶと言った。
「しゃ、社長…!話を聞いてくだ……あっボタンをとらないでください!」
「前から雪村君のここが気になっていたんだよ。ああ……きれいだね……仕事をしててもムラムラしててね……」
そういいながら総司は唇を下げていく。
「あっ…!ちょっ……もう…!!」
すっかり総司のペースで、千鶴は怒りながらも笑ってしまった。
「ほんとにしょうがない社長ですね……」
笑みを含んだ千鶴の言葉に、総司は顔をあげて彼女と目を合わす。
「……君は素晴らしい秘書だよ」
そう言うと、総司は千鶴にキスをした。
「……は……っ」
だんだんとキスが濃厚になるにつれ、総司の手も縦横無尽に千鶴の体を這いまわる。二人がすっかり資料のことなど忘れた時、枕元にある内線電話が鳴った。
一旦は無視したもののなり続ける電話に、とうとう千鶴が言った。
「……沖田さん、電話……」
「……」
出たくはない。出たくはないが……もうすっかりムードは台無しで無視して続行するような気分では二人ともなくなってしまっていた。総司は溜息をついて髪をかき上げる。
「ったく……職場が自宅ってのはダメだね」
そう言うと総司は電話をとる。
「もしもし!あ、多恵さん。いや、いいよ。起きてた。何か……えっ?源さんが?大阪からわざわざ?」
源さんというのは総司の父の旧友で、家族ともいえる社員だった。大阪支店で支店長をやっており、千鶴も何度かあったことがあった。その源さんが大阪から……しかも日曜の朝に総司の家まで来るとは何か異常な事態があったとしか考えられない。
千鶴と総司は目を合わせた。
「うん。じゃあ応接室に……いや仕事部屋の方がいいか。仕事部屋で待っててもらって。すぐ着替えて行くから」
総司と千鶴が急いで着替えて仕事部屋のドアを開けると、そこには源さんが青ざめた顔で座っていた。たまたま仕事部屋で仕事をしていたらしい土方をはじめ、斎藤、平助、左之もそろっている。
ただごとではない源さんの表情に総司も真面目な顔になる。
「お久しぶりです。どうしたんですか?突然」
源さんは乾いた唇を湿らせ、一度つばを飲み込んだ後、話し出した。
「以前から東京本社の所長の様子がおかしかったんだ。しつこく経営状態を聞いて来たり、もう倒産は時間の問題じゃないかと言ってきたり……。そのたびにそうならないようにみんな頑張ってるんだと言い聞かせて宥めていたんだが、先週から連絡が全く取れなくなってね。嫌な予感がして昨日来てみたら……」
そう言って源さんは会社の銀行印と通帳を取り出した。
斎藤がそれを見て顔をしかめる。
「……なぜ銀行印をお持ちなんですか?それは本社の金庫の中に厳重に管理されているはずですが」
斎藤の質問にみなかたずをのんで源さんの答えを待つ。源さんは更に青ざめながら皆の顔を見渡した。
「この銀行印と社の通帳が、その所長の机の上に無造作に置いてあったんだ。机の中や周辺はきれいに整理されていた。気になって通帳を見てみたら……」
総司が通帳に手を伸ばし開く。それを皆が後ろから覗き込んだ。
「……空っぽだ……」
残高は0円になっていた。
「持ち逃げか」
土方が苦々しい声で呻いた。
「斎藤君、明日の月曜日には銀行が開く。そしたら……」
「不渡りがでますね。今は上半期決算の時期ですし、多分すぐに……」
斎藤が手のひらで顎を覆いながら、沈痛な面持ちでつぶやいた。左之が言う。
「俺よく知らねぇんだが、確か不渡りって二回だすと……」
総司がキッパリと言った。
「倒産だよ」
「い、いくらいんの?いくらあれば大丈夫なんだよ?」
平助がごくりと唾を呑みこんで斎藤に詰め寄った。斎藤は棚から経理の資料を取り出すと人差し指で表をなぞり確認しだした。しばらくの沈黙の後。
「……とりあえずは月曜日の時点で2,000万。月末までにはあと……1,000万。来月には整理した有価証券の売り上げが入ってくるはずなので、今月をしのげれば……」
土方が唸った。
「資産はあるんだ。売っぱらえばそのくらいの金はなんとかなる。月末までの1,000万は、まぁ足元見られるかもしれねぇが処理を進めていた不動産を相手の言い値で売れば大丈夫だろう。問題は明日の9時までの2,000万だな」
総司は軽く溜息をつくと、髪をかき上げた。
「ないよ。そんなまとまった金なんてスッカラカン。何か売ればいいんだろうけどたとえば今日中に商談が成立したとしても今日は日曜日だから入金は最低でも明日だよ。っていうか契約行為自体明日だろうから明日の9時までに入金なんてまず無理だね」
「まず無理ってお前……どうすんだよ」
左之がそう言うと、総司は肩をすくめた。そして落ち着いた緑の瞳でみなの顔を見る。
「……皆に……『今までがんばってくれてありがとう』ってお礼を言って、とりあえず今月の給料は何とかひねり出して……オワリにするしかないんじゃない?」
総司が言った途端一斉に抗議の声があがった。
「何言ってんだ!そんなに簡単にあきらめちまうのかよ!」
「何かまだ手があるのではないか」
喧々囂々のなか、土方が手を挙げて皆を制した。
「まず警察だ。持ち逃げによる刑事事件ってことで口座凍結で何か……不渡りを出さねぇで取引先に待ってもらえる手段があるかもしれねぇ」
しかし土方自身はわかっていた。商取引と刑事事件はまた別で刑事事件だから大目に見てもらうことなどありえないことを。しかも明日の朝までになどとまず無理な話だ。総司もそれはわかっていた。だがしかし警察に行き持ち逃げされたことを訴え、早いうちに証拠を抑えてもらうことは早急にやらなくてはいけないことだ。もしかしたら持ち逃げした所長がすぐに見つかり、まだ使っていない全額を取り返すことができるかもしれない。
「……行きましょう」
総司は部屋の壁にかけてあったコートを取り上げると土方に行った。土方はうなずき、そして左之たちを見て言う。
「誰か……悪いが東京本社に言って所長の部屋がこれ以上あらされないように見張っていてもらえねぇか」
左之が手をあげた。
「俺が行くよ」
斎藤が言う。
「では俺たちはここで待機をしていよう。何かしてほしいことや調べて欲しいことができたら言ってくれ」
総司と土方は頷くと、左之と一緒に部屋を出て行った。
土方達がいなくなった後、斎藤、平助、千鶴の三人は茫然としたまま椅子に座りこんだ。
「……明日の朝までに2,000万かぁ……」
平助がぼんやりと言う。斎藤は溜息をついた。
「口座も複数に分けるべきだと前々から考えてはいたのだが……早くやっておくべきだった。一段落ついたらとついつい後回しにしてしまっていた」
「何かすぐ換金できるものってないんでしょうか?」
千鶴がそう言うと斎藤が答えた。
「百万、千万単位では無理だろう。それだけの金を常備しているところは銀行くらいだ」
「じゃあ……やっぱりもうだめなのかよ?」
平助が悔しそうに聞くと、斎藤はしばらく沈黙した。
「……ポケットマネーで2,000万出せる者がいて、さらに出してくれないと……残念だが……」
斎藤の言葉に、千鶴はふと顔をあげる。平助はさらに斎藤に言いつのっていた。
「でもさ、俺らのせいじゃねーじゃん!逆に売り上げ上がってきてたし金の垂れ流しもストップしたし財政状態はよくなってきてたんだろ?近藤さんとことの契約ももうほぼ決まりでさ……!あ!近藤さんに頼んでみたら?」
「近藤さんがいくら総司を気に入ってくれていたとしても、企業間で金をやりとりするとなるとそれなりの手続きが必要なはずだ。明日の朝までに、というのは無理だろう」
「あ、あの……!」
千鶴がそう言うと、二人は話を止めて千鶴を見た。
「あの、ちょっと用を思い出したんで、私……あの、外します。すぐもどってきますんで……」
椅子から腰を浮かせながら千鶴がそう言うと、斎藤はうなずいた。
「ああ、かまわない。連絡があれば俺たちが対応しておく」
千鶴は、すいません、というとそそくさと仕事部屋を出た。
ポケットマネーで2,000万………
千鶴はドキドキする胸を服の上から押さえながら寝室へと急いだ。
もらった名刺は確か二枚とも財布に入れていたはずだ。寝室に入ると、置きっぱなしになっていたカバンの中をあさり財布を取り出す。カード入れのポケットの中を見てみるが焦っているせいでなかなか見つからない。
千鶴は焦れて、窓際に置いてある小さなデスクの上に財布の中身をぶちまけた。
そして手で選り分けていくと……
「あった……!」
風間の個人用の連絡先が書いてある名刺を、千鶴はとりあげた。