【幸せにします】

 











 

シャワーの音が聞こえてきた気がして、千鶴はゆっくりと目を覚ました。
頭に霞みがかかったようで、ここはどこか働かない頭でぼんやりと考える。部屋は薄暗く、無機質な色と家具でホテルの部屋だとわかった。頭を巡らすと奥の方からシャワーの水音が聞こえる。そのドアから漏れ出す灯りが部屋をぼんやりと照らしていた。
寝返りをうとうとして、下半身がじんわりとしびれている感覚に気が付き、千鶴は少しずつ思い出した。
それと同時に胸がずきりと痛む。
いつもなら、総司に求められたという喜びと、さらに深く親密になれたような満足感があるのだが、今日はぽっかりと心に穴が開いていた。

総司の心がわからない。
自分の気持ちもわかってもらえない。
そんな状態なのに体だけつながって、心ははるか遠くに離れてしまっている。

 もうだめなのかもしれない……

こんな総司は初めてだった。
いつも余裕な態度で、何があっても飄々としていて。おたおたわたわたして焦っているのはいつも千鶴で、総司はそんな千鶴を甘やかすように笑っていつもなんとかしてくれていたのに。
もともとやきもちやきだから、他の男性の影は極端に嫌がる人だとわかっていた。けれどもこれまでは、千鶴に少しそんな影があって不機嫌になってもすぐに元通りに戻っていた。今回の風間は、それらの男たちとは違ってあきらかに総司にとっての鬼門なのだろう。
千鶴とのことがなくても最初から険悪な雰囲気だった。
加えて、負債だらけの家を受け継いだのは同じでも、方や十代のころから血で血を争う内部権力闘争に勝ち抜き、社外でも目を見張る様な手腕で一族の財務基盤を立てなおした風間と、倒産すれすれの会社を引き継いだばかりですべてはこれからの総司との、恋愛とは違う闘いもあるのだろう。
もともとの一族や会社の立て直しだけで総司はいっぱいいっぱいで。
平助も言っていたがそんな状態で千鶴を連れてきたということだけで、かなりのプレッシャーが総司にはかかっていたのに違いない。
その上一番ライバル視していた風間が千鶴にちょっかいをかけてきて……

頭ではわかるものの、千鶴にはじゃあどうやって風間をあしらえばよかったのかわからなかった。
人として失礼でないように接しただけのつもりだったが……というより、ノートをぶつけたりバッグをぶつけたり、どちらかというと嫌われて当然なくらい失礼になってしまっていたのだが……
自分の存在が総司の迷惑になっていると考えるのはつらい。つらいけれど……でも自分はここには……総司の傍には居ない方がいいのかもしれない。今が総司の家族と会社にとっては正念場だ。
千鶴がいなければ、風間とのへんなトラブルもプレッシャーもなく総司は仕事に専念できるのではないか……

そこまで考えているときに、シャワーの音がやんで総司がバスルームを出た気配がした。千鶴はいそいで寝返りを打ち、バスルームの出口へ背中を向ける。
暖かい湿った空気とバスルームの明るい光が差し込み、総司が部屋に戻ってきたのを感じた。
それだけなのに……総司の気配を感じただけなのに、千鶴の眼には涙があふれた。

 ……離れるのはいや……

 きっと私は生きていけない。
 沖田さんを見て、沖田さんを感じていないと、つらくてつらくて死んでしまう。
 バカみたいだけど、自分でもおかしいと思うけれど、でもどうにかなってしまいそうなくらい沖田さんが好き……

総司と離れた生活を考えるだけで、千鶴の涙は止まらなくなった。
でも考えなくてはいけない。こんな状況がずっと続いて、総司にも会社にもいいわけがない。
どうして自分はこうなんだろう。
どうして総司の役に立てないのか。
いや、離れることが役に立つことになるのなら、例え心が死んでしまいそうでも離れなくては……


心が乱れて、今はとても総司の顔が見られない。寝たふりをして背中をむけているのにだまされてくれるといいが……という千鶴の思いは、総司の溜息で破られた。
あきらかに自分の方を見てついた溜息に、千鶴の肩がビクンと跳ねてしまう。
また冷たい言葉を言われるのか……と千鶴が構えていると、ダブルベッドの端が波打ち、総司が反対側の足元に腰掛けたのがわかった。
そのまま沈黙が続く。

気まずい沈黙をどうしようかと、千鶴が肩越しにそっと総司を盗み見たのと総司が口を開いたのとが同時だった。

「……嫌いになった?」

意外な言葉に千鶴は目を見開いて総司を見つめなおした。総司はホテルに備え付けのバスローブを羽織り、ダブルベッドの反対側の足元に千鶴に背を向けて座っていた。バスルームからの光が総司の輪郭だけをぼんやりと照らしている。
何も言わない千鶴に背を向けたまま、総司は再び口を開く。

「……それとも、あきれた?うんざりした?」

千鶴はそろそろと起き上る。裸の体をシーツで隠しながら聞いた。
「……沖田さんを、ですか?」
千鶴の方を振り向いて頷こうとした総司は、殴られたように一瞬ひるみ眉根を寄せた。
「……泣いてたの?」

その優しい緑の眼差しと口調に、千鶴の瞳からはまた涙があふれ出した。
総司は辛そうに眉間に皺を寄せる。
そして一瞬迷ったもののベッドにあがり千鶴の前までくると、優しく抱きしめた。
待ち望んでいた暖かい包容に、千鶴も必死で総司のバスローブにしがみつく。

「……君は京都に帰った方がいいんだと思う」

総司の言葉に千鶴は彼の腕の中で息を呑み固まった。

「順調な人生を捨てて変な男についてきたのは一時の気の迷いってことで、まだ今ならきっと元通りやり直せる。普通の、優しい男と恋をして幸せな生活を、きっとおくれるよ」
「お、沖田さ…」

「そうするのが君の幸せだと思うけど……でも、僕はもう君を手放してはあげられないんだ」

総司の腕に痛い位力がこもった。
千鶴は総司の胸に顔を押し付けながら目を見開く。
総司は千鶴を抱きしめたまま続けた。
「手放せなくて連れてきて、せめて幸せにしてあげたかったのにこんなにひどい目にあわせて、泣かせちゃって……。正直我ながらひどいと思う。本当に……ごめんね。でも、謝るしかできないけど、僕は君を放さないから」

一息にそう言って総司は黙り込んだ。
しばらくしてからもう一度、静かに言った。

「君を放さない」

 

 

「嫌われちゃったならもう一度好きになってもらえるよう努力するよ。独占欲も嫉妬も……できるだけコントロールするよう頑張るし、君が少しでも幸せでいてくれるように……」
「……幸せです」

千鶴の声は総司の胸の中でくぐもって聞こえた。
「え?」
総司が聞き返すと、千鶴は総司の胸から顔を離して、総司の顔を見上げた。
後ろのバスルームからの光でまだ濡れている総司の髪が金色に輝き、色素の薄い緑の瞳とのコントラストがきれいだ。
いつもは悪戯っぽくきらめいている翡翠の瞳は、今は不安そうに揺れて千鶴を見つめている。

「『放さない』って言ってくださって……それだけでこれまで生きてきた中で一番幸せです」
「千鶴ちゃん……」
総司のポカンとした顔を見て、千鶴はおかしくなってクスクスと笑った。
空っぽだった胸の穴がくすぐったいような幸せな笑いで埋まっていくのを感じる。

総司はクスクスと笑っている千鶴を唖然として見つめていた。
しばらくして小さく溜息をつくと、にやりと笑って千鶴に言う。
「……それで『幸せ』って千鶴ちゃんも相当おかしくなってるね」
「そうですね。沖田さんに出会った時から、きっと私はおかしくなっちゃったんだと思います。一年前の私に、『あと少ししたらあなたは男性に一目ぼれして体だけの関係を続けて、家族も地元も大学も全部捨ててその人について行っちゃうのよ』って言っても、きっとどれ一つとして信じない自信があります。別の人の話じゃない?って」
総司は吹き出した。
「確かに、改めて聞くとひどいね、君の行動。いくら僕が言い出したことだからって言っても、まさかかほんとにするとはこっちも半信半疑だったんだけどね、いろいろとさ」
千鶴は声を出して笑った。
「ほんとにそうです。だから……責任をとってもらわないと」
「責任?」
千鶴は微笑みながらうなずいた。
「そうです。こんな女になったのは沖田さんのせいで、多分沖田さん以外の男性には合わないようになってしまったんです。だからちゃんと責任をとって沖田さんが面倒みてください」

総司に対していつもどこか控えめで、物足りないと思うときもあった千鶴が、総司の眼をまっすぐに見て言ってくれた台詞。
総司は自分でもちょっと驚くほど感動して胸が熱くなった。
好かれているとは思っていたし、愛されているのもわかっていた。でもいつも愛の言葉も行為も自分からで千鶴は拒むことはないものの受け入れてくれるだけ。それがどこか不安だったのかもしれない。
今目の前で、悪戯っぽく微笑みながら我儘をいう千鶴が可愛くて愛おしくて。

総司は手を伸ばしもう一度千鶴を抱きしめた。
「うん、責任とるよ。面倒をみさせて」
そう言って総司は千鶴の髪に顔をうずめる。

「……ずっとね」

 

 


次の日の朝、のんびり二人で過ごした後、ホテルの部屋を出るときに、総司は振り向いて部屋の中を見た。
「忘れ物ですか?」
そう言って見上げる千鶴の顔を、総司は優しい瞳で見つめた。
「なんかさ、一緒に暮らしてるんだけどここで久しぶりに二人きりになれたような気がして、少し名残惜しいかなって」
意外に感傷的になっている総司に千鶴は目を瞬いた。
でも確かにそうかもしれない。
傍にいつもいたけれど、こんなに二人だけで二人だけのことを話したのは久しぶり……というか初めてかもしれない。
一緒に連れてきてくれた時も、DEARESTの指輪をくれた時も、総司はどこか遠い人だった。
なんだか掴めるような掴めないようなフワフワとした存在で。だから自分のことを思ってくれてるとわかっても現実感がなかったのだろう。千鶴の行動や言葉で総司が不安になったり幸せになったりするなんて、そんなに自分が総司に影響力があるなんて考えもしなかった。

それが今回のケンカの原因だったのかもしれない。
うぬぼれではなく千鶴は総司を幸せにも不幸にもする力があるのだ。それをちゃんと自分で認識して風間と接したり総司の仕事を手伝ったりしなくてはいけなかったのだ。
千鶴は総司を見上げて微笑んだ。
「……大丈夫です。ちゃんと私が沖田さんを幸せにします」
千鶴の言葉に総司の緑の瞳は楽しそうに煌めいた。
「……そうなの?」
「そうです」
生真面目に頷く千鶴の頬に、総司はちゅっとキスをした。
「頼りにしてるよ」
「だから沖田さんも、私を信じてくださいね」
千鶴は総司の腕のYシャツを掴みながら見上げる。え?という顔をした総司に、千鶴は続けた。
「私の気持ちを……沖田さんの気持ちも信じてください」
総司はしばらく千鶴の顔を見つめる。そして眉をあげると溜息をついた。
「状況証拠であきらかに黒でも、君が白だって言ったら信じろってことでしょ?風間の事を言ってる?」
千鶴はうなずいた。
「私は……例えば世界中の人が『沖田さんが人を殺した』と言っても、沖田さんが『殺してない』って言ったらそれを信じます。本当に殺したかどうかはどうでもよくて、沖田さんが信じて欲しいと思っていることを信じます。だから……」
総司はとうとう吹き出した。
「千鶴ちゃん……!ほんとに君は……」
呆れたように髪をかき上げて、総司は愛おしげに千鶴を見る。
「それは危険すぎだよ。まったく……。まぁいいや。僕がちゃんと周りを見て千鶴ちゃんを追い詰めないようにするから」
そう言って総司は千鶴の肩に手を回してホテルの部屋を出た。

「もうキレるのは終わり。君を幸せにするには僕がしっかりしないとね」
総司は前を向いた。隣の千鶴をちらりと見る。
この、どこへたどり着くかわからない航海の舵をとっているのは自分なのだ。嵐なのはわかっているのに千鶴はこの船に乗り込んできてくれた。千鶴をうたがったりちょっかい掛けてくる他の船のせいで針路を変更するなどバカな話だ。総司がすることはただ真っ直ぐと前を向いて、二人が幸せに暮らせる島を目指すだけだ。

「僕、会社をがんばるよ。一緒に君もがんばってくれる?」
唐突な総司の言葉だったが、千鶴は嬉しそうにぱっと微笑んでうなずいて言った。
「はい!」

 

 

 


 












 

 





                          


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